公園のベンチに彼女は座っていた。
昼は子供達で賑わう広い公園も、夜である今は、ぽつりと彼女一人しかいない。
外灯の少ない暗い公園をゆっくりと歩き、彼女に近付いていく。
彼女は身動きひとつせず、夜空をじっと眺めていた。
そういえば今日は星がよく見える。
私にしてみれば、空を飾る星なんかよりも、あの横顔の方がずっと美しいが。
私の足音に気が付き、短く切り揃えられた金の髪が動いた。
そして彼女は、突然の訪問者に大きく目を見開く。
「……中佐?」
「こんばんは、少尉」



星のない夜



我ながら人間離れした、神業と言える仕事の速さだ。
溜まりに溜まった書類を華麗に片付け、今日は定時ぴったりに仕事を終わらせた。
その理由は簡単、仕事のあとには楽しい楽しいデートが待っているからだ。
すでに部下が帰り、誰もいなくなった部屋をうきうきとしながら出ようとした時、ふとあるものが目に留まった。
女性が身につけるにはあまりに可愛いげのなさすぎる黒いマフラー。
少尉のマフラーだ。
それは彼女の机の上に置いてあったのだが、もしそうでもなくても、見た瞬間に彼女のものだとすぐに分かっただろう。
この私が彼女のものを見逃すはずがない。
私は彼女のマフラーを手に取り、少し足速に、再び自分の机へと戻った。
そして受話器を取る。
「ベティーかい?すまないが、今日は仕事が忙しくて…ああ、デートはまた今度…本当にすまないね」
受話器を置いた私の顔は、きっと口の悪い親友に「きもちわりぃ顔」と言われるくらい緩みきっていただろう。
デートの断りの電話を入れたあと、私は先ほどとは比べようにならないほど、うきうきと司令部を出た。
もちろん片手には彼女のマフラー。
あのしっかり者の彼女が忘れ物をするなんて珍しい。
あの部下達は、そう思うかもしれないが、彼女はたまにこうしたうっかりとした部分があるのだ。
数えるのが難しいくらいたくさんある彼女の可愛いところのひとつだ。
私は、ふふふと頬をさらにだらしなく緩める。
とにかく、私はようやく彼女の部屋へ行く絶好のチャンスを得たわけなのだ。
大きな花束でも持っていこうかな?
それともケーキとかがいいかな…もういっそ指輪とか?
思わずスキップでもしそうな機嫌の良さで、通りを足速に、そして軽やかに歩く。
しかし、ふと横目に映った金の色に、私はぴたりと足を止めた。
通り過ぎるはずだった公園へ戻り、その中を睨むかのようにじっと見つめる。
最初は人違いかと思ったが、彼女の所有物すら見逃さないように、私が彼女を見落とすはずも、見間違えるはずもない。
公園のベンチに彼女は座っていた。



「中佐、どうしてこんなところに?今日はデートでは?」
私が聞こうとしたことを、彼女が先に口にした。
彼女の口からデートという言葉を聞いて、そういえばデートをキャンセルして彼女に会いに行こうとしていたことを思い出した。
「ああ、残念ながら、今夜はデート相手に振られてしまってね」
「中佐が振られることなんてあるんですね。珍しいです」
「そんなことより少尉」
「はい」
きょとんとした顔で私を見上げる彼女の前に立ち、無言でマフラーを両手で広げてみせる。
「あ」
彼女は「どうして中佐が持っているんですか」とか「そういえば置いてきちゃったんですね」とか、そんな言葉を続けたかったに違いない。
しかし、私が彼女に何かの恨みでもあるのかのように、ぐるぐるぐるぐると手早くマフラーを巻き付けていったため、彼女の言葉は遮られた。
「君は人の体調にはものすごく口うるさいのに、自分のことには気を抜き過ぎだ。こんな遅い時間に外にいて、しかもマフラーを忘れて手袋もつけないで、というかどのくらいいたんだ?」
彼女の「中佐、苦しいです」という言葉をきれいに無視して、ぎゅーっとマフラーの端と端を結ぶ。
私が彼女にマフラーを届けようと思った理由は、何も彼女の家に行きたいというだけではなく(いや、それも大いにあるのだが)、彼女が自身を疎かにしていることを叱るためでもあったのだ。
暗闇でも分かるほど赤くなった彼女の頬と鼻先を、むっと睨む。
彼女は司令部を出てから、ずっとここにいたのではないのだろうか。
今、私はあいにく手袋を持っていないし、発火布は片方だけしかない。
――私の手で冷えきった君の手を温めてあげよう。
なんて言い出したら、彼女は嫌がるだろうか。
自分らしくない弱気なことを考えながら、彼女の隣に腰を降ろす。
ベンチのやや真ん中に座っていた彼女は、私のために横に移動してくれた。
「君みたいな可愛い女の子が、遅くに一人でこんな暗いところにいるのは、あんまり感心できないな」
いつものように笑いながら、冗談めかして言う。
しかしこれは本音だ。
彼女はちらりと私の方を見て、私は「女の子」じゃありませんし軍人ですから、と返した。
彼女に、いつものような冷たさやキレがないのは、私の気のせいなのだろうか。
今は仕事中じゃないからだろうか。
「少尉、誰かと待ち合わせをしているのかい?もしかして、恋人とか?」
「違います」
また素っ気ない返事。
しかし、その簡潔すぎる返事に、私は自分でも驚いてしまうほど安堵した。
先ほどから確認したくてたまらなかったことなのだ。
彼女に恋人がいないということは、私独自の調査で分かっているし、彼女に近付こうとする男共には軽く制裁を加えているが、万が一ということがある。
「じゃあ、君はここで何をしているの?」
「考え事です」
「考え事?」
「中佐は?何故ここに?どうして私のマフラーを?」
私を真っ直ぐに見つめてくる二つの紅茶色から、私は思わず目を逸らした。
「あー…。えーと、だね。デートのキャンセルの電話をもらったあと、君の机にマフラーがあったのが、偶然目に入ってね。ちょうど仕事のことで君に聞き忘れがあったのを思い出し、ちょうどいいから、これを君の家に届けがてら仕事の話を…」
口が勝手にぺらぺらと嘘ばかりを話し出す。
どうして彼女を前にすると、いつものように、うまいことも本音も言えなくなるのだろう。
会いたかったから。
そのくらい、いつもなら嘘でも言えるじゃないか、ロイ・マスタングよ。
「そうだったんですか。マフラー、わざわざありがとうございます。それで、仕事の話というのは?」
「……忘れた」
「え?」
彼女から顔を逸らしたままだが、きれいな形の眉がきゅっと歪んだのが嫌でも分かった。
忘れたというか、仕事の話なんてもともと嘘なのだから話しようがない。
「…もう、仕方のない方ですね」
溜息交じりの彼女の言葉に、私は少し拍子抜けした。
彼女にはやはりいつものキレがない。
デートをキャンセルされたのがそんなにショックだったのですね、という言葉も、いつもの嫌味には聞こえなかった。
せっかく仕事以外で二人きりでいるのに、呆れらたり怒られたりするのは嫌だからいいのだが、やはり今の彼女は変だ。
私はそろそろと彼女の方へ顔を向ける。
彼女は、私がここへ来たときのように、また星空をじっと眺めていた。
「中佐、帰らないのですか?」
上を見上げたまま彼女が聞く。
「私も考え事があるのだよ、少尉」
「そうですか」
私がここにいてもいなくても、どうでもよさそうな返事。
やはりいつもの彼女だ。
私は少々落胆しながらも安心する。
そして、横顔の彼女に笑い掛けた。
「なあ少尉、今日はずいぶんと星がきれいだな」
「…私にはいつもと同じに見えますが」
「……君ねえ」
「あ、もしかしてここは私が『星よりも中佐の方がずっときれいですよ』と言うべきところですか?」
「……それは私が言う台詞だよ!」
「あら、そうなんですか」
うん、嫌になるくらいいつもの彼女だ。
ロマンチックな雰囲気を作ろうと夢を見た私が馬鹿だったのだ。
彼女は何も悪くない。
だが落ち込む。
はあーっと、盛大に溜息をつくと、黒い空間に白が浮かんで消えた。
「…なあ、少尉」
「なんですか」
彼女はいまだ星空を眺めたままだ。
「何を考えているの?」
「考え事です」
「…答えになってないぞ」
彼女は、私が隣にいないかのように、ただ星空を見つめている。
私はその夜空に、また白い息を投げ掛けた。
もちろん彼女は気にしない。
いや、私が隣にいることを忘れているのか?
彼女なら十分に考えられることだ。



仕事中の彼女のことは手に取るように分かるし、また彼女も私に対してそうだが、プライベートの彼女のことは、いまだによく分からない。
「リザ・ホークアイ少尉」のことなら何でも分かるのに、「リザ・ホークアイ」は謎の人だ。
思えば、出会ったときから彼女は分かるようで分からない人だった。
彼女は掴み所がなくて、そう、まるで浮かんで消える白い息のような人。
ほかの女性なら考えていることも、求めているものも、何だって分かるのに、「リザ・ホークアイ」のことはまったく分からない。
分かるとすれば、仕事中は呆れるほど私のことしか頭にないとか、ちょっとうっかりした部分があるとか、たまらなく可愛い人だとか、そのくらいだ。
だから情けないことに、このロイ・マスタングが彼女に直接、恋人がいるかどうか探りをいれたり、何を考えているのか聞いたりしてしまうのだ。
繰り返すが、このロイ・マスタングが、だ。
彼女が一人きりで星空を眺めるようなことをするのも、今、初めて知った。
星が好きなのだろうか?
いいや、しかし、さっきは星に関して実に可愛くない返事を返された。
……やはり、彼女のことはよく分からない。



暗い公園に二人きり、音は小さな二つの息遣いのみ。
彼女は星空を眺めたままで、というか私は存在を忘れられているらしく、当然ながら会話はない。
しかし、それでも彼女の隣は心地良かった。
会話がなくても、体を寄せ合わなくても、甘い雰囲気を拒否されても、私はこんなに居心地の良い場所をほかに知らない。
どれほどの時間、二人で星空を眺めていただろうか。
彼女の小さなくしゃみで、私ははっと我に返った。
私は思わず、まだ上を見続けていた彼女の肩を、がしっと掴んだ。
中佐?と、彼女が目を丸くしながら私の方へ顔を向ける。
「ああもうっ!私としたことが!少尉、寒いよな!?寒いんだよな!?」
肩をがくがくと揺さぶりながら問い詰める。
「…ええ、まあ、それなりに…」
「こんなところに長い間いたら当たり前だ!風邪をひくぞ!さっきも言ったが君は自分の体調管理が甘いし、最近は寝不足のようだし!そうだ、今、私のマフラーを…」
「…中佐」
自分のマフラーを取ろうとした手を、彼女がやんわりと掴んだ。
そして、優しく取り払う。
しかし、彼女がそうしていなくても、私はきっと手の動きを止めていた。
一瞬だけ、彼女が今にも泣きそうな顔をしたように見えたから。
「中佐、マフラーを二枚巻いても苦しいだけです。それに私は平気ですから。それから、中佐に風邪をひかれた方が大変です」
「あ、ああ…」
さっきの彼女の顔が忘れられず、適当に返事を返す。
「…中佐」
「ん?」
「私が寝不足だということに、気付いていらしたんですか?」
「あ、ああ…。それは、まあ、君は私の部下だし。いつも一緒にいるからな」
「…そう、ですか…」
また嘘をつく。
でも、いつも君を見ているから気付いて当然だ、なんていきなり告げたら、確実に気持ち悪がられるだろう。
うーん、と私にしては珍しく頭を悩ませていると、彼女はまた星空に目を向けた。
「……中佐」
そして、まるで独り言のように、ぽつりと私を呼ぶ。
「考え事というのは、実は、中佐のことだったんです」
「えっ!?」
私は驚きに目を見開いた。
場合によっては嬉しすぎる言葉だ。
しかし、残念ながら、私の頭の中を過ぎるのは悪いものばかりだ。
昨日も一昨日もサボったことを怒っていたとか、ハボックの前髪を燃やしてみたことを呆れていたとか、今日みたいにとっと仕事を終わらればいいのにと腹を立てていただとか――
しかし、そんな私の考えとはまったく違ったことを彼女は口にした。
「中佐の未来のことを、考えていたんです」
「未来?」
彼女の突拍子もない言葉に、思わず聞き返す。
「はい」
彼女は星空を見上げたまま頷いた。
「中佐は大総統になって、そして私達は相変わらず中佐の下で働いていて、国を変えるために忙しい日々を送っているんです」
それは私も何度も考えたことがある。
彼女もしっかりと私と同じ未来を見ているのか。
もちろん、そうだということは知っていたが、彼女の口から聞いたのは初めてで、自然と口元が緩んだ。
「中佐には子供がいて、可愛い男の子と女の子で…ヒューズ少佐に負けじと親馬鹿なんです。それから、大きな犬も飼っていそうですね。あ、名前は私が付けましょうか?」
緩んでいた口元が一気に引き攣った。
君が犬に名前を付けるのは是非お断りしたい……ではなくて。
子供?可愛い男の子と女の子?親馬鹿?
それより、私は、いつ、君にプロポーズをした!?
この前、みんなで飲んで酔い潰れたときに思わず言ってしまったか!?
それとも、仮眠室で私を起こしに来た彼女に、寝ぼけてついぽろりと!?
そんな軽い混乱から、次の彼女の言葉が、私を現実へと引き戻した。
「私に尻を叩かれながら仕事を終えて家に帰ると、可愛い奥さんが玄関で待っているんです。中佐はただいまのキスをして…というか、中佐はどこでもキスをしたり、べたべたと触ったりしていそうですね」
……何だ。
何なのだ、この話は。
「中佐は、私の寝不足にも気付くように…実は細やかで、優しい方ですから、奥さんは…とても幸せでしょうね」
そう言い終えると、突然、彼女は私の方へ顔を向け、真っ直ぐに目を見つめてきた。
そうしたくないけれど、そうしなければならない。
今の彼女の行動は何故かそう思わせる。
「今お付き合いしている方と、ご結婚なさるそうじゃないですか。ひどいですよ。どうして副官である私に秘密にしているんです?」
彼女は笑いたいのだろうか。
それとも、泣きたいのだろうか。
本人は微笑んでいるつもりらしいが、痛々しいほどに無理をしていることが分かる。
「……ご結婚、おめでとうございます」
その言葉は、何度も繰り返し練習をしてきた台詞のように思えた。
だけれど残念ながら大根役者だ。
彼女はそれを言い終えると、すぐに俯いた。
何もかも、何もかもが、すべてが、間違っている。
彼女にそう告げようとしたのだが、強く握られた白い拳の上に、ぱたりと水が落ちたのを見て、思わず開きかけた口を閉じる。
掴み所のない彼女のことが、ほんの少しだけかもしれないが、分かった。
彼女は仕事以外でも私のことしか頭になくて、しかもご丁寧に未来のことを細かく考えてくれているほどで、それから、君は馬鹿かと問い詰めたいくらい鈍感だ。
いや、それは前から知っていたことか。
「…なあ、少尉」
「あの…!ごめんなさい、中佐…っ!泣いているわけではなくて…っ、あ、暑くて汗がぼろぼろと…っ」
プライベートになると言い訳が最高に下手くそ。
これも前から知っていたことだ。
俯いている顔を、両手でなるべく優しく上げさせようとするが、彼女は必死に私の手から逃れる。
「リザ」
ずいぶんと久しぶりにその名を口にした。
彼女も久しぶりに呼ばれて驚いたのだろう。
一瞬だけ、私から逃げようとする動きが止まった。
その隙をついて、薄く開いていた唇に、そっと口付ける。
彼女の目が大きく見開かれた。
抵抗がそのまま止まる。
まずは最初に、彼女が大きな勘違いをしていることを教えてあげるべきだということは、よく分かっていた。
しかし、「欲しい」と思ってしまった。
もう止められない。
今まで散々我慢をしてきたのだから、今、少し順番を間違っても罰は当たらないだろう。
舌で口内をなぞる度に、いつの間にか私のコートを掴んでいた彼女の手が、びくびくと震えた。
また彼女についてひとつ知れた。
彼女はこういうキスに慣れていない。
というか、初めてだ。
「……なん、で…」
下唇を優しく舌で撫でたあと、名残惜しいがようやく彼女を解放する。
息を荒くし、紅茶色の瞳を先ほどとは別の意味で潤ませている彼女の表情は、私に対する疑問でいっぱいだ。
濡れて光る顎を気にする余裕もないらしい。
彼女の代わりにそれを親指で拭ってやりながら、こつんと額と額を合わせる。
前髪越しでも、少し熱くなっている肌が伝わった。
は、と溜息にも似た息を吐くと、彼女がまたふるりと震える。
「……結婚、しないよ」
「……え?」
彼女がまた、目を静かに大きく見開いた。
「私は結婚なんてしない」
「…ほん、とに…?」
「ああ」
「…本当ですか…?」
「本当だってば」
口を動かすばかりで微動だにしなくなった彼女に、くすりと笑いながら告げる。
「というかね、私が結婚するなんて話、今、君から初めて聞いたよ」
「…だって…みんな、そう言ってて…」
「みんなって?」
「……みんな、です」
「噂か。私にはよくあることじゃないか。ふーん、今の私はベティーと噂中なのか」
「だって、今回の噂は本当だと周りが言っていて…!」
「君、噂は信じない主義だろう。というか興味ないだろ」
また彼女について分かった。
大総統は実はオバケ、ハクロ将軍には幼女趣味がある、東方の森には魔女が住んでいる。
そんな噂にはまったく興味のない、というか「仕事中にくだらない話はやめてください」と怒る彼女は、ロイ・マスタングの噂となると、周りが見えなくなるらしい。
まあ、今回の噂は信憑性が高かったかな。
ベティーは少々名のある名家の娘だし、軍との繋がりも薄くはない。
しかし、ベティーとは情報収集をするための仲で、まあ、たまに遊んだりもするが、相手も遊びだと十分に分かってくれている。
こんな雰囲気の中で彼女に軽蔑されるのは嫌だから、今は教えないけれど。
「……電話で、とっても楽しそうにデートの約束をしていたじゃないですか」
わざと声を大きくして電話をしていても、書類の整理に集中しているなと肩を落としていたのだが、実は彼女はしっかり聞いていたのか。
「……さっきだって、デートをキャンセルされて、溜息ばかりついていたじゃないですか」
なんだ、私が隣にいるという意識がちゃんとあったのか。
私はデートより君のマフラーを選んだのだよ、リザ。
「でも、私は結婚しないよ」
「…ちょ…っ!?」
彼女の体を強引に胸に抱き寄せると、彼女はびくりと体を強張らせた。
ああ、本当にこういうことに免疫がないんだな。
相手が私だから余計に、なんてな。
「……中佐」
「ん?リザ?」
「…中佐、もう一度」
「何?」
「…もう一度、言ってください」
私の胸に顔を押し付けられ、くぐもる彼女の声はずいぶんと可愛らしい。
「君はうたぐり深いなあ」
はは、と笑いながら、すっかり冷たくなった金の髪を撫でた。
「アメストリス一のいい男、そして無敵の焔の錬金術師ロイ・マスタングは、結婚しません」
君以外とはね、と心の中でこっそり付け足す。
ようやく安心できたのか、彼女が小さく溜息をついたのが分かった。
「なあ、リザ」
「…は、い?」
わざと耳元で名前を呼ぶと、彼女の体が面白いくらいびくりと跳ねる。
「先ほど私が考えていたことはね、君の隣ほど居心地の良い場所はないなってことだったんだよ」
こんな言葉だけで、不器用で鈍感な彼女に伝わるか、言い終えてから少々不安になった。
しかし、それは杞憂に終わった。
彼女は固く強張らせていた体の力を抜き、くたりと私の胸にもたれ掛かってきたのだ。
「……もう噂は懲り懲りです」
「私は大歓迎だけどな」
「…やめてください」
よしよしと、想像していたよりも小さな背中を撫でる。
そして、今度はひょいと彼女をベンチから立たせた。
「中佐?」
「帰ろうか」
「帰るって…」
「もちろん私の家だよ」
彼女を腕から離すのは実に名残惜しかったが、このままでは本当に風邪をひいてしまう。
私は戸惑う彼女の手を強引に引いて、歩き出した。
「…あの…今から中佐の家に?」
「そ、中佐の家」
寝不足の彼女にたっぷりと愛の言葉を囁きながら心地良い眠りにつかせたいところだが、残念ながらそれは無理そうだ。
というか、むしろ一晩中起こしていてしまうかも。
ここへ向かって来ていた時よりももっと軽やかに、もっと機嫌良く公園を出ていく。
マフラーとベティーにはとても感謝しきれないな。
「リザ、本当に星がきれいだな」
まるで歌うかのように言う。
「な、リザ」
しかし、私に手を引かれてうしろを歩く彼女からの返事はない。
また飽きることなく星空を眺めているのだろうか。
やっぱり本当は星が好きなのか?
「リザ?」
私はくるりと彼女の方へ振り返った。
てっきり星空を眺めているのかと思っていた二つの瞳は、予想外に、私をじっと見つめていた。
――また、彼女について大切なことが分かった。
「あの、中佐」
彼女には最初から星なんか見えていなかったのだ。
「…なに?」
紅茶色に映るのは、私。
「初恋が叶わないって、嘘だったんですね」
やっぱり噂は嘘でくだらないものばかりだわ、と彼女が唇を尖らせる。
「……リザ」
さらっと爆弾を落とした彼女の肩をがしっと掴むことで、私はなんとか爆撃の衝撃に耐える。
「はい?」
「……君、明日は仕事に行けなくなるかもしれないぞ」
彼女は、え?と、これまた可愛らしく首を傾げた。
星の見えない彼女の瞳には、柄にもなく顔を赤くしている私しか映っていない。








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