アイリス



連日雨が続き、もしかしたら今日も、という心配は見事に吹き飛ばされた。
慣れないネクタイを片手でほんの少し緩めながら、雲ひとつない見事な青空を仰ぐ。
ふと「雨なんか愛の力で追い払ってやるよ」と電話越しに豪語していたうるさい親友を思い出し、小さく笑う。
少しの呆れと、大きな喜びを込めて。
その親友は今日も相変わらず、周りの祝福の言葉に負けないくらい大きな声で花嫁を自慢している。
嬉しさで顔の緩み切った新郎の隣で、新婦も彼そっくりな顔で穏やかに笑っている。
私たちの選ばなかった道を歩む二人は、誰の目から見ても幸せそのものだ。
「あ、またネクタイ緩めたんですね」
崩れた結び目を目敏く見つけて、隣に立つ彼女がむっと眉を寄せた。
「触っちゃだめって言ったじゃないですか」
「あー、すまん。ついね。直してくれるかな」
彼女の手に届きやすいようにと少し腰を屈めれば、もう、と小さく頬を膨らませながらも直してくれる。
首元に伸びてきた彼女の手は私の愛するもののひとつだ。
しかし、お世辞にもきれいな手とは言えない。
銃を扱う彼女の手は、念入りに手入れをされた細い指とは掛け離れていて、皮膚が硬く小さな傷も多い。
――彼女の左手の薬指に、あの花嫁のように指輪が嵌められることは、ないかもしれない。


ふとした瞬間に、ありもしないことを考えてしまう。
もし彼女が私に出会っていなかったら、背中に秘伝を刻まれていなかったら。
もしそうならば、今と違う彼女がいたはずだ。
世の中のひどさなど知らず、あの二人のように彼女は誰かの隣で笑っていたのかもしれない。
明日死ぬかもしれない生活なんてせず、人を撃てとも命令されず、ただ自分の幸せのことだけを考えて。
もし今、私が彼女を解放してやれたら、何かが変わるだろうか。
そう考えて辿り着くのはいつも同じ答えだ。
私は彼女を手放すことなんかできない。
軍人としても、ロイ・マスタング個人としても。
私のいないところで生きる彼女を許すことはできない。
笑うのも泣くのも喜ぶのも、私に縛られて苦しむ顔でさえも、私が一番近くで見ていたい。
そして彼女もきっと、私の側を離れて安全な場所で生きる自分を許さない。
私が彼女を手放せないように、彼女も私から離れられないなんとも不幸な女だからだ。


「もういじっちゃだめですよ」
「うん」
ネクタイをきれいに結び終え、いいですね、と彼女は念を押す。
それに適当に返事をしながら、役目を終えて離れていく彼女の手を取り、手の中に収めた。
「中佐っ!」
「ん?」
案の定あがった抗議の声はもちろん聞き入れない。
彼女は落ち着かなさ気に周りの様子をきょろきょろと伺っている。
「大丈夫、誰も気付いてないよ」
「そういう問題じゃありません!」
「じゃあどういう問題?」
再び身を屈めて顔を覗き込みながら聞けば、彼女は慌てて顔をそらした。
彼女は怒っているわけでも関係者に見られると心配しているわけでもなく、ただ照れているだけなのだ。
あまりに可愛いのでからかってやろうかとも思ったのだが、機嫌を損ねると意外と長引くのでやめておく。
それに、いま彼女に話したいのはそんなことではない。
「……私が守りたいと思うのは君だけだよ」
少しの沈黙のあと、ぽつりと呟くように言う。
先ほどとは正反対の真面目な声色に彼女が顔をあげた。
「でも、私の背中を守れるのも君だけなんだ」
紅茶色の瞳は私を真っ直ぐに見つめてくる。
「だから、私は君をヒューズのようには幸せにはできない」
握った手にぐっと力を込めてそう言えば、逆に彼女に力強く握り返された。
私を見上げる彼女は、まるで人々の輪の中にいる親友の花嫁のように、幸福そうに笑っている。
「…私の幸せは、あなたを守ることです。結婚することじゃありません」
思ったとおりの答えが、彼女の唇から諭すようにゆっくりと紡がれた。
そして、私はまたその言葉に甘えてしまう。
たとえ彼女が不幸になろうとも、私はこの手を離してやることはできない。
「ぼーっとしていると思ったら、また変なこと考えてたんですね」
「いや、そういうわけじゃないよ」
ごまかしてみるものの、鷹の目は何でもお見通しだ。
見下ろした金髪が陽の光りを浴びてきらきらと輝き、その眩しさに目を細めた。
こんなに美しく生まれたのに、彼女は女としての幸せを求めず、そして誰のものにもならない。
彼女の人生は私の命令に従うこと、そして私の背中を守りついてくるだけだ。
「これは私の選んだ道です。中佐が気になさることは何もありません」
先ほど変わらない落ち着いた声で、しかし力強くはっきりと彼女が言う。
そして次の瞬間にはふっと表情を変えて、どこか自嘲的に笑った。
「それにお互い様です。…私は、例え重荷になってもあなたから離れられないと思いますから」
この道を選んだことに後悔はしていないのに、私たちはいつも暗い気持ちを隠して隣に立つ。
それはどうしようもなく彼女が大切だから、そして彼女がいないと生きていけないから。
そして、きっと彼女も私と同じだから。
「私について来てくれるな?」
「何を今更」
「死ぬことは絶対に許さない」
「分かってます」
いつかまた私は違う生き方を選ぶ彼女を思い描いてみるのだろう。
そして彼女を手放せないと確認して、ひどい男だと笑って、それを何度も繰り返す。
楽な方を選べなかった私達は、そうやって不器用に格好悪く前に進んでいくしかない。








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