「変な顔」 小さく噴き出したあと、彼はまるで子供の様に肩を揺らしながら笑い出した。 彼の右の親指と人差し指は、私の頬を軽く摘んで引っ張っている。 おそらく、自分はまだちっとも眠くないのに、私が一人で寝てしまおうとしていたのが気に食わなかったのだろう。 私は仕方がなく、ゆっくりと重い瞼を開けた。 「……女性に向かって変な顔だなんて、ずいぶんひどいことを言うんですね」 「ん、ああ、すまないね」 白い天井を背景に、指摘されてようやく気付いたのか、彼はちっとも悪く思っていない様子で謝る。 それどころか、もう片方の手も頬に伸ばしたかと思えば、笑いながらまた引っ張った。 きっとほかの女性に対しては、この指は優しく丁寧に動くに違いないのに、どうして私は頬を摘まれているのだろう。 そして、女性には愛の言葉しか囁かないと噂されている彼が、どうして私を変な顔だと笑うのだろう。 彼がフェミニストだなんて、きっと嘘に決まっている。 遠慮なく体重をかけて覆いかぶさってくる彼に思いきり顔をしかめながら、私は小さく溜息をついた。 「君が先に寝てしまうから、つい意地悪を言いたくなったんだよ」 「最低ですね」 「変な顔でもとっても可愛いよ、中尉」 「あなたはそうやって腹の立つことしか言えないんですか?」 「そう怒らないで」 私が寝るのを諦めたせいか、彼の機嫌は目に見えるほど良くなっていった。 今にも閉じてしまいそうな瞼を必死に開けている私を上から見下ろし、彼の唇が満足そうに弧を描く。 「眠い?」 「見ての通りです」 「でも寝ないんだ」 「寝ると大佐に意地悪をされるので」 「そうか」 私の答えに上機嫌に頷くと、彼の目尻はますます下がった。 今にも鼻唄でも歌い出しそうな機嫌の良さで、彼は音を立てて額にキスを落とす。 「中尉」 「何ですか」 「もう一回いいかな」 言うが早いか、彼は素早く足の付け根に手を伸ばしてきた。 「大佐!?」 驚いて体を強張らせた私を宥めるかのように、もう片方の手は優しく頭を撫でる。 汗ばんだ髪をゆっくり梳く手と、太腿の内側を我が物顔で撫でる手が、とても同一人物のものとは思えない。 そのちぐはぐさに混乱しつつ、私は慌てて抗議する。 「眠いって言ったばっかりじゃないですか」 「そうだったかな」 許可を求めてきたくせに私の不満なんて気にも留めず、彼は好き勝手に指を這わす。 彼はいつだってこうだ。 さっき真夜中に扉をうるさく叩いてここを訪ねて来た時だって、私の文句なんてちっとも聞いていなかった。 自分に惚れている女になら何をしても構わない。 きっと彼はそう思っているに違いない。 何でも許されると、何をしても私が「いいえ」と言わないと、純粋な子供の様に信じきっているのだ。 今、彼が自分の望みを何でも叶えてくれると思い込んでいる私が足を蹴り上げたら、彼はどんな顔をするのだろう。 ――そんなこと絶対に出来ないけど。 深い溜息をついたあと、抵抗するのを諦めて、手持ち無沙汰だった両手を彼の黒髪に差し込んだ。 「君は本当に私が好きなんだな」 熱いシーツと肌の間で、彼が嬉しそうに呟いた言葉に何ひとつ言い返せない自分が悔しい。 仕事以外で、彼の望むままに動くのもさせるのも、自分の自尊心にひどく反する、と思う。 私は本来、誰かのために文句を飲み込んだり、人の言いなりになったりするのは大嫌いなのだ。 だから、私を思いのままに扱えると信じて疑わない彼に、いつか噛み付いてやろうと思っている。 が、思っているだけで、それはいつも失敗に終わってしまう。 「……何これ」 かろうじて声が出た。 床に脱ぎっぱなしにされていた彼のジャケットを拾い上げ、クローゼットを開けた瞬間、私は目を丸くした。 クローゼットの中の光景がとても信じられず、何回も瞬きをしてしまう。 目の前に広がるのは、いつも着ている軍服や、白や茶の見慣れた自分の服達。 問題なのは、どうして彼の部屋のクローゼットの中で、こんな光景を目にしなくてはならないかだ。 「大佐っ!」 元凶だろう男を怒鳴るように呼び付ける。 すると、ソファーに寝転び暢気に本を読んでいた彼は、何事かと寝室へやって来た。 「中尉?どうしたんだ?」 「どういうことですかこれはっ!」 彼が寝室に足を踏み入れた途端に怒鳴り付けると、彼は驚いたようにびくりと肩を揺らした。 そんな様子にすら苛々しながら、昨日までは私の部屋にあったはずの服を指差す。 「どうしてここに私の服があるんですか!」 「……服?ああ、服か」 彼はしばらく考え込んだのち、ようやく思い当たったのか、ぽんと手と手を叩いた。 「そうそう、それは今日私が君の部屋から持って来たんだよ」 「だからどうしてですか!?」 「だってそうしたら、君がここに泊まった時に楽だろう?」 当然だろうという顔で、彼はけろりと言ってのける。 私が泊まりに行くんじゃなくて、あなたが無理矢理ここに泊まらせるんでしょう。 そう言ってやりたかったがそんな気力もない。 思い返せば、今日、彼は非番だったのだ。 錬金術で私の部屋の鍵を壊して入り込み、うきうきと服を選んで、ここに運んだに違いない。 「君がいないと暇なんだ」と、いつものように職場に電話を掛けてこなかったのはそういうことだったのか。 それから昨日の夜、私の部屋のクローゼットの前に立ち、顎に手を当てて難しい顔をしていたのも、このためだったらしい。 「えーと、持って来たのは軍服とこれと、これと…」 怒りに震える私にはちっとも気付かず、彼はクローゼットの前に立つと、選びに選び抜いたという服を楽しそうに披露して見せた。 そんな暢気な彼にますます苛々が募る。 「あ、それから下着も持って来た」 「下着も!?下着も勝手に!?」 「……駄目だったかい?」 私が怒っていることに初めて気が付いたのか、彼は切れ長の目を丸くして驚く。 それから信じられないことに、彼は怒られるのは心外だというような表情を浮かべた。 呆れてものも言えないとはこのことだ。 「君に黙ってやったのは謝るが、でもいいじゃないか。私の部屋に服がある方が便利だし」 こんな癪に障る謝り方で許されると思っているのだろうか。 彼は私に怒られるのではなくて、むしろ喜ばれると思っていたらしい。 期待が外れたせいか、彼は少し不機嫌そうに目を細めた。 負けじと私も彼をきつく睨み返す。 「……怒ってる?」 「当たり前ですよ」 「短気だなあ」 「本当にあなたといると腹の立つことばかりです」 「褒められると思ったのに」 そう言って溜息をつきながら、何故か彼は後ろから私のお腹に腕を回してきた。 驚いて振り向くと、彼はまた難しい顔をして何かを考え込んでいる。 「化粧品もあった方がいいかな」 「はい?」 「うん、あった方がいいな。今度一緒に買いに行こうか」 私が怒っていることは、彼の中ではどうでもいいことらしい。 まともに謝りもしなければ反省もせず、彼は化粧品やシャンプーをどうするかに夢中になっている。 どうしてそこまで自由に生きることができるのかと感心してしまうほど、本当に彼は自分勝手なひとだ。 何度目になるか分からない溜息をつきながら横を向くと、遠足を待つ子供のようにきらきらと輝いた瞳と目が合う。 洗面用具を揃えるのがそんなに楽しいのだろうか。 文句はたくさんあるけれど、それをぐっと飲み込んで、怒鳴る代わりに彼の話に適当に相槌を打つことに決めた。 こんな楽しそうな顔をまた不機嫌にさせてしまうのは憚られた。 それから正直に言ってしまえば、結局、私は自分勝手でどこまでもわがままな彼が好きなのだと思う。 自分のすることはすべて正しいと思い込んでいる彼を愛おしいとすら思う。 我慢するのも言いなりなるのも御免なのに、彼の前ではそんな信条もプライドも、どうだってよくなってしまう。 あまり認めたくないけれど。 彼の手に自分の手を重ねながら、そんな自分はどこかおかしいに違いないと溜息をついた。 そんな自分自身が法だと信じて疑わない彼も、時たま不安になるらしかった。 ふと思い出したかのように、今までの自分の非道を省みるのだ。 「……やっぱり今日は帰ろうかな」 彼がぼそりと呟いたあとすぐ、体から苦しいくらいの重みと熱が離れていった。 彼が身を起こすと、ベッドがぎしりとうるさく音を立てる。 「急にどうしたんですか」 そんな彼の様子に少し驚きながら、私も彼に合わせて体を起こす。 すると彼はこちらに指を伸ばしてきたかと思えば、化粧で隠し切れなかった目の下の隈をなぞった。 「やっぱり疲れてるんじゃないかな、と思ってだな」 「大佐が私に気を遣うなんて珍しいですね。熱でもあるんじゃないですか」 「失礼だな。私はいつもこれでもかというくらい君に気を遣ってるじゃないか」 「どの口がそんなこと言うんですか」 「……ひどいな」 また何か馬鹿らしいことを言い返してくるに違いないと身構えたが、予想外にも彼はそのまま口を噤んだ。 ベッドの上で向かい合ったまま、しばし沈黙が流れる。 やはり今日の彼はどこかおかしい。 司令部にいたときから、彼はどこか浮かない顔をしていたのだ。 さっきだって、いつもなら君の部屋に行きたいとうるさく駄々をこねるのに、今日は何も言わず自分の家へ帰ろうとしていた。 変に思った私は、自分から彼をこの部屋に呼んだのだ。 「また君はそうやって可愛くないことを言うんだな」 「はい?」 溜息交じりに呟いた彼に、訳が分からず眉を寄せた。 その様子に苦笑しながら彼は口を開く。 「今日、ハボック少尉がだな、あんまり君に迷惑を掛けると、いつか愛想を尽かされるぞって言ってきてな」 「……迷惑掛けてる自覚、あったんですね」 「多少はね」 彼は何度目になるか分からない溜息をついた。 「ハボックにはああ言われるし、君はこうやって意地悪ばかり言うし、落ち込むことばかりだよ」 素っ気無くそう言って、彼は私に背を向けた。 どうやら、先ほど脱いだばかりの靴を履き直しているらしい。 本当に帰ってしまうつもりなのだろうか。 「……面倒臭いですね」 小さく呟きながら、呆れ返って脱力し、私はそのままベッドに沈み込んだ。 壁を見上げると、私のものよりもサイズの大きい軍服が掛かっている。 君の家にも私のものを置かないとな、と彼が昨日勝手に持って来たのだ。 昨日はあれで、今日はこれか。 彼といると本当に疲れる。 思いのままにわがままを言って困らせて、そして勝手に落ち込んで、面倒臭い男だ。 大体、どうして私が悪いように言われなくてはならないのだろう。 あの程度で意地悪と言うのなら、普段の彼は犯罪級のことを私にしていることになる。 最近、彼は私が痛がる顔を楽しむようになってきたし、相変わらず夜中に叩き起こすし、その極悪非道は数え出すときりがない。 本当に面倒臭い男だ。 帰りたければ帰ればいい。 しかし、そう思う以上に腹が立っていた。 私の文句や不満はちっとも聞かないのに、どうしてハボック少尉の言葉には耳を傾けるのだろう。 それに、少尉の一言で揺らいでしまうほど、彼に対する私の想いは軽いものに思われているのだろうか。 ――ときどき君がどう思っているのか分からなくて、私はいつも不安だよ。 以前、彼が言っていた言葉を思い出す。 それが男心ってやつだよ、とかなんか言っていた。 けれど私はそんなの一生理解できないだろう。 私が彼の言うことに嫌だなんて絶対に言わないことを一番よく知っているのは、彼のはずではないか。 「……帰りたいならどうぞご勝手に」 ずいぶんと不機嫌な声が出てしまった。 靴紐をすべて結び直したらしい彼が、再び苦笑しながらこちらに振り向く。 多分、こういうところが、彼の言う私の可愛くないところなのだろう。 「今日は帰るよ」 寝転んでいる私の頭を数回撫でて、彼はベッドから立ち上がる。 が、一歩も踏み出せないまま、彼は前につんのめった。 「中尉?」 彼は何事かと慌ててこちらに振り向いた。 そして一気に破顔する。 きっと、こういうところが私の甘いところに違いない。 彼のシャツを掴んでいる私の指先を撫でながら、彼はにやにやと笑い始めた。 「これじゃあ家に帰れないなあ、中尉」 本当に嬉しそうに笑いながら、彼は私の手を強く握った。 きっと彼はどんどん調子に乗ってくるに違いない。 こういうことをするから彼はますます付け上がるのだ。 それでも、彼が私に対して不安になるよりずっといい。 彼が自信たっぷりに笑っているのなら、私が彼を拒否しないと信じきっているのなら、腹が立つけれどわがままなんて小さなことだし、プライドだってどうでもいいことに思える。 「やっぱり帰るのをやめることにするよ。君もその方がいいだろう?」 「どうぞご勝手に」 彼のためならどこまでも駄目な女になれそうだ。 そんな恐ろしいことを考えながら、覆いかぶさってきた彼の背中に腕を回した。 |