Razzle Dazzle



彼と初めて出会った時のことを、私は今でも鮮明に思い出すことができる。
すっかり暗くなった空の色も、肌寒い風も、彼が着ていたシャツのボタンの形まで、頭にしっかりと焼き付いているのだ。
「こら、ハヤテ号!足にまとわり付くな!」
路上中に響いたその声に思わず足を止め、私は何事かと後ろを振り返った。
もしこの彼の声に気を留めていなかったら、私達は出会うことがなかっただろうと思う。
足首に犬のリードを巻かれて動けなくなっていた彼を助けたことが、すべての始まりだったのだ。
「いや、助かりました。本当にありがとうございます」
何重にも巻き付いていたリードを外すのを手伝ったあと、彼は申し訳なさそうに頭を掻きながら礼を言った。
その何気ない仕草にすら見とれていたことに、彼はきっと気が付いていない。
切れ長の目、真っ黒な髪、低い声、そして笑うと子供のように可愛いところ。
すべてが私の好みだった。
「でも、こんな可愛らしいお嬢さんに助けていただけるなんて、こいつに感謝しないといけないな」
そして、きれいに並んだ白い歯を見せながらこう言われて、好きにならない方がおかしいだろう。
胸をぎゅっと鷲掴みにされたような感覚に陥り、目眩を起こしそうになった。
恋に落ちた瞬間なんて小説や映画の中だけのことだと思っていたのに、まさか自分が味わう日が来るとは想像もしていなかった。
「いえ、気にしないでください。それより可愛い犬ですね」
特に犬に興味を持たずに生きてきたけれど、ここは犬好きで通した方がいいだろうと判断した。
私達が出会うきっかけとなった悪戯な子犬の元にしゃがみ込み、彼と同じ黒い頭を感謝の意味も込めて撫でる。
「うーん、可愛いけれど私の言うことをなかなか聞かないんだよなあ。ご主人様の命令はちゃんと聞くのに」
溜息交じりに愚痴を零しながら、彼も私の隣にしゃがみ込んだ。
私はご主人様という言葉に首を傾げる。
「ということは、この子の飼い犬は別にいるんですか?」
「あー…その、この犬は知り合いの犬なんだ」
「知り合い?」
「…知り合いというか、私の部下の犬で…」
先程までの饒舌っぷりはどこへ行ってしまったのか、彼は急に口ごもった。
部下というか何と言うか…と、彼は一人でぶつぶつと呟いている。
もしかしたら触れられたくない部分を馴れ馴れしく聞いてしまったのだろうか。
彼と部下の関係は特殊で、もしかしたらあまり話したくないことなのかもしれない。
好きになったばかりの相手なのにまずいと焦り、私は慌てて話題を変える。
「あの、この子の名前は何ていうんですか?さっき、なんとか号って呼んでましたよね」
「……ブラックハヤテ号」
「え?」
また言いにくそうに彼が小さな声でぽつりと呟く。
私達の間で大人しくお座りをしていた黒い子犬は、彼に名前を呼ばれ、ワンと一言鳴いた。
「…ブラック…ハヤテ号…」
どこをどう褒めて良いのか分からない、なんともコメントのしにくい名前を繰り返し呟く。
すると、今度は彼が慌てて口を開いた。
「いや、これは私が名前を付けたんじゃないんだ。こいつの飼い犬、つまり私の部下が名付けたんだよ」
「そうなんですか…。なんというか、その、格好良い名前ですね」
「いや、無理に褒めなくてもいいんだ。最悪なネーミングセンスだろう?」
そう言って、彼はまた白い歯を見せ、堪らないくらい無邪気に笑う。
私もとうとう我慢できず、彼につられて盛大に噴き出した。
街灯がいくつも並ぶ路上に、二つの笑い声が響き渡る。
このあと、彼の部下がネーミングセンス以外にも難があること、彼の名字がマスタングであること、週に一回程ここに散歩に訪れることを聞き出した。
彼と話したのはわずかな時間だったけれど、本当に楽しかった。
遅くなると怒られるんだと言って帰る彼を引き止めたいほどに、彼が去ってしまうのが名残惜しかった。
「……マスタングさん、か」
彼が去って行った方向をいつまでも眺めながら呟く。
そして、明日から毎日同じ時間にここに来ようと、迷うことなく決心したのだ。



あの時とまったく同じ時間に仕事場を出て、あの時と同じく商店に入る。
そして、買い物をする振りをして、彼と話をしたあの街灯の下を窓から眺めた。
彼と出会った場所に毎日訪れるのが私の日課となっているのだ。
ここで十分ほど待ち、彼が現れなかったら渋々と帰るというのを毎日飽きずに繰り返している。
彼に二回目に再会したのは、確か初めて出会った時からちょうど一週間後だった。
もう会えないのかと落ち込んでいたのだけれど、あの黒髪が店の窓から見えた途端、私は急いで外へ駆け出していた。
彼の名を切羽詰まった声で呼ぶと、少し驚いた様子で彼は振り返った。
そして、「あの時の美しいお嬢さんじゃないですか」と、嬉しそうに笑ってくれたのだ。
私のことも、そして名前までしっかりと覚えいてくれたことに舞い上がり、また目眩を起こしそうになったことは秘密だ。
二度目の再会のことを思い出しながら、欲しいわけでもない林檎をひとつ手に取る。
そして会計を済ませ、店の外へ出た。
時計を見ると、この店に入ってから十分が経過したことを指している。
今日もまた彼に会えないらしい。
彼の仕事は忙しい上に帰宅時間が不規則らしく、ここで待っていても会えないことの方が多いのだ。
九つ目の指を折り、もうずっと会えていないと深く溜息をつく。
そして力なく歩き出した時、微かに話声が聞こえ、私は急いで顔を上げた。
五つ先の街灯の辺りを目を凝らして見つめると、待ち焦がれた人影がそこにはあった。
「マスタングさん!」
みっともないと分かっていても、走らずにはいられなかった。
ブラックハヤテ号の方が先に私に気付き、尻尾を振りながら高く鳴く。
その後、彼も私に気が付き、笑いながら手を振ってくれた。
「本当によく会いますね」
これで六回目ですよと教えたら、彼はどんな顔をするのだろう。
胸を押さえながら息を整えたあと、私は彼を見上げた。
「仕事場を出て買い物を済ませるのが、いつもこの時間なんです」
嘘ではないけれど、彼を騙している気がして少しだけ良心が痛む。
実は、毎日あの店に通い林檎を買っているため、食べ切れなかった林檎が部屋に転がっているという有様なのだ。
「あなたはとてもきれいな方だから、こんな夜遅くに帰宅するなんて心配ですよ」
「もう、またそんなこと言って」
彼は毎回、このような恥ずかしい台詞を事もなげにさらりと言ってしまうのだ。
女性に必ず言うであろう決まり文句だと分かっていても、もしかして私に気があるのではと期待せずにはいられない。
熱を持った頬を隠すために、ブラックハヤテ号の元に座り込んだ。
「ハヤテ号、元気だった?」
この黒い子犬はすっかり私に懐いてくれて、頭を撫でると気持ち良さそうに目を細める。
以前は特に犬が好きというわけではなかったのに、彼が連れていると思うと途端に愛おしくなるなんて、私は本当に単純な人間だ。
「元気だよな、ハヤテ号。そしてお前のご主人様はもっと元気だよな」
同じく隣に腰を下ろした彼が、溜息交じりに言う。
私は思わずくすりと笑った。
「また怒られたんですか?」
「その通りだよ」
苦笑しながら彼が頷く。
彼が例の部下の愚痴を言うのが、毎回恒例になっているのだ。
いつも五分ほど彼と話すのだけれど、思い返してみると、そのうちの半分が部下の話のような気がする。
「また今日も怒られてね。まったく、小さいことでもすぐに怒鳴って、うるさくて敵わないよ」
そうなんですかと頷きながら、頭の中に彼の部下をイメージしてみるのだけれど、いつもの如くうまくいかない。
こんなに素敵な彼をいつも叱って口うるさく怒鳴って、時には追い掛け回すなんてどんな人なのだろう。
というか、やっと早く帰宅できる日に上官に犬の散歩をさせる部下なんて、問題ではないだろうか。
彼が部下のことを話せば話すほど想像が出来なくなっていて、私は小さく眉を寄せる。
プライベートなのにも関わらず犬の散歩をし、こうして見ず知らずの私に愚痴を言うほどに、例の部下が彼にとって大きな存在なのは確かだ。
あまり良いことではないらしいけれど。
「怒るとわざと熱いコーヒーを入れたり、人参だらけの食事を出したりするんだよ。それなんてまだ可愛い方なんだけど」
「本当ですか?」
私は弧を描きそうになる唇を噛んで押さえながら、彼の話に耳を傾ける。
彼には悪いけれど、部下に振り回されている彼の話を聞くのが、実は大好きだったりする。
顔をしかめたり思い出し笑いをしたり、表情をくるくると変えて話す彼を見ているのはとても楽しいのだ。
彼ともっと一緒にいたい、もっといろんな表情が見たいと思ってしまうのは、自然なことだったと思う。
街灯の下ではなく明るい日の下で会ってみたい。
買い物の帰りだという口実を作らず、そしてブラックハヤテ号の散歩をしていない彼に会いたい。
彼に別れを告げ、遠くなっていく背中を眺めながら、私の頭の中はそんな考えでいっぱいになっていた。








back





inserted by FC2 system