限界ライン



これまでたくさんの大佐を見てきたけれど、天井を背景に彼の顔を見るのはこれが初めてだ。
それから息遣いが分かるほど顔が近いのも初めて。
あら意外と睫毛が長いのねと場違いな発見をしてしまった。
見慣れた自分の部屋なのに、していることは初めてのことだらけでアンバランスさに頭がついていかない。
ちょうど顔の横にある押さえ付けられた両手を意味もなく眺めてみたりした。
手首に絡む節くれだった無骨な手。男のひとの手。
「大佐」
「なに」
返事がいつもの大佐らしくなくて戸惑ってしまう。
いつもは胡散臭い笑顔つきで優しく答えてくれるのに、今は無表情で低い声で返された。
仮面をとった彼、そんな言葉がふと頭に浮かぶ。
大佐の顔をじっと見つめたまま抵抗しないでいると、彼は遠慮なく首筋に顔を埋めてきた。
首をなめる舌がくすぐったい。
この人は酔っているのだろうか。
いいや、ワインをちょっと飲んだくらいでこの人は酔ったりなんかしない。
いつもみたいにいきなり何か食べさせてほしいとやって来た人が、どうして私を押し倒す必要かあるのか。
だめ、やめて、だって私たちは仮にも上司と部下。
「大佐、やめてください」
「いやだ」
首に小さな痛みが走り思わず顔をしかめる。
なにをしているんだこの人は。
「あのね中尉、私は君の愛犬のように辛抱強くないのだよ」
愛犬?
ブラックハヤテ号のこと?
どうしてこの展開にあの子が出てくるのだろう。
ああそういえば、最近おあずけが出来るようになったのと司令部で話したんだった。
それからフュリー軍曹がよかったですねと自分のことのように喜んでくれて……
「あっ」
いきなりあげた声に、大佐はブラウスのボタンを外す手をびくりと揺らした。
それまでの表現しがたい異様な雰囲気ががらがらと音を立てて崩れるのを体のどこかで感じる。
「…中尉、何かあったか?」
「あの子にエサをやるのを忘れていました」
「ええ?」
状況が飲み込めてないらしく固まっている大佐を押しのけてベッドからおりる。
大変、お腹をすかせたあの子は耳を元気なくたらして床に伏せているに違いない。
「ちょっと待て、君、この状況で行くのか」
大佐は信じられないものを見るような目でボタンをとめ直している私を見ている。
「もちろんです。あの子がかわいそうでしょう」
「私はかわいそうじゃないのか」
「あなたはさっきたくさん食べたじゃないですか」
「私は君が食べたい」
……この人はこんな馬鹿げたセリフを言う人だったのか。
無視して寝室のドアを開けて出て行こうとすると、再びちょっと待てと止められる。
「中尉、本当に私との行為よりあのチビをとるのか」
「私との行為って、ただの勢いでしょう」
「…勢いで…勢いでやっとあそこまでいったのに…」
ベッドに腰掛けている上官の肩はかわいそうなくらいうなだれている。
「勢いが削がれて正解です。あのまま私を抱いていたらあなたは絶対に後悔します」
「どうして?」
「私はあなたの部下だからです」
「部下ねえ…」
意味深に呟きながら、ぎりしと音をたてて大佐がベッドから立ち上がる。
諦めてくれたのだろうかと思ったのもつかの間、私の背後に立つとそのまま腰に手を回してきた。
「上司と部下だけの関係ではないと、賢い君はもうとっくに気付いているだろう?」
「大佐」
咎める声などもちろん聞き入れてくれない。
「おあずけはそろそろ限界だ」
耳元に落とされる低い声。
拒めと私の中で誰が叫ぶけれど、心地のいい声にこのまま流されそうになってしまう。
「リザ」
名前を呼ばれて思わず振り向くと真剣な眼差しをした黒い瞳と目が合った。
胸板を押し返して抵抗しようとしたのだけれど手が言うことを聞いてくれない。軍人にあるまじき行為だわ。
頬に手が添えられると、私は大佐に操られるみたいにゆっくり目を閉じた。
まるで何度もそうしてきたかのようにタイミングよく自然に行われる一連の動き。
瞼の裏がいっそう暗くなって、彼が顔を近づけたのが分かった。
そしてそのまま唇が落とされる――
と思ったが、その前にワン!と元気のいい、そして場違いな声が割り込んできた。
二人同時に目を開けて、声のした足元に視線を落とす。
そこにはドアのわずかな隙間からこちらを覗く頭の黒い小さな生き物。
「あ、この子にエサをやるのすっかり忘れてました」
「……またこいつか!」
またしてもさっきまでこの部屋を満たしていた危なげな雰囲気が跡形もなく消え去る。
こういうのはやっぱり私たちに向いてないんじゃないかとふと思う。
「ごめんねハヤテ号、いまあげるから」
しゃがみこみ、心なしか目が少し怒っているように見える愛犬の頭を撫でる。
「…君が犬を飼っていることをこれほど憎んだことはないな」
同じ高さから声が聞こえる。
うしろを振り向くと大佐は私と同じく床にしゃがみ込んでいた。
いや、正しくはへたりこんでいた。
「……中尉、行かないで」
「だめです。この子がこうして待っているんですから」
「中尉〜…おあずけはもう勘弁してくれ…」
腰にすがられながら、頼むからと懇願される。
大佐の顔はよく見えないけれど、もしかしたら泣いているんじゃないかというくらい切羽詰まった様子に、困ったなと眉が下がる。
大佐の姿が、私の横で早く早くとせかす小さなこの子と重なる。
ああ、私はこういうのにとても弱い。
「…大佐」
呼び掛けながら、なるべく優しい手つきで腰に回された腕を外す。
「この子にエサをあげるのが先です。……大佐は、ここで待っていてください」
「え。それって、中尉」
大佐の問い掛けを最後まで聞かず、私はハヤテ号を抱いて寝室の扉を閉めた。


どうしてあんなことを言ったのだろうと、戸棚からドッグフードを取り出しため息をつく。
待っていてって、待たせておいてその後どうするつもりなのか。
ハヤテ号には悪いけれど、皿にエサを注ぎ込む手つきがいやがおうでも遅くなってしまう。
「はい、待たせてごめんね」
エサを盛った皿を差し出すと、長らくおあずけをくらった愛犬はガツガツとものすごい勢いでエサを食べている。
「…待たせてごめんね」
夢中でエサを食べている様子に目を細めながら、寝室にいる黒髪の上官のことを考える。
迷う余地なく私はあの人を拒まなくてはいけない。
私たちは上司と部下、そして背負うものと叶えなくてはいけない夢がある。
ずれが生じても知らんふりをして私たちは上司と部下ごっこを続けなくてはならない。
――でも、これ以上ごまかせるかしら。
おあずけにも限界がある。大佐も、そして私も。
口先だけの抵抗とはああいうことを言うに違いない。
本気で嫌ならとっくに枕元にある銃で額に一発お見舞いしてやっていた。
実は勢いって大切なのかもしれない。
あのまま勢いでことを運んでいたらこんなに悩まなくてすんだのにと、自分らしくないことを考える。
「……これからどうするのかしら」
すっかり空になった皿を眺めながら、私は人事のように呟いた。








back





inserted by FC2 system