※妄想に満ちた「マスタング夫妻の息子」の話です。 苦手な方はご注意を。 昼寝から目を覚ました我が子は明らかに不機嫌だった。 抱き上げようとすると、触ったら泣いてやるぞという抗議を表した瞳で私を睨む。 そしてその瞳は、お母さんは買い物に行っているんだよと教えても、健気に彼女の姿を探していた。 名前を呼んでも振り向かず、寝室や台所を探し回るのをやめようとしない。 しばらくして、どこにも彼女の姿がないのを目の当たりにし、ようやく事実を受け入れたのか、息子はぺたりと玄関に座り込んだ。 その姿を言葉で表すのならば絶望というところだろう。 溜息をつきながら、すっかり力をなくしうなだれてしまった我が子の隣に腰を降ろす。 「そんなにお前は私と一緒にいるのが嫌なのか」 自分と同じ黒い髪を撫でながら聞いてみるが、息子はそれすら嫌なのか大きく首を振った。 おまけに、不機嫌ならば子供らしく存分に喚けばいいものを、しくしくと啜り泣きを始めてしまった。 部屋の中を走り回り彼女に怒られているいつもの元気な姿を思い出し、あまりの変わりようにまた深く溜息をつく。 「ほら、飲まないか」 片手に持っていたお気に入りのジュースを差し出してみるものの、受け取ってはくれなさそうだ。 相変わらずぽろぽろと涙を零しながら、彼女が開けるのを待っているのか、玄関の扉を頑なに見つめている。 「…お母さんがいい…」 「……私だって早く帰って来てほしいよ」 頬をすっかり真っ赤にした息子が小さく漏らした一言に、大いに同意する。 まさか二人で留守番をするだけで、この世の終わりを嘆くかのようにさめざめと泣かれるとは思わなかった。 結局受け取ってもらえなかったジュースの入ったコップを床に置き、頭をがしがしと掻く。 父親の存在や威厳だとかについて考える前に、こうなったらもうあの手を使うしかない。 「迎えに行こうか」 な、と小さな背中をさすりながら提案する。 すると意味を理解したのか、息子はやっと私の顔を見上げ、抱っこを求めてきた。 ようやく触ることを許された私は、最近少し重くなってきた体を抱き上げて立ち上がる。 もうすぐ、こいつは大好きな母親の腕の中で盛大に泣き、優しく宥められるのだろう。 そのあとでいいから、私も大好きな妻にこんなにも息子に嫌われて傷ついた心を慰めてもらおう。 「…これだから留守番するの嫌だったんだよ」 そう愚痴りながら、息子とそして私のために、一刻も早く彼女に会うべく玄関の扉を開けた。 「もうっ!危ないから台所で走っちゃ駄目って言ってるでしょっ!」 部屋の中をうるさく走り回っている足音が聞こえなくなるほどの彼女の怒鳴り声に、びくりと肩を震わせた。 そのあとすぐ、怒られた張本人が脱兎の如く台所から飛び出して来る。 そして、私のところまで一目散に駆けて来たかと思えば、息子は私の影に隠れるように背中にぴたりと張り付いてきた。 「……お前、こんな時ばっかり寄り付きやがって」 いつもはどんなに呼んでも来ないくせに、今は小さな手でシャツまで握り締めている。 だから面倒見ててくださいって頼んでいるのに。 台所から溜息交じりの愚痴が聞こえてきて、息子の頭を撫でてやりながらまた私は体を強張らせた。 そして苦笑する。 「リザを怒らせると怖いだろう?」 リビングに散らかっている本を一カ所に積み上げながら、すっかり大人しくなってしまった息子に話し掛ける。 まだ言葉を十分に理解できないと分かっていても、息子が私と同じ境遇にいることを分かち合いたかった。 何を隠そう私もつい先ほど、部屋を散らかしたことを彼女に怒られたばかりなのだ。 そして、野菜を切る音や食器を置く音がいつもよりも目立って聞こえる度に、二人一緒に台所の方へ恐る恐る視線を移す。 本当にこいつは私の息子だな。 変なところで感心し、そしてそれがおかしくて思わず笑ってしまう。 「あとで一緒に謝るか」 意味を分かっているのかどうかは知らないが、息子は私につられてにっこり笑い、そして大きく頷いた。 彼女は歌が上手ではない。 というか、はっきり言って下手くそだ。 それでも、ところどころ音の外れた子守唄が彼女の唇から零れる様子は、言葉にできないくらい愛らしい。 それから、彼女の腕の中で小さな手で目を擦っている息子ももちろん可愛い。 ベッドの上の世界一愛おしい光景を隣に寝そべりながら眺め、目を細める。 息子にとっても彼女の歌は心地良いらしく、泣いていたせいで赤くなってしまった瞼がゆっくりと落ちていく。 先程まで、息子は眠たいくせにまだ遊びたいとぐずっていたのだ。 寝なさいと言っても首を振るばかりで、リビングの床に座り込み大泣きを始めたときは途方に暮れた。 しかし彼女の歌にかかればこの通りだ。 そういえば、私の方がよっぽど歌が上手いのに、私の子守唄ではまったく寝付かなかった時のことを思い出す。 あの時は寝かせられなかったばかりではなく機嫌も悪くされたのだ。 ようやく寝息を立て始めた息子を見つめながら、やはり彼女はすごいと改めて感心する。 「どうして眠たいくせに寝ようとしないんだろうな」 自分と同じ色の髪が、窓から差し込んだ午後の光に染まっている。 その柔らかな髪の毛を、起こしてしまわないようにそっと撫でた。 「それはあなたも同じでしょう?」 「うん?」 お見通しですよとでも言いたげに、息子を挟んで向こうにいる彼女はくすりと笑う。 「あなたもお昼寝なさったらどうです?」 「……私は別に眠くないよ」 「嘘つきですね」 にっこりと微笑みながら彼女は私の肩にブランケットを掛け、ぽんぽんと背中を叩いた。 先ほど息子にしていたこととまったく同じことをされて、思わずむっと眉が寄る。 「そんな顔しないでください。あなたもこの子と一緒にお昼寝した方がいいと思っただけです」 「だから私は眠くないんだ」 「ここのところずっと忙しかったんですから疲れているはずですよ」 そっと身を起こした彼女は、二つの黒い頭にそれぞれ一つずつキスを落とした。 そして音を立てないようにゆっくりとベッドから降りる。 リビングへ向かうらしい彼女の腕を私は慌てて掴んだ。 「待て、私も行く」 「だからあなたは寝ていた方がいいですよ」 「そしたら夫婦の時間はどうなるんだ?」 おかしいほど切羽詰まった声が出てしまった。 私を見下ろす彼女は首を傾げて、きょとんとした表情を浮かべている。 「夫婦の時間…?」 繰り返し呟いたあとでようやく意味が分かったらしく、彼女は噴き出すのを堪えるためにきゅっと唇を噛んだ。 それでも我慢できないらしく体は失礼なくらい震えている。 必死に笑うのを耐えている彼女に対し、私は盛大に顔をしかめた。 「……最近忙しかったから、大事なことじゃないか」 「そうですね。でも最近忙しかったですから、体を休めることも大事ですよ」 彼女は目尻に浮かんだ涙を拭いながら、私の髪をくしゃくしゃと撫でた。 「また今度遊んであげますから」 「遊ぶって、私は子供じゃないんだぞ」 「だから今はいい子にお昼寝していてくださいね」 「だから子供じゃないんだ」 「私にはこの子と同じに見えますよ」 「君はまたそうやって私をいじめるんだな」 彼女に言いたいことはもっとたくさんあるのだが、先ほどからずっと瞼を開けているのが辛い。 それに加えて、彼女は息子にするみたいに私の頭を撫でながら、また下手くそな子守唄を口ずさみ始めた。 ますます頭がぼんやりとしてきて、やめてくれの一言すらうまく出てこない。 「私、夫を寝付かせるのも上手なんですよ」 閉じかけている瞼の向こうで、最高に可愛く、そして最高に憎らしく彼女が笑う。 今度っていつなんだと働かない頭で必死に考えながら、私はついに観念して瞼を下ろした。 「……ん」 長い睫毛がわずかに揺れて、紅茶色の瞳がゆっくりと現れた。 暴れられたら落としてしまうかもしれないと心配したが、逆に彼女は水に濡れた頭を私の胸にくたりと預けてきた。 私のシャツがどんどんと水分を吸い込んでいくが、いつになく可愛らしい行動だから許すことにする。 ふと、彼女が何かを言いたげに、わずかに唇を開いた。 どうしたのだろうと思い耳を近付けると、彼女は囁くようにある名前を口にした。 囁いたのは荒れ狂う海から姫を助けた勇敢な王子の名ではなく――ほかの男の名前だった。 やっぱり許してやらない。 「夫の腕の中で、寝ぼけながらほかの男の名前を呼ぶなんて感心しないな」 「……ほかの男って、私達の愛しの息子の名前じゃないですか」 まだほとんど濡れている体をガウンに包み、ソファーに横たわっている彼女が溜息をついた。 黒いソファーと濡れた白い肌の対比が、私も思わず溜息をつきそうなほど素晴らしい。 彼女の背中に手を添えてソファーから体を起こし、冷たい水の入ったコップを差し出す。 「……すみませんでした」 水を飲み干したあと、再び彼女がソファーに横になりながら謝る。 「驚いたよ。なかなか出てこないなと思って覗いたら、君が風呂に入りながら寝ているんだもんな」 「…最近疲れていて、うっかりしていました」 「気が付いてよかったよ」 これからは気を付けてくれよ。心配したんだからな。 そう言いながら、のぼせてしまったらしい彼女の熱い額の上に、冷たく濡らしたタオルを置く。 それから、洗ったばかりでいい匂いを放つ髪を、優しくタオルで拭き始める。 彼女はのぼせているせいなのか、それともまだ眠いのか、私にされるがままになっている。 立場がいつもと逆だな。 私は思わず顔を綻ばせた。 「…あの、私がやりますから…」 ソファーから動きたくないくせに、彼女はそんなことを口にする。 いや、ガウンをはだけさせられて、時々いたずらをされながら体を拭かれたら、そう言いたくもなるか。 「君は風呂に入りながら寝てしまうほど疲れているんだよ。だからこのまま寝てしまっていいから」 白い膝に口付けながら言うと、くすぐったいのか彼女が身をよじる。 「君、しばらくまともに休んでいないだろう。息子も昼寝をしているわけだし、私達も昼寝でもしようじゃないか」 「まだ家事が…」 「それは明日」 髪と体を拭き終わり、私は再び彼女を抱き上げる。 彼女は、でも、なんて口にしながらも、先ほどのように大人しく腕の中に収まっている。 たまには仕事から解放されて、こうして休んだって罰は当たらない。 彼女に服を着せて、二人でベッドに入って、久しぶりにのんびり昼寝でもしたっていい。 ああ、でも、こんな美味しい状況にあるのに、みすみす彼女を寝かせてしまうなんて、少し無理かもしれないな。 私はさっきのことをまだ許しているわけではないし。 この前、彼女は「今度遊んであげますから」と言ったのだから、私が満足するまで遊んでもらおうとするか。 寝室へ続く廊下を歩きながら、勝手にすることを決めたこのあとの「お遊び」を、何にしようか考える。 彼女が疲れる理由が、今、分かった。 仕事をして家事をして愛しい息子の世話をして、それから夫の面倒までも見なくてはいけないのだから。 寝室に足を踏み入れた途端、息子は私を見るなり、しーっと小さな人差し指を口の前に立てた。 何事かと眉を寄せつつ、ふとベッドの上に視線を移すと、そこには絵本を枕にして気持ち良さそうに眠る妻の姿があった。 昼寝を嫌がる息子を寝かしつけに行ったリザがなかなか戻って来ないと思ったら、こういうことだったのか。 「逆に君が寝かしつけられているじゃないか」 笑いながらベッドに腰掛けると、顔をしかめた息子に再びしーっと注意をされた。 「お母さん寝てるの」 息子が小さな声で私を叱る。 「ごめんごめん」 内緒話をするように息子の耳に手を当てて小声でひそひそと謝ると、息子はくすぐったさそうに笑い、私を許してくれた。 そういえば、ベッドの端っこで寝そべっているブラックハヤテ号も妙に大人しい。 お母さんが、飼い主が、そして妻が起きぬよう、私達は静かに慎重に行動しなければならないようだ。 息子は、リザがいつも息子にするように、ぐっすりと眠るリザの背中をぽんぽんと撫でて楽しそうに遊んでいた。 そのほほえましい様子に頬を緩ませながら、リザの腕の下からそっと絵本を抜き取る。 ん、と、眠っているリザの形の良い唇から小さな声がもれた。 その声があまりにも可愛くて、思わずリザの頬にそっとキスを落とす。 ふと視線を感じて横を見ると、こちらをじーっと眺めている息子の二つの黒い瞳とぶつかった。 「お父さんは、いつもお母さんにちゅーしてるね」 「…なんだお前、見てるのか?」 息子の前では嫌です、とリザが嫌がるから極力控えているつもりだったのだが、どうやら思い切り見られていたらしい。 「お父さんはお母さんのことすきなの?」 「うん、とてつもなく愛してる」 「僕のことも?」 「もちろん」 リザに似た息子の真っ白な頬にもキスをしようとすると、「いやだー」と逃げられてしまった。 代わりに、私譲りの真っ黒な髪を撫でる。 午後の柔らかな日差しが寝室に差し込んで、息子の子供特有の細い髪は優しい色を放っていた。 そして、ずっと昔から見てきた妻の金の髪も、相変わらず美しく輝いている。 愛するリザを妻にもち、息子という何にも変えがたい宝物までも手にし、午後に穏やかな時間を過ごす。 こうした温かなひと時など、若い自分からは到底考えられなかった。 柔らかい真っ黒な髪を手で梳いていると、息子が眠そうに大きなあくびをした。 目を擦りながら、息子はリザの胸元に入り込むようにしてころんとシーツの上に横になった。 「お父さんも一緒にお昼寝していい?」 私の一言に息子は眠たげな目を一瞬だけぱちくりと大きくさせ、そのあとにっこりと笑った。 「うん!」 元気の良い返事をしたあと、息子は大きな声を出してしまったことに気が付いたのか、ぱっと両手で口を押さえた。 息子は恐る恐るリザの方へ振り向き、リザの目が閉じられていることにほっと胸を撫で下ろしている。 本当にお母さんが好きなんだなと目を細めつつ、息子を真ん中にして三人一緒にブランケットを被る。 うとうととし始めた息子とリザを両方腕におさめ、愛おしい二つの重みと温もりを噛み締めながら目を閉じた。 |