1.ラブリーベイベー 2.笑い飛ばして 3.悲しい現実 4.玄関 5.ある日、東方司令部にて 「次にさぼったらどうなるか分かってますよね、中佐」 「あー、はいはいはい」 「はいは一回で結構です」 「…はい」 相変わらずどっちが上司なんだか混乱してくる会話だ。 彼女はたとえ上司といえども粗相をすれば大声で叱り、さぼれば銃を抜いてでも机に戻す、実に優秀な副官だ。 彼女にとっと座れと視線で促され、しぶしぶ椅子に腰をおろす。 するとこれみよがしに目の前に書類の山をどっかりと置かれてしまった。 「さっさと書類に目を通してください」 「…もうちょっと言い方があるんじゃないかなー、なんて。ほら、やる気が出るようにもっと優しく」 「あいにく部下が一生懸命仕事をしているときに、どなたかが書類をほったらかしにしてお昼寝をしていたため気を遣う時間すらもったいなくて」 「あーあーあー、分かった。もう言うな」 口うるさい女だなあって言ったら五体満足で家に帰れはしないだろうな。 せっかく師匠に似ないで可愛い顔してるんだから、そんな怖い顔して怒らないでほしい。 いや、ぜんぶ自業自得なんだけどね。無能な上官で申し訳ない。 でも、もうちょっと、ほんのちょーっと優しくしてくれてもいいのになあ。 このロイ・マスタングに向かって怒鳴って睨んで銃を向けて、そんなことをする女性は彼女ただひとり。 昔はもうちょっと可愛かったのにと、はあーと大きくため息をついて紙の山に手を伸ばす。 「あの、中佐」 「うん?」 なに、と言おうとしたところで、いきなり口に何かを突っ込まれた。 白い手が離れていくのを唖然と見つめながら、ふと口の中の甘さに気づく。 「…これ、チョコ?」 「はい。さっきポケットの中から出てきたんです。賞味期限はたぶん切れてないのでご安心を」 「…あのね、そんな怪しいもの上官に食べさせないでくれよ」 「でも中佐、甘いもの好きでしょう?」 そう言うと彼女はポケットの中をごそごそとあさり、安っぽいラッピングのチョコをいくつか取り出して机の上に乗せた。 「これあげますから、大人しく仕事してくださいね」 「…チョコねえ…」 ほう、どうやら私はチョコ数個でうきうきと仕事をこなす安い男と思われているらしい。 女性からこんな扱いをうけるのは初めてだ。 それから、実は私が子供にするみたいなこういう小さな計らいが嫌いじゃないと見抜いたのも、彼女が初めてだ。 うん、嫌いじゃないというか好きだ。大好きだ。 口うるさいのも世話焼きなのも、小言を言いながら結局は残業に付き合ってくれるのも、実は全部大好きだ。 「ありがとう」 まだ口に残っているチョコを舌で溶かしながらにっこり笑う。 「どういたしまして。では頑張ってくださいね」 「あー、少尉」 「何か?……え」 踵を返そうとした彼女の腕を掴んで、顔をあげたところを狙って覆いかぶさった。 中佐、と言おうとした彼女の言葉を口で塞ぎ込む。 彼女は目を見開いて私から離れようと胸を押し返してきたが、それを許さず短い金髪に指を差し込んで押さえ付ける。 さっきの不意打ちのお返しにゆっくりと舌を絡め始めると、抵抗もやんで彼女の体から力が抜けていくのが分かった。 「賞味期限が切れてるかもしれないからね。その時は君も道連れだ」 唇をようやく解放してやってそう告げても、彼女にしてはめずらしく反撃がない。 それどころか、私が腕を掴んでいなければきっと彼女は立っていられないだろう。 「…なに、するんですか…」 銃を抜くこともしなければ怒鳴りもせず、代わりにちっとも怖くない潤んだ目で睨まれながら可愛すぎる一言。 「何って、お返しだよ。あ、君って甘いもの嫌いだっけ?」 「そういう問題じゃありません!」 彼女はそう怒鳴ると顔も耳も真っ赤にして、敬礼もせず部屋からおぼつかない足取りで出て行ってしまった。 うん、こういうところは昔と変わらず可愛い。 「…癖になりそうだ」 怒鳴って睨んで銃を向けて、そんなことをする女性は彼女ただひとり。 ああ本当に好きだなあ、なんて改めてしみじみ思いながらチョコをもうひとつ口に放り込んだ。 車で送りますからと何度か彼に言ったのだけれど返事がない。 彼は無言のまま東方司令部の門へ向かって歩いて行き、私はただその背中について行くことしか出来なかった。 真っ暗な空の下、硬い軍靴の音がやけに耳につく。 「中佐」 私たち二人しかいない深夜の通りに声はよく響いた。 呼びかけにやっぱり返事はなくて、けれど代わりに手を握られた。 白い手袋をはめていない手はまるで氷みたいに冷たい。 焔を操る、軍人らしい無骨なしっかりとしたこの手とは裏腹に、彼はとても優しくて弱いことを私は知っている。 中佐、と呼ぼうとしたとき、ぐいと腕を前へ引っ張られた。 がくんと体が前につんのめる。 前を見れば彼はいきなり走り出していて、手を繋いでいる私も訳が分からないまま強制的に走ることになった。 昼間とは大違いのしんと静まり返った通りを抜けて、狭い路地裏を駆け抜ける。 彼の黒いコートが魚の尾びれみたいにゆらゆら揺れていた。 軍靴がうるさいくらいの音をたてて地面を蹴る。 切る風がひたすら冷たくて、冷え切った彼の手を温かく感じ始めた頃、気付けばいつも視察の行き帰りに見掛ける公園の中に入っていた。 どうしてこんなところにと思っている暇もなく、彼は何を思ったのかまるでベッドに飛び込むみたいに芝生の上に寝転んだ。 当然、腕をひっぱられて私も芝生の上にダイブするはめになった。 頬に当たる冷え切った芝が痛いくらいに冷たい。 顔に傷ができていたらどうしてくれようか。私だって一応女なのに。 むっとしながら身を起こして、いまだ芝生に仰向けに寝転がって荒い息をはいている男を睨み付ける。 「いきなりなんなんですか!」 「びっくりした?」 「当たり前です!」 「そうだね」 彼はあははと、まるでいたずらが成功した子供のような顔で無邪気に笑った。 「痛かったです」 「それはすまなかったね」 やがて彼が笑うのをやめると、辺りは急にしんと静かになった。 しばらく沈黙が続き、私は寝転がっている彼のはいた息が白く染まって消えるのをぼんやりと眺めていた。 「……すっきりするかなあって思ったんだよ」 沈黙を破ったのは彼だった。 何のことを言っているのか分からなかったが、すぐにさっき強制的に走らされたことかと思いあたる。 「中佐、前よりも足が遅くなられたような気がします」 「む、本当か」 彼は顎に手を当ててむっと眉をしかめた。 そして、そのまままた無言になる。 「中佐」 「ん」 「もういいですよ」 月が雲に隠れつつある遠い空を見上げていた二つの目を、そっと手のひらで覆う。 この真っ黒な瞳が暗い色を宿していたことなど、もうとっくに気づいていた。 「もう我慢しなくていいです」 そう告げると、彼ははあーっと大きくため息をはいた。 「…私は格好悪い上官だな。呆れるだろう」 「いいえ、そんなことないです」 「そうかな。私は自分が情けなくて笑えてくるよ」 「笑えないくせに何言ってるんですか」 「じゃあ代わりに君が笑ってくれ」 「あとで思いっきり笑ってあげます。…だから、今は我慢しないでください」 目元を覆う私の手に彼はそっと自分の手を重ねてきた。 ふと手を強く握られたかと思えば、手の平がひんやりと冷たくなり濡れたのが分かった。 どんな小さな傷も笑い飛ばせず、いちいち立ち止まってしまうこの人が心底愛おしくて、そして守ってあげたいと思った。 きっとこれからもこうして挫けながらそれでもこの人は前に進んで、そんな彼に私はずっとついていくのだろう。 ――あなたが笑えないのなら私が笑うから、だから今は思い切り私に寄りかかってください。 月が隠れきって真っ暗になった空の下、そう祈るように冷え切った黒髪を撫でた。 士官学校からの付き合いの友人には、これ食って元気だせと両手いっぱいにお菓子をもらった。 いや、かなり俺元気だけど。 ちょっと目が充血してるのは寝不足なだけだから。 人の彼女を奪って高笑いをしていた黒髪の上官は、無言で俺の肩を叩いて「今度いいひとを紹介しよう」と言ってきた。 あー、ボインなら……いやいやいや、何か裏があるに違いない。 なんでこの人こんな優しいんだ気持ち悪っ! 眼鏡と糸目の部下2人には、嫌なことは飲んで忘れましょう!!と妙なテンションで誘われた。 嫌なことってなんじゃそりゃ。 おい、人をそんな憐れんだような顔で見るな。頬にある傷は現場でついたんだっつの! そしてしまいには―― 「ハボック少尉って犬っぽいわ」 金髪の上官はいつものようにとても真面目な顔でそう言った。 「ときどきブラックハヤテ号と重なるときがあるのよ」 そんな仕事の話をするときみたいに真面目な顔で言われると、そうですか、と返すしかない。 犬っぽいって喜んでいいのか悪いのか。 「犬派と猫派ってあるみたいだけど、きっと彼女は猫派だったんじゃないかと思うの」 あー、あの、訳分かんないっす。 「だからそんなに落ち込まないで。今度は犬派の人と付き合えばきっとうまくいくわ」 なんて有意義なアドバイス、なわけない。意味不明。 中尉、もしかして励ましてるつもりかもしれませんけど大幅にずれてますよ。 「犬派って結構多いと思うわ。私も犬派だし」 あーあ。 そんなこと言うから、犬プレイが好きとは初耳だ早く言ってくれよ君は飼い主と犬のどっちが(以下省略)とか危ないこと言い出す人が来ちゃったじゃないですか。 あの、つーかね。 「俺、まだ振られてないっつーの!!!」 まだ、と付けちゃうところが悲しいけれど。 コートを羽織りながら玄関へ向かうと、いつもより少し着飾った彼女が難しい顔をして立っていた。 「どうしたの、中尉」 「どちらを履こうか迷ってるんです」 こちらを振り向いて、コートの襟元を直してくれながらそう言うと、また視線を下に落とした。 彼女の足元には、黒の編み上げのブーツと茶色のショートブーツが2足並んでいる。 「んー、じゃあ私が買ってあげたやつがいいな」 「どちらも大佐からいただいたものですよ」 「あ、そうだね」 マフラーを巻きながら、真剣に悩む彼女の姿をちらっと盗み見る。 眉を寄せて唇をきゅっと結んだその顔は、彼女が考え事をしているときの顔。 仕事中によく見るこの顔は、今は軍人とは掛け離れたかわいらしいことを考えている。 軍人としての頼もしい彼女も好きだが、女性らしい一面を見せる彼女もどうにも愛おしい。 「どちらも似合うよ」 耳元でわざと低く囁きながらくるりと彼女の体を反転させて、ドアに押し付ける。 「あの、大佐?」 「うん?」 「どいてください」 「いやだ」 何をされるか気付いたらしい賢い彼女は私の体を押しのけようとするが、もちろんそんなことはさせない。 「やだ、ちょっと…!」 文句はすかさず唇で塞いで、逃げる舌をしつこく追い掛ける。 いつもより少し濃い口紅を舐めとって、化粧が落ちるのも構わず顔中にキスを落とす。 二の腕をぎゅっと掴んでいた手の力が緩み始めた頃に、名残惜しさを残しつつ開放してやった。 「…たいさ…」 「何だい中尉」 甘ったるい声で咎められてもちっとも怖くない。 すっかり潤んだ紅茶色の瞳と、口紅が落ちた代わりに濡れている唇を満足げに見下ろす。 「今から出掛けるって顔じゃないな」 「……いきなり何するんですか」 「ん?行ってきますのちゅーだよ」 「一緒に出掛けるのにそんなものは必要ありません!それに三十路がちゅーとか言わないでください!」 「だって君が可愛すぎるから…というかまだ三十路じゃないから」 化粧し直しです、とぷんすか怒る可愛い恋人にキスをもうひとつ。 「いやー、まいったー」 疲れたー、と革張りの椅子に深く座りこみながら肩を揉む。 何度目か分からないため息をついていると、目の前に私専用のカップがすっと差し出された。 このタイミングでだなんて、さすがは私の自慢の副官。 「また愚痴ですか」 「うん」 ありがとうとコーヒーを受け取り、美しい金髪の彼女を見上げて久しぶりに頬を緩める。 「視察だなんていって結局は私に愚痴を言いにくる暇人なんだよ。いやあ人気者は辛いね」 「お疲れ様です」 今度は私が愚痴を言う番だ。 しかし彼女は先程の私のように苦笑しながら頷くのではなく、逆に労いの言葉をかけてくれる。 当たり前に甘やかされているのが嬉しくて、へらりと緩む口元をすかさずカップで隠す。 「今日なんて、君は無能だーなんて言われちゃってさ。どこかの副官みたいだよね」 「え?」 「ほんとう困った将軍さまだよ……ん?」 なんとなく部屋の温度が下がった気がするなあ、なんて思いながらふと顔をあげた。 そして凍り付く。 そこにいたのは、視線だけで人を殺せそうな鷹の目をするどく光らせる彼女。 先程まで気遣わしげに話を聞いていた優しい彼女はどこだ? 「しょ、少尉…?ごめん愚痴言い過ぎた…?」 「無能って言っていいのは私だけなのに…!」 「え、ええ!?」 弱気になって謝れば、彼女はまったく検討違いのことで殺気をこめて呟く。 「中佐、私用で少し出掛けます」 「え、うん。ど、どこに?」 「それは言えません。それから、将軍が行方不明になるかもしれませんがお気になさらず」 「こらこらこら!待ちなさい少尉!」 背中を向けて執務室から出て行こうとする彼女の肩を慌てて掴む。 鷹の目にぎろりと睨まれるが、なんで私がなんてびびっている暇はない。 「少尉、だめだっ!いけません!」 「大丈夫です。私絶対に外したりしませんから」 「それがだめなんだ!」 中佐のこと馬鹿にした奴を生かしておけますか!と言って聞かない彼女を宥めるのは本当に大変だった。 |