ファンダンゴ U



いくつか季節が過ぎて、それぞれ階級がひとつ上がっても、私達の関係は何の変化もなかった。
「私が君を好きというより、君が私を好きだと思うんだよ」
愛するより愛される方だし。
そう付け足すと、彼女はいかにもどうでもよさそうに「はいはい」と返事をする。
「君ね、上官の話はきちんと聞くものだよ」
「大佐、動かないで下さい。ボタンを掛け間違えて司令部に来る上官なんて格好悪すぎですからね」
子供じゃないんですから、とぶつぶつ文句を言いながら、彼女は手際よくシャツのボタンを直していく。
「遅刻するとこわ〜い副官殿が目を釣り上がらせて怒るからね、急いでいたんだよ」
「寝坊しなきゃいい話でしょう。はい、おしまいです」
最後のボタンをつけ終わり、慣れた手つきで彼女が軍服の上着を着せる。
私が腕を上げ彼女が袖を通す一連の流れは、いちいち相手の動きを確認しなくたってきちんと呼吸が合っている。
まるで新婚みたいじゃないかと感動し、その勢いのまま目の前にいる彼女に抱き着こうとすれば、さっと逃げられた。
「……君、最近避けるのうまくなったね」
「ありがとうございます」
最初の頃はまんまと引っ掛かっていたのに、ここのところ彼女は今のように憎らしいほど上手に逃げる。
「私が大佐に昇格した日は、君から抱き着いてきたのになー」
にやにやと笑いながら彼女の熱烈な抱擁を思い出してみるものの、彼女はそれをあっさりと無視して書類の整理を始める。
もう一度言うが、私達の関係は何の変わりもない。
というより、むしろ悪化しているような気がするのはどうしてだろう。
そして梅雨の時期に入りますます彼女の冷たさが身に染みる頃、事件は起きたのだった。


「朝っぱらからずいぶんお熱いね、中尉」
目に入るものをすべて錬金術の実験台にしたいほど、私は朝から機嫌が悪かった。
執務机の上で手を組みながら発した言葉は、努力したつもりだけれどやはり不機嫌なものになってしまった。
「その話はもういいです」
そして、机の横に立ち今日の予定を告げる彼女も、お世辞にも可愛いとは言えない低い声を出す。
今日は上司と部下揃ってご機嫌ななめなのだ。
昨日から止む気配を見せない雨が苛立ちをますます加速させる。
「見ていたもなにも、見てくれと言わんばかりに司令部の前で君に猛烈にアプローチしているからね。嫌でも目に入る」
彼女にしつこく話し掛けていた茶色い髪の男を思い出して、盛大に顔をしかめた。
休日は何をしているだの好きなものは何だの、うるさくてかなわない。
最近、彼女の家の近くに越してきたあの男は、疑う余地もなく彼女に気がある。
彼女はあの男が引っ越してきてから出会ったと言うが、あいつは彼女の住所を調べてから越してきたのではないかと私は睨んでいる。
「なあ、私があいつにもう君に近付くなと言ってやろうか」
「結構です」
彼女が断るだろうということは分かっていたが、言わずにはいられなかった。
軍が男性社会であるために、彼女はこうして女性扱いされることを嫌うのだ。
しかし、この状況を黙って見ているわけにもいかない。
数日前、私と二人で視察に向かうのをあいつが遠くから眺めているのに気付いたときから、何とかせねばと思っていたのだ。
朝、玄関を開けたら男がいて、そして職場まであとをついて来るなんてもう異常としか言いようがない。
そういえば彼女と愛犬の散歩コースにも現れたことがあると言っていたことを思い出す。
「中尉、やっぱり私が言ってやろう」
「本当に結構ですから」
彼女の言い方に私は小さな引っ掛かりを覚えた。
女性扱いされることが嫌だったり、迷惑がかかるから遠慮をしていたりというのではなく、まるで私に関わってくるなと言っているようだった。
それに構わずもう一度申し出る。
「しかし、今朝だって私が止めに入っていなかったらどうなっていたか分からなかっただろう」
あの男は素っ気ない彼女の態度に焦れたのか、腕に掴み掛かろうとまでしていたのだ。
「いつもはうまく振り切れるので平気です。大佐が気になさることではありません」
「振り切っているばかりじゃ何も変わらないじゃないか」
いよいよおかしいと思った。
彼女は確実に私が関わろうとするのを避けている。
「知っています。でも私ひとりで何とかしますから」
「おい、待ってくれ中尉」
声を荒らげて話を遮ると、彼女は明らかに面倒臭そうにため息をついた。
「大佐には関係のないことです。この話はもうやめましょう」
やけに素っ気なくそれだけ言うと、彼女は何事もなかったかのように今日の予定を説明し始める。
しかし当然納得がいくわけない。
「中尉、私に関係がないとはどういうことだ」
「その話は終わりにしましょうと言ったばかりですよ」
「中尉!」
「では分からないようなのではっきり申し上げます。大佐はこのことに関わらないでください」
彼女はこちらも見ることもせず、ファイルに目を落としながら言い放った。
私はそこまで頼りない男なのだろうか。
いや、それよりも、彼女が軍人になる前から私達は知り合っていて、そして今は共にひとつのものを目指しているというのに、それでも彼女にとって私は「関係のない人間」なのか。
本当はこの時、彼女が私を異様に突き放す理由をもっと追求するべきだったのだ。
しかし、信頼関係を築いているはずの彼女に拒まれたという事実に腹が立ち、何も考えることができなかった。
窓を打ち付ける雨の音が大きくなったのが耳障りで、苛立ちが余計に増す。
「……なら好きにすればいい」
静かに言ったつもりだが、それでも怒りが滲み出ていた。
執務机を蹴るようにして椅子から立ち上がり、足早にドアへ向かう。
「大佐、まだ視察の説明が終わっていません」
それ以外に言うことはないのだろうか。
私の怒りなどちっとも分かっていないらしい彼女を執務室に残して、私は乱暴にドアを閉めた。


その結果、今日はぴりぴりと張り詰めた空気の中で一日を過ごした。
ハボック達は恐ろしすぎると涙目になっていたが、彼女は何も言ってこなかったし、私だって謝る気はなかった。
しかし問題なのは、朝は顔も見たくないと思っていたのに、今は彼女が恋しくてたまらないということだ。
帰りの護衛を断ったものの、先に帰った彼女の背中を執務室からこっそり見送り、そしてすべての原因の男が尾行していないか確かめるというロイ・マスタングにあるまじき情けないことをしてしまった。
そして今、こうして彼女のアパートの前に来てしまっている。
思い返してみれば、彼女に突き放されるのも、このようなことで喧嘩をするのも初めてだった。
彼女に謝るつもりはさらさらない。
ただ、心配している私の気持ちを少しでもいいから分かってほしい。
格好悪いことになるのを覚悟しながら、私はアパートの階段を上り始めた。


彼女の部屋がある廊下を歩いていると、男女が口論している声が聞こえた。
どこか聞き覚えのある声だと眉を顰めながら足を進める。
そして、彼女の部屋のドアをノックしようとしたとき、すべてに気付いて背筋が凍った。
口論は彼女の部屋から聞こえている。
彼女と、そしてあの茶色い髪の男の声だ。
「中尉っ!?」
すぐさまドアを開けようとするが、鍵が掛かっていた。
どんどんとドアを叩いても、中からは相変わらず言い争う声が聞こえるだけで反応はない。
「好き」だとか「嫌い」だとかそんな単語が聞き取れる。
どうしてもっと早くに対処していなかったんだろう。
彼女に何かあったら――
頭に浮かぶ最悪な状況を振り払うように、胸ポケットから紙とペンを取り出し錬成陣を殴り書きする。
どうか無事で、それだけを祈りながら鍵を壊し、ドアを蹴破るように開ける。
「中尉、大丈夫かっ!?」
「大佐はあなたのこと好きではありませんっ!」
私と彼女が声を上げたのはほぼ同時だった。
ドアを開けるとすぐ彼女と男の姿があり、玄関で立ったまま口論をしていたようだった。
私がいきなり現れたことに目を丸くしている彼女は、司令部を出たときと同じ姿だった。
彼女が無事なのを確認し、思わずその場に倒れ込みそうになる。
そして、男も私の侵入に気が付き、驚きというよりは喜びの眼差しでこちらを見つめてきたとき、私はようやく先程の彼女の言葉を理解した。
「……え?」
本当に倒れ込んで意識を飛ばし、現実逃避しまいたいのを必死に抑えた私を誰か褒めてやってほしい。


「…そういうことなのか」
「はい」
「…そういうことだったのか…」
「ええ」
彼女のいれた紅茶のカップから立つ湯気をぼんやり眺めながら呟く。
テーブルを挟んで向かいに座る彼女はのんびりとした様子で紅茶を飲んでいる。
私はといえば、椅子に全体重を預け、すっかり脱力していた。
「……大体さ、私に関係がないって君は言ったけど、大有りじゃないか」
「そうですね」
「そうですねって、もう君は何なんだよ!」
彼女の暢気すぎる答えに苛立ち、勢いよく机を拳で叩く。
小さな音と一緒にカップの中で紅茶が波立った。
あの茶色い髪の男はもうずいぶん前にここを去っている。
今は新しく恋人を作る気はないと丁重に説明をしたから、今後彼女にも、そして私にも近付くことはないだろう。
「大佐がこのことを知ってこれ以上心労を増やすのを避けたかったんです」
「落ち込むのは確かだな」
「あの男は私に副官を辞めろだとか、大佐に近付くなだとかを要求してきたので、大佐というよりは私の問題だと思ったんです」
「そんなことを言われていたのか」
「それから上官の貞操の危機を守るのも副官の勤めかと思いまして」
「…君は何を考えているんだ!」
再びテーブルを叩く。
しかし彼女は動じることなく、代わりに私の顔をまじまじと見つめてきた。
「痛くないですか?」
「……少し痛い」
赤くなった手をさすりながら答える。
こんな小さなことに気が付くのなら、もっとほかのことを気に掛けてほしかったと、口には出さず愚痴る。
「……今更になりますが、出過ぎた真似をしたと思っています」
しばしの沈黙のあと、ふと彼女は口を開いた。
「申し訳ありませんでした」
「本当だよ。君の独りよがりが原因でどれだけ心配したと思っているんだ」
「いつもならすぐあなたに報告していたと思います。言い訳になりますが、あの男が腹の立つことばかり言うので冷静な判断が出来なかったんです」
「え?」
「あの男、マスタング大佐は僕のことが大好きだって言って聞かないんですよ。大佐は無類の女好きで、女性を見ると口説かずにはいられなくて、大佐に恋人を奪われた男たちがいつ包丁片手に刺しにくるか分からない状況だと説明しても…」
「ちょっと待て!それ以上言うな!」
謝られているのか、それともいじめられているのか分からなくなってくる。
ただでさえ傷ついているのにそれをえぐられたのは確かだ。
「というか君、部屋に上がらせるなんて隙がありすぎるじゃないか」
「家の中にまで入られたのは計算外でしたね」
「馬鹿者、何かされてからじゃ遅いんだぞ」
「あの人はそういうことはしませんよ。嫉妬はものすごいですけどね」
「は?」
「あなたとだって握手をしただけで満足していたじゃないですか。ちょっぴり迷走しすぎた恋する乙女ですよ」
「…突っ込むべきところが多すぎるな。まず乙女じゃないし」
そんな簡単な言葉でこの事態を片付けてしまう彼女の神経にはとてもついていけないと思った。
しかし、ふとあることをひらめく。
「なあ中尉」
「なんでしょう」
「君は、私に愛されていると勘違いしているあいつに腹が立ったんだよな。それってつまり…」
「……そんなわけないでしょう」
私もそんな訳がないと思うが、しかし珍しく彼女が答えるまでに妙な間ができた。
ちょっぴり迷走しすぎた恋する乙女。
彼女が言ったこの言葉は彼女に当て嵌まる気もするし、そして全く似合っていない気もする。
「大佐、それよりも」
不自然にそっぽを向きながら、ずいぶん下手くそに彼女は話を逸らす。
「大佐がドアを壊してここに入って来たのは誤解をしていたせいなんですよね」
「ああ。君が何も言わないから私は勘違いして…なんだ、さっき直したのが気に入らないのか?」
「いえ、そうではなくて、心配を掛けてしまって申し訳ありません。それから」
そこまで言って、不意に彼女は口元を緩めた。
「あの男とずっと接していたせいか、部屋に飛び込んできた大佐がものすごくかっこよく見えました」
「……一言多い。というか私の機嫌を取るために言っているだろう」
「ばれましたか」
明日の仕事に響くと困るのでと言いながら、彼女はまた笑う。
可愛いくせにどこか憎たらしい笑顔を浮かべる彼女に、私は盛大にため息をついた。
「中尉、ちょっとこっちに来なさい」
怪訝そうな顔で立ち上がりこちらに近づいて来た彼女を捕まえて、そのまま抱き寄せる。
「大佐!?」
「私はひどく傷ついた。だから慰めて」
にやける顔を彼女の体に押し付けながら言う。
彼女の迷惑すぎる気遣いや見え透いたお世辞は、腹が立つものの嫌いではない。
そして、真意の分からないあの妙な間に喜んでしまう自分は相当変だ。
「君さ、やっぱり私のこと好きだろう」
「またそれですか。もう否定するのも疲れますね」
そう言うものの私の髪をくしゃくしゃと撫でる彼女を見上げて、また盛大に頬を緩める。
彼女に認めさせるよりも、まずは私がちょっとどころじゃなくおかしい彼女のことが大好きなのを認めてしまった方がいいのかもしれない。








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