アルコールで体が火照っているとはいえ、真冬の深夜に外を歩いていると、当たり前だが寒い。 寒すぎる。 コートの隙間から引っ切り無しに入り込んでくる風に、そこら辺に火をつけてやろうかと苛立つ余裕もない。 寒いと暖をとりたくなるのは当然のこと。 だから私はここへ来たのだ。 それなのに、もしかしたら外よりも寒いのではないかと思うほどの冷気が、部屋中を満たしていた。 私は思わず自分を抱きしめるように両腕を回し、腕をがしがしとさすった。 ここは外より暖かいはずなのに悪寒がする。 鳥肌が立ちそうだ。 それに、出ていけという無言の圧力を感じる。 冷気を出している張本人、そしてこの部屋の主は、先ほどから一言も言葉を発することなく私を睨んでいる。 ふと、テロリストなどと対峙しているときの表情と、よく似ていると思った。 きりりとしていて美しい。 睨まれるあいつらが少し羨ましくなってしまったではないか。 けれど怖いよ、怖すぎるよ、中尉。 「……今、何時だと思っているんですか」 「あ、やっと喋った」 「今、何時だと思っているんですか」 彼女がもう一度、同じことを聞いてくる。 何だか殺気が篭っていた。 「…えーと」 胸ポケットに入っている銀時計を探っていると、ベッドから、ひゅっと枕が飛んできた。 しかし、それはいつものことなので、酔ってふらふらした体でも軽々と避けられる。 さすがは東方のアイドル、ロイ・マスタング。 「午前二時ですっ!」 「あ、今言おうとしたのに」 床に枕が落ちるのと同時に、私はぱちりと銀時計を閉じた。 「分かっているなら聞かなきゃいいじゃないか」 「……あなたは常識や迷惑という言葉を知らないんですか」 やっぱり地の底から這うような殺気たっぷりの声だ。 パジャマを着てベッドに寝ている彼女は、軍人だということを忘れるくらい可愛らしいただの普通の女性に見えるはずなのに、戦闘態勢に入っているように感じる。 そういえば彼女は寝起きが悪い。 深夜に無理やり起こすとなおさらだ。 鍵を壊す錬金術の音で目を覚まし、睡眠を妨害されたら、そりゃあ怒るか。 でも仕方がない。 私は彼女に会いたかったのだから。 「……何しに来たんですか。何か緊急事態でも?」 「何って、暖めてもらいに」 「今すぐに帰ってください」 「あと寝に来た」 「帰ってくださいっ」 彼女が声を荒らげる。 「中尉、あんまり大きな声を出すと近所迷惑になるぞ」 コートを脱ぎつつ、しーっと、自分の唇の前に一本指を立てる。 それと同時に、また部屋の温度が下がった気がした。 彼女はブランケットを剥いでがばっと起き上がり、いつから持っていたのか、私に彼女の愛銃を向けてきた。 「……中尉、それこそ近所迷惑……」 「そうなる前にお帰りを」 コートをばさりと床に落とし、迷うことなくホールドアップ。 細められたきれいな二重に背中がぶるりと震える。 また悪寒。 ふと、そこであることに気がついた。 「お、今日のパジャマは赤のチェックか。可愛いな」 彼女は無言でさらに目を細くしたが、「何を言っているんだこいつは」と思っていることは容易に分かった。 パジャマを身に纏う彼女のあまりの可愛さに、ホールドアップしていた腕を下げて、もっと近くで見えるように、彼女の方へ歩み寄る。 「うん。かなり可愛い」 ベッドの端に立って、相変わらず私をきっと睨んでいる彼女を見下ろしながら、うっとりと言う。 泣く子も唖然と固まってしてしまうほど恐ろしい顔をしているものの、本当に可愛い。 彼女の寝起きの顔は、たとえ睨んでいても殺気満々でも、いつもよりもわずかにふにゃりとしていて絶品だ。 むっと尖らせている唇も、くしゃりと寝癖のついた柔らかな金の髪も愛おしい。 深夜に起こされて機嫌の悪い彼女は、むしろ、まだ眠りたくないと駄々をこねる子供のように見えた。 パジャマの下は下着を身に付けていないらしく、ふんわりと膨らんでいる胸元だけは子供らしくないけれど。 いつもよりどこか幼く見える彼女が、何度も言うが、とにかく可愛い。 可愛すぎるじゃないか。 私は思わず、彼女の白い頬をむにっと摘んだ。 私の冷たい指先が彼女の熱を吸い取っていくのが気持ち良い。 「君、今とーっても可愛らしいよ」 銃を向けられているというのに、酔っているせいか大胆な行動。 彼女は先ほどから相変わらず無言で、おまけに鋭い目付きで私を見ていたが、ふう、と溜息をつくと、サイドテーブルに銃を置いた。 あ、もしかして、もう怒っていない? しかも、彼女の両手が、私を抱きしめるかのように近付いてくるではないか。 そう思ったのもつかの間。 頬に急激な痛みが走る。 「痛い痛い痛いっ!本当に痛いっ!いーたーいーっ!」 涙目で叫んでも彼女は容赦ない。 彼女は、私が彼女の頬をつまんだ二十倍くらいの力をこめて、頬を引きちぎるのではないかと思うくらい抓ってきたのだ。 「早くお帰りください」 やめてくれという懇願を無視し、彼女は無表情でさらりと言う。 ぎりぎりと力をこめる指先と、眉ひとつ動かさない表情との温度差が怖い。 「びっ、美男子が崩れるーっ!」 「もうすぐ三十路のくせに」 「皆のアイドル、東方司令部のスターの顔が伸びるーっ!」 「ただの迷惑上官でしょう」 そう言うと彼女がぱっと手を離した。 色々とひどいことを言われた気がするが、あまりの痛みでそれどころではない。 頬を優しく何度もさする。 良かった。伸びていない。 「……こんなことをする女性は君くらいだよ、中尉」 鼻をぐずっとすすりつつ呟く。 「じゃあもっとして差し上げます」 「何でそうなるんだ」 「…って、何であなたこそ服脱いでるんですか!」 今まで無表情だった彼女の顔が崩れて、再び鬼のような形相に戻る。 「何でって、寝るからに決まっているじゃないか」 床に脱ぎ捨てたコートの上に、寝るのには邪魔なマフラーやジャケットをぽいぽいと投げ捨てる。 「寝るなら自分の家で寝てくださいっ」 「だってさ、店からだと私の家より中尉の家の方が近かったし、それに君と一緒に寝たいんだもん」 「『だもん』じゃありませんこの三十路が」 また傷つくことを言われたような気がしたが、構わずベルトをぽいっと投げる。 これで寝る準備完了。 「だいたい、先ほどまでデートしていたんでしょう?その方のところへ行けばいいじゃないですか」 「デートって言っても情報収集だよ、中尉。やきもちは嬉しいけど」 「勘違いはよしてください。殴りたいほど迷惑です」 「ま、君は素直じゃないからね。おまけに、恥ずかしがり屋さんだし、照れ屋さんだし。ま、そこがいいんだけど」 きらりと白い歯を見せながら、周りに花が飛んでいるのではないかと錯覚しそうなほど爽やかに言う。 これで落ちない女はいないぞ、中尉。 が、彼女はあっさりと無視。 「出て行ってください」 「中尉、さっきから冷たすぎるぞ。だいたい恋人が深夜に訪問してくるくらい、許してくれてもいいだろう?」 「………恋人?」 彼女の眉があからさまに不快そうに、ぎゅっと歪められた。 「というかさ、恋人の訪問に照れ隠しをするのはいいけど、あれは激しすぎるんじゃないか?」 「…この馬鹿大佐…」 彼女は、腹の底から、はあーっと深く、とても深く溜息をついた。 「あなたはこの台詞を何度言わせる気ですか。私は大佐の恋人ではありません。大佐の勝手な妄想です。そして私はあなたのことを好きではありません。むしろあなたは腹立たしい存在です。私はただのあなたの部下です。そしてあなたは、ただの迷惑で自分勝手で思わず銃を向けたくなるような上官です」 「またまたあ」 「…酔っている大佐はいつも以上にたちが悪いわ…」 彼女は何かを小さく呟いて、頭痛に耐えるかのようにこめかみを押さえた。 「こんな遅い時間までほかの女性とデートをしていた恋人なんて私にはいません」 「だからデートじゃないって」 「…こんな時間まで情報収集を?」 「うん」 「香水の匂いがぷんぷんします」 「そう?」 「おまけにシャツに口紅がついていますが」 ちらりと視線を下に向ける。 ……やりやがったな、ミシェルめ。 「……子供には分からない大人の事情というものがあるのだよ、中尉」 胡散臭そうにこちらを見ている彼女の鼻をつんとつついてごまかす。 「まあ、やっぱり、やきもちは嬉しいけどね」 「もうっ!馬鹿ですかあなたはっ!」 ばしりと手を払いのけられた。 手が確実に赤くなっている力の強さだ。痛い。 「言葉の通じない人と話すのは疲れますっ」 彼女はいつも以上に機嫌が悪い。 さすがに恋人といえど、深夜にいきなり訪問されて、睡眠を邪魔されて、しかもその恋人がほかの女と会ったあとだったら、キレるのも無理はないか。 悪かったな、と、私にしては珍しくもう一度反省する。 しかし私は彼女と一緒に寝たいのだから、今さら帰るつもりはさらさらない。 「ということで、ま、寝ようか」 「駄目ですっ」 ブランケットをめくりあげると、また彼女が怒鳴った。 「なんだ君、今日は本当に機嫌が悪いな」 「誰のせいだと思ってるんですかっ!」 「せっかく恋人が来てるのになあ。ま、ちょっぴり強引だったけど」 「でーすーかーらっ!私はあなたの恋人じゃないですしあなたのこと好きじゃないですしむしろ嫌いですっ!理解してください!その頭はただの飾りですか!?」 「…照れ隠しにしてはひどいよリザちゃん…」 「照れ隠しじゃないですこの無能!」 一応敬語を使っているものの、まったく敬ってはいない。 完全にご機嫌ななめだ。 ふと、こんな時の彼女の宥め方を思い出す。 酔っ払っていたせいか、すっかり失念していた。 私は、息つく間もなく文句を叫んでいる彼女の方へ身を乗り出した。 ベッドに座るように乗り上がり、彼女と視線を合わせる。 「ちょ…っ、こっち来ないでくださいっ!寝るならアパートの廊下でどうぞ!」 蹴りを仕掛けてきた彼女からするりと身を交わし、彼女の肩を少々強引に掴む。 「たい…っ!」 やっと彼女が大人しくなった。 触れた唇は、相変わらず一度じっくりと食べてみたいほど、柔らかくて甘い。 彼女のしっとりとした唇を舌でつついて開かせようとしたが、彼女の真っ赤に染まった耳が目に入り、やめておいた。 とても名残惜しいけれど、ちゅっと音を立てて唇を離す。 彼女は視点の合わない目付きでぼーっと私を見ていたが、はっと我に返ると、慌てて私に背を向けベッドに潜り込んだ。 動きが小動物のようで可愛らしい。 そして喜ばしいことに、彼女が背を向けたことによって、やっと私がベッドに入れる隙間ができた。 この機会を逃すまいと、急いでベッドにすべりこみ、彼女からブランケットを半分もらう。 「はー、ぬくいぬくい」 彼女の体温で温められたシーツが心地よい。 そして、少々無理やり抱き寄せた体は、もっと心地よい。 思わず目の前にある金の髪に頬擦りをする。 「何であなたはいっつも言うことを聞いてくれないんですか。自分勝手すぎてうんざりです」 「ねえリザちゃん」 「寝るなら廊下で寝てください。朝、ドアで頭を殴って起こしてさしあげますから」 「君も十分に分かっていると思うけど、顔がものすごく赤いよ」 「……うるさい」 「うるさいって、君ね、私は一応上官だぞ。あ、あと君の恋人ね」 恋人、という部分をわざと強調して言う。 さて、今日はどんな言い訳が聞けるのだろう。 「……いきなり、あんなことされたら」 「ん?」 「驚いて赤くもなります」 「へええー。あんな子供みたいなちゅーでねえ」 「だって急だったじゃないですか」 「もっとすごいのしてみる?」 「私、実は大佐と同じで酔っているんです。風邪気味なんです。それから化粧…って、どこ触ってるんですか!」 「あ、やっぱり下着つけてない」 下手くそな言い訳を楽しみながら、彼女の体の柔らかく心地良い部分も堪能する。 「やめてくださいっ!掴まな…っ、やだっ!」 あんな子供のするような「ちゅー」のあとだが、効果抜群だったらしく、抵抗する力が弱い。 安々と押さえ付けて、耳元に唇を近付ける。 「ねえ中尉」 「何…ですか」 まだ赤い耳に囁きかけると、彼女はまた小動物のようにぴくりと肩を揺らした。 「こっち向いて」 「あなたが今すぐ出ていくなら」 「恋人を追い出すつもり?」 「何度言わせるつもりですか…恋人じゃありません」 「だってもう口で言うだけで追い出そうとしないじゃないか」 「……酔っ払ったままの大佐が無事に家に帰れるかどうかは五分五分ですし、その間に風邪をひかれたら困りますし、どうせあなたはいつものように遅刻するんでしょうし、ここで面倒を見た方がいいと、今、決めたんです。感謝してください」 「それってつまり、私のことが好きってことじゃないか」 「何でそうなるんですか」 「じゃあ君は酔っ払った上官なら誰とでも寝るんだ。ふーん」 「あなたが勝手にベッドに入りこんで来たんでしょう」 「ちゅーもするんだ。へえー」 「だからそれもあなたが無理矢理したんです。私が望んだことじゃありません」 「ねえ中尉、そろそろこっち向いて」 「嫌です」 金の髪をかき分けて、うなじに口付けながら言うと、吐息交じりに彼女が否定する。 彼女は幼い頃、普通の人がごく当たり前に経験する家族や他人との触れ合いがまったくなかったせいか、それとも相手が私だからか、ただ軽く触るだけでもとても敏感に反応する。 原因は後者だと、私は思いたい。 頬を触っただけなのに、今にも泣きそうな顔をされた時は驚いた。 あんな「ちゅー」だけで、顔を林檎のように可愛らしく真っ赤に染めるなんて、好きと言っているようなものじゃないか。 これは私の勝手な思い込みか? 「あ」 「何ですか」 首にかかる息がくすぐったいのか、彼女が身をよじる。 「そういえば君に『好き』とか『愛してる』って言ってもらったことないかも」 「そう思ってないので当たり前です」 「うーん。君は恋愛事には世界を代表するくらい鈍感で不器用だけど、絶対に私のことが好きだよ」 「そのあなたの自信過剰は世界一ですね」 「いい加減認めてよ、中尉」 そう言うと同時に、しなやかな腰を抱き寄せる。 「いつも身勝手なことも悪いと思っているし、今のことも反省している。君のことになるとどうしてもわがままになってしまうんだよ。でも、あんまり冷たくされると寂しいよリザちゃーん」 冗談めかして笑いながら言ったが、本心だ。 そろそろ本気で寂しくなってきた。 「こっち向いて」 「……嫌、です」 熱を持った形の良い耳に直接、低い声で呼び掛ける。 彼女の体がまた揺れた。 「ねえ中尉」 「…嫌ですってば」 「……リザ」 名前で呼ぶと、見えなくても、彼女がぎゅっと目をつぶったことが分かった。 彼女が、はあ、と深く息を吐く。 「…もう、本当にあなたはわがままです…」 そして、ゆっくりと、スローモーションを見ているかのように彼女がゆっくりと体を動かし、私の方に向き直った。 「……これで満足ですか」 「うん、大満足だ」 目の前にある顔は相変わらず不機嫌そのものだったが、ものすごく赤い。 そんな彼女に小さく笑いながら、熱い体をより一層強く抱き寄せた。 彼女の心臓の鼓動が心配したくなるほど速い。 「超」をいくつ付けても足りないほど、素直じゃなくて鈍感で恥ずかしがりやで、そして恋愛に疎い彼女が振り向いてくれたなんて、大きすぎる一歩だ。 嬉しさを抑え切れず、堪らず、金の髪をぐしゃぐしゃと掻きむしる。 「君はいつか絶対に私を好きだと認めるよ」 「まさか」 機嫌よくそう告げると、彼女が即座に否定する。 「そうしたら君は私がいないと駄目になっちゃうだろうなー。困ったなあー。あ、今でもそうかな?」 「本当にあなたはおめでたい方ですね」 「そう言っていられるのも今のうちだよ、リザ」 「…私、そんな勘違いばっかりのあなたが本当に嫌いです。好きになるなんてありえません」 それが、私の腕の中で目を閉じながら言う台詞なのだろうか。 彼女は大分、心音が落ち着いてきて、自ら心地良さそうに私の胸に頭を擦りつけてくる。 これで嫌いだなんて嘘だろう。 早急に認めさせてやるからなと意気込んで、彼女の額にキスを落とし、私もようやく目を閉じた。 |