犬と歩けば



あなたとならば地獄までもご一緒します。
戸惑いも恥じらいもなく、至って真面目にそう言ってくれる金色の犬を、私は飼っている。
ぴんと背筋を伸ばし、ご主人様の危険をいち早く見つけるためにいつも目を光らせ、私の後ろをどこまでもついてくるこの犬は、私の自慢だったりする。
犬の言葉通り、私の愛犬は銃弾の飛び交う犯罪者達のアジトも恐れることなく私と共に歩く。
そして、べろべろに酔って一人じゃ帰りたくないと駄々をこねるご主人様のために、深夜の酒場にさえも電話一本で飛んで来てくれる。
私寝てたんですよ、と顔をしかめて文句を言うけれど、ご主人様にとことん尽くすこの犬は、背中に手を回してふらふらした体を支えてくれるのだ。
口で言うほど嫌がってないんじゃないかな、と思うのはおそらく私の勝手な思い込みだろう。
酔っているからと適当に理由をつけて、犬の柔らかな白い体に自分の体をぎゅうぎゅうと押し付けて、だらしなく笑う。
そんな変態なご主人様に対しても犬は「ちゃんと歩いてくださいね、ほら、足元に気を付けてください」と、そう優しく言ってくれるのだ。
甘やかしてくれる犬が嬉しくて、そして愛おしくって、締まりのない頬がますます緩む。
仕事中ならともかくプライベートでも犬をこき使うのは、犬がご主人様のために尽くす姿が見るのが好きだから、という犬にとっては迷惑極まりない理由からだったりする。
そんなわがままなご主人様に文句も言わずついていく健気な犬が風邪をひいたというのは、私にとってはちょっとした一大事だった。


昼頃から犬の様子がおかしいと思っていたのだけれど、夕方になって「なんとなく」が「絶対」に変わった。
外が暗くなり始めた頃、執務室のドアを力なくノックし、犬はどこかふらふらとした足取りで部屋に入ってきた。
頬が赤く、見る者にきつい印象を与えてしまうほど凛々しい瞳が今は虚ろに私を見ている姿は、誰が見ても犬の様子がおかしいことが分かる。
しかし、ご主人様に心配をかけまいと、いつも辛くてもやせ我慢をする犬は、具合が悪いことを覇気のない口調で懸命に否定した。
左手で敬礼をし退室しようとしているくせに、大丈夫だと言い張るなんてたいしたものだと、犬の頑固さに逆に感心してしまう。
犬が頑なに否定するならば、主人である私は強行手段に出るしかない。
のろのろと部屋を出て行こうとする犬を軽々と抱え上げ、そして無理矢理車に押し込み私は司令部を後にした。


一般の女性よりも体の丈夫な犬が風邪をひいてしまった原因はよくよく思い当たった。
つい数日前、東方の街で暴れていたテロリスト達を鎮圧するために現場に向かった時のことだ。
その日はあいにく雨が降っており、犬に無能といじめられることはなかったけれど、寒さが堪えた日だった。
傘もささずに雨に降られながら外で待機しているときに、くしゃみをしてしまったのがまずかった。
隣で私のくしゃみを聞いていた犬は素早く黒いコートを脱ぎ、もうすでにコートを着ているというのに無理矢理上に羽織らせてきたのだ。
もちろん慌てて断ったのだが、大佐に風邪をひかれたら困りますから、と犬は決して譲らない。
コートを着ていると動きにくいのでどうせ脱ぐつもりでしたから、と犬は言う。
犬は一度言い出したら絶対に意見を曲げない頑固者なのだ。私のことに関してはなおさら。
仕舞いには、着てなきゃ駄目ですからね、と理不尽にも鷹の目にひと睨みされてしまった。
そうして私は嫌々ながらもコートを二枚も着込むこととなってしまったわけだ。
君に風邪をひかれても困るし、コートを二枚着ても重いだけなんだけどなー、とぼそぼそと呟いてみても犬は知らんぷりをするばかり。
結果としてその日は、私の的確な指示と犬の活躍により死者を出さずテロリスト達を取っ捕まえ、天候に負けずに大成功を収めたのだった。
しかし車に戻ったときに犬は金髪も青い軍服も雨でぐしょぐしょに濡れており、白い肌はすっかり冷たくなっていた。
犬の功績を褒めながら、大粒の雫を垂らす金髪をぎゅうっと絞り、そして冷えた指先をさすってやる。
ちなみに、犬は私が命令を下すときと、そして褒めるときに、とっても誇らしげな顔になるのだ。
特に褒めてやったときは、涼しげな目元をほんの少しだけ下げて嬉しさを噛み締める姿が堪らなく可愛らしい。
そんな犬の様子を眺めながら、風邪をひかなきゃいいけど、と心配していたのだけれど、本当にその通りになってしまった。


犬の家につき、ようやく熱い体をベッドに寝かせたのだが、犬の具合はますます悪化したようだった。
「中尉、大丈夫か?」
前髪を掻き分けて汗ばんだ額に触れると、車に乗せたときよりも熱くなっているような気がした。
犬も苦しそうに眉を寄せていて、ぐったりとベッドに沈んでいる体を一刻も早く楽にしてやりたいと思う。
「中尉、風邪薬はどこだ?」
「…隣の部屋の、引き出しに…」
のろのろとした動きで枕に頭を乗せた犬は、喋るのさえも億劫そうだ。
隣の部屋の引き出しとはどの引き出しだろうと疑問に思いつつも、犬に着替えなさいとだけ言い残して、足早に風邪薬の捜索へ向かう。
が、案の定なかなか見つからない。
風邪薬どころか、コップの場所も、額に乗せるタオルがどこにあるのかも曖昧にしか分からない。
引き出しを次々に開け、中身を少々乱暴に漁りながら深く溜息をついた。
私の家で片付けや料理を作れとよく命令される犬は、持ち主である私よりも何がどこにあるのか分かっているのに、私ときたら何も分からない。
引き出しや扉の開け閉めを何度も繰り返し、ようやく必要なものを揃えて寝室に戻ったとき、犬はとっくに寝間に着替えて、相変わらずぐったりとベッドで寝ていた。
「中尉、薬持ってきたぞ」
枕元に座り込みながら呼び掛けると、犬はゆっくりと瞼を開く。
熱い背中に手を当てて体を起こすのを手伝い、薬を飲ませた。
「…大佐、職務中にすみませんでした…」
再びベッドに身を横たえた犬は、熱のせいなのか舌足らずな口調で謝る。
「定時が近かったし、私が勝手にしたことだから君は気にしなくていいよ」
「…それから、送ってくださってありがとうございます」
「うん」
いつもよりもゆっくりと話す犬は、まるで子供が大人びた口調で話しているようだった。
水で濡らしたタオルを額に置くと、冷たそうにぎゅっと目をつむる様子もどこか幼い。
しかし、具合が悪いときにもご主人様への感謝の気持ちを怠らないところはいつもの犬だ。
「…大佐」
「うん?」
「…本当にありがとうございました。あの、もう帰っていただいて結構です」
「そう言うと思ったよ。でも残念だけど私は帰らないよ」
「駄目です。大佐に風邪が移っては困りますし、これ以上迷惑をかけるわけにはいきません」
「迷惑じゃないよ。それに具合が悪いときに一人でいるのは心細いだろう?」
「大佐、お願いですから帰ってください」
身を起こして訴えようとする犬の肩を慌てて押さえ付け、再びベッドに寝かせる。
「中尉、今日の分の仕事が全部片付けてあることは車の中で散々説明しただろう?あとのことはハボックに任せてきたし、君が心配することは何もないよ」
犬は車の後部座席に力なく横になりながら、今が職務中であることや私の仕事のことをずっと心配し続けていたのだ。
具合が悪いくせに、ほかのことを気にする気力がどこにあるのだろうとつい考え込んでしまう。
「…でも、駄目です」
「中尉、余計なことを考えなくてもいいから、もう寝なさい」
「…大佐は今日デートの約束があるはずです」
「……知っていたのか」
朝、司令部に着くなり、私がこの前知り合った女性に電話していたことをきっちり覚えているなんて、さすが犬だ。
そして、この犬はどこまで自分のことより他人のことを心配し、優先すれば気が済むのだろうか。
「中尉、確かにデートの約束はしていたけれど、それは今日ではないから安心しなさい」
仕事を片付けてあるというのは本当だが、この話は嘘だった。
犬に嘘をつくのは嫌だったが、こうでも言わないと犬はふらふらとした体で私を追い返しかねない。
上官二人が消えた執務室のことをハボックに押し付けると共に、デートのキャンセルの電話を入れるのも頼んでおいたのだ。
自分から誘ったくせに他人に断らせるなんてフェミニストの名が汚れそうだが、私の大事な犬が緊急事態なのだから仕方がない。
「だから中尉、君が気にすることはもうひとつもないよ」
「…でも…」
犬はこの期に及んでもまだ、尽くすはずのご主人様に看病されることに抵抗があるのだろう。
熱のせいではない眉間の皺にこっそりと苦笑する。
「中尉、これは上官命令だ」
最終手段とばかりにそう言えば、犬は観念したかのように小さく溜息をついた。
どんなに嫌でも理不尽でも、犬にとってご主人様からの命令は絶対なのだ。
「…日付が変わる前には帰ってくださいね」
私が朝までずっとここにいることを分かりきっているくせにそう言うなんて、なんとも犬らしい。
薬の効果も手伝ってか、犬が目を閉じてから数十分もせずに寝息が聞こえ始めた。
温くなったタオルを水で濡らしながら、私は小さく溜息をつく。
何度も来ているくせにコップの場所すら分からないどうしようもないご主人様だけれど、具合が悪いときくらいは頼って欲しいと思う。
一人で平気ですとでも言いたげな犬の態度はご主人様としてはちょっぴり寂しかったりするのだ。
しかし本当にどうしようもないのは、犬に頼ってほしいのは犬のためではなく自分のため、というところだろう。
私が犬がうしろにいればそれだけで安心するように、犬にとって私もそうであってほしいと思うのだ。
そんなわがままなご主人様の心情を知っても、私の優しい犬は笑い飛ばしてくれるのだろうけれど。


「いい天気ですね」
「うん」
あれから数日後、犬はすっかり元気になって、またいつものように私のうしろを歩いている。
視察の帰り道、雲ひとつない青い空を見上げて機嫌がよさそうに笑う犬を見て、私は慌てて目を逸らした。
あの日以来、私には悶々と悩み続けていることがあるのだ。
あの日の深夜、目を覚ました犬が私を見て「まだいたんですか」と安心そうに微笑んだのを見て以来、犬に触りたくて堪らない。
思わず犬に抱きつきそうになったのをブランケットを直したことでなんとかごまかした自分を褒めてやりたい。
純情で真っ白で何も知らなさそうな犬にいろんなことを教えてやりたいという、少々危険な衝動に駆られる時期がたまにやってくるのだ。
しかし、それを無理矢理押さえ込み、安全なご主人様の仮面を被って、私は犬と一緒にこうして歩いている。
もし私が犬を部下以上に思っていることを犬が知れば、きっと犬は私から離れていってしまうだろうから。
私の失敗やわがままをいつも犬は笑って許してくれるけれど、これだけは絶対に許してくれないだろう。
いつも犬を横暴に扱うご主人様が、犬を失うことを一番恐れていると知ったら、犬は一体どんな顔をするのだろう。
頼られたいだとか、触りたいだとか、わがままな主人を装いながらも犬に関する悩みはいつも尽きない。
「こんな日はどこかに行きたいね、中尉」
「逃亡しちゃ駄目ですからね。司令部で書類が大佐のことを待っているんですから」
「んー、じゃあ今日は一緒に帰って、それから君の作った夕食が食べたい」
「話が全然繋がってませんよ」
悶々と悩んで、またわがままを言って甘やかされて、そうやってなんとか犬と生きていければいいと、とりあえず今はそう思う。








back





inserted by FC2 system