「もう、少しは自分の幸せも考えてください」 昔から何かにつけて、呆れた、とでも言いたげにきれいな形の眉を寄せて彼女はこう言う。 望み続けた地位に就いている十分幸せと言い切れる今でさえ、たびたび同じことを溜息混じりに口にするのだ。 ほかの人の幸せじゃなくて自分の幸せもよく考えてください、と彼女は言う。 その言葉をそっくりそのまま彼女に返してやりたい。 「私の幸せはあなたを守り、あなたについて行くことです」なんて、躊躇いもなく真顔で言う彼女の立派すぎる忠誠心には呆れてしまう。 私は、焔の力もこの地位も、望んだものは余すことなくすべて手に入れてきたのだ。 若い自分が思い描いていた未来に立っている私は、彼女に心配される必要もなくとても幸せだ。 「大総統」 部屋に伝わる穏やかな声が思考を現実へ引き戻す。 多くの人にそう呼ばれてきたけれど、やはりずっと側にいてくれた彼女に呼ばれるのが一番嬉しい。 そんなことを思いながら窓から後ろへ視線を移すと、相変わらず姿勢をきっちりと正した彼女が立っていた。 大きな窓ガラスから差し込んだ夕日が金の髪を輝かせて、その眩しさに目を細める。 ふと、彼女の性格をそのまま表している隙のない佇まいに反して、雰囲気がいつになく柔らかいような気がして首を傾げた。 「考えごとですか?」 「うん、ちょっとね」 「そうですか」 やはり今日の彼女は雰囲気だけじゃなく口調もどこか優しい。 彼女の短い言葉だけで、いや、何も言わなくとも、いつもと違うと分かってしまうほどの年月を私達は過ごしたのだと改めて思う。 「……これからは、自分の幸せも考えてくださいね」 「はは、またそれか」 恒例の台詞に思わず笑うと、彼女も私と一緒になって口元をそっと緩ませる。 しかしきれいに孤を描いた唇はすぐに歪んでしまい、何かに耐えるようにきゅっと引き結ばれた。 「大総統」 いつも凜とした声がかすかに震えている。 「本当に、お疲れ様でした」 そう言い切ると紅茶色の瞳がたちまち潤んで、瞬きと一緒にぼろぼろと涙が溢れてきたのにぎょっとする。 「あー、ほら、泣かないで。私が君の涙に弱いのは知っているだろう?」 白い頬を止まることなく次々と滑っていく涙に焦りながら、慌てて軍服の裾を目元にあてる。 彼女と長い時間を共にしながらも、私は何度となく見てきた彼女の涙に未だ慣れることが出来ず、慰め方もフェミニストの名が不似合いなほどひどくぎこちない。 「…ハンカチとかないんですか」 「……相変わらずだなあ」 まるで子供のように泣いているくせに厳しいことを言う彼女と、何とか涙を止めようと焦って余裕を失った自分の行動がおかしくて、思わず吹き出す。 確かに軍服じゃ涙を拭くには硬いかと思い直し、まるで壊れ物を扱うかのように親指でそっと触れ直す。 「そう文句を言わないでくれよ。大総統が直々に涙を拭いてあげているのに」 笑いながらそう言えば、大人しく涙を拭かれていた彼女も、そうですね、と小さく笑う。 「まあ、それも今日が最後だけどね」 せっかくの笑った顔は再び崩れて、赤くなった目元が新しく溢れた涙で濡れていく。 ふと、数年前、この地位をようやく得た日も、彼女はこうして瞳に涙をいっぱいに溜めて泣いたのを思い出す。 それから、もっと昔にホムンクルスと戦った際に彼女を泣かせてしまったときのことも。 彼女が笑うのも怒るのも、そして泣くのも、彼女自身のためではなくすべて私のためで私のせいだった。 親指が濡れるのを眺めながら、私のためだけに生きてきた彼女のことを、出来ればもっと笑わせてやりたかったと今さらながらに思う。 焔の力も、この地位も、望んだものはすべて手に入れきた。 若い自分が思い描いていた未来に立ち、それを全うした私は、とても幸せだ。 ――いいや、本当は違う。 これが幸せなのだと、今日までずっと自分に言い聞かせて、決してよそ見をすることのないように騙してきたのだ。 「今まで、本当にありがとう。君がいなかったら私はここにいることはできなかったよ」 事があるごとに口にしてきたこの言葉は、相変わらず焦れてしまうほどにしっくりとこなかった。 ありがとうと何回言っても足りず、長ったらしい言葉に変えてみても追い付かないくらい感謝しているのだから無理もない。 「辛い思いもいっぱいさせてしまったね」 「いいえ」 彼女は頬を濡らしたまま私をまっすぐに見上げ、ゆるく首を振る。 口元にはいつの間にか笑みが戻っていた。 「確かに辛いこともありましたが、あなたを守り、あなたについて行くことが私の幸せだったんです」 嘘の見当たらない穏やかな声に、今度は私が首を振る。 確かに今、私が幸せであることに間違いはない。 しかし、私は彼女にこんなことを言わせたいわけではなかった。 私を守ることが幸せだと、そう言わせたかったんじゃない。 若かった私が望んだのは、焔の力を手にいれることと、その力で皆が笑って暮らせる未来を作ること。 それからもうひとつ、背中を託し、私を信じてくれた少女にずっと笑っていてほしかったのだ。 私が彼女に守られるというこんな形じゃなくて、もっと別の方法で、彼女に幸せだと笑ってほしかった。 彼女が自分で選び決めた道だと分かっていても、守りたい彼女に守られていることに、やるせなさを感じずにはいられなかった。 そして、彼女に人を撃てと命令しない日がくるのを、すべてが終わるのを、私はずっと待っていた。 「リザ」 ずいぶんと久しぶりに口にした彼女の名に驚いたのか、紅茶色の瞳が少しだけ大きく開かれる。 濡れた金の睫毛が揺れる様子さえ愛おしく感じながら、ここまで何とか無事に二人で来られたことに安堵の溜息をついた。 そして大きく咳払いをひとつ。 少しは自分の幸せも考えてください、か。 焔も最高の地位も手に入れた欲張りな私が、さらに隠し続けていた夢を叶えることが許されるのならば。 「君に話があるんだけど、いいかな」 いつ渡そうか迷い、ポケットに入れっぱなしだった小さな箱を布の上から形を確かめるように指でなぞる。 改まってどうしたんですか、とすっかり泣き止んで首を傾げる彼女に、何か暖かな気持ちが沸き起こるのを感じながら笑い返す。 触れられずにいた幸せに、私はようやく今、手を伸ばせるのだ。 |