ささやかな復讐



「そう、それでしばらく元気がなかったのね」
心配だったのよ、と椅子に座っていても視線の高さが違う金髪の上官は上目遣いにこちらを見た。
忙しそうに書類の整理をしていたのに、俺の話を聞くためにずいぶん前から手を止めて体ごと自分の方に向いてくれている。
気の毒そうに眉をさげた中尉の顔を見て、思わず涙がほろりと零れそうになった。
ああなんかもう、その小さな仕草だけでもぼろぼろになった今の心は大きすぎるくらい効果がある。
そうか、元気がないの気付いてくれていたんだ。
だから昼食を食べる気力もなく机に突っ伏していた俺に大丈夫と声を掛けてくれたのか。
弱っているせいか、中尉の優しさがいつもより倍のスピードで体に染み入る気がする。
あ、やばい、本気で涙でそう。
「元気だして、ハボック少尉。少尉は優しいからすぐにまた彼女ができるわよ」
俺の情けない失恋話を聞いたあと、中尉はいつも優しい笑顔とともにこう言ってくれる。
しかも今回は恒例の励ましが終わったあと、がっくりと情けなく落ちた肩を労るようにぽんぽんと叩いてくれた。
見上げてくる目は、鷹の目と異名を持つのが信じられないほど優しい色をしている。
堅い軍服の布ごしに伝わる、久しぶりの人の温かさが泣けそうなほど愛おしい。
俺は感極まって離れていく中尉の手を咄嗟に掴み、膝の上に置かれたもう片方の手もぎゅうっと握った。
「少尉?」
「…ちゅういぃ〜…」
軍人にあるまじき情けない声が出たが今は恥ずかしくもなんともない。
今は中尉の優しさに思いきり甘えちゃいたい。
お昼時で部屋には二人きりだし、しばらく誰も来る気配はないし、環境は完璧。
少し戸惑った様子の中尉に構わず、両手で彼女の手をぎゅうぎゅうと握りしめる。
「…人の温もりって、いい…」
「…少尉、よっぽど辛かったみたいね」
思わずでた俺の呟きに眉を潜めた中尉は、さきほどよりも心配そうな声でしみじみ言う。
「…中尉、もう少しこのままでいいっすか?」
中尉が嫌と言わないのを知っているけれど、甘えるのを許されているのだと中尉の口から言わせたくて聞いてみる。
「…少しならね」
決して嫌そうな様子なく返ってきた返事に思わず頬が緩んだ。
ふだん表情を表に出さず怖いと思われがちな中尉がこういう優しい面を見せてくれるのは素直に嬉しいし、美人な顔が自分のために心配そうに眉を下げるのはもっと嬉しい。
職場に金髪美人がいて、そんでもってこんなに優しくしてくれるんだから、彼女なんていなくてもいいじゃないかと少しだけ気分を持ち直せた。
これを人は開き直りと呼ぶのだろうけれど、今の俺の頭はそんなことさらりと無視して元気を取り戻す。
「俺、中尉がいれば彼女なんていなくていいって気がしてきました」
「…どういう意味か分からないけど、元気がでたならそれでいいわ」
さっきの鬱々とした態度から一変して笑って告げた俺に、中尉もよかったわとにっこり笑う。
笑うとますますきれいだな。
東方司令部の癒しのマドンナ万歳。
「それにしても困ったものね」
ため息のあとにはかれた言葉が誰のことを指すなんて嫌なくらい分かっている。
「そう、大佐はあの日、書類をほっぽりだして少尉の彼女とデートに出掛けたわけね…」
ハボック少尉はその間仕事をしていたのにねと、自分を慰める言葉を言ってくれているにも関わらず背中がぞくりと冷たくなる。
繋いだ手から殺気を感じてしまうのは気のせいだろうか。
あんなに優しかった中尉の目は今や鷹の目に戻っていて、他人事ながらだらだらと冷や汗が出てしまう。
「いやー、中尉、ほんと大佐をどうにかしてくださいよ〜。もう彼女とられるのも慣れてきて自分が悲しいっす」
冷たい空気を振り払おうとわざと明るい口調で言ってみると、中尉は無理ねと首を振った。
「仕事のことならともかく、女性関係はプライベートだから私が何を言っても無理よ」
「そうっすかねえ。中尉が言えば誰よりも効果あると思いますけど」
だってあの人、中尉に惚れてるじゃないですか、とは言わないでおく。
大佐の気持ちにまったく気付いていない中尉に言って人の恋路を応援するつもりはさらさらないし、むしろ今は逆のことをしなくてはいけないのだ。
わざとらしくごほんと咳払いしたあと、あの、と口を開く。
「中尉、つかぬ事をお聞きしますが」
「なに?」
「仕事せずに人の彼女をとる男と、彼女はとられるけど仕事する男、どっちがいいっすか」
「答えるまでもないわ」
書類処理を放棄した理由を思い出したのか、鷹の目がするどく睨んでくる。
俺を睨まんでくださいとビクビクしながらも、極端な例だったけれど大佐より優位にたてたことに口の端がにいっと上がる。
「あー、なんか元気でたら腹減ってきましたよ」
「そう、よかったわ。じゃあそろそろお昼に行きましょうか」
「中尉、ありがとうご…」
ざいます、と言い切る前に部屋の扉がガチャリと開いた。
二人して扉の方を見ると、そこにはドアノブを掴んだまま唖然としている、すべての元凶の憎き上官がいた。
「…白昼堂々セクハラとはいい度胸だな、ハボック」
部屋に静かに響き渡る言葉が、怒りを含んでいることが長年の付き合いから分かる。
あ、そういえば中尉の手をまだ握ったままだったんだ。
この奥手の上官はまだ中尉の手すら握ったことないんだろうなあ。
そんなことをのんびり考えている間につかつかと無言でこちらに歩いて来た大佐は、いきなり中尉と俺の手首をがっしりと掴んだ。
「とりあえず手を離しなさい。話はそれからだ」
平常を装っているものの、やっぱり目はかなり怒っている。
「別にセクハラじゃないっすよ。中尉嫌がってないし」
「ほう。じゃあ何をしていた?」
「えーと、しいて言えば…愛についての語らい?」
大佐に手を離されるのが釈で逆に中尉の手をぎゅうっと握ってみせると、大佐の頬がぴくりと引き攣った。
「…私は部下をなくすのが心底惜しいよ」
まったく惜しくなさそうにそう言うと大佐はポケットから発火布を取り出し手にはめる。
げ、消し炭にする気かよ!
「覚悟しろハボック」
「大佐」
一連の出来事を黙って見ていた中尉は俺の手を振りほどき、大佐の机をびしっと指差した。
机の上にはどうしてあんなに溜まるのか聞きたいくらいの書類の山。
「馬鹿なことを言ってないで仕事をしてください。期限は今日の夕方ですよ」
「馬鹿って、君が嫌な思いをしただろうから私は…」
「大佐」
鷹の目が視線だけで上官を制するところはいつ見ても頼もしくもあり、ものすごく恐ろしい。
大佐はそれ以上何も言えなくなり、恨めしげに俺を睨んできた。
「ハボック少尉、時間がなくなるから行きましょう」
「あ、そっすね」
「行くってどこに?」
「食堂っすよ。ランチデートってやつ?」
しぶしぶ机についた大佐が、俺の言葉を聞いた途端、手にしていたペンをぽろりと書類の上に落とす。
「ハボック…お前…」
「大佐、仕事を続けてください」
再び発火布を取り出そうとした大佐だが中尉にひと睨みされてまた黙る。
ほら、やっぱり大佐は愛する中尉には逆らえない。
それにしてもおかしな話だ。
人の彼女には平気で手を出せるのに、俺にとって頼れる上司でしかない彼女には指一本触れられないなんて笑ってしまう。
本当に大切な人には手を出せないとは損な性格だ。
だからいつも俺と中尉が仲良くしているところを、ただ指をくわえて見ているしかできないのだ。
今回も「早く戻ってくるように」と不貞腐れたように命令する以外できない。
しかし今は同情される身ではあっても大佐に同情する余地はない。
「じゃ、中尉いきましょ」
見せ付けるように中尉の手を再び握り、彼女を引っ張って急いで廊下に出る。
「ハボック!」
机に身を乗り出しながら咎める声に振り向いてこう一言。
「あの、さっき大佐と俺なら俺と付き合いたいって中尉が言ってました」
大幅に捏造した、大佐にとってはかなりきつい言葉を残してドアを勢いよく閉める。
ハボック!!と廊下に怒号が響いたけれど振り返ることなく、中尉を連れて食堂までダッシュする。
急に走り出した俺に驚いていたものの中尉は大人しく手を繋がれている。
なんていうか俺、弟とかその辺にしか思われてないんだなと軽くショックだったり。

あの人も少しは愛する人を奪われるということがどういうことか思い知ればいいんだ。
ふん、ざまあみろ。
……その痛みを俺も嫌というほど知っているから、怒りがおさまったら少しは中尉とのことを協力してあげてもいい。
なんて思ってしまう俺は完全に彼の犬なのか、それともただのお人よしの馬鹿なのか。
とりあえず最低一週間は消し炭にされる可能性があるからその時は中尉に守ってもらおう、廊下を駆け抜けながらそう決心した。








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