ちょっと厄介だな、と思った。
今は長年追い続けたテロ組織の一部を捕まえる絶好のチャンスにある。
しかし、同時に、近隣の住民に多大な被害が出る恐れがある。
私は、失敗するつもりも、ましてや一般市民を危険に晒すつもりも、そんな気はさらさらない。
だが、少し、厄介だ。
それを顔に出したつもりはないが、長年の仲である私の副官は、私の少しの迷いに気が付いたらしい。
「大丈夫ですよ」
いつものようにうしろに控えていた彼女が、さらりと、当たり前のように言う。
犬に向かって、これは犬です、というように、ごく自然にだ。
常に変わらず冷静な彼女の声に、私はゆっくりとうしろへ振り返る。
小さな風が私達の間を通り抜け、柔らかな金の前髪がふわりと揺れた。
「大佐なら、大丈夫です」
彼女はすでに臨戦態勢に入っており、周りから「鷹の目」と恐れられている瞳で私を見上げた。
しかし、私は知っている。
その瞳の中に、私に対する絶対の信頼が隠れていることを、私は知っている。
――この人なら上へ行ける、この国を変えられる、あの悲劇を二度と繰り返さないことができる。
彼女がこうして瞳に強い光を持っていられるのは、成功を確信している発言ができるのは、私へのその信頼からだ。
彼女は、良く言えば私を信じきっている部下、そして、悪く言えば私に夢を見すぎな部下だ。
しかし、その迷いのない真っ直ぐな瞳が、私の中にそっと焔を点ける。
「行くぞ」
「はい」
黒いコートをはためかせ、私は彼女を従えながら歩き出した。



白い壁、白い天井、白い床、そして白いベッドの上に彼女はいた。
それがいかにも病院らしくて、思わずむっと顔をしかめてしまう。
実際にここは病院なのだから仕方がないことなのだが。
ほどかれた金の髪の下に隠れた、何重にも巻かれた肩の包帯が痛々しくて、私はまた無意識に顔をしかめた。
しかし、そんな私とは正反対に、彼女は笑っている。
それも、滅多に見せてくれない、昔を思い出させる幼く可愛らしい笑顔でだ。
「大成功でしたね、大佐」
いつもは決して可愛らしいとは言えない声も、今は珍しくトーンが高く、嬉しさを隠しきれないのか弾んでいる。
いつもこうならいいのにな。
そんなことをぼんやりと考えながら、ベッドの横に椅子を引き寄せ、腰掛ける。
彼女の言う通り、私の指揮により作戦は無事に成功した。
テロ組織も余すことなく取っ捕まえたし、近隣の住民への被害も最小限に抑えられた。
これでまたロイ・マスタング大佐の株は上がったのだろう。
数時間前のその出来事を、彼女は怪我人とは思えないほど興奮気味に話した。
そして、熱っぽいうっとりとした瞳で私を見ていた。
しかし、私はといえば、私を称える彼女の話がよく頭に入ってこなく、適当に相槌を打っていた。
聞き慣れた声が耳に入ってくるけれど、頭が理解しようとしてくれない。
作戦は成功した。
彼女の言う通り、我ながら大成功だ。
しかし――私の副官が、大事な彼女が、私を庇って怪我をした。
だから今、彼女は病室にいてベッドの上で寝ていて、そして私は、震えそうな手を強く握り、何とか抑えつけているのだ。



「大総統になって、この国を変える」
私は彼女に事あるごとにそう言う。
それは、幼い子供が「大きくなったらパイロットになる!」と言うように、本当に夢の話のようなもので、実現する可能性が高いとは言えない。
そんな笑い話にでもなりそうな私の夢に縋って、彼女は生きている。
私が野望のためにしか生きられないように、彼女も私を信じ、私に縋ってでしか生きられないのだ。
あの時、彼女の負った傷は深い。
体も、そして心も、癒えることはないのだろう。
禍禍しい陣が刻まれた背中を焼く前に、彼女は言った。
「もう二度と、こんなことを繰り返してはいけないのです。そしてあなたは、上へ行くべき人間なのです」
これから焔に焼かれる前の人間とは思えない、凛とした声だった。
しかし私には、あの罪から、この背中から私を助けて、と、そんな悲痛な叫びに聞こえた。
この頃から、彼女は体を、心を、そして命をも、惜しみなく私に捧げることを決心していたのかもしれない。
そして実際に、上へ上へと行こうとする私に、彼女はすべてを賭けている。
そうでなければ、あんなに自分の身の危険を顧みることなく、私を庇うことなんかできやしない。
彼女は美人だ。
軍の中でもその美貌は有名だし、彼女が私服で街を歩けば、彼女を振り返る男は少なくない。
しかし、彼女にとってみれば、そんなことはどうだっていいのだ。
むしろ、疎ましく思い、そして自分が女であることを憎んでいる時があるかもしれない。
理由は、彼女が私の狗であって軍人だから、ただそれだけだ。
彼女は頭だって悪くない。
しかし、その聡明さや機転の良さが役立つのは彼女自身のためではなく、私だけのためだ。
私達の罪を償うべく野望のためだけに、彼女は考え、動き、そして躊躇いもなく私の楯になる。



「……私は、魔法使いではないんだよ」
彼女はきょとんとした顔で私を見ていた。
君が希望に満ちた瞳で私を見るほど、私は何でもできる訳じゃないし、そんなに強くもない。
それから――
彼女の笑みをなくした白い頬に手を伸ばす。
温かい。
生きているのだから当たり前だが、その当たり前の温かさに、私は驚くほど安堵した。
柔らかな頬を撫でて、そのままゆっくりと手を下へ滑らせて、服の上から左の胸に触れる。
病院着の上からでも、彼女の少し低めの体温をじんわりと手の平に感じた。
ちゃんと規則正しい鼓動がする。
生きている。
「…大佐…?」
彼女はいまだ不思議さをいっぱいにした表情で私を見ていた。
――リザ、私は魔法使いではないんだよ。
君が思っているほど、君がすべてを賭けるほど、私は完璧な男じゃない。
君が私に覆いかぶさってきた重さを、青い軍服が赤黒く浸食されるのを、君が崩れ落ちた瞬間を、私は忘れられない。
今だって、君がこうして話しているのに、笑っているのに、椅子がなければきっと体を支えていられない。
君の温かさと心臓の鼓動を自らの手で確かめてもなお、叫び出してしまいそうなんだ。
いなくならいで、と。
彼女が私に縋ってでしか生きられないように、私だって彼女に縋っていたい。
「……大佐」
無言のまま、私が病院着をに手を掛けると、彼女がが初めて抗議の声を上げた。
「大丈夫だ。この病室にはしばらく人が寄らないように命令してあるし、怪我人の君を気遣って絶対に痛くしないと約束するし、むしろとっても気持ち良くしてあげるから、とにかく安心しなさい」
「そうではなくて……って、そんなことを命令していたんですか。というか、する気、なんですか」
彼女は信じられない、と呟き、呆れたように溜息をついた。
しかし、そんな態度とは反対に、彼女は病院着をせっかちに脱がせる私の手を、優しく取り払った。
そして、その手で私の頬をしばらく撫でたあと、両手でそっと挟んだ。
「大佐、そうではなくて」
彼女は微笑んでいた。
「私はこの通りぴんぴんしていますし、まず、肩を撃たれたくらいでは死にません。それにこれからも死ぬつもりはないです。まだまだあなたの側からいなくなるわけにはいきませんから」
大佐にデスクワークをさせられるのは私だけですし、と彼女は笑いながら付け加える。
諭すような、まるで母親が子供に言い聞かせるような口調だった。
――ああ、そうか。
彼女は知っているのか。
私の弱さを、躊躇いを、すべて見抜いていたのか。
「そんなことより、この件でまた上に近づきましたね。おめでとうございます」
それでもなお、君はそんな瞳で私を見るのか。
この人なら上へ行ける、この国を変えられる、あの悲劇を二度と繰り返さないことができる。
この人なら、私を救ってくれる。
そんな信仰にも近い、危険すぎるほどの信頼で、彼女は私を見るのだ。
「……私は魔法使いじゃないんだよ」
「だから何ですか、それ」
「でも君のためなら魔法使いになろうと努力するかもしれない」
――彼女を闇から救い上げられるのは、背中の火傷の罪から解放してあげられるのは、私しかいないのだから。
彼女にとってはまったく訳の分からぬ発言に、きれいな眉は形を歪めていた。
「厄介な女に惚れられてしまったな」
「はい?」
「君は馬鹿だよ」
君は馬鹿で、私以外何も見えていない危ない人間で、縋ることしかできなくて、そして、何よりも愛おしい。
私に必死にしがみ付き追いかける、こんな愛おしいものなんて、世界中のどこを探したって絶対に見つからない。
馬鹿って何ですか、と不機嫌そうに言いながらも、やはり機嫌がいいのか下がっている目尻に、愚かな瞳に、私はたまらず口付けた。








(垂れた目尻に口付けて、貴方の瞳を食べちゃいたい)
お題:カプリッチオさま

▼「Royeye Festival 2008!」に掲載させていただいた作品です。





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