だから、昼下がりの街で偶然彼を見かけた瞬間、チャンスは今しかないと思ったのだ。 「こら、ハヤテ!そっちじゃない、こっちに行くんだ!」 相変わらず子犬に言うことを聞いてもらえず悪戦苦闘している彼に、思わずくすりと笑う。 そして、笑った顔を引き締められないまま、胸を高鳴らせつつ彼の方に向かって歩く。 私に気付いた彼は驚いたように眉を上げて、それからいつものように微笑んでくれた。 「今日も相変わらずお美しいですね」と、勘違いしてしまいそうなお世辞も忘れない。 話を聞いてみると、偶然なことに私も彼も今日は仕事が休みだった。 日の落ちたいつもと違い、店のガラスも草も地面も太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。 日の下で改めて見る彼は、やはり文句の付けようがない程に格好良い。 今ここで彼に出会えたことに運命のようなものを感じ、私はすっかり舞い上がっていた。 だから、何故彼が休日に犬の散歩をしているのかも、遠くから彼を呼ぶ声がするのも、まったく気が付かなかった。 ――どこか行きませんか?できれば今から。 いつか言おうと思っていた言葉をついに口にしようとした時、彼とブラックハヤテ号が同じタイミングで後ろに振り返った。 どうしたのだろうと思い、私も彼らと同じ方向に目を向ける。 彼らの視線の先を辿ると、金髪の女性がこちらに向かって走って来ているのが見えた。 何を言っているのか聞き取れないけれど、あの女性は彼のことを呼んでいるらしい。 「…あの、知り合いの方なんですか?」 近付いてくる女性をじっと見つめている彼を見上げ、聞いてみる。 すると彼は何故か気まずそうに口を開いた。 「…いや、知り合いというか、彼女が例の私の部下だよ」 「え?」 彼の答えに目を丸くする。 てっきり彼の部下は男性だとばかり思っていたのだ。 しかしこちらに向かってくる人は明らかに女性で、しかも美人だ。 あんなにきれいな人が、本当に彼を叱ったりいじめたり、揚げ句の果てには犬の散歩までさせるのだろうか。 私が驚いている間に、彼の部下は私達の方へ足早に歩いて来た。 ご主人様に会えて嬉しいのか、ブラックハヤテ号が彼女の足に飛びつく。 「もう、散歩ついでに買い物をすると言っていた人が財布を忘れてどうするんですか」 「…財布…本当だ。財布がない。すまない、うっかりしていたよ」 彼女は私に軽く頭を下げたあと、呆れたように溜息をつきながら彼に財布を差し出した。 彼は申し訳なさそうに眉を下げ、頭を掻く。 何となくいつもの彼らしくないような気がして、私は小さな違和感を覚えた。 そして何気なく視線を下げると、財布を持つ彼女の手が目に入り、私は驚いた。 きれいな人だから余計に目立ち、そして気になったのかもしれない。 彼女はとても華奢とは言えないごつごつとした指を持ち、そしてそれは所々小さな傷があった。 失礼だと分かりながも、驚きの余り目を離すことの出来ないまま息を飲む。 「本当にすまなかったね」 すると突然、彼は素早く彼女の方へ手を伸ばした。 そして財布は受け取らず、まるで彼女の手を庇うように自分のそれを重ねる。 「ありがとう。助かったよ」 「……それより早く財布を受け取ってください」 「あ、ああ、すまないね」 どうして触ってくるんですかとでも言いたげな冷たい彼女の視線を受け、彼はまたいつになく気まずそうに苦笑する。 その様子を、彼らの横に立ち尽くしたままぼんやりと眺める。 きっと彼は、私が彼女の指を見て驚いたことに気が付いていたのだ。 だから、さりげなく私に見えないように彼女の手を隠したのだ。 いつもなら彼は優しい人だと喜ぶところだけれど、今は逆に体の中の何かが冷めていくような気がした。 私は気付いてしまった。 彼は彼女が好きなのだ。 そして彼はきっとこんなふうに、彼女の気付かないうちに彼女を優しく守り、そして愛しているのだ。 「いい加減、手を離してください」 「そんなに怒らないでくれないか」 「それから財布だけじゃなくて買い物リストも忘れていましたよ」 「……すまん」 いつもの余裕たっぷりの彼はどこに行ってしまったのか、聞こえてくる会話は彼女に押されっぱなしのものばかりだ。 手を隠す時だって、普段の彼なら「君があまりにもきれいだからつい触りたくなったんだよ」くらいは言っていそうだ。 うまく取り繕えないほど、余裕なんて出てこないほどに、彼女のことが好きなのだろうか。 というか、愚痴と称してただ単に彼女の話をしたかっただけのような気がしてくる。 怖い部下に振り回されているのではなくて、本当は彼は振り回されたいのだ。 ブラックハヤテ号の散歩だって、頼まれたから渋々しているわけではなく、むしろ彼が無理矢理頼み込んでいるに違いない。 買い物の帰りを口実にする私と同じで、彼も彼女と一緒にいるきっかけが欲しいのだ。 私のことを覚えていたのも、私が彼女と同じ金髪だったからかもしれない。 すべてに気が付き、気分はまさに天国から地獄だ。 思わずその場に倒れ込みたくなるのを必死に堪える。 「こ、こちらの女性は、こいつの散歩をする時によく会う方なんだよ」 さらに最悪なことに、彼は彼女との会話で気まずくなったのか、話の矛先を私に向けてきた。 黒と茶色の瞳が一斉に私を見つめる。 私は泣きたい気分だったけれど、それでも何とか持ちこたえ、飛び切りの笑顔を作ってやった。 「ええ、よく会うんです。マスタングさんったら、いつもハヤテ号を使って女性をナンパしていて、それが縁で出会ったんです」 彼は何も言葉を発することのできないまま口をぱくぱくとさせ、一方、彼の愛しの彼女は少しだけ金の眉を動かした。 私はといえば、ね、とブラックハヤテ号に向かって首を傾げる。 彼の顔はみるみるうちに面白いくらいに青くなっていく。 「では、私は用事がありますのでこれで。もうナンパしちゃ駄目ですよ、マスタングさん」 そう言って二人と一匹に背を向け、ひらひらと手を振りながら私は歩き出した。 もう彼らと会うことはないだろう。 後ろからは、違うんだとか、もう散歩させてあげませんだとかいう言い争いが聞こえてくる。 勝手に期待して勝手に舞い上がっていた私が悪いと十分に分かっている。 それでも、その気にさせた彼を懲らしめなくては気がおさまりそうにない。 それから、他人には余計なことまで話すのに、肝心な人には何ひとつ伝えられていない彼へのちょっとした意地悪だ。 二人がうるさく言い合う声がまだ聞こえてきて、私は足を早めた。 あんなに不器用で情けないところを見せ付けられたんだから嫌いになれればいいものの、残念ながらそんなところも私の好みだった。 あんな風に想ってもらいたかったと、失恋したばかりなのに未練たらしく望んでしまう。 突き抜けるほど高い空を仰ぐと、たちまち視界が滲んだ。 あの二人、うまくいかなければいいのに。 目を強く擦りながら、意地が悪くもまったく叶う見込みのないことを思う。 家に帰ったら、テーブルの上に転がる林檎をやけ食いしよう。 それから友達にいい人を紹介してもらって、でもその人が犬を飼っていたら付き合うのはやめよう。 とりあえずあんな格好悪い男よりいい人を見つけてやるんだと無理矢理意気込んで、地面を力強く蹴り付けた。 |