王様の食卓



私が忠誠を誓った上官、ロイ・マスタング大佐ほど「わがまま」や「子供」という言葉が似合う人はいないと思っている。
なんてことを彼が知ったら三日間くらいは拗ね続けるだろうから、これは絶対に秘密だ。
彼の予測不可能な言動に振り回されるのはもういつものことで、あの手この手でなんとか彼を満足させようと日々奮闘している。
けれど、いまだ彼の突拍子もない要求に慣れることはなく、うまく丸め込むことよりも困り果ててしまうことの方が多い。
最近一番困ったのは、私の愛犬であるハヤテ号のことで機嫌を悪くされたときだ。
「なんでハボック少尉が君の愛犬が昨日初めてお手をしたことを知っているんだ」
最初、彼が何のことを言っているのかさっぱり分からず、不機嫌そうな顔をきょとんとしたまま見つめてしまった。
「なんでハボック少尉が知っているのかと聞いているんだ」
答えを返さない私に苛立ったのか、彼の声のトーンが落ち、眉間の皺もより深まる。
「今朝、廊下でハボック少尉と会ったときにハヤテ号のことを聞かれたので、その時に話して…」
「なんであいつが知っていて私は知らないんだ」
私の言葉を遮って、彼はまた訳の分からないことを言う。
少尉にハヤテ号の近況を話すことと彼の怒りがどう考えてみても繋がらない。
かなり怒っていることが分かる彼を前に、出口のない迷路に放りこまれたような、そんな途方に暮れた気分になる。
彼が知らないのは私が話さないからで、そもそも彼はハヤテ号のことがあんまり好きではないはずなのだ。
あ、もしかして。
「大佐、犬が好きになったんですか?」
「なんでそうなるんだ!」
バンッと机を叩きかねない勢いで彼は声を荒らげる。
ちょっと自信のある答えだったのに見事はずれてしまったようだ。
「私はね、君に関して知らないことがあるのと、それを少尉から聞かされたのと、君が少尉には言うのに私には言わないのに腹が立っているんだよ」
普段の彼は顔を見るだけで何を考えているのか分かるのに、ときどき同じ言葉を喋っているのが嘘に思えるくらい理解不能の人となる。
至らない部下に彼はヒントを与えてくれたらしいけれど、私の頭には疑問符しか浮かばない。
ふーっと深く息をはいて、彼は革張りの椅子の背もたれにどっかりと背中を預けた。
私の方が溜息をつきたい。
きっと、先程の彼の言葉を紙に書き起こし、それとベッドの上で一晩中睨めっこしたって答えなんて出てこないだろう。
「これからは君の周りで起こったことは余すことなく報告するように」なんて一方的な約束を結ばされた真意も未だ掴めぬままだ。
とりあえずこの出来事については、否定はされたものの彼もハヤテ号の愛くるしさに興味が出てきた、ということにしてみた。
というわけで彼に言われた通り次の日から、ハヤテ号がカーテンをかじった、忙しくて散歩にあまり行けていないなどと報告してみることにした。
しかし彼ときたら「最近君はハヤテ号のことばっかりだな」と、また機嫌を悪くしたのだ。
私はどうすればいいんだろう、副官としてこのままでいいのだろうか、とこの時は数日くらい悩んだ気がする。


それからこの間、彼に部屋を片付けてほしいとお願い、じゃなくて命令をされたときもひどい目にあった。
「どう思う?」
テーブルの上には花の飾りが可愛らしいピアスがひとつ。
かろうじて足の踏み場があるだけという惨状のリビングを掃除しているときに私が見つけたものだ。
片付けを手伝いもせずソファーに悠々と座っている彼はそのピアスを指差し、にこにこと機嫌よく笑っている。
「片方しか見つかりませんでした」
「うん」
「もう片方も見つけたらここに置きますね」
「うん」
依然楽しそうに笑いながら、彼は私にこのピアスに関する次の言葉を無言で促す。
「可愛いピアスですね」
「うん。君のものではないんだよね」
「はい。…あの、台所を片付けてきますね」
二つの黒い瞳は私にもっとと呼び掛けるけれど、私は気付かないふりをすることにした。
このピアスに関することなんてどう絞っても出てこないし、彼の訳の分からぬお遊びに付き合っていたら片付けなんかとても終わらない。
とりあえず今は台所へ逃げてしまおうと立ち上がる。
と、ソファーに座る彼に突然腕を掴まれた。
「大佐?」
「このピアス、君のものじゃないんだろう?」
「だからそう言ってるじゃないですか」
「だったら、他に何か言うことがあるだろう」
「はい?」
私が眉を寄せると同時に、私を見上げる彼もまた眉間に皺を作る。
彼が何を考えているかはやっぱり分からないけれど、不機嫌になってきていることだけは理解できた。
「大佐、手を離して下さい」
「やだ」
「子供ですかあなたは」
この大きな子供をどうしようかと考えていると、ふと彼がにんまりと笑った。
黒い瞳を無邪気に細めるこの顔は、何かよからぬことを企んでいる時の顔だ。
危険を察知して後ずさろうとしてももうすでに時遅し、彼は私の腕を掴んだまま、あろうことかブラウスの中に手を突っ込んできた。
「ちょっ、大佐!?」
「ん?」
「何考えてるんですかっ!」
じたばたと暴れる私をうまく膝の上に乗せ、彼は我が物顔でブラウスの中に手を這わせる。
「腹が立たない?」
「は?」
「休日に呼び出されたと思えば掃除をしろと言われ、なのに邪魔をされて、こんなことされて、腹が立たない?」
ブラウスのボタンを手際よく外しながら、彼は楽しげに笑う。
彼は知っているのだ。
私が例え理不尽なことをされても結局は彼を許してしまうことを。
そして、そうしてしまう原因が彼が上官であること以外に、私がいまだに初恋を引きずっているからだということも、彼はよく知っている。
「嫌じゃないの?」
知っているくせにこんなことを意地悪く聞いてくるなんて、彼は本当にフェミニストなのかと疑いたくなってくる。
ああそうですね、私はあなたのことが好きだから突然呼び出されてもほいほい行っちゃうし、嫌なことでもあなたの好きにさせちゃうんです。
肯定も否定もできず、何も言い返せないまま顔を逸らすと、意地悪そうに弧を描いていた彼の表情がふっと柔らかくなった。
機嫌を直して、と耳元で言いながらぽんぽんと頭を撫でてくる。
膝の上に座り、おまけによしよしと宥められているなんて、これでは私の方が駄々をこねる子供みたいだ。
不満はたくさんあるのだけど、優しいとしか言いようのない顔で微笑まれると、何もかもどうでもよくなってしまう私は相当おかしいのかもしれない。
「ピアスのことはもういい」
キスの間に囁かれた言葉に、靄がかかったように何も考えられない頭で頷く。
そして気付けば革張りのソファーの冷たさを背中に感じ、あとのことはもう思い出したくはない。
この日の彼は怒ったり笑ったりと忙しかったけれど、あのあとは恥ずかしくなるくらいひたすら優しかった。
君が私のことをどう思っているのかときどき分からなくなる、と眠る寸前に聞いた呟きはちょっとだけ寂しそうだったけれど。
暇つぶしに何かを要求されて、気まぐれに優しくされて、それでも、まあ大事にされているとは思う。
いや、絶対に私は彼に大事にされている。
それもおそらく私が思っている以上に。


「ホークアイ中尉」
その声に重い瞼をゆるゆると開く。
見慣れた黒髪が目に入り反射的に体を起こそうとすると、そっと肩を押され、体が再びベッドに沈む。
「具合は?もう大丈夫か?」
「……はい。心配をお掛けして申し訳ありませんでした」
彼こそがベッドに寝た方がいいのではないかと思うくらい顔色が悪く見えて眉を顰める。
思わず手を伸ばそうとすると、それもやんわりと押さえられた。
ベッドから見える範囲で辺りを見渡せば、彼が追い出してしまったのか軍医の姿はなく、ほかのベッドにも誰もいない。
椅子に座ったまましばらく彼は私を見下ろし、そして顔を近付けてきたかと思えば首筋に埋めてきた。
彼がふと漏らした溜息が首筋を撫でるくすぐったさに身をよじる。
「…君が倒れたとき、心臓が止まるかと思った」
意識が遠のく中で、彼が私の名前を叫ぶように呼んだのを、ぼんやりと覚えている。
「貧血だったからよかったけど、いや、貧血になるのもよくないんだが。とにかく人の体調管理より、まずは自分のことをしっかりするように」
「申し訳ありません。以後気をつけます」
「……本当に、勘弁してくれ」
余裕のない、普段ではまず聞くことのない弱々しい声だった。
「…大佐」
「ん」
「すみませんでした」
「うん」
大事にされていると、本当に思う。
そしてそれを嬉しいとも感じる。
「中尉、今日は私が君を家まで送っていくから安心したまえ」
「お気遣いは嬉しいのですが、謹んでお断りさせていただきます」
おもむろに顔を上げた彼がいつもの調子に戻っていて、私は小さく安堵の溜息を漏らした。
心配してくれるのももちろん嬉しいのだけれど、私のことで彼が弱々しい声を出すのは嫌だという思いの方がどうにも強い。
「私が夕食を作ってやるから、君はハヤテ号と休んでいなさい」
「それは本当にご遠慮させていただきます」
「どうして」
「大佐の作るごはんは個性的すぎて私には合わないんです」
「君ねえ…」
むっと唇を尖らせた幼い彼の顔を見て、やはりこの人はこうでなくちゃと、思わず笑みがもれる。
気に入らないことがあるとすぐに機嫌を損ねて、わがままを言って、たまに意思の疎通ができなくて、それでも私はこの人の望みを叶えようと全力で尽くす。
彼は私にとって、何と言うか、王様のような人なのだ。
ひどい圧政もこの人ならば心地よいわけは、それは、彼がお嬢さん方を口説く時の言葉を借りれば「運命」というやつなのだと思う。
「大佐が優しくしてくださるなんて珍しいですね」
「私はいつだって君に優しいじゃないか」
「…それ、本気で言ってます?」
「君こそ本気で言っているのか?」
彼が切れ長の目を見開く様子を見て、私も目を丸くする。
彼の言う「優しさ」を理解できる日はおそらく遠い。
いや、もしかしたらそんな日は永遠に来ないかもしれない。
「……分かった。これからはもっともっと君に優しくする」
「いえ、大佐がそのように気を遣ったら今度は大佐が倒れてしまうと思うのでご遠慮します」
時々こうして優しくされて、いや、優しくされなくたって、これからも私はこのわがままで子供な王様についていくのだろう。
大体君はにぶすぎるんだ、と急に怒られた理由は、やっぱり分からなかったけれど。








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