ずいぶん昔、私がまだ世界の残酷さや自分の非力さを知らなかったころ、ひとり大切な少女がいた。 彼女の前にいると、格好悪い話だが、自分は恋を覚えたての少年のような振る舞いしか出来なかった。 彼女の仕草のひとつひとつに見惚れ、彼女が私の名前を呼ぶだけで馬鹿みたいにドキドキしながら動揺する。 彼女に対して、大好きという言葉ではとても足りない。 私は彼女を愛していた。 なるべく笑わせていたくて、絶対に悲しい思いはさせたくない、そう思わせる人だった。 彼女はまるで私の宝物のようで、実際に大切に大切に接してきた。 彼女と一緒に生きていけたら、と思っていた。 皆が幸せになるよう尽力しながら、彼女とともに生きていけたらいい、そう本気で願っていた。 B級映画にもなれないような馬鹿くさい夢物語だなと、絶望を知った今は苦く笑ってしまう。 月の美しい夜だ、と夜空を見上げて目を細めた。 もっとも、冷えた空気に張り詰めた緊張感をひしひしと感じながら思うことではないのだが。 あともう少ししたら、林の中に見える廃屋の屋敷に突入し中に潜んでいる奴らを捕まえる。 今はただひたすら息を潜めて時を待つ。 私はうしろを振り返り、銃を片手に私の命令を待つ副官を見やった。 あの頃と変わらず、短く切りそろえられた金髪は美しい。 彼女が目で何ですかと聞いてきたので、私は何でもないよと声に出さず笑ってみせる。 長年連れ添ったからこそなせるこのやりとりは私のお気に入りで、緊張をほぐすのにちょうどいい。 私は発火布をはめた右手を見つめ、小さく深呼吸した。 私の夢は半分叶って、半分叶わなかった。 最愛の人である彼女は、副官という立場で今も私のそばにいる。 彼女は白く美しい手に指輪をつけるわけではなく銃を握り、しなやかな体にはドレスではなく軍服を身にまとう。 女性としての幸せを手放して、彼女は死と隣り合わせの世界に自ら飛び込んだ。 彼女は、私が命じれば人を殺すのも厭わない。 そして、絶対にそんなことはさせないが、私のために命を捨てることも平気でするだろう。 私の飼い犬と揶揄される彼女は、道を外した私を撃ち殺すという重い義務まで背負ってくれた。 私のために、今の彼女の考えるべきこのはただそれだけで、私を中心に生きているのだ。 そんな彼女が頼もしくて、そして同じくらい悲しい。 最愛の人に銃を握らせて戦場に出して、重いものを背負わせて、フェミニストと名高いロイ・マスタングが何をしているのだろう、とそんな考えが時々頭をよぎる。 彼女を幸せにするはずが、逆に不幸せにしてしまっている。ほかでもない自分が。 自分の野望のために愛する人の人生をめちゃくちゃにしているのだ。 それが私の選んだ道ですから、と彼女は言うのだろう。 そして私はその彼女の強さに甘えてしまう。 彼女に悪いと思いながらも、私は結局彼女を手放せないのだ。 これから進んでいく険しい道のりに彼女がいないなんて考えられない。 私は彼女を逃がす気なんかさらさらないくせに、優しいふりをして彼女の身を案じているだけだ。 ――ひどい男に捕まってしまったな。 背負うものが大きすぎて、私たちは愛しているとすら言えない。 それでも私は前へ進み、そして彼女は私のあとを追う。 皆が幸せに暮らせる国をつくるその日まで。 それは果てしなく遠くて険しい道。 私たちは傷つき、何かを失い、ぼろぼろになって進んでいくのだろう。 でもきっと、いま私たちを柔らかく照らしている月に行くよりは簡単だから。 だから、頼りになる共犯者、そして愛おしい人よ、どうかその日まで私のそばにいてほしい。 そしていつか、苦笑しながらも捨てきれずにいる馬鹿くさい夢物語を彼女に打ち明けられる日がくればいい。 「……そろそろだ。今日も期待しているよ、ホークアイ少尉」 私の言葉ひとつで、茶色の瞳は鷹の目と呼ばれるするどいものに変わった。 コートをひるがえし廃屋へ向かう私に、彼女は黙ってついてくる。 うしろに彼女がいることを改めて頼もしく思いながら、こうしてずっと歩いていけたらいいと願う。 おもむろに空に伸ばした手のひらにもちろん月は掴めなくて、それに安堵しながら、突撃の命を下した。 |