世界は二人のために



「お兄ちゃんだと思ってくれていいよ」
ふと思い付いたかのように、そうマスタングさんが言い出したのは何年前の話になるのだろう。
私は意味をあまり理解しないまま曖昧に頷いて、そしてマスタングさんは妙に張り切っていた気がする。
もしかしたらマスタングさんは妹が欲しかったのかもしれない、なんて当時は思った。
マスタングさんに引きずられるまま兄と妹ごっこは始まり、それは彼が私の上官になった今でも変わらない。
兄妹ごっこの内容は…普通の兄妹がするようなことなのかどうなのかよく分からない。
マスタングさんが私の面倒を見るなどと言って部屋に押しかけて来て、結局私が彼の面倒を見ることになったり、私がマスタングさんの部屋に遊びに行って汚い床に呆れて掃除をしたり、あとは――

やっぱり異常なのだろうか。
疲れた顔をしている。
そう言って、こつんと額と額を合わせてきたマスタングさんからさりげなく距離を置こうと、私は後ずさった。
しかし失敗に終わる。
私のすぐ後ろにはソファーの肘置きがあって、これ以上は進めない。
二人用のソファーのはずなのに、どうして一人掛けの椅子のような状態になっているのだろう。
やっぱりおかしい?
「あの」
「何?」
「近くないですか」
「何が?」
「距離が」
指にくるくると洗ったばかりの私の短い髪を絡ませていたマスタングさんから、何とか逃れつつ聞く。
「そんなことないよ」
答えと一緒にマスタングさんが遠慮なくのしかかってきた。
厚い胸が隙間なく覆いかぶさってきて、重い上に苦しい。
「…今日、友人に聞いてみたんですけど」
「友人?」
「普通の兄と妹はこんなことしないらしいですよ」
「リザ、友人って男?」
「女ですけど」
「ふうん。ならいい」
私の話に興味がないのか、マスタングさんは私の腕を引っ張って、我が物顔ですたすたとベッドへ向かう。
私の部屋なのに。
呆れる私を余所に、先にベッドにすべり込んだマスタングさんが「おいで」と両手を広げる。
いつものように伸ばされた腕におさまりつつ、やはりこれはおかしいのではないかと眉を寄せた。
「マスタングさん、兄妹は一緒に寝ないらしいですよ」
「そういう兄妹もいるんじゃないか」
「あとキスもしないそうです」
「ふーん」
頬に遠慮なく触れてくる唇から必死に逃げながら言葉を紡ぐ。
私は真剣なのに、マスタングさんはちっとも取り合ってくれなくて、思わずむっと頬を膨らませる。
「あ、その顔可愛い」
「マスタングさん、ちゃんと話聞いてください」
「分かった分かった。で、何だっけ?」
「友人には私とマスタングさんだということは伏せて兄妹の話をしたんですけど、そしたら…」
「もう一度確認するけど、その友人って本当に男じゃないよな?」
「え…そうですけど」
変なところで真剣な顔をするマスタングさんに首を傾げつつ、核心へと話を持っていく。
「友人に、その兄妹ってまるで恋人同士ねって言われたんです」
「へえ」
「…へえって…」
「何か不満?」
頬を撫でていたマスタングさんの指が、下唇を軽く引っ張った。
不満。
そう聞かれると困る。
「…不満…ではないですけど、マスタングさんの恋人の方々に悪いことをしているような気がして」
喋りながら、頭の中に、街中を楽しそうにマスタングさんと歩いていた綺麗な女性の顔達が浮かぶ。
恋愛というものはよく分からないけれど、マスタングさんと兄妹ごっこをしている私が、彼と一緒に夜を過ごしていると彼女達が知ったら、きっと傷つく。
「ですから…」
「リザが嫌なら彼女達とは別れるよ」
「ちょ…っ、そんなの余計駄目です!」
「じゃあリザはどうしたいの?」
マスタングさんは本物の兄ように、わがままな妹を宥めるかの如く、私の目を優しく覗き込みながら聞いてくる。
それと同時に、私の冷たい手と足にマスタングさんのそれが気遣うように絡んだ。
冷え症の私の体が隅から隅まで温まるまで、マスタングさんはいつもこうして体温を分けてくれる。
この温かさを手放すのは…嫌だ。
「…私は」
「うん」
「…このまま…で、いいです」
「うん」
本当にこのまま妙にスキンシップの多い兄妹ごっこを続けてでいいのだろうかと迷うところだが、マスタングさんがいない夜を考えると急に寂しくなった。
珍しく私の方からマスタングさんの胸に頭を寄せてみる。
寝間着越しに伝わる熱と、体を拘束するかのように回されている太い腕に安堵した。
「リザが急に変なことを言い出すから驚いた」
「…ごめんなさい」
ははは、と笑いながらマスタングさんが私の背中をぽんぽんと優しく叩く。
「別に気にしてないよ」
「謝ったのはマスタングさんの恋人達にです」
「えー」
ごめんなさい。
もう一度、マスタングさんの恋人達に向けて謝る。
恋人同士のようなことは決してしないので、もう少しだけお兄ちゃんを貸してください。







二人とも非番が重なった今日、互いに約束をしたわけでもないのに当然のように私はリザの訪問を待ち、そしてリザは私の部屋に訪れた。
ベッドの上に寝転がり、錬金術書にリザがくれた栞を挟んで、あくびをひとつ。
壁を見上げると、時計の針はちょうど午後の三時を指していた。
リザにお茶でもいれてほしいところだが、彼女は今、掃除に夢中だから無理そうだ。
だらしないのは嫌いなんです。
リザはそう言って、寒がりのくせに腕捲くりをして、脱ぎ捨てた服や出しっぱなしにしていたグラスや本を片付けるのに精を出している。
休みの日くらい休めばいいのに。
寝室の扉からちらちらと見える短い金髪を見ながら、リザの真面目さに呆れてしまう。
物の少ない部屋で唯一きらきらと光を放つように思わせる金の髪を眺めていると、その持ち主がこちらへやって来た。
仕事中には絶対に見せてくれない幼い笑顔を浮かべながら、リザはベッドに寝転ぶ私の隣に腰を降ろす。
「片付きましたよ」
ようやく一仕事を終えました、というまさに会心の笑顔。
思わず一緒に笑いながら、腕捲くりをしたブラウスを下ろしているリザの頭に手を伸ばす。
「それはどうも」
「これからはちゃんと自分でやってくださいね」
ありがとうの意味を込めて髪を梳くと、上から私を見下ろすリザから厳しい発言を受ける。
「うーん、無理だな」
もう、という呆れを含んだ言葉と一緒に、軽くタックルをするようにリザが胸の上に倒れ込んできた。
きらきらとした金の髪が胸元をくすぐって、ベッドが柔らかく揺れる。
すかさずリザを胸へ抱き込もうとすると、彼女は私の手から逃れるようにするすると下へと下がっていった。
「あのー…、リザさん?」
「何ですか?」
「何してるの?」
下の方でもぞもぞと動いているリザに聞く。
リザは私の腹の上に頭を乗せて、ベッドの足元でぐしゃぐしゃに丸っていたブランケットを引っ張り上げていた。
「いい枕を見つけたなーと思いまして」
「は?」
「片付けをしていたら眠くなりました」
そう言ってリザは「枕」なるものに頬を埋め、ブランケットをすっぽりと被って目を閉じる。
「……君に何から言っていいか分からない」
「マスタングさん、最近太りましたよね」
「…そんなことは決してないぞ!」
さすがリザ、ものすごく図星だ。
「……リザ、重い」
「私は重くないです」
「これじゃ動けないんだけど」
「私だってマスタングさんに膝枕している間は動けませんよ」
リザは私の意志や意見をきれいに無視して、本当に腹の上で昼寝をするらしい。
文句を言いつつも心地良い重みに手を伸ばし、形の良い耳をくすぐるとリザがふふっと小さく笑う。
この前、「近くないですか?」なんてリザから不安げに聞いてきたくせに、腹の上で寝息を立て始めた妹は、結局自分から近付いてきている。
「…あれは反抗期だったのか?」
右手は赤いピアスをいじったまま、もう片方の手で錬金術書を開きながら呟く。
実は甘えん坊な妹にもう反抗期が来ないようにと願いながら、再び文字に目を落とした。








目に入れても痛くない可愛い妹に、少し悪いことを教えてやるのは兄の役目だ。
そう勝手に思っている。
リザに小さなキスを送ったあと、ふと目に入ったのはきれいな桃色、形の良い唇、そして思い出される甘く柔らかな感触。
それがあまりにも素晴らしくて可愛らしくて、たまらずもう一度リザに口付けた。
それから、薄く開いていたリザの唇の隙間に、無理やり舌を突っ込んだ。
リザから発せられたのは甘い吐息なんかではなく、混乱と嫌悪に満ちた震えた息遣いだった。
びくびくと痙攣するように小刻みに揺れる体を宥めるように撫でつつ舌で遊んでいると、突然リザに殴られた。
ちなみにグーで顔面ヒット。
「最っ低ですっ!」
すっかり涙目になりながらそう叫んだリザは、その日から私を避けている。

私がリザに近付こうとする度に、リザは少し顔を強張らせ、びくびくとそれとなく私から距離を置く。
その様子が小動物のようで、我が妹ながらとても愛らしい。
だが、そろそろ我慢の限界だ。
可愛い可愛い妹に悪いことを教えるのも兄、そしていじめるのも兄だ。
そろそろ警戒心が解けてきたのか、今日のリザはソファーに寝転がり雑誌をぱらぱらとめくっていた。
完全に無防備だ。
私がそろそろとソファーに近付いていっても、リザは何の反応も返さない。
「リザ」
「はい?」
私が名前を呼ぶとすぐにぱっと顔を上げるリザは、まるで従順な犬でも飼っているような気分にさせる。
「どうしたんですか?」
雑誌をテーブルに置き、体を起こしたリザが「お茶ですか?」なんて聞いてくる。
無言のままリザの隣に腰を下ろす私を、リザは茶色の大きな瞳で見ていた。
真っ直ぐに私を見つめるこのくもりのないきれいな瞳が、もう少しで涙でいっぱいになることをリザは知らない。
そして、息を切らしながら涙目で私を睨むリザをずっと見たいと望んでいたことも、リザは知らない。
「リザ、ごめん」
先に謝るなり、リザの背中と頭に拘束するかのように素早く手を回し、そして口付ける。
「…ちょ…っ!」
私が何をしようとしているのかすぐさま察したらしいリザが逃げようともがくが、それは逆効果だった。
抵抗の言葉を紡ごうと開いた唇を舌でなぞり、そしてリザの中に侵入する。
「…うっ…や、だっ…!」
くぐもったリザの否定の声が、行為をますます加速させる。
必死に逃げようとするリザを捕まえて、いたぶるように味わう。
リザから漏れる吐息が前よりずっと甘いことに満足し、人知れず口元が緩んだ。
私のシャツを握るリザの指先が真っ白く変化し、そろそろ苦しくなってきたのだと悟り、大変名残惜しいがリザを解放した。
唇から溢れた唾液をそのままに、ぼすんとソファーに沈みこんだリザは、瞳に涙をいっぱい溜めていた。
その様子が予想以上に私の欲を満たし、また笑ってしまう。
「最悪…っ!…変態ですっ!犯罪ですっ!」
息が切れ切れなまま罵られ、まったく力の入っていない拳で軽く頭を叩かれた。
その手を取り指を絡ませ、リザの上に体重を掛けないように覆いかぶさる。
「…気持ち悪いことしないでください…っ」
「え、気持ち良くなかった?」
指先でリザの濡れそぼっている下唇をそっとなぞると、リザはふるりと背中を揺らした。
「うーん。ま、まだ子供には分からないか」
「子供ってなんですか!」
しばらく口を聞いてくれないだろうほどに憤慨しているリザを余所に、リザにどうやったらあれが快感だと教えてやれるのかを考えている私は、やはり立派な悪い兄だ。







夜中、半ば無理やりに部屋に入り込んで来た訪問者は、ドアを閉めるなり「寒い」と言って、私にぎゅうぎゅうと抱き着いてきた。
パジャマの上に羽織ったカーディガンが、黒いコートに花びらのように散らされた雪のせいで濡れる。
そんなことをされたら私だって寒い。
タクシーが捕まらなくてなどと、ぶつぶつと文句を言っているマスタングさんをすぐさまバスルームに押し込んだ。
そしてバスルームの扉を乱暴に閉めて、ため息をひとつ。
マスタングさんから香ったのはお酒と女物の香水、そして頬には寒さ以外の別の赤み。
何があったかはだいたい想像がつく。
「今日はデートなんだ」と、にこにこしながら嬉しそうに司令部を出て行ったマスタングさんを思い出して、また深くため息をついた。

「…また振られたんですか?」
バスローブに身を包んだマスタングさんに跨がり、濡れた黒髪をタオルで拭き取りながら、さりげなく聞いてみる。
ソファーの背もたれに身を預けているマスタングさんは、嫌なことを思い出す羽目になったせいかわずかに顔をしかめた。
「違う。上手に別れようとする前に振られた」
「…あんなに楽しそうにデートデートって言っていたくせに、別れるつもりだったんですか?」
「うん」
「…うんって…」
最っ低です。
その言葉をぐっと飲み込んで、何度目になるか分からないため息をついた。
――最低なのは、私だって同じだ。
気が付けば髪を拭く手が止まっており、急にその手を引っ張られマスタングさんの肩に顔を埋める形になった。
「だってさ、相手も遊びだと分かってくれていたはずなのに、本気になられてしまったんだよ」
「…かわいそうです」
「目敏いことに、私のコートに短い金髪が一本付いているのを見つけてね、それから――」
あ、と少々間抜けな声を漏らしたあと、マスタングさんは失言に気が付いた。
マスタングさんの肩から顔を離し、やっぱり私のせいだと唇を噛み締める。
「…ごめんなさい」
「いや、リザが気にすることじゃないよ」
「だって私のせいじゃないですか」
最近、マスタングさんは立て続けに恋人達に振られている。
そして、彼女達との別れの原因のほとんどに私が関わっているのだ。
「…今から彼女達に謝ってきたいです。私達の関係は誤解だと」
「…余計にややこしくなるような気がするぞ。そんなことしなくてもいいし、考えなくてもいいから」
「マスタングさん、やっぱり私、マスタングさんともうこういうことは――」
言葉の途中で急に唇を塞がれた。
逃れようと頭を振るが、頭も背もがっちりと固定されてしまい徒労に終わる。
いつもより乱暴だと抗議する暇もなく、マスタングさんに口の中を思う存分荒らされた。
「…ワインのおすそ分け」
私の唇から溢れたものを指で掬い上げながら、マスタングさんが優しく笑った。
誰かさんのせいでその笑顔が滲んで見える。
「君は何て顔をしているんだ」
「…え?」
「先ほど私の麗しい顔をひっぱたいた女性と同じ顔をしている」
そう言って、マスタングさんはまた口付けてくる。
「リザが気にすることは何もないから」
マスタングさんは口付けの合間に何度もそう呟き、私は抵抗をやめて体から力を抜いた。
恋人達を「遊び」としか見ていないマスタングさんは最低だと思う。
そして同じくらい私もずるい。
優しい口付けを、温かな抱擁を、「兄妹ごっこ」をしているだけの私がマスタングさんの恋人達から奪ってしまった。
今だって、この心地良さは、私がいなければマスタングさんの頬を叩いた女性のものになっていたはずなのに。
ずるいと十分に分かっているのに、私は多分これからも奪い続けてしまうのかもしれない。
「遊びだよ」と、マスタングさんが私を突き放すまで。
いつ終わってしまうか分からないマスタングさんの心地良い熱に翻弄されながら、離れないようにマスタングさんにぎゅっとしがみついた。







「どうして勝手にいなくなるんだ」
私の声に、すでにうっすらと雪を被った短い金髪がくるりと振り返った。
私を見上げるリザの頬と鼻の頭が赤い。
ものすごく寒がりで冷え症のくせに、やはり薄着で出掛けたようだ。
防寒具を持って来て正解だったと心の中で頷きながら、ベンチに座るリザの隣に腰を下ろした。
「よくここが分かりましたね」
頭の雪をぐしゃぐしゃと乱暴に払われながらリザが不思議そうに聞く。
「こういう時に君が行く場所ぐらいだいたい分かるよ」
さすがですねとリザは笑い、私がここを訪れた時のように視線を上へ戻した。
コートを着せてもリザからは何の反応も返ってこない。
というか着させられているという意識すらないのかもしれない。
そんなリザにため息をつきつつ、コートのボタンをひとつひとつ閉めて、次はぐるぐるとマフラーを巻く。
最後の仕上げに手袋をはめ、ちらりとリザを見るが、リザは飽きることなく黒い空から降ってくる雪を眺めていた。
「寒くない?おい、リザ」
「…はい」
「ねえリザ、私が着せてあげたんだけど」
「……ありがとうございます」
リザはじっと雪を見つめたまま、まったく感謝の気持ちのこもっていない素っ気ない返事を返す。
リザの頭の中は初雪でいっぱいなのだろう。
私のアパートの近くにある何の変哲もない公園に雪が降り積もる様子をずっと眺めているなんて、何が楽しいのだろう。
リザは昔から寒がりのくせに雪が好きだった。
あまり女性らしくないリザの可愛らしい一面だと思うが、深夜に勝手に部屋を抜け出すのはいただけない。
「リザ」
「…はい」
「リザ、ちゃんと話聞いて」
「何ですか」
リザの意識がわずかに雪から私に移る。
「どうして部屋を出る時に声を掛けなかったんだ」
「掛けましたよ」
「え?」
「『マスタングさん初雪ですよー』とか『ちょっと公園に行ってきます』とか」
「…気付かなかった」
「そうなんです。マスタングさん、本に夢中で全然気付いてませんでした」
「そういう時は肩を叩くなりなんなり私が気付くようにしたまえ!」
「そうですね」
「こんな深夜に薄着で出掛けるなんて馬鹿だぞ馬鹿!それに不審者に…」
お説教はリザの盛大なくしゃみによって遮られた。
「…やっぱり寒いのか?」
「そういえば寒いですね」
腹が立つほどあっさりとそう言って、リザは今さら暖をとるように私の肩に寄り掛かってきた。
首筋に当たる雪の染みこんだ髪が刺すように冷たい。
「もういいだろ。帰ろう」
鼻を啜っているリザをベンチから立たせて、急いで公園を出る。
早く暖かい部屋に連れて帰らねばと、ぐいぐいとリザの腕を強引に引きながら歩くと、リザも私に一生懸命ついて来る。
いつも思うのだが、リザの仕事とプライベートの切り替えのスイッチはどうなっているのだろう。
仕事中に歩く時、リザは私の三歩ほど後ろを歩くが、今は私を離すまいというようにぴったりと横を歩いている。
「マスタングさん」
それから、部屋に着いてもリザはベッドに腰掛けたまま何もしようとはしなかった。
どうやら自分で髪についた雪を落とす気も、コートを脱ぐ気もないらしい。
「…わがままだな」
「マスタングさんにだけは言われたくないです」
「ほら、腕あげて」
ぐしゃぐしゃとタオルで髪を拭き、コートやマフラーを取り払って床に投げる。
それから、寒い寒いと文句を言うリザにブランケットを頭からぼすんと投げ掛けた。
「マスタングさん、寒いです」
もぞもぞとブランケットから顔を出し、ベッドの上で丸くなったリザが再びくしゃみをしながら言う。
「自業自得だろ」
軽く抓った頬は氷のように冷たかった。
「じゃあマスタングさん、早く来てください」
ぽんぽんと、リザがベッドの隣の空間を叩いた。
それが当たり前、という表情で、これから先のことを考えているのか楽しそうに笑っている。
「さっきの本、読み終わりましたか?」
「まだだけど」
「じゃあそれを持って早く来てください」
「…抱き枕じゃないんだぞ私は…」
愚痴を漏らしながら書斎に本を取りに向かうと、早くしてくださいねーと寝室から声が聞こえた。
リザは、寒い時は私が必ず側にいて暖めるのが当たり前だと子供のように純粋に信じている。
もし、このまま私が戻らなかったら、リザは泣くんじゃないだろうか。
もちろんそんな気はまったくないし、この役目を他の誰かに譲る気もさらさらないが。
真っ白な寒い場所からリザを連れ出して、暖かいところへ戻してやるのが兄である私の「当たり前」なのだ。
本を片手にベッドに潜り込むと、リザが体によじ上ってきて、冷えた手足を絡ませてきた。
マスタングさんあったかい、と満足そうに笑うリザの頭を、私も満足げに撫でる。
この「当たり前」の関係を私はなかなか、いや、かなり気に入っている。
リザの視線がカーテンの隙間から覗く外にいってしまう前に本を放り投げて、リザを力いっぱい抱き寄せて視界を塞いだ。







「迎えに来てください」
電話越しのリザの声は、いつものアイロンの利いたワイシャツのようにぴんとしたものではなく、どこか覚束なく、そして甘かった。
聞きたいことは山ほどあったのに、リザは居場所を告げるとすぐに電話を切ってしまった。
ツーツーツーという無意味な機械音を出す受話器を投げ捨て、二人分のコートと車の鍵を引ったくって、私は玄関へ走った。



「あ、マスタングさん」
息を切らしてリザが告げた場所へ向かうと、リザは公衆電話ボックスの横にちょこんと座り、私の姿を見つけるとひらひらと手を振った。
表情はいつもと変わらず凛としているが、あの様子じゃかなり酔っているようだ。
「…君に言いたいことがたっくさんあるんだが、まずひとつ。夜中にこんなところにいて変なやつに襲われたらどうするっ!」
怒鳴りながら、地面に座っていたリザにコートをばさりと被せて、少々乱暴に抱き上げる。
リザは私の大声に大袈裟な顔をしかめたあと、きょとんと私を見上げた。
「何を寝ぼけたことを言ってるんですか。私は軍人ですよ?」
そう言って、リザは私の腕の中でもそもそと動き、スリットの入ったスカートを捲くり上げてご丁寧にも白い太ももに巻き付くガンベルトを見せてくれた。
ああ駄目だ。
リザは完全に酔っている。
そして、何故スリットのボタンが下から三つほど外れているのだろう。
リザに聞きたいことも、言いたいことも数え切れないほどたっくさんある。
まず、とりあえずこれだけ。
「馬鹿か君はっ!」



「…士官学校から仲の良かった女友達と二人で仲睦まじく飲むはずが、その友人が男性を数人連れて来た…と、そういう訳か」
ベッドにぐったりと寝そべるリザの隣に腰を下ろし、不良娘から事情聴取をしている父親の気分で、状況を整理する。
先程から顔がぴくぴくと引き攣って仕方がない。
「そういうことです」
枕に顔を埋め、眠そうにあくびをしたリザが緩慢に頷いた。
「『リザも恋人くらい作りなさいよー』なんて、本当にお節介ですよね」
「本っ当にお節介だ」
何とか最小限に怒りを抑えたつもりが、殺気たっぷりの声が出てしまった。
先程から顔の痙攣に続いて、貧乏揺すりが止まらない。
「で、どうだんだった。その恋人候補達は」
「恋人?」
「だから、友人が連れて来た男共は」
「…ああ、それですか。とっても説教のしがいがありました」
「…説教?」
「はい」
リザがにこりと笑って満足げに頷く。
酔うといつもでるリザの癖が今日もまた例にもれず出たらしい。
初めてその厄介なリザの癖に感謝しつつ、私は盛大にため息をついた。
「私は君に説教をしたいがね」
「説教をしていたら予想外にお酒がすすんだんですよ」
「…だからブラウスとスリットのボタンが数個外れていたのか」
「飲むと暑くなりますから」
「まったく君は無防備すぎるんだ。…変なことされなかっただろうな」
「変なこと?」
「例えば、ブラウスのボタンは自分ではなく男に外されたとか」
「そんなことマスタングさんじゃあるまいし」
「体をまさぐられたりとか」
「それもマスタングさんじゃないんですから」
どうしてそんなことされるんですかと、リザは不思議そうに言い放った。
少々引っ掛かりを覚えたものの、その言葉にへたりこみそうなほど安堵する。
「…連絡先、教えたのか」
「…連絡先…?そういえば聞かれた気がしますね…。それよりも、まず彼らのだらしなさに腹が立ってそれどころではなくて」
思いきり眉をしかめ、またぐちぐちと男共の話をするリザは、どうやら連絡先も何も教えていないようだ。
それからリザは「彼ら」の名前も覚えていないらしい。
「送ろうかと聞かれただろう」
「最近体を動かしていないので歩いて帰ると言いました」
「…褒めるべきか叱るべきか分からんな。すぐに私を呼べば迎えに行ったのに」
そうすれば、どこの馬の骨とも分からない馬鹿な男共に、私の錬金術を披露することができたのに。
「情けないことに、少し歩いたら体がふらふらとしてきて…。マスタングさん、今日はデートもなくてゆっくりできる夜だったのに、すみませんでした」
「ん、いいよ」
甘えてくれて嬉しいよと、前髪をぐしゃぐしゃと撫でると、ずっと強張っていた顔がやっと崩れた。
ようやく綻んだ唇に口付けようと顔を寄せると、リザにぐいとワイシャツの襟元を引っ張られる。
何を、と、そう思っている間に背中にベッドの柔らかさを感じ、視線は天井へと移っていた。
私はどうやらリザに押し倒されたらしい。
「…えーと、リザちゃん?」
ベッドの上で私がリザに馬乗りになることはよくあるが、その逆は初めてかもしれない。
腹の辺りに心地良い柔らかな重みを感じるなんて新感覚だ。
スリットから覗く白い足に目を奪われていると、ぐいっと、これまた強引に視線を変えられた。
頬を冷たい両手で拘束されて上を見上げれば、アルコールに瞳が潤みつつも真剣な眼差しをしたリザと目が合う。
「…マスタングさんにもお説教したいことがあるんです」
「……仕事のことは勘弁だぞ」
「安心してください。仕事のことじゃなくて、女性関係のことです」
「女性関係?」
リザの口からそんな言葉が出るとは思いもせず、眉を寄せながら聞き返す。
「…マスタングさんは、最低ですよ。女性を遊び道具としか見てないなんて、本当に最低です」
水を浴びせられたような冷たいリザの言葉に、戯れにリザを抱き寄せようと伸ばした手を止める。
思わず見つめ返したリザの瞳は、先程よりもずっと潤んでいる気がした。
「本当に最低で最悪です。遊びから本気になる人だっているんです。…私、だって…」
「…リザ?」
どうしてリザはまたそんな顔をするのだろう。
今のリザの顔は、まるで私に別れを告げられた瞬間の女性の表情と同じじゃないか。
「…もし、マスタングさんに『遊びだよ』って笑って別れを言われたら、きっと泣きます…」
「…リザ」
リザにこの先何と言えばいいのだろうと迷っていると、頬を挟んでいた手の力が緩んだ。
リザの体の重みが急に増し、白い体が力を無くして前に倒れてくる。
どうやら電池が切れてしまったらしい。
すっかり眠ってしまったリザを胸で抱きとめ、ブランケットを引っ張り上げて一緒にくるまる。
「…君はそんなことを考えていたのか」
最近、リザがよく浮かない顔をしていると思っていたが、もしかしたら原因は私だったのかもしれない。
「馬鹿じゃないのか…リザも、私も」
私がリザを手放すなんて有り得ない話だ。
リザが遊びのはずがないじゃないか。
一晩だけを共にする女性達とリザ・ホークアイという存在は私の中でいつも違う位置にいて、とても比べもにならない。
リザのことを考えると必ず芽生える嫉妬や心配は、ほかの女性達にはしたことがないのだ。
「…リザだけだよ」
可愛い妹を心配させるなんてお兄ちゃん失格だなと、腕の中で小さな寝息をたてるリザに謝る。
朝がきてリザが起きたら、一番に謝って誤解をといて、ぎゅっと抱き締めて、リザを安心させてやろう。
しかし、もし仮にリザが私から逃げるのならば縛ってでも側に置いておくという、リザにとっては少々危険なこの過保護な考えをどう説明していいものかと、乱れた金の髪を撫でながら眉を寄せた。







「ずるい」
ベッドに寝そべり天井をむすっとした顔で見上げたまま、マスタングさんは不機嫌に言い放った。
「ずるいじゃないか」
「何がですか」
休みとはいえ寝過ぎだと注意しに寝室に来たら、急にマスタングさんに睨まれて「ずるい」と言われた。
まったく訳が分からず、眉を寄せながら首を傾げる。
「昨日のことだよ」
「昨日?」
マスタングさんの隣に腰掛けながら、私はようやく原因を理解した。
マスタングさんは、まだそんなことでご機嫌ななめなのか。
ふう、と小さくため息をつく。
「マスタングさんが不機嫌になることなんて何一つないじゃないですか」
「大有りだ」
「だって、十時までに帰るっていう門限は守りましたし、相手に送らせなかったですし、寄り道しないでまっすぐマスタングさんの家に帰って来ましたよ」
指折りしながら「お兄ちゃんとの約束事」を数えてみるものの、マスタングさんの顔はしかめっ面のままだ。
「君があんな馬面男と食事している間、私はずっと暇だったんだぞ」
「だったらデートでもすればよかったじゃないですか」
「デートをする気が起きなかったんだ」
「…そんなこと言われても困ります」
わがままなマスタングさんに、またため息をつく。
「大体、外食がしたいなら私と行けばいいじゃないか。というか私と以外行くんじゃない」
「あちらが先約だったんですー」
付き合い切れないというように私がそう言うと、マスタングさんはとうとう私にくるりと背を向けてしまった。
勝手に文句をつけて、一人で拗ねてそっぽを向いて、私のお兄ちゃんはどうしてしまったのだろう。
「マスタングさん、どうしたんですか」
黒髪を後ろからつんつんと引っ張ってみても、何の反応もない。
壁とにらめっこをしていて何が楽しいのだろう。
無理矢理こちらへ向かせてしまおうとベッドへ乗り上がった時、ふと、あることをひらめいた。
「あ」
そうか、このわがまま兄が拗ねている原因はこれだ。
「マスタングさん、自分は振られてばかりなのに私がデートに誘われてるから、悔しいんですね?」
「振られてないっ!むしろ誘われすぎて大変だ!だが私がデートをする気がないだけだっ!」
考えが外れてしまったが、マスタングさんは「この私が振られるわけがないだろう!」と堂々と言い放ち、ようやくこちらを向いてくれた。
「じゃあ何で不機嫌なんですか」
この機会を逃すまいと、マスタングさんの顔を両手で押さえながら問う。
「リザ、私がデートをする気が起きるまで君もデート禁止だ」
「はい?話がまったく噛み合ってませけど」
「お兄ちゃん命令だっ!」
「な…っ」
何ですかそれはと問う暇もなく、腕を引っ張られてシーツの中に無理矢理引きずり込まれた。
「…もう、マスタングさんっていつも勝手です」
「じゃあ何だ、リザはほかの男と遊びたいのか?」
怖い顔をしたマスタングさんに、むにっと鼻を指で摘まれて慌てて後ろに逃げる。
が、その分、マスタングさんがぐいと顔を近付けてきた。
「違います。マスタングさんじゃないんですから」
「じゃあ私と遊べばいいじゃないか」
「はい?」
話がどんどんと違う方向へ転がっていくことに眉を寄せる。
「…マスタングさんと遊ぶって…」
「例えばこうするとか」
そう言うなり、マスタングさんが私の上に馬乗りになる。
そして、先ほど着たばかりのブラウスの中に器用に手を突っ込んできた。
「遊ぶって、これ…っ!?やだっ、くすぐった…っ!」
素肌を撫でる手の平のくすぐったさにじたばたと暴れるが、足で要所をがっちりと固定されていて逃げられない。
身をよじり唇を噛み締めて耐える様子を、マスタングさんが面白そうに眺めていることに気が付いた。
むっとして睨み返すが、マスタングさんは表情を一転して優しく笑った。
「私はデートなんてしなくても、こうしてリザと遊んでいれば楽しいよ」
「え?」
「リザさえいればいい」
そう言いながら、マスタングさんがブラウスのボタンを手慣れた様子で外していく。
いつもなら力付くで抵抗するところだが、私は目を見開いてマスタングさんの言葉を頭の中で繰り返していた。
――リザさえいればいい?
「…本当ですか?」
「うん?」
するするとボタンを外す手が一瞬だけ止まる。
「リザがいれば、マスタングさんはそれでいいんですか?」
「うん、それだけでいいよ」
ちゅっ、という軽い口付けと微笑みと一緒に返事が返ってくる。
「本当に?」
「本当に」
その一言に、顔が綻ぶのが止められなかった。
マスタングさんが離れてしまう前に両手で顔を挟み込み、笑いながら私からも何度もキスをする。
いつ下に落ちてしまうか分からない不安定な場所にいたのに、ようやく体を預けられる場所を見つけ出した気分だ。
「リザ?」
「リザも、マスタングさんがいるならそれでいいです」
私の態度が急変したことにマスタングさんは不思議そうな顔をしていた。
その隙をついてマスタングさんの下から抜け出し、先ほどとは逆にマスタングさんの上によじ登り、嬉しさのあまり堪らずまたキスをする。
そしてマスタングさんを閉じ込めるかのように、ぎゅっときつく抱き着いた。
この温もりは、まだ私のものであっていいらしい。
「リザ、苦しい」
言葉とは反対のマスタングさんの楽しげな声が胸元から聞こえ、顔を上げると、するりとブラウスを脱がされた。
マスタングさんが私だけでいいと言ってくれるなら、今日はくすぐったいのも我慢しよう。
外気に晒された素肌に寒がる暇もなく、マスタングさんの手が体を撫でる。
日が高く上っていることにも気が付かず、シーツの上の楽しげな声は途絶えなかった。








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