今夜は熱帯夜になるでしょう、という天気予報は、見事大当り。
少しだけ冷たい壁に背を預け、ぺたりと床に座りこんで、私は無言で暑さと戦っていた。
窓から入りこんでくるのはぬるい風ばかりで苛立つ。
髪の生え際が汗ばんで気持ちが悪い。
愛犬も、この熱にまいっているらしく、フローリングの床に力なく体を横たえていた。
はっはっはっと、せわしなく舌を出しながら呼吸している。
舌を出したら、ほんの少しは涼しくなるのかしら。
それは、ほんの少しの出来心だった。
暑さで頭がおかしくなっていた、と言ってもいい。
私は、愛犬の真似をして、ちろりと舌を出してみた。
その結果、涼しくはならなかった。
むしろ、余計に暑くなってしまった。
私の隣に座っていた彼が、私の舌を掬い取って舐めてきたから。
私に覆いかぶさってくる様子は、木の陰にじっと身を潜め、そしてやっと獲物を捕らえることができたライオンのように見えた。
「…やめてくだい」
唇から溢れた唾液を拭いながら、彼をきつく睨む。
ぴしゃりと厳しく叱るつもりが、自分らしからぬ甘い声を出してしまった。
「どうして?」
私を抱き上げて立ち上がると、彼は不思議そうに私の顔を覗き込んできた。
「君が舌を出したのは、そういうことじゃないのか?」
「…違います。私はハヤテ号の真似をしただけです」
「じゃあ私も君の真似をしただけ」
「あなたのは真似どころじゃないでしょう」
彼はベッドまで鼻歌交じりにすたすたと歩き、ついに私をシーツの上に放り投げた。
「……暑い日は嫌だって、いつも言っているじゃないですか」
「私はね、もう我慢の限界なのだよ、中尉」
「もう、ちょっと…っ、暑いの本当に嫌なんですっ」
体を押し付けてくる彼の胸を押し返しながら、必死に訴える。
「大丈夫、暑いのを忘れるくらい熱くしてあげるから」
「そんなの…っ」
言葉の途中で彼に唇を塞がれる。
ああもう、また熱くなったじゃないの。
愛犬の真似なんてするんじゃなかった。
私は、ふう、と溜息をつき目を閉じた。
ここで暴れたって余計に暑くなるだけだ。
抵抗を渋々と諦めて、彼の肌に縋り付く。
とても認めたくないのだけれど、熱を持った彼の肌は、どんなに暑くたって不思議と心地良いのだ。
この肌に免じて、今日は大人しく彼の好きにさせてあげよう。
熱帯夜、なんて言葉じゃ片付けられないくらい熱い夜になりそうだわ。
そんなことを考えながら、私は体を這う彼の指に身をよじった。







君は本当にだらしないな、と、彼によく言われる。
私が今まで出会った中で一番だらしない彼にそんなこと言われるなんて心外だ。
それに、仮に私がだらしないとしても、こんな暑いときくらいだらしなくしたって、誰にも迷惑は掛からない。
小さなソファーの上で寝返りを打ち、熱い息をもらす。
そして、どうして風が入ってこないのよ、と、窓を睨みつけた。
とにかく暑い。
キャミソールもショートパンツも、すべて脱ぎ捨ててしまいたい。
部屋に他人がいるときに裸になるのは、さすがに、だらしなさすぎるかしら。
またシャワーを浴びたいけれど、面倒臭い。
それに、シャワーを浴びようとしたら絶対に彼がついてきて、体を冷やすだけでは済まなくなりそうだから、止めておこう。
彼はテーブルを挟んだソファーの向こうで、私の愛犬に必死に芸を教え込んでいた。
「三回くるりと周ってワンと鳴け!」なんて無理なことを本気で言っている。
そのやかましい声を聞きながら、私は目を閉じた。
勝手に部屋に上がり込んで来た彼が、勝手に愛犬に芸を教え込んでいる声が、耳障りでなくなったのは、いつ頃のことだろう。
私は、彼が「目の毒だ」と言いながら掛けたタオルケットを足で振り落とし、また寝返りをうった。
一人と一匹の心地良い声に耳をすます。
目を閉じても、そこに彼の気配を感じるだけで、何だか安心する。
私がソファーに寝転んで、彼がハヤテ号で遊んで、その後は、どうなるんだっけ――
ここで私は眠りの世界へと落ちていった。


徐々にはっきりとしていく意識の中で、まず、喉が渇いたと感じた。
今すぐに水を飲みたい。
それから次に感じたのは、柔らかな毛触りと、何か温かいもの。
私はゆっくりと瞼を上げた。
すると目に入ってきたのは、私の胸で眠る愛犬と、その隣で私の髪を撫でる彼。
「あ、起きた」
彼の言葉に、まだ意識がはっきりとしないまま、こくりと頷く。
暑いはずなのに、この二つの温かさは嫌いではない。
こうして二人と一匹が並んで寝ていると、まるで家族みたいだと思った。
彼がお父さんで、私がお母さんで、子供はハヤテ号。
まだぼんやりとした頭で、くすりと笑う。
そして、子供を起こしてしまわぬように、ゆっくりと起き上がった。
「ん?中尉?」
私と同時に、お父さんもベッドを軋ませないように起き上がる。
私は吸い寄せられるかのように、汗ばんだくしゃくしゃのシャツに頭を預けた。
そろそろとお腹に手を回して、ぎゅっと抱きしめる。
お父さんが息を飲んだのが分かった。
いつもは平気で私に抱き着いたり、セクハラのようなことをしてきたりするのに、不意打ちにとても弱いのだ。
シャツに頭をこすりつけると、お父さんが私のぐしゃぐしゃになった髪の毛を、優しく梳いてくれた。
これでは、まるで私の方が子供のようだ。
ブラックハヤテ号がお母さんで、私が子供、それでもいいかもしれない。
もう何でも良い。
私は子供なのだから少し甘えてしまってもいいと思い、腕に力を込めながら口を開いた。
「…大佐」
「うん?何、リザ」
機嫌良さそうにお父さんが答える。
「…お水、持って来てください」
私がそうお願いすると、キャミソールをたくしあげようとしていたお父さんの手が、ぴたりと止まった。
そして次には、まるでゴミを捨てるかのように、私をぽいっとベッドに突き放した。
「……珍しく甘えてきたと思ったのに」
ぼすんとシーツに沈むと同時に聞こえてきたのは、お父さんの苛立った声。
あとで覚えていろよ、と言い残して、お父さんはリビングの方へ少々乱暴な歩調で向かって行った。
「……お父さん、怒っちゃったね」
この衝撃でも目を覚まさなかった毛むくじゃらのお母さんを撫でながら、くすりと笑う。
どんなに怒っていても、お父さんは、コップから溢れそうなくらいなみなみと注いだ冷たい水を持って来てくれることを、私は知っているから。
家族ごっこも悪くないなと、私は暑さをすっかり忘れて、くすくすと笑う。
それにしても、「覚えていろよ」とは、どういう意味なのだろう。
頭に疑問符を浮かべながら、先ほどとは打って変わってコップを慎重に運んでくるお父さんが来るのを待った。








電話までの距離がこんなに遠いと感じたことは初めてだ。
ましてや自分の部屋なのに。
やっと思いでベッドを抜け出し、重くだるい体を引きずって受話器を取る。
『やあホークアイ少尉!久しぶりだな!』
こちらが何かを発する前に、うるさいくらいに明るい声が耳に飛び込んできた。
久しぶりって、昨日会ったばかりだし、嫌でもほぼ毎日会うではないか。
相手が名乗らなくても受話器の向こうが誰かが分かる。
緊急事態ではないことにほっと胸を撫で下ろし、私は受話器を握ったまま倒れるように床に座り込んだ。
『久しぶりの非番はどうだったかい?楽しんだか?ふふん、私はこれから何とデートでね。待ち合わせ場所に早く来過ぎてしまって暇だったから君に電話してみたんだが――』
私が口を挟む間もなく上官はべらべらと喋る。
どこぞの上官の子煩悩な親友を思い出す。
今日がデートであることは、三日前から耳にタコができるくらい聞かされていた。
誰彼構わず自慢するなんて本当に子供みたいな人だと、薄暗い部屋で時計を見つめながら思う。
時計は定時を過ぎた時刻を指していた。
中佐のことだから、デート直前に神業とも言えるスピードで仕事を終えて、今に至るのだろう。
『しかし君ね、プライベートとはいえ電話に出るのが少し遅いぞ。というか、話聞いているか?おーい、しょーいー?』
聞いてます、と答えようとする前に、我慢出来ずにくしゃみをひとつ。
鼻をすすりながら、やっと口を開く。
「聞いてますよ。中佐が喋りまくるので、答える暇がなかっただけです」
『……君、風邪ひいているのか?くしゃみしていたし、声がいつもと違う』
「…はい、そうですが…。良く分かりましたね」
今もちょうど冷たい壁と床が心地良く、ここで眠ってしまいたいと思っていたところだ。
電話越しにも関わらず部下の体調が分かってしまうなんて、久しぶりに中佐に感心してしまう。
「なので、だるくてお話を聞いているだけでも少し辛いので、明日お聞きしますから――」
中佐から返事は返ってこなかった。
代わりにガシャンという乱暴に受話器を置く音と、ツーツーツーという機械音が聞こえてくる。
どうやら私は勝手にべらべらと語られて、勝手に電話を切られてしまったらしい。
相変わらず変な人だ。
受話器を戻し、頭と体がふわふわするのを感じながらベッドまでの遠い道のりを戻って行った。



ベッドでブランケットにくるまりながらうとうととまどろんでいると、瞼の裏に閃光のような光を感じた。
それに驚いて目を開けると、扉の開けられた玄関に人影があるのが見えた。
目を開けると同時に手にした銃を構え、ベッドから起き上がろうとすると――
「何をしているんだ君はっ!!」
ぱっと電気が点き、カーテンを開けっ放しだった部屋の中が急に明るくなり、目がくらむ。
それでも、私はきちんと玄関の扉をこれまた乱暴に閉める不法侵入者の姿を捕らえた。
「寝ていなきゃ駄目だろう!?」
不法侵入者は何と先程の電話の相手だった。
買い物袋らしきものをどさりと床に落とすと、ずかずかとこちらに近付いて来る。
そして上半身を起こしていた私をベッドを押し付け、乱れたブランケットを素早く直した。
「…中佐、どうして」
「ああ、やっぱり!君は人を看病する時はきちんと氷枕を作るのに、自分の時はさっぱりだな!」
「それはだるくてなかなか…。…ではなくて。『何をしているんだ』って、こちらが聞きたいんですけど」
「何って看病に決まっているじゃないかっ!」
「はい…?」
玄関先に落とした買い物袋を取りに持った中佐の答えに驚愕する。
デートは?
風邪がうつりますよ?
しつこいですけど、あんなに楽しみにしていたデートは本当にすっぽかしていいんですか?
そんな私の質問に中佐は適当に答えながら、氷枕を作ったり、カーテンを閉めたり、水を用意したりと、とにかく部屋中をせわしなく動き回っていた。
そして、私の額にそっと冷たいタオルを置いたあと、中佐はようやく動きを止めた。
中佐はベッドの隣に椅子を持ち込んで座り、ふうと汗を拭っている。
やっと落ち着いて話が出来る時がきたようだ。
「…あの、中佐」
「なんだい?私の華麗な動きに惚れ惚れしたかい?」
「中佐、私の部屋は物が少ないのに関わらず、中佐は何度か躓いていましたよね」
「……美しき青年の危うさを演出したんだ!」
「…そーですか」
失態をごまかすかのように、中佐は冷たい水の入ったコップを差し出した。
体を起こそうとすると、大きな手に背中を支えられてしまい気恥ずかしい。
おまけにコップを持つ私の手にも、中佐の手が添えられてしまった。
「…体調が悪いとはいえ、これくらい一人で出来ます」
「ん?」
ベッドに戻ると、今度は乱れたブランケットを寸分の違いなく直される。
何故これほどかいがいしいのだろう。
申し訳ないと思うより、だんだん気味が悪くなってくる。
「…中佐、デートはよろしいのですか?」
「うん?」
額のタオルを慎重に直している中佐に問い掛ける。
「またそれか。部下が風邪を引いているというのにデートどころじゃないだろう」
「ハボック准尉でも?」
「あいつはまた話が別だ。気持ち悪い場面を想像させないでくれないか。というか君ね、どうして風邪を引いているのに私に報告をしないんだ!」
中佐は椅子から身を乗り出して、何故かまた頭ががんがんしそうなほど怒り出した。
「今日は非番なので仕事にも中佐にも影響はないと思いましたので。明日には治るでしょうし」
「非番でも何でも体調が悪い時はすぐに私に報告しなさい!いいな!?」
「…はい…」
中佐はものすごく怒っていて、そしておそらくものすごく心配していて、中佐の気迫に負けて思わず頷く。
中佐は私が思っていた以上に部下思いなのかもしれない。
「…でも、私、看病が必要なほどではないですし、というか中佐が私を看病されるなんて絶対におかしいですし、今からデートに向かわれてもいいんじゃないですか?」
ベッドに横になっている私を、椅子に座り上からじっと眺めている中佐に居心地悪く感じながら、中佐に訴えかけた。
先程、水を飲むために体を起こした時、今夜のデート相手に送るであろう花束が見えてしまい胸が痛んだ。
「中佐、聞いてますか?」
「うーん。デートよりもかなり弱っている君を見ている方が楽しいかなと、そう思ってね」
前言撤回。
中佐が部下思いだなんて有り得ない。
「いつもは私を叱り殴り撃ち追い掛け回す君が、こんなにも弱くて儚げなところを今度いつ見れるか――」
中佐の話を遮るように、私はサイドテーブルに置いていた銃に素早く手を伸ばした。
「体調が悪くても私の銃の腕はおそらく変わっていません。むしろ不快感と嫌悪感が加わって、いつもより命中率が上がっているかもしれませんよ。試してみます?」
「……しょ、少尉はつくづく冗談の分からない人間だなっ!嘘だよ嘘っ!いつも君には迷惑を掛けているから看病くらいさせてくれ!」
だから銃から手を離してください。
そう懇願する、どこまでも部下をおもちゃとしか思っていない中佐に呆れつつ、銃をテーブルに戻す。
中佐はその様子を見て、ほっと息をついた。
「…まったく、君は風邪を引いていても相変わらずなんだな」
「誰がそうさせているんですか」
「で、まだだるいかい?」
「……少し」
そういえば中佐が部屋に無理矢理訪れてから、あんなに辛かった息苦しさや倦怠感が少し軽くなった気がした。
「一眠りしたらどうだい?」
「…はい」
中佐に言われるがままに目を閉じる。
渾身の作品だと差し出された氷枕と、何度も変えてくれる額のタオルが冷たくて気持ち良い。
そして何より、気まぐれに髪を梳く中佐の指が一番心地良い。
汗ばんだこめかみに触れられる度に、熱い体が凪いでいくような気分になった。
普段の私なら絶対に上官に看病だなんて許さないのに、この不器用そうでいて繊細な指に甘えてしまう。
「少尉、いろいろと果物を買って来たんだが、何か食べたいものはあるかい?」
小さく首を横に振る。
中佐が触ってくれるなら、それだけでいい。
「困ったなあ…。何か食べた方がいいぞ」
いいえ、中佐がそこにいるだけでいいんです。
「あ、そういえば、この前ハボックの奴が――」
相槌を打てないまま、優しい指の動きに誘われるように、私は深い眠りへと落ちた。



「……寝ちゃったか」
頬に軽く手の平で触れてみても、少尉は何の反応も返さない。
規則正しい寝息に安堵しつつ、風邪のせいで桃色になった頬を撫でる指は止めない。
今日の私はおかしいのだ。
朝っぱらから、いつも口うるさいと感じている少尉の声が聞きたくてたまらず、ずっとそわそわしていた。
そして、やっと夜に電話する機会が出来たかと思えば、少尉は風邪を引いているという。
少尉が具合悪いというのにデートどころではないだろう。
デート相手に断りの電話を入れている間も、頭にあったのはホークアイ少尉のことだけだった。
「…うかうかと部屋に男を入れるのは感心しないな」
勝手に部屋に入ったくせに言えることではないが、あとで少尉にお説教しておこう。
いや、しかし少尉は私を男として見ているのだろうか。
それよりもまず、私は少尉に男として見られたいのだろうか。
「…君のことになると、分からないことがたくさんだ」
しかし、今日確実に分かったことがひとつある。
気まぐれに女を抱くよりも、部下の人形のように可愛らしい寝顔を見ている方がよっぽど有意義だ。
風邪のせいでかさかさになった唇を親指でなぞっていることにふと気が付き、我に返る。
根拠はないが、少尉が抵抗しない今、何かが暴走してしまいそうだ。
「…林檎でもするとしようかな」
形の良い唇からもれる息が指にかかり、わずかに湿る。
それ以上何も出来ないことに名残惜しさを感じつつ、椅子から立ち台所へ向かった。







頭ひとつ分だけ背の小さな体を抱き締める度に、ほんの少し力を込めれば折れてしまいそうな細い体の線にいつも驚いていた。
しかし、腕や肩は心配してしまうほど貧弱なのに、女性特有の柔らかな部分や、それらを構成する真っ白な肌は年齢に似合わず大人びていて、思わず魅力されてしまうほどだった。
何かすれば壊れてしまいそうなこの小さな少女を守ってやりたいと、心の底から思った。
その反面、父を亡くしたリザの保護者でありたいと思う純粋な気持ちだけではいられなくなる瞬間が多々あり、私はいつもそれと戦っていた。
マスタングさん、と、リザの形の良い唇がわずかに動いた。
彼女はこの唇で、この声で、私を好きだと何度も言ってくれた。
リザを抱き寄せるのは無理やりではなく、いつも彼女の合意の上だった。
最初は大袈裟なほどびくりと華奢な肩を揺らし、今にも泣き出しそうなくらい不安げな表情を浮かべていたリザだが、だんだんと慣れてきて、今は遠慮がちに私のシャツに手を添えている。
皺を残さない程度にシャツを握るリザの白い手に、自分の手をそっと重ねて絡ませる。
驚いたリザの唇から、あ、と小さな声が漏れた。
リザが上を向くと同時に金の前髪がさらりと揺れて、不安げな瞳と目があった。
「…僕のことが好き?」
茶色い目を泳がせながら、それでもリザは素直にこくりと頷いた。
柔らかな白い頬がわずかに赤みを帯びている。
――もう限界だった。
少々乱暴に顎を掴み上を向かせ、突然のことに驚いて言葉も出せないリザにそのまま口付けた。
ちょうどよく後ろに古びたソファーがあり、リザのことを考える余裕もなく、ただ初めて味わう彼女の口内に夢中になりながら押し倒した。
痛いと、合わせた唇から震えた声が漏れても、私はそれを無視してリザのブラウスを荒々しくめくり上げ、白い肌を晒した。
リザが喉から苦しげな声を出し、頬には涙がぼろぼろと伝っているのが目の端に見えた。
しかし、リザは抵抗しなかった。
いや、馬鹿な私は白く柔らかな体にただ夢中で、リザが抵抗できないくらい怯えているということに気付けなかったのだ。
ようやく異変に気が付くことができたのは、塞ぎっぱなしだった唇をやっと解放して、雪のような肌にがむしゃらに痕を付けている時だった。
「…や、だ…っ」
リザは涙まみれの顔でしゃくり上げながら、ようやくその言葉を口にした。
慌ててリザから体を離すがもうすでに時は遅く、リザはうまく言葉を紡げないくらい泣きじゃくっていた。
「リザ…ごめん、リザ」
年の離れた少女に何度も頭を下げながら、ぐしゃぐしゃに乱したブラウスや髪の毛を直していく。
これではまるで犯罪者の気分だ。
「…父にも…っ他の人にも、今まで、触られたことが全然なくて…っ」
泣きながら一生懸命話すリザの言葉の断片を拾って、分析するのに苦労した。
先程とは違いできるだけ優しく抱き寄せて背中をさすってみても、リザはまったく泣き止まない。
普通の家庭に生まれ普通に育てば経験するこの慰め方も、もしかしたらリザにとっては初めてだったのかもしれない。
リザは父親との触れ合いが無いに等しく、他人との関わりも極端に少なかった。
いきなり口付けられて、そのうえ押し倒されるなんて、リザの常識の範疇を越えているに決まっている。
涙を拭ってやりがら、「ごめん」と、何度目になるか分からない謝罪を口にした。
「…マスタングさんのこと、嫌いではないんですけど…っ、…こういうことは…っ」



「こういうことは…っ、…嫌なんです…っ」
数年前と同じ言葉を、あの時と同じようにしゃくり上げながらリザは言った。
私もリザもあれから歳を取り大人になり、私達の関係も取り巻く環境もずいぶんと変わった。
しかしやっていることは何も変わらない。
「…何もしないって言ったじゃないですか…っ」
ベッドの端っこで、無理矢理はだけられた体を隠すためにブランケットにくるまり、しくしくと泣いているリザの様子はまるで子供だ。
司令部内で「氷の女」と皆から恐れられている軍人にはとても見えない。
「…すまないリザ…調子に乗った」
涙を拭ってやろうと手を伸ばすと、リザは逃げるように顔を思い切り背けられた。
「…何もしないって中佐が言うから、ベッドに入れてあげたのに…」
「うん」
「どうして…いきなり服を脱がすんですか…っ」
「…ごめん、つい」
ブランケットにしっかりとくるまりミノムシのようになっているリザに頭を下げつつ、背中をそっと撫でる。
「…ねえリザちゃん」
「……なんですか」
不機嫌な返事はまだ涙声だった。
「やっぱり…まだ怖いの?」
「…当たり前です」
「リザ、もう十九歳なのにそんな子供みたいなこと…」
「誰のせいだと思ってるんですかっ!」
「…すみません」
氷の女のポーカーフェイスが崩れる時、それは何と恋人である私がリザに触れる時だ。
そしてもっと最悪なことに、リザは、もう一度言うが恋人である私のみに対して男性恐怖症だ。
「…でも、それでも恋人ってことは、私のことは好きなんだよな、リザ」
「…嫌いです」
「何っ!?」
「えっ、やだっ、触らないで下さいっ!」
自業自得、この言葉が痛いほど身に染みるのはリザの前だけだ。
本来なら甘い時間を過ごすはずのベッドの上で、今宵も子供のようなリザを何とか宥める不毛な時間は過ぎる。







まるで死刑宣告を受けた罪人のように、リザは私の体の下で強張り青ざめていた。
まだ何もしていないのに、シーツを握る手にどんどんと力が入っていっている。
その様子に思わずため息をつくと、吐息が髪をくすぐったのかリザの体がびくりと揺れた。
「リザ?」
「……もう嫌です」
「まだ何もしてないよ」
私の下から這って逃げようとする肩をやんわりと押さえつけた。
背中の火傷を慈しむように何度も口付けて、時折痕を残しながらそのまま真っ白な肩や首筋を唇でなぞっていく。
たったそれだけなのに、下からぐすりと鼻をすする音が聞こえた。
「リザ、別に取って食うわけじゃないんだから」
なるべくリザを驚かさないように耳元で囁き、そっと耳たぶを舌で舐めた。
「ひあっ!」
ずいぶんと色気のない声だが、それと同時に強張っていた体からふにゃりと力が抜けた。
ピアスの周りを舌でなぞり、耳に軽くかぶりつく。
「もしかして気持ちいい?」
「…き、もちわるい…」
「気持ち悪いって、君ね…」
「…あ、やだ、そこで喋るの…っ」
嫌悪しか感じられなかった声が、だんだんと熱っぽいものへと変わっていく。
シーツとリザの体の間に手を差し込み、恐ろしいまでに早く鼓動を打っているであろう部分に触れると、とうとう濡れた吐息が漏れた。
「うわ、君、早死にするんじゃないか」
「…それは…やです」
「じゃあ早く慣れて」
「…ん…ちゅうさ…」
リザの体から完全に力が抜け、指を動かす度に悩ましげな息がシーツに吸い込まれる。
しかし、ここで調子に乗ったりいじめすぎたりすると、リザはまた子供のようにしくしくと泣き出すので要注意だ。
俯せになっていたリザの体をゆっくりと起こして横にし、ベッドの上で向かい合う。
「…中佐…?」
「嫌?」
白い体を抱き寄せながら問うと、答えに困ったのか、リザが私の胸にこつんと額を預けた。
「…よく分からないです」
胸元をさ迷う私の指にリザが頬を真っ赤に染めて身をよじる。
最初はこうしただけでも涙目になっていたのだから、大きな進歩だ。
「まだ怖い?」
「…ん…」
いつものように、まるで幼子を宥めるかのように背中を優しく撫でると、どっちつかずだが甘い声が返ってきた。
こんな蚊の鳴くような小さな声だけで身も心も大きく溶かし反応させる女性はリザだけだ。
まるで「もっと」と催促するような艶のある吐息が桃色の唇から漏れ、我慢できず口付けても、リザは抵抗しなかった。
「…中佐…」
「ん?」
どれくらいそうしていただろう。
背中や脇腹を撫でるとたまにくすぐったがり身をよじる様子が可愛くて、その度に軽くキスをして、気がつけばリザの目はすっかりとろんと下がっていた。
もうそろそろ本番に移ってもいいだろうか。
リザに覆いかぶさろうとすると、リザは私の肩にそっと手を添えて動きを止めた。
「リザ?」
「…中佐、気持ち良いです…」
「え?」
私は思わず固まった。
まだ何もしていないじゃないか。
むしろ、これからもっともっと気持ち良いことをするのに。
「…気持ち良くて、眠くなってきました…」
そう言って、リザは眠くて仕方がないといった様子で目を擦った。
「えっ、リザ!?気持ち良いって…そういう意味か!?」
「…私…もう寝ます…」
「リザっ!!これからもっと気持ち良いことが待っているんだぞ!!」
がくがくとリザの肩を揺さ振るが、リザはぱたりと目を閉じ、されるがままになっている。
「私はもうこれで十分ですー…」
「…きゅ、休憩時間が長すぎた…っ!」
時間配分のミスを嘆きながらシーツにぼすんと一発くらわせる。
その後、がっくりと肩を落とした。
が、リザは落ち込んでいる私とは正反対に、ご満悦といった様子でぴたりと私に体をくっつけてきた。
リザから肌を寄せてくるなんて、こんなことは初めてだ。
「…何?リザ?」
「私、ああいうことは嫌ですけど、中佐の肌は気持ち良くて好きです…」
「…ああ、そう」
眠たげな声で話すリザを肌と肌の隙間がなくなるほど強く抱き寄せてみても、リザはまったく抵抗しなかった。
数十分前は私に服を脱がせることすらリザは嫌がったのに、これも大きすぎる進歩だ。
しかし、裸の男女がベッドの上でただ寝るだけだなんて、そんなことあっていいのだろうか。
仮にも私は東方のプレイボーイと名を馳せたロイ・マスタングなのに。
「…マスタングさん、おやすみなさい…」
「…うん、おやすみ」
思うことは多々あるが、結局私がリザに敵うはずがない。
リザの瞼の上におやすみのキスを落とし、ため息をつきつつ次の計画を考え始めた。








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