「そうね、少し困っているの」 少々眉を寄せた彼女が言う。 「一緒に寝るのはやめましょうって、ちゃんとこっぴどく言っているのよ?その度に渋々だけど頷いてくれて、ようやく分かってくれたようねって、一安心するんだけど…」 そこで溜息交じりに言葉を切り、きれいな形の眉をさらに歪ませた。 「やっぱり駄目なのよ。私が寝ていると、それをいいことに勝手にベッドに忍び込んでくるの。朝になってから驚くわ。それにね、そのあと…なかなか離してくれないし」 今日もそうだったのよ、と彼女が盛大に息をはく。 しかし、その時のことを思い出したのか、険しい表情から一転、彼女はふっと口元を緩めた。 「というわけで、本当に困っているの」 本人はまったく気が付いていないのだろう。 そう口にしているのとは裏腹に、その表情は実に嬉しそうだ。 困り笑い、そんな言葉がぴったりな顔。 ああ、そんな君も本当に素敵だ。 可愛い可愛い。 しかしだね―― 「そのブラックなんとか号が実に羨まし…いえ、実に困った事態ですね!それは!」 どうしてそんな可愛らしい笑みを、いま知り合ったばかりの、どこの馬の骨とも分からぬ下士官に向けているんだい、君は。 馬鹿か。馬鹿なのか。 愛しくてたまらないハヤテ号の話を持ち掛けられたからって、そんなに気安くぺらぺら話すんじゃない。 食堂で憧れのリザ・ホークアイ中尉の隣の席をゲットできたこの男は、色々な意味で東方の悪魔と囁かれている私なんか、まったく眼中にないらしい。 おいおい、階級は私の方が上なんだぞ。 馬鹿二人目だな。 というかね、中尉と仲良く向かい合って座って、新婚さんと見間違うほど楽しく仲睦まじくおしゃべりしていたのは、元は私が先なのだよ。 あとね、そうやって中尉と仲良くしていい男は私だけなんだ。 私の中尉と勝手にしゃべるな、見るな、親しくなろうと期待を抱くな! というかあの犬め、中尉と一緒に寝ているのか! 私にはそんなことを許さないくせに! この男の処分は、午後の仕事をサボりながらじっくり考えよう。 あの犬っころは…お気に入りの黄色いボールを隠してやるか。 そして君、リザ・ホークアイ。 この苛立ちを解消できるのは君だけだし、それから君にぶつけてみたい気分だし、今夜は覚悟しておきなさい。 「大佐は歯並びがいいですね」 「は?」 彼女の突拍子もない一言で、自称・これで落ちない女はいないスマイルは崩れた。 思わず、間抜けにもぽっかりと口を開けてしまう。 「ずっと歯を出していらしたので、そう言ってほしいのかと思ったんですけど、もしかして違いましたか?」 「…歯を出すって…君に微笑んでいたんだけど…」 あのまばゆいほどの王子の微笑みが効かなかった女性は、彼女が初めてだ。 キラキラオーラをこれでもかと出していたはずなのに、彼女に跳ね返されて、額にかつんと当たった気分だ。 実際に痛くはないが、思わず額を手で押さえた。 「大佐、料理が冷めちゃいますよ」 「…あ、うん…」 気が付けば、向かいに座る彼女は、目の前に並べられた皿の上の料理をきれいに片付けていた。 それもかなりの数を。 ここは私がもつよと、そう告げた瞬間、彼女はメニューをどんどんと追加し始めたのだ。 こんな女性も初めてだ。 「…はあ…」 フォークの先で綺麗に切られた肉を転がしながら、思わず溜息をひとつ。 せったくお気に入りの雰囲気のあるレストランを予約したのに、思い通りにいかないことばかりだ。 「歯を出したり溜息をついたり、大佐は忙しい方ですね」 「……誰のせいだと思っているんだ」 「大佐、口の横にソースがついています」 「嘘っ!?」 「嘘です」 「……君ねえ!」 もう一度言うが、こんな女性は初めてだ。 はっきり言ってしまえば、私に落ちない、そして、こんな可愛くない女は初めてだ。 しかし。 意外と豪快に料理をフォークで口に運ぶ姿だとか、それとは対称的に丁寧にナプキンで口を拭く仕種だとか、白い喉を見せながらワインを一気に飲み干す様子に―― 「何故か見惚れてしまうんだよ!こっちに見惚れてほしいのにっ!」 「大佐、メニュー追加しますね」 「あのー、中尉、別にいいっすから」 「駄目よ。じっとしてて」 頭に伸びてくる手をやんわりと払おうとすると、逆に強い力で頭をわしずかみにされて、そのまま固定された。 そして、ずいぶんと強引な力で近くにあった椅子に座らさせられる。 これ、絶対に女の力じゃないって。 と、思うものの、賢い俺は口には出さない。 「少尉は意外と細かくて気を遣うのに、変なところで適当な性格よね」 現場作業で髪の毛についてしまったらしい泥を、彼女の指が丁寧に払っていく。 それを上目遣いに眺めながら、思わず笑う。 「それ、中尉には言われたくないですよー」 「……どういう意味?」 「というかですね、別に俺の頭に泥がついていようが血がついていようが、別にこのあとにデートがあるわけでも…」 「…デートがあるわけでも?」 「…デートなんか…もう…あるわけ…ない、ですし…」 俺の話を遮るように、中尉がぽんと優しく俺の肩を叩く。 「……もう何も話さなくていいわ」 うわ、やばい。 自分で話しておきながら、俺、本気で泣きそう。 「…ちゅうい〜…」 「少尉は顔も性格も最高なのに、どうしてかしらね?やっぱり仕事が忙しいからかしら?」 「…そんなこと言ってくれるの、中尉だけですよ…」 俺を振ったときの元彼女の言葉を思い出しながら、ずずっと鼻をすする。 悲しさと優しさが一度に胸をさす。 「今度、また飲みに行きましょ。私でよければ、いろいろ話聞くから」 はい終わり、と、そう言って中尉がにこりと笑う。 滅多に見られない東方の女神の極上のスマイル。 中尉の優しさと笑顔が、ぼろぼろの体からちょっとだけ悲しみを追い出して、じーんと染みていく。 この際だからもう少し甘えちゃおーっと、俺は泥を取り終えて離れていく中尉の手を取った。 「何?」 「あ〜…久しぶりの女の子の手ぇ〜…」 中尉の両手を取って、揉んだり握ったりしてみる。 すると、中尉は不快な顔ではなく、あら、と驚いた表情をした。 きれいな紅茶色の目が丸くなる。 「少尉が私を女として見ていたなんて意外だわ。しかも女の子だなんて」 「やだなあ、中尉。俺はいーっつも中尉のことを可愛い可愛い女の子として……」 「……ほう、可愛い女の子として?」 背後に「どす黒いもの」という表現だけではとても足りない、何か死を感じさせるものを感じ、言葉をぴたりと止めた。 というか、口も体もうまく動かせない。 かろうじて、触り心地の良かった中尉の手を、人間離れした速さで振り払う。 どうしたのよ少尉、という表情していた中尉が、固まる俺のうしろへ顔を向けた。 「あら、大佐じゃないですか」 「……ハボック、ちょっと来てもらおうか」 「いいいいい嫌っす!無理!てか、ぬわーっ!熱っ!!」 大佐はもう手に発火布を嵌めていた。 すでに時遅し。 先ほど中尉がきれいに泥を払ってくれた部分の髪が、ちりちりと音を立てている。 「待てハボーーック!!」 「ぎゃーーーーっ!!!」 俺は「大佐っ!」と怒鳴る中尉から離れ、殺意満々の大佐を神業とも言える身のこなしで交わし、戦場より危険な部屋から脱出した。 大佐と中尉のそれぞれの怒声を背中に、死に物狂いで廊下を走る。 俺が彼女に振られる理由が今、分かった。 確かに俺の性格だとか仕事が忙しいだとか、それも原因なのだろう。 しかし、何より一番の原因は。 「大佐が俺に嫉妬して仕返しに俺の彼女を奪うからだーーーっ!!!」 逃げ出してきた部屋から銃声の音を聞きながら、俺は力いっぱい叫んだ。 あ、でも中尉、大佐にばれないように飲みに行きましょうね! あんたといると楽しいですから! それから大佐! 嫉妬して人の彼女ばっかり奪ってないで、さっさと中尉を奪っちゃってくださいよー!!! 「……それくらい自分でできます」 顔にかかっていた金の髪を耳に掛けてやると、彼女は閉じていた目を不快そうに開いた。 予想はしていたが、やはり「くすぐったいです」なんて可愛いらしい言葉は、彼女の口から出てこない。 額に浮かんでいた汗を指でなぞり始めると、今度は茶色い瞳に睨まれた。 先程までの行為はもしかしたら幻だったのではないかと本気で思うほど、隣に横たわる彼女の態度は冷たい。 私が触れる度、彼女は欝陶しいとでも言いたげに目を細め、おまけに顔をしかめるのだ。 本当に冷たい。 というか、つまらない。 抱き合ったあとの熱が急激に冷めていくほど可愛くない態度をとる女は、彼女が初めてだ。 今だって、本当は二人で体を寄せ合ってシーツにくるまりたいところなのに、以前そうしようとしたら、彼女に見事な蹴りを入れられたのでお預けだ。 そのため、私達の間には、彼女の愛犬が入り込めそうなくらいの何とも寂しい距離がある。 「…いい加減やめてくれませんか?」 乾いていた薄い唇の中に人差し指を差し込もうとすると、とうとう彼女は痺れを切らしたのか私に背を向けてしまった。 彼女の背中に住む火蜥蜴でさえ、まるで私を拒否しているかのように見える。 ――きっと彼女は、私に女としての「リザ・ホークアイ」を求められることを、まだ解せないでいるのだろう。 私を守り私を支え、共に上を目指すために彼女は私の側にいるのに、私はそれ以外にも欲しているから。 手を伸ばし、だいぶ遠くにある彼女のすべらかな肩にそっと指先で触れた。 途端に彼女の体がぴくりと揺れる。 彼女が否定の言葉を発する前に、肩から首筋、鎖骨、そして胸までを、ゆっくりと焦らすように指でなぞる。 彼女が緩く握った拳を唇に押し付け、必死に声を抑えているのが、見えなくても分かった。 それでも漏れてしまう彼女の湿った吐息に、背中にじわりと甘い痺れが走る。 すべらかな柔らかい胸を指先で執拗に味わう。 そして、彼女がそちらに気を取られている隙に、ゆっくりと引き締まった腰を抱き寄せた。 暗闇でもはっきりと分かるほど、胸におさめた彼女の耳は、ピアスの色と同じくらい赤くなっていた。 唇を寄せた頬も異様に熱い。 彼女は私に女として求められることに、いまだ戸惑っている。 なんて、考えてみたりもするのだが、実は、彼女はただ恥ずかしがっているだけなのかも、とも思う。 「大佐、触らないでください揉まないでください舐めないでください。あっち行ってください、というか帰ってください。さもないと額に穴が開きますよ」 赤く染まった耳を唇で挟むと、彼女が悩ましげな吐息を交えながら、それでも強気に早口で抵抗する。 腕におさまっている体が、また更に熱を持ったような気がした。 甘い言葉や可愛い態度なんて彼女はくれやしない。 しかし、今はこれで我慢するとしよう。 まったく可愛くないのにこんなにも愛おしく大切に思う女性も、実は、彼女が初めてだ。 そんな人は、きっとこの世に彼女しか存在しない。 彼女が拒否する度に、頭のどこかがじわりと蕩けるように熱くなるのを感じながら、白い体をより一層きつく抱き寄せた。 「ちょっ…!十秒だけって…っ!」 何とか彼の唇から逃れて放った言葉は、また彼に飲み込まれてしまった。 どうして彼の舌は生きているかのように器用に動くのだろう。 私の嫌なところばかりをいじめるように触ってくる。 「あ…っ、マスタングさ…!」 思わず昔の呼び名を口にしてしまったところで、ようやく解放された。 無意識のうちに掴んでいた彼のシャツを握る手の力が抜ける。 それと同時に、背中を支えていた彼の手が離れた。 約束を大幅に破った彼を毅然ときつく睨んでやりたかったけれど、耐え切れず体がベッドに倒れ込んだ。 柔らかい枕に頭が沈み込むと、途端に彼の匂いが広がる。 勝手に滲む涙も、まだうまく抑えることのできない荒い息も、嫌いだ。 そして、それをじっと見つめる黒い瞳は、もっと嫌いだ。 東方の美女を半分は抱いたかなと豪語する彼にとって、そういうことにまったく慣れていない私の反応は、彼にとって楽しくて仕方がないのだろう。 案の定、彼はにんまりと笑っていた。 「ね、ホークアイ少尉」 しかも、彼は先ほどの私の間違いを聞き逃していなかったらしい。 いつも仕事以外では「ホークアイ」なんて付けて呼ばないくせに、本当に嫌な人だ。 「君はいつもきっちり十秒数えているんだね」 「…十秒だけって、中佐が言うから…」 たまに彼が変なところ触るから意識がそちらの方にいってしまい、正確ではないが。 「君は呆れるくらい真面目だな」 まだ笑いを抑え切れないらしく、彼は喉の奥をくくっと鳴らしながら、私に覆いかぶさってきた。 にんまりと笑う彼から顔を逸らそうとすると、唇の端から溢れていた唾液がゆらりと動いた。 枕についてしまう。 そう思い、指で拭おうとした瞬間、生暖かいものが顎に触れた。 「ひゃっ!?」 また変な声を出してしまった。 肩もびくりと大きく揺れる。 彼が私の顎を舐めたのだ。 ――どうせまた彼に笑われる。 そう覚悟したが、意外にも彼は無表情のまま、私をじっと見つめていた。 黒い瞳に吸い込まれそう、などと思っていると、顎を甘く噛まれた。 「……君はさ」 「…何、ですか」 彼の息が首筋をくすぐり身をよじった。 「本当に可愛い」 「……は?」 二つの黒は、いまだにじっと私を見つめていた。 居心地悪く思いながらも目を逸らすことができない。 ああ、また駄目だ。 駄目。 訳の分からない言葉すら、彼が発すれば、その声が言葉が、じんわりと体に甘く染みていく。 「そんな君で遊ぶのは本当に楽しくて仕方がない。もうやみつきだよ」 ふと気が付けば、彼は真顔から、いつもの人をいじめる時の嫌な笑顔に戻っていた。 「じゃあホークアイ少尉、今度は三十秒だ」 どうせ今日はデートを断られたから私のところに来たのだろう。 ただの暇つぶしでこんなことをして、私の反応を面白がる彼は嫌いだ。 でも私に拒否権はない。 彼に捕らえられてしまった私は、またきっちりと馬鹿らしく三十秒数えるのだろう。 |