「逃走したくなる気持ちは分かるわ。もちろん、今回限りだけれど」 「…うーん、ま、そうっすねえ…」 私も、そして隣に立つ部下も、口から出てくる声にまったく破棄がない。 背の高い金髪の彼をちらりと見上げると、かろうじて煙草をくわえているという疲れ切った顔がそこにはあった。 きっと私もハボック少尉と同じ顔をしているに違いない。 しばらく鏡を見ていないから分からないけれど、目の下の隈は、上官に眉を顰められるほどひどいことになっているはずだ。 「もう三日…いや、四日くらいまともに寝てないですからねえ」 少尉があくびを噛み殺しながら言う。 「…小さい事件は起きるし、書類はどんどんどん回ってくるし…。書類は大佐に対する嫌がらせじゃないかしら」 はあ、と盛大に溜息をつきつつ、私は執務机を見た。 その机に座るべき人間は今、不在だ。 貧労困憊のあまりうっかりしていたのだ。 コーヒーをいれるために彼を一人残して部屋を出ている間に、見事に逃走されてしまった。 首に頑丈な鎖でも巻いておけば良かったと思う。 主のいない机にあるのは、見るのも嫌な未処理の書類だけ。 「…あとほんの少しなのよ。これを片付けてもらえば、みんなまともに休めるわ」 それほど厚くない書類を指でぱらぱらとめくりながら、私は眉を寄せる。 さて、これらをどうやってあの人に片付けさせようか。 「問題はどうやって仕事をさせるかなのよ。大佐はもう限界だから、いくら書類が少なくても、ちょっとやそっと何かしたくらいじゃ仕事をしてくれないと思うの」 「右に同じです」 「大佐と同じく私も疲れているから、なるべく銃撃戦は避けたいのだけれど…どうしようかしら」 「…あのー、中尉」 顎に右手を当てて、流血ものは嫌だわなどと考えていると、頭の上から何故か呆れた声が降ってくる。 「何?ハボック少尉」 「そんな物騒なことより、もっと平和かつ簡単で、効果抜群の解決策がありますよ」 「え?」 「中尉が、大佐のことをぎゅーっと抱きしめてあげればいいんですよ」 そうすれば疲れなんて一気に吹っ飛んで、無駄に元気になりますよ、あの人。 少尉はそう言って、うんうんと一人で頷き、納得していた。 「…ぎゅーっと…?」 その言葉を聞いたとき、私の脳裏にはヒューズ中佐とその娘が抱き合っている光景が浮かんだ。 あとから考えてみれば、私もハボック少尉も疲れきっていて、まともな判断が出来なかったのだと思う。 彼が逃走した場所はすぐに分かった。 滅多に人の出入りがない物置部屋の扉を開け、迷うことなく奥へと足を進めていく。 そして、棚に寄り掛かり、今さまに眠りの世界へ旅立とうとしていた彼の前でぴたりと歩みを止めた。 「見つけましたよ、大佐」 「…やあ、中尉…」 こっそりと昼寝を楽しもうと、まるで目の前に大好物を出された子供のように幸せそうだった顔が、私の姿を見た瞬間、みるみるうちに青くなる。 この人は一体、私を何者だと思っているのだろう。 「ちゅ、中尉っ!これは、し、仕事に必要な資料を探しに来ていてだなっ!」 それが、枕にするために丸めていた軍服の上着を慌てて着ながら言う台詞なのだろうか。 おまけに言葉を噛んでいるし。 思わず溜息をついてしまう。 すると、居心地悪そうに、というか、怯えながら目を泳がせていた彼が、びくりと肩を揺らした。 私はまた溜息をひとつ。 今は、仕事を投げ出した上官を叱るためではなく別の目的でここへ来たのに、彼ときたら私に怒鳴られることしか頭にないらしい。 「大佐」 「…な、なんだね…」 床に座っている彼の元へ屈み込む。 すると、彼は大袈裟なくらい体をのけ反らせた。 先程から本当に失礼な人だ。 「執務室から逃げ出して、寝不足の部下をよそに一人だけ昼寝を楽しもうとしていたところを叱りたいところですが、今日はやめておきます」 「……え?ええ?」 「あの仕事の量なら逃げ出したくなる気持ちも少しは分かります。もう、あれは嫌がらせの域ですよね」 「…あ、ああ…」 私が彼の方へ距離を詰めていく度に、彼は顔を引き攣らせながら、じりじりと後ろへ下がっていく。 彼は何をそんなに怯えているのだろう。 「なので、今回は怒るわけではなくてですね…」 「…中尉、私は今、君のその優しさが怖いよ…。お願いだから銃撃戦は勘弁してくれ…」 大佐が残りの仕事を早く片付けられるように、疲れをとるお手伝いをしようかと思いまして。 そう続けようとしたのに、彼が弱々しい声でそれを遮る。 おまけに、頼んでもいないのにホールドアップまでされてしまった。 本当に、彼は私を何だと思っているのだろう。 私の日頃のお仕置きのせいかしら? それは置いておいて、今は彼の疲れをとって仕事をする意欲をつけさせて、さっさと執務室に連れて帰らなければならない。 「大佐」 「…はい」 私がまた一歩、彼の方へ近付くと、彼の背中はとうとう壁に当たってしまった。 これでは、まるで私が彼を追い詰めているみたいではないか。 子兎を食べようとしているライオンの気分だ。 「残りの書類は本当にあとわずかです」 「…う、うん…」 「ですから、あともう少し頑張っていただきたいのです」 彼はいまだ青ざめた顔のままで、がくがくと何度も頷く。 「ですが、執務室に戻る前に、少し時間をいただいてもいいですか?」 「…な、なにかな、中尉…?…先程も言ったが、銃だけは、お願いだから勘弁してください…」 彼の必死な懇願をさらりと無視して、ハボック少尉に言われた「ぎゅー」とやらを実行するために、私は彼の方へ身を乗り出した。 彼は行き場がないにも関わらず、私から逃げようとしたのか後ずさり、壁に思いきり頭と背中を打ち付けていた。 ものすごく痛そう、などと思いながら、私は頭の中で別のことを考え始めていた。 今さらだけど、「ぎゅー」って抱きしめるって、どのようにすればよいのだろう。 飽きるほど見せられた、ヒューズ中佐とエリシアちゃんが抱き合っている写真を必死に思い出す。 そういえば、今のこの光景は、ヒューズ中佐が、ぐずって泣き出したエリシアちゃんを宥めるときの様子によく似ている。 あのようにやればいいのか。 私は心の中で頷き、また少し彼の方へ体を傾ける。 彼は相変わらず怯えきった顔で、何かぎゃーぎゃーと騒いでいた。 うるさいので、それも無視。 そして、たった今、気が付いたことがあるのだが、彼から私に近付くことは多いが私から彼に息遣いが伝わりそうなほど近付くのは初めてだ。 そう思うと、急に彼の方へ腕を伸ばすのが戸惑われた。 意外と肌がきれいなのね、などと違うことを考え気を紛らわせながら、何故か突然込み上げてきた恥ずかしさのような感情を必死に打ち消す。 駄目だ。 私がこうして行動を起こせないままでいれば、彼も私も、そして部下達の睡眠時間が減ってしまう。 私は彼に分からないよう、小さく深呼吸をした。 「大佐、少しだけ大人しくしていてくださいね」 そう言うと同時に、私はいまだホールドアップしたままの彼に、そっと腕を伸ばした。 自分と同じ青い軍服の上をそろそろと辿っていき、背中まで手を巡らせる。 屈強な体つきの軍人達の中で彼は小柄な方に分類されるが、それでも軍服の下の体は、女の私からすれば頼もしい体つきをしていた。 触れているのかいないのかどうか分からない、本当に緩く腕を回しているだけでも、しっかりとした彼の体の線が伝わり、どうしてか顔が熱を持ち出す。 首に当たる黒髪がくすぐったくて思わず身をよじった。 控えめに体をくっつけているだけでも、厚い軍服越しに彼の体温が染み入るように伝わってきて、また頬が熱くなる。 これで、少尉の言っていた「ぎゅー」ができているのだろうか。 というか、こんなことで本当に疲れがとれるのだろうか。 「人肌っていいですよねー。あー彼女欲しいー」なんて少尉は濃すぎるコーヒーを啜りながら言っていたが、それは女の私には理解できないことなのかもしれない。 彼は、私の言葉通り、腕の中でじっとしていてくれた。 息をしていないのではと思うほど微動だにしない。 ふと、ヒューズ中佐が泣きじゃくるエリシアちゃんを抱き上げながら、優しく背中を撫でていたことを思い出す。 私もそれを真似して、いつもより大きく感じる背中を、ぎこちなくそっと撫でてみた。 どのくらいの間、こうしていればいいのだろう。 彼はもう疲れがとれたのだろうか。 薄暗い部屋に二人きり、音も動きもない。 ただ感じるのは彼の体温と頼もしさだけで、何故か急に居心地が悪くなる。 体が熱くなるばかりではなく心臓の鼓動も速くなってきて、彼の目の前で普通に呼吸をしている振りをするのが辛い。 今更ながら、自分がとんでもないことをしている気分になってきた。 もうそろそろ彼から離れよう。 というか、離れたい。 そう思ったとき、突然、視界が揺れた。 先程までは、以前は真っ白であったであろうくすんだ灰色の壁を、気を紛らわすために見つめていたはずが、私は今、天井を見上げていた。 彼が私に覆いかぶさっているのだと理解するのに数秒かかった。 頭と背中に彼の手が回されていたために、床に体を打ち付けてはいない。 「…たい、さ?」 彼はとうとう耐え切れずに眠りの世界へと旅立ってしまったのだろうか。 もしかしたら、私の腕の中にいたときからすでに眠っていたのかもしれない。 しかし、その考えはすぐに打ち破られる。 「……中尉」 急に耳元でそう囁かれて、肩が大きく揺れた。 背中がぞくりとするような低い声に驚き、目を見開く。 彼はちゃんと起きていた。 耳から頬までを唇らしきものでゆっくりとなぞったあと、彼は顔をあげ、私と目を合わせた。 今まで一度も見たことのない、何故か、自分が女で、そして彼が男であることを意識させる目をして、彼は私を見つめていた。 また、痺れに似たようなものが背筋を走る。 それは不快ではないが、あまり心地良いとも言えない。 彼にのしかかられたまま、私は体を動かすことができなかった。 今の状況を頭で処理できないでいると、彼は私の背を支えていた腕に力を込めた。 痛いほど抱き寄せられて、先程はわずかにしか感じなかった彼の体温をぎゅっと強く押し付けられる。 しかし、そんな強引な行動とは正反対に、彼は、最近伸ばし始めた私の髪に指を絡め、ゆっくりと梳き始めた。 もしかして、彼は極度の疲れと眠気のあまり、私を彼の恋人と勘違いしているのだろうか。 いや、でもさっき、確かに「中尉」と呼ばれたし―― 私の思考は、ここで強制的に止まった。 「…えっ、大佐…っ!?」 彼はいまだ熱を持ったままの私の顔に手を添え、頬に何度も口付けてきたのだ。 「…ちょっ…!」 顔を背けようとしても、強い力で押さえ付けられる。 しかも、最悪なことにだんだんと彼の吐息が唇へと近付いてきている。 怖い、という感情に近いものを抱く。 動くことができない。 けれど、先程から体中を走る痺れが「嫌」と表現できないものへと変わっていっていることに戸惑う。 もう訳が分からなくて泣きそうだ。 私はだんだんと力の抜けていく体を叱咤し、渾身の力を込めて、今にも唇へ触れそうになっていた彼の口に、手の平を押し付けた。 そして混乱したまま叫ぶ。 「たっ、大佐っ!違うんです!駄目です!ええと、とにかく違うんですっ!」 中尉息が出来ない死ぬ、と、くぐもった声が聞こえた気がしたが、私は構わず続けた。 「大佐にどうやって仕事を片付けさせるか考えていたときに、しょっ、少尉が!私が大佐をぎゅーっとすれば、大佐の疲れがとれて仕事がものすごく早く終わると言うので実行してみて、だから、あの、その、これは……」 最初は力いっぱい叫んでいたはずが、最後の方は消え入りそうなくらい声が小さくなっていった。 彼の顔を押さえつけていた手の力を抜くと、彼も自ら手から顔を離した。 同時に覆いかぶさっていた体も離れ、苦しいくらいだった重さと熱さが消えていく。 彼は何度も大きく息を吸っては吐いて、そのあと、ぺたりと床の上に座り込んだ。 「…死ぬかと思った…」 「……すみません」 私も体を起こし、彼の向かいに座りながら謝る。 「…あの、大佐」 「…ん」 「もう一度きちんと説明しますと、ハボック少尉が、大佐をぎゅーっとすると…」 「いや、もういい」 胡座をかいた彼は、黒髪をぐしゃぐしゃと掻きむしりながら話を遮った。 そして、大きく溜息をつく。 「……ハボックに感謝するべきか、それとも燃やすべきか分からんな」 そう呟いた顔は、疲れがとれて元気になったとはとても思えない。 「…大佐」 「何?」 「疲れ、とれてません…よね?」 「ああ、もちろんだ。ある意味ものすごく疲れた。目は覚めたけどな」 「……すみません」 彼に謝り頭を下げ、そのまま、じっと灰色の床を見つめる。 先程から顔も体も熱を持ったまま冷めず、鼓動も異常なほど早い。 こんなことは初めてだ。 それをごまかすように口を開く。 「大佐」 「今度は何だい?」 「寝ぼけて私と恋人を勘違いしてしまったんですよね。余計なことをしてしまって、本当にすみませんでした。今の仕事が終われば、デートをする時間が…」 「いや、勘違いなどしていないよ」 「え?」 私は床から彼へと視線を移した。 「君だと思ったから押し倒した」 私は、冗談を言っているとは思えない真顔の彼の顔を見つめたまま、固まった。 体と同じく、また思考回路も停止だ。 何とも私らしくない事態が続く。 「……あーあ、やっと君がその気になってくれたんだと思ったんだがなあ」 彼が大きく伸びをしながら残念そうに言う。 「…その気?」 「いや、こっちの話だ」 思考停止のせいで話にまったくついていけない。 「というかね、中尉」 「はい?」 私が返事をするのと同時に、彼の腕が伸びてきて、そのまま抱き寄せられた。 一瞬の出来事。 胡座を崩し、足の間に私を閉じ込めた彼は、呆れたように笑った。 「あれのどこが『ぎゅー』なんだい?最初は爆弾でも仕掛けられるのかと思ったよ」 彼の声がすぐ上から降ってくる。 何なのだこの事態は。 「もっとこうしてちゃんと力を込めないと」 そう言うと、彼は私の体に回した腕に力を込めた。 また彼の熱を押し付けられて、くらくらと目眩がしそうになる。 「なあ、中尉」 「…何ですか」 思考停止の私に今できることは、彼の呼び掛けに平常を装って答えることのみだ。 「ほかの奴には『ぎゅー』するなよ」 「…しませんよ」 こんなことあなたにしかしません。 そう続けようとしたが、何となくやめておいた。 というか、このように心臓の鼓動が速いままでは、まともに言葉を紡げない気がする。 「あー…想像以上に柔らかいな」 どこに置けば良いのか分からず、とりあえず彼の胸にそっと添えていた私の手を取りながら、彼が呟く。 いつも彼が触れているであろうお嬢様方の華奢できれいな手とはまったく違う、女らしさとは掛け離れた私の指に、彼は優しく自身の指を絡めた。 この人は体の中にも火をつけることのできる錬金術師なのだろうかと本気で思う。 「中尉、仕事は一時間で片付けるよ。約束する」 「…少ないとはいえ、一時間では無理ですよ」 すでに考えることを放棄した頭でも、彼の言ったことが不可能なことくらいは分かった。 「いいや、一時間で済ませる。私なら出来るよ」 自信満々にそう言うと、彼は私の頭に寄せていた顔を離した。 「だからさ、中尉」 その次の瞬間、私はみっともないほど体を揺らした。 彼のあの低い声が再び耳元で聞こえたからだ。 かろうじて声を上げなかった自分を褒めてあげたい。 「仕事が片付いたあと、私と食事にでも行かないか?」 仕事が片付いたら、そのあとはもちろん食事ではなく睡眠をとるに決まっている。 こんなに疲れているのだし、そもそも私は仕事を終わらせ休みたいがためにここへ来たのだ。 「…は、い」 しかし、私はこう答えていた。 これは反則だ。 耳に低い声で直接話しかけられて、「いいえ」と答えられる人が果たしているのだろうか。 「こうして君にすんなりと嬉しい返事をもらえるなんて初めてだなあ」 彼は本当に嬉しそうに笑う。 しかし、そんな彼とは反対に、私にはまたとんでもない事態が起きた。 「ひゃっ!?」 耳元に何かが触れ、ちゅ、と音を立てて離れた。 どうやら彼はピアスに口付けたらしい。 また体が面白いくらい揺れる。 変な声を上げてしまったことを恥じる余裕もなく、私は反射的に耳を手で押さえた。 何故かピアスが湿っている。 また泣き出しそうだ。 「前言撤回だ、中尉。君のおかげでかなり疲れがとれたよ。ありがとう。やっぱりハボックには感謝だな」 混乱しっぱなしの私に気付いているのかいないのか、彼は私を抱きしめていた腕を解いた。 やっと、あの破天荒な事態から解放される。 なのに、頭の片隅で、青い軍服が離れていくのも、指が自由になるのも、寂しく感じるのは何故だろう。 私はただぼんやりと遠くなっていく彼を眺めていた。 「食事、楽しみにしているよ、中尉」 彼はそう言い残し、扉へ向かって鼻歌交じりに歩き出した。 ぱたんと扉が閉じるのと同時に、私は体から力が抜け、耐え切れず床に両手をついた。 冷たい床が、手の平の熱を奪っていく。 泣きそうなくらいの混乱と、それでも心地よかった熱さの、その矛盾したものを解放する術を私は知らない。 「……疲れた」 彼は疲れがとれたらしいが、私は余計に疲れただけに終わった。 私の方こそ、ハボック少尉に感謝すべきなのか一発お見舞いするべきなのか分からない。 そして仕事のあとも、またさらに「疲れる」と表現するには足りないくらいの何かが起きるのだろう。 彼はまたこの体に触れてくれるのだろうか。 先程まで彼と絡み合っていた指を見つめながら、ぼんやりとそう思った。 |