「暑い」
「私だって暑いですよ」
「暑いのは苦手なんだ」
「私だって暑いのは苦手です」
「あーつーいー」
シーツに体を沈ませて、暑い暑いとごねる私に、彼女は付き合いきれないのか、はあーっと盛大に溜息をついた。
その息が、シャツの肌蹴た胸元を掠めてくすぐったい。
「……暑くて溶けそうだ」
「またシャワーでも浴びてきてください」
「面倒臭い」
「もう、じゃあ勝手に溶けててください」
そんなことを言って突き放しても、真面目な私の副官は、いや、私の恋人は、涼しくなる方法を考えてくれている。
難しい顔をして、うーんと唸っている彼女の顔を覗きこみ、私はだらしなく笑った。
「団扇で扇いであげましょうか」
「それは君が疲れるから却下だな」
「あ、怪談なんてどうですか?」
「怪談?」
「怪談です」
はあ?と私は顔をしかめるが、彼女は大真面目に頷く。
「今日、ハボック少尉が休憩時間に話していたんですけど、フュリー曹長が泣いていましたよ」
「……私をフュリーと同じレベルで考えないでくれないか」
「…うーん、じゃあ、あとは…」
真面目な恋人は、眉の間に皺を作って、また何か新しい方法を考えている。
そんな彼女を他人事のように眺めながら、白い体を抱え込む腕に力を込めて、さらに足と足とを絡める。
どうしましょうね、なんて考える前に、まずは私が彼女を腕から解放してやればいいのだ。
小さな子供でさえ、私達が離れてしまえばかなりの涼しさを得られることが分かる。
それなのに、聡明な彼女は、それをしようとせず、必死に涼しくなる方法を思案中だ。
理由は簡単だ。
私が彼女を腕から離すのを嫌がるから、ただそれだけ。
「……君って、とことん甘いよなあ」
汗で張り付いた金の髪の毛を掻き分け、白い首筋を舐め上げながら笑う。
最低の暑さと最高の甘やかしの夜は、まだ終わらない。







彼女がきれいに磨いてくれた床の上に腰を降ろしながら、私はひらひらと揺れる黒いスカートを眺めていた。
一方、彼女は壁にずらりと並ぶ本棚の前を歩き、指先で古い本の背表紙をなぞっている。
自宅の一室にある、古びた本しかない味気ないこの部屋も、彼女がそこにいるだけで華やかに思えた。
黒いスカートが、またふわりと揺れる。
顔を上げると、分厚い錬金術書を手にした彼女と目が合った。
「大佐、次の本はこれですよね」
「ああ」
微笑みながらそう聞く彼女に、私も同じく微笑みながら頷く。
すると彼女は、私の膝と膝の間の空間に腰を降ろし、胸に背を預けた。
金の髪が首筋をくすぐる。
これは私が強要していることではない。
彼女が自らの意思でしていることだ。
私はいつものように彼女の手から本を受け取り、彼女の前で広げる。
私は何度も読み返していて、ほとんどと言い切ってしまえるくらい頭に入っているが、初めて読む彼女には当然難しい。
しかも、彼女は錬金術に関する知識や才能も、まったくないのだ。
それでも彼女は眉の間に皺を作りながら、難解な文章と格闘している。
そして、たまに私の方に振り返り、「これってどういうことですか?」と質問を投げ掛けてくるのだ。
それに答えて、ページをめくって、また質問をされて、解説をして、その繰り返しだ。
いつからだったかは忘れたが、時間があるとき、こうして二人で錬金術書を読むのが習慣になっていた。
この時だけは、彼女は私に触られるのを嫌がらない。
肩に顎を乗せてみても、首筋を甘く噛んでみても、いつものようにあからさまに嫌悪感をいっぱいにした表情をすることはない。
むしろ、彼女は「もっと」とねだるように、私の胸に頭を擦り付けてくる。
「やっぱり、全然理解できないです」
今日の部分を読み終わり、私がぱたんと本を閉じると、彼女は振り返りながら溜息をついた。
「そのうち分かるようになるよ」
苦笑している彼女の金の頭を撫でながらそう告げる。
すると、彼女は表情を一転し、目尻を下げてにこりと笑った。
「何だか」
「ん?」
「父といるみたいです」
毎回恒例の言葉を、彼女が笑みを浮かべながら口にする。
そして私は、その言葉に顔を引き攣らせるのを何とか我慢するのが、毎回恒例となっている。
分かっているのだ。
彼女がこの時間に求めているものは、私との甘い触れ合いではない。
彼女が求めているものは、古びた本の匂いや埃っぽい空気、背中に感じる温もりや、難解な文章だ。
そして、父と過ごしたわずかな時間を思い出し、懐かしんでいるのだ。
分かっている。
そんなこと、嫌と言うほどよく分かっている。
しかし、毎回、何かほかのことを期待してしまうのは無理もないことだと思う。
自分の腕の中で、「また次もよろしくお願いしますね」と、いつになく柔らかく笑う彼女に、何かを期待しない男などいるものか。
「……君ってかなりファザコンだよなあ」
「はい?」
私の溜息交じりの呟きを聞き取れなかったらしく、彼女は可愛らしく首を傾げた。
今しか見られないその愛らしい様子に苦笑しながら、滅多に触らせてもらえない金の髪に口付けた。







ぶえっくしゅん!
可愛くない、と誰もがはっきりと断言するだろうくしゃみが執務室に響いた。
くしゃみをしたのが男性ならば、うるさい、と睨み付けて終わり。
しかし、とんでもないことに、豪快なくしゃみを響かせたのは女性だった。
もし、これがデート相手だったならば、すぐにさようなら。
けれど、それが私の副官だったならば――
「……大丈夫?」
すかさず執務机の上にあったティッシュを手渡そうとするが、彼女はすでにポケットからティッシュを取り出し、これまた「ぶーん」と、とっても可愛くない音で鼻をかんでいた。
これもデート相手や言い寄ってくるお嬢さん方ならば、作り上げた笑顔を浮かべながら即逃走。
しかし、今の私の顔は、彼女を心配し眉を寄せつつも、口元がだらりと緩みそうだった。
ああ、可愛いっ!
「……申し訳ありません。さっきから何度も」
ずずっと鼻をすすりながら彼女が言う。
彼女が謝罪をしたのは、くしゃみと鼻をかむ音のことだけ。
恥ずかしさに顔を赤らめることもなければ、女性らしくない仕種の数々を恥じないどころか気付いていないところが彼女らしい。
うん、やっぱり可愛い。
ちなみに、執務机の上に置いたティッシュの箱は、実は彼女のためのものだ。
机の中にもいくつか入っている。
幸か不幸か、今、執務室にいるのは二人だけだ。
この彼女の男性らしい、いや中年男性らしい勇ましさをほかの奴らが見ていたら、彼女のファンは少しは減ったかもしれないのに残念だ。
いいや、そのギャップがいいと、逆に燃える奴もいそうだから困ったものだ。
とりあえず、今日、彼女を私の家まで掻っ攫う理由は「風邪気味の君が心配でとても一人にはしておけない」に決定だ。







彼女が眠っている間、軍人とは思えないほどあどけなく、まるで子供のように無邪気な寝顔をしていることを知っているのは、きっと私だけだろう。
「君の小さい頃はとてつもなく可愛かったんだろうなあ…」
珍しく彼女よりも早く起きた朝は、顔をにやけさせながらいつもそんなことを考えてしまう。
今現在を共に過ごすだけでは飽き足らず、欲深く過去の姿まで知りたいと思わせる女性は、彼女が初めてだ。
まだ幼さを残す頬の輪郭が、カーテンの隙間から入ってきた眩しい朝日によってより白く見える。
何の汚れも知らない子供のような顔でぐっすりと眠る彼女を眺めながら、彼女の幼い頃を想像してみる。
今の男性と見間違ってしまうような短髪と違って髪は長かったのだろうか、低い視線でどんな世界を眺めていたのだろうか、どんな顔をして笑っていたのだろうか。
「…あー、見てみたかったなあ…」
しみじみと呟いていると、金の睫毛がふるりと震えて、ゆっくりと瞼が開き茶色い瞳が現れた。
起きたばかりでまだ頭が働かないのか、ぼんやりと天井を見上げている彼女の視界を遮るように、真っ白な額にキスを落とす。
「おはよう、リザ」
「…おはようございます…」
「もしかして起こしちゃった?」
「……中佐がぶつぶつと独り言を言っているのが聞こえて目が覚めました…。怖いですよ、独り言。というかなんであなたは非番の日に限って早く起きるんですか」
目覚めるなり、むっと顔をしかめた彼女にいきなり説教されてしまった。
先程まで小言なんて知らない純粋な少女のような顔をして眠っていたくせに、実際の彼女は寝起きがものすごく悪いのだ。
今は扱い方に慣れたものの、以前は機嫌の悪い彼女を宥めるのにずいぶん苦労したものだ。
「君が小さい頃どんな子供だったのかを考えていて、ついね」
「…どうしてまたそんなこと」
「私が君の成長を見てきた限り、超絶に可愛かったに違いないな」
「あなたが父に弟子入りした時の私とあまり変わらないと思いますけど」
緩慢な動きで目を擦りながら、彼女が素っ気ない返事を寄越す。
「もっと幼い君だよ。真ん丸な顔とか小さい手とか…。ああ、見たかったなあ」
この柔らかさは昔からだったに違いないと、親指と人差し指でむにっと頬を軽く摘みながら話すと、彼女がやや釣り目気味の目をすっと細めた。
「……中佐、もしかして幼女趣味に目覚めたんですか?」
「…君、一体どうしたらそんな考えに行き着くんだ」
彼女のとんでもない思考回路に絶句している私を余所に、彼女はのんびりと欠伸をしながら私の胸にもたれ掛かってきた。
「小さい頃のことはよく覚えていません。鏡なんてそんなに見なかったですし、写真だってないですし…。中佐、一応申し上げておきますが、少女に手を出すのは犯罪です」
「だから違うっ!私は君の!君の小さい頃が見たいんだ!そんな目で私を見るな!」
軽蔑するように私を見上げてくる彼女に必死に誤解を解いていると、何かを思い付いたのか、彼女が「あ」と小さく声を上げた。
「私が金髪の男性と結婚をして女の子が生まれたら、中佐にお見せできるかもしれませんね」
「きんぱ……何っ!?駄目だ駄目っ!」
「まあ私に似ていたらの話ですけど」
混乱し怒鳴る私をまったく気にすることなく、彼女はゆったりと話す。
「ちょっと待て君っ!金髪の男と結婚なんて許さないからな!そもそも私はどうなる!?黒でもいいだろう!?」
「…どうして私が中佐と結婚するんですか…。それに中佐は私の小さい頃が見たいのでしょう?だったら金髪の男性でないと」
「いいやリザ!そういう問題ではないだろう!」
「もっとも私が結婚するならあなたが目標を達成したあとになるので、今すぐというわけにはいきませんが…それまで待てますか?」
「リザ、どうして変なところで気を遣うんだ…。君は根本的に間違っているっ!!」
耳がキンキンするほど叫んだが、彼女は動じることなく、何でもなかったかのように再び目を閉じた。
「中佐、まだ早いので寝ますね。おやすみなさい」
「は!?寝るのか!?まだ話は終わってないぞ!リーザー!」
「…ちゅーさー、うるさいでーす…」
数々の問題発言を残して、私の怒鳴り声を気にすることなく彼女はあっさりと眠りの世界へと旅立ってしまった。
寝起きの彼女は機嫌が悪いし、まったく話が噛み合わない…いや、それはいつものことか。
彼女が起きたら、君は私のものだということをどんな手段を使ってでもしっかり分からせてやらなくてはならない。
「……絶対に黒髪の女の子を生ませてやるからな」
まだ存在すらしていない金髪男に宣戦布告をする。
彼女の幼い頃が見たいという願望から一転、彼女の破天荒な発言のせいでずいぶんと目標が変わってしまった。







目覚まし時計が鳴る前にふっと目が覚め、緩慢な動きで体を起こして時計のスイッチを止め、うーんと伸びをする。
私が起きたことに気が付いたのか、爪で床を叩く音をさせながら愛犬がベッドに近付いてきた。
「おはよう、ハヤテ号」
抱き上げた体の重みでまた少し大きくなったことを手の平で感じながら、ハヤテ号をベッドの上に抱き上げる。
ぱたぱたと尻尾を振ったり太ももの上に乗り上がったり、頬を舐めたりと忙しい彼に微笑みながら、黒い頭をくしゃくしゃと撫でる。
カーテンの隙間から眩しい朝日が漏れる、なんとも爽やかな朝だ。
しかし、隣で枕を占領してぐっすりと眠っている上官にはまだ朝は訪れていない。
「……間抜けな顔」
しげしげと彼の顔を見て思わず呟いた一言に、ハヤテ号がワンと元気よく鳴く。
四方八方に跳ねた黒い髪、緩み切った顔、おまけに半開きの口、これが本人曰く「東方一の美男子」なのだろうか。
ハヤテ号の鳴き声にすら反応せず起きないなんて鈍感すぎる。
彼の頬を両手で軽く摘んで引っ張って伸ばし、ハヤテ号がぺろぺろと顎を舐めてみても、彼はまったく起きる気配を見せない。
長年の付き合いとはいえ、これでは気を抜きすぎではないだろうか。
私の前では、司令部にいる時のように気を張る必要はないし、何より他の女性達にするように格好を付ける必要はないが、これでは少し失礼すぎる気がする。
「ハヤテ号、これがキツネ目で、これがタレ目よ」
ハヤテ号に講義している間も、彼は目元を上下に引っ張られているにも関わらず目を覚まさない。
遊びはここまでで、この辺りで起きてもらわないと遅刻してしまう。
さっさ起きてもらわねばと、私は彼の鼻を親指と人差し指でぎゅっと摘んだ。
数秒後、ふがっという変な声と共に、やっと真っ黒な瞳が現れた。
「大佐、おはようございます」
「……毎回毎回、妙な起こし方は止めてもらえないかな、中尉」
鼻を労るように擦っている彼が、まだ眠たそうな顔でむっと睨んでくる。
「ずいぶんと間抜け…いえ、ずいぶんと気を抜いていらっしゃるようなので僭越ながら喝をいれてみようかと思いまして」
「君、上官に向かって間抜けってね…」
寝癖のひどい頭を掻きむしりながら上半身を起こした彼が、盛大にため息をつく。
構ってもらえる相手が増えたことが嬉しいのか、ハヤテ号は彼の膝に乗り上がってまた顎をぺろぺろと舐めている。
彼はそんな愛犬を「重くなったな」などと言って持ち上げ、人形を抱くかのように抱き寄せた。
「……いいじゃないか、君の前でくらい気を抜いたって」
「はい?」
愛犬の黒い頭に顔を埋めたまま呟いた彼の言葉が聞き取れずに聞き返す。
「……だから、私は君の隣でしか気持ち良く眠れないし、君がいないところは全部居心地が悪いんだ」
だからいいじゃないか、と、そっぽを向きながら、妙に子供っぽい口調で彼がぼそりと言う。
「…そうですか」
私に背中を向けて愛犬の相手をしている彼から視線を外して、私はカーテンを開けようとベッドから下りた。
その時、後ろから嫌な声が掛かる。
「…君、もしかして照れてる?」
自他共に認める間抜けなくせに、どうしてこういうことには鋭いのだろう。
「…どうして私が照れなくちゃいけないんですか」
「じゃあこっち向いて」
「私は大佐と違って忙しいんです。大佐、あまりのんびりしていると遅刻しますよ」
「リザ」
名前を呼ばれた声の近さに思わず肩を揺らした。
気が付けばカーテンに手を掛けた私の後ろに彼が立っており、私のお腹の前で両手を組んだ彼に抱き寄せられた。
「リザ、おはようのキスがまだなんだけど」
「…そんなの知りません」
「ほら、やっぱり照れてる。あーあー、可愛いなあー」
「…うるさい…」
この間抜けを黙らせるために、ぶつかってしまうのではないかと思うほど勢い良く振り向いて、彼の望み通りキスをしてやった。
彼は満足そうに私の頭に手を回して口付けを深め、愛犬はそんな私達の様子を何でもないようにベッドで伏せながら眺めている。
これが、不器用な私と彼のいつもの朝なのだ。







本が雪崩を起こしたり塔を作ったりしているひどい有様の書斎の床に座り込み、文字を追うことに夢中になっていると、ふと背中に温かみを感じた。
細い腕が腹に回ってくるのと同時に、背中に柔らかな感触が控えめに押し付けられる。
「……君が珍しいな。どうしたんだ?」
「一人だと寒いんです」
本から顔を上げてうしろを振り向くと、金髪が背中にもたれ掛かっているのが見えた。
彼女の冷えた手に自分の手を重ねて撫でる。
「少しだけ、こうしていていいですか?」
「何時間でも」
そう答えると、体に回された腕の力がわずかに強くなった。
背中にぴったりと寄り添った彼女の心音や呼吸を感じるのが愛おしい。
「…大佐、私…」
「ん?」
「大佐の匂い好きです」
「…………」
「大佐?」
「………加齢臭!!?」
「え?」







喉が痛いというだけで、我らが上官は「今すぐ家に帰るべきだ」だとか「早急に病院へ」だとか、そりゃあもう朝っぱらから大騒ぎしていた。
もちろん仕事には一切手をつけていない。
ちなみに俺が仕事した方がいいっすよー、と促すと「ウドの大木の言うことは聞かん」と返された。
そうして、お約束通り、こんな時に唯一頼れる麗しき彼の副官がついにキレたのだった。
「大佐、提案があるのですが、他の部分を痛いと感じれば喉の痛みなんて消え去るのではないでしょうか」
「…ま、待ちたまえ中尉…。とりあえず銃をしまってくれないかな」
効果覿面。
ありがとうございます中尉。
先程まで机に突っ伏していた黒髪の上官は、勢いよく姿勢を正すと慌ただしく万年筆を手にした。
「もう、大佐は喉が痛いというだけで騒ぎすぎです。子供じゃないんですから」
「……だって痛いんだ」
ふて腐れた顔で嫌々と書類にサインを始める様子は、本当に子供のようだ。
大佐を見てふうとため息をついた中尉は、胸ポケットから何かを取り出した。
「先程、医務室に行ってトローチをもらってきたんです。これで我慢してください」
「ん」
「大佐、口開けてください」
「はいはい」
これで一件落着と安堵していた俺は、思わず目を疑った。
大佐は中尉に言われるまま口を開け、トローチを放り込まれている。
もしこの場に俺以外の人間がいたとしても、間違いなく俺と同じことを突っ込んでいるだろう。
中尉、かいがいしすぎです!!
大佐もトローチくらい自分で袋開けて食え!!
声に出して叫びたいところを心の中だけに留めてぐっと堪える。
大佐のお子様な性格が直らない原因に、実は中尉も入っているのではないだろうか。
それから、少し咳込んだだけでそんな心配そうな顔で優しく背中撫でる必要もないですよ、中尉。
「……ハボック、お前さっきから突っ立って何をしている」
「ハボック少尉、何かあったの?」
「いーえ、何も」
……あーあ、一刻も早く彼女が欲しい。







「今日がデートって本当?」
射撃場から司令部に戻ろうと足取り軽くうきうきと歩いていると、突然、後ろからぬっと中尉が現れた。
「ぎゃっ!!!」
「ちょっと少尉、『ぎゃっ』とは何よ。失礼ね。お化けじゃないんだから」
俺の間抜けな反応に、中尉は不機嫌そうに頬を膨らませた。
その表情が幼くてものすごく可愛いが、俺は心臓がばくばくとうるさくてそれどころではない。
中尉には言わないが、彼女に慣れている俺だから奇声ですんだわけであって、他の奴らだったら確実に卒倒している。
本当にお化けだとか、あの美しい中尉が急に降臨しただとか、色々な意味で。
「いや、失礼しました。…できれば気配消さないで近付いて欲しいんですけど」
「消してないわよ。デートだからって浮かれて気配に気付かないなんて危ないわよ、ハボック少尉」
「……というか中尉」
「なに?」
「…近い…」
「え?」
何の前触れもなしに背後から現れた時からそうだったが、俺と中尉との距離が男女という異性を意識してしまうほど近い。
俺と中尉の身長差はかなりあるものの、顔も近いし体も近い。
中尉は俺のすぐ隣を歩き、まるで瞳の中を覗き込むようにして話し掛けてくるのだ。
男心をまったく理解していない中尉がこういうことを自然にやらかすから、東方司令部の男共は彼女に敵わないのだ。
まあもう一度言うが俺はとっくの昔に慣れたが。
「それで、今日が初めてのデートなのよね。おめでとう。でもさっきみたいに奇声上げるとまたフラれちゃうわよ」
「中尉、根に持つタイプですね…。奇声は気配を消す人にしか上げないので大丈夫です」
射撃場から司令部の建物まで戻る道のりには芝が敷いてあり緑が多い。
木もそれなりにあるし、まるで小さな公園のようになっているのだ。
失恋をした時にはこの緑を見ながら傷を癒していたが、今は違う。
「なーんか春がきたって感じですよねー」
「そう?暑くない?」
「俺、今回の恋は大事にしたいんですよ。もちろん煙草は吸わないし雑なのも気を付けるし、会話も手を繋ぐことも慎重にやりたいと思っていて」
「少尉、毎回そう言っているわね。何度目かしら。ファルマン准尉に聞けば分かると思う?」
的外れな返答ばかりしてくる中尉に熱く語りかけたいほど、俺は今夜のデートに浮かれていた。
頭が春色に染まっていなければ、恋というものをまったく分かっていない中尉にこんな話もしなかったし、あんな馬鹿げた発案もしなかっただろう。
「手を繋ぐのなんて好きな時にすればいいじゃない」
「んー、でも紳士としては相手の気持ちを考えてですね…。強引なことはしたくないし、自然な流れでいきたいし…」
「少尉って紳士だったの?」
「今日からの新米ですけど」
「ふうん」
「あ、中尉、良かったら練習に付き合ってください!」
浮かれた頭は時々究極に恐ろしいことを考えてしまうから怖い。
「私で良かったら」
「ありがとうございます!よし、じゃあ飯を食い終わったあとということで!」
「分かったわ」
仕事の時のように真剣な顔をして頷く中尉に思わずガッツポーズをする。
中尉も俺の恋を本気で応援してくれているようだ。
ごほん、と咳ばらいをして練習に入る。
「ご飯美味しかったですねー。…あの、何か寒くないですか?」
「さっき春がきたって言ってなかった?」
先程の真面目な顔をしたままこちらを見上げる中尉に、あんぐりと口を開く。
「中尉!!これは練習!さっきのことは忘れてくださいっ!」
「でも寒くないし…」
「あーっ!もう一回!じゃあ次は突然のアクシデント!急に車がこっちに暴走してきて俺は彼女の手を引いて助ける!」
「私が少尉を身を挺して助けるわ」
「だーっ!!中尉は彼女役なんですってばー!!」
爽やかな緑の中に俺の悲しき叫び声が響き渡る。
この有様で本番は大丈夫なのだろうか。
不安を次から次へとぶつぶつと嘆いていると、ふと左手に温かみを感じた。
「…え?中尉?」
下を見ると、なんと中尉が俺の手を握っている。
「あまり考えないで、好きな時に繋げばいいじゃない。考えてばかりだときっとデートを楽しめないと思うの」
「…中尉…」
今日始めて中尉がまともなことを言った気がする。
「大佐なんていつもそうよ」
「は…?た、大佐…?」
「何が楽しいのか、私のことなんかちっとも気にしないで強引に手を繋いでくるの。それであちこち連れ回すのよ」
「へええ?…大佐かあ…」
何故このタイミングで大佐が出てくるのか。
まさか俺はかなりいけないことを聞いてしまったんじゃないだろうか。
悶々と考える俺をよそに、中尉は大佐の愚痴を引っ切りなしに口にしている。
その時だった。
背後から背中を刺されるような黒いオーラを感じ、ぞくりと鳥肌が立つ。
「君達、何をしているのかな?」
俺が振り返る前にどす黒いオーラの主が声を放った。
声に苛立ちをまったく感じさせず、むしろにこやかなのが恐ろしく、振り返ることができない。
あの人は中尉が自分以外の男といるだけで妬くどころか本当に焼くので恐ろしい。
「あら大佐」
もちろん中尉は暢気に後ろを向き、どうしたんですか、なんて尋ねている。
「ホークアイ中尉、今すぐハボックから離れなさい」
あ、そういえば手を繋いだままだった。
やばい。
ますます振り返れない。
「中尉の帰りが遅いと思って迎えに来てみたらこれか。いい度胸だな、ハボック」
「いいいい、いやっ!違うんです大佐!これは中尉から繋いできたんですっ!」
「嘘をつけハボック!!覚悟しろ!」
「大佐、私から少尉の手を繋いだんですよ」
中尉のその一言に、俺は安堵のため思わず倒れ込みそうになり、大佐は発火布を付ける手を止めた。
平和なことに木から鳥が一羽ばさばさと飛び立つ音以外、一瞬時が止まった。
「少尉にデートの練習を頼まれたんです」
「そうなんです大佐!ですからやましいことは何ひとつなしなんですっ!」
「それから少尉、言い忘れていたけど、本当に何も考えず自然なままでいいと思うの。少尉は優しいし気が遣えるし、一緒にいると楽しいもの」
誤解が解けて一安心したものの、一難去ってまた一難。
中尉が俺のことそんな風に思ってくれているなんて嬉しすぎるが、この状況では正反対だ。
「それにね少尉、さっきはあんなこと言ったけど、大佐に比べたら少尉はよっぽど紳士的よ」
だから頑張ってねと、にこりと可愛らしく笑って、中尉がついに爆弾を落とした。
やはり中尉は男心を分かっていないと改めて思い知らされる。
大佐が発火布を付けるのが先だったのか、それとも俺が中尉の手を振りほどいて逃げるのが先だったのか、どちらが早かったかは分からない。
とにかく俺はデート前に丸焦げにならないように必死に逃げた。
「ハーボーックー!!私の中尉に何をしたー!!」
「何もしてませんーっ!!!」
先程までは中尉の天然さに慣れたと思っていたが、まだまだ甘かった。
きっと中尉は今頃、状況についていけずきょとんとしながらも大佐の暴走を抑えようとしているのだろう。
このあとどうなるか分からないが、はっきりしていることがただひとつ。
男心の分からない中尉が、大佐から何らかの制裁を受けることは間違いないだろう。






あからさまに不機嫌な彼女を部屋に上げた時、確かに「まあ、くつろいでくれたまえ」と言ったけれど、これはくつろぎすぎではないだろうか。
勝手にソファーを占領し、おまけに許可なしで寝室から持ってきたブランケットをかぶって寝ている彼女を見て唖然とした。
くつろぐというか、これは図々しくないか?
「……中尉、一応ここは他人の家だぞ」
「くつろげと言われたとのお言葉に甘えさせていただいているだけですが」
私に背を向けてソファーに寝そべっていた彼女が、もぞもぞと寝返りを打って私を見上げた。
口を尖らせたその顔は不機嫌そのものである。
滅多にない非番の日に朝っぱらから電話で呼び出されて苛立っているに違いない。
「私はとっても疲れているんです。なので今日は家でゆっくり休もうと思ったら某大佐に召集をかけられさらに疲れて…。そもそも、私が疲れているのは某大佐が仕事をさぼったり引き延ばしたり逃げたりするから…」
「あー分かった分かった!そこまででいい。私が悪かった」
彼女は相当ご立腹だ。
不満げに口を閉じた彼女はブランケットをかけ直して再び目をつむった。
しかし「召集」とはひどい言い方だ。
私は訳もなしに彼女を呼び出したわけではなく、二人揃っての休みなのだから穏やかに過ごしたかっただけなのに。
まあ、「穏やか」だけではなく、もちろん下心もあるが。
少なくともこんなぎすぎすとした雰囲気は予想していなかった。
「…カーペットに毛がつく…」
慣れない場所が珍しいのか、部屋中をくんくんと嗅ぎ回っている彼女の愛犬を見つめながら呟いた言葉は、別に毛がつくことを気にしている訳ではなく、思い通りにいかない現状への不満だった。
「なら私を呼ばなければよかったでしょう。何なら今すぐ帰りますが」
寝不足でご機嫌斜めな彼女が目を閉じたまま言う。
「そういう意味じゃない」
不穏な空気をまったく気にしないのか、カーペットをころころと転がり始めた子犬を撫でながら、ふうとため息をつく。
疲れている時のご主人様は怖くてお前も大変だな。
いや、怖いのは私の前だけか?
「……というか中尉、さっきから気になっていたんだが」
「何です?」
「君、他人の部屋でくつろぎ慣れていないか?」
「はい?」
眠たそうな声で返事をした彼女が、意外な質問に驚いたのかぱちりと大きな目を開いた。
私の呼び掛けを全部無視して、部屋に入るなりずかずかと寝室に行ったと思えばブランケットを持ってきて、それから無言でソファーでくつろぎ始めるなんてそうそう出来ることではない。
「……まさか君、私以外の男の家に上がり込んでいるのか!?」
「何をそんな熱くなっているんですか」
きょとんと私を見上げる彼女は、事の重大さが分かっていないらしい。
私は彼女の肩をがしりと掴んで前後にがくがくと揺さ振った。
「行ったことがあるのか!?」
「答える義務はありません。というか痛いです」
「他の男の家なんて絶対に行くんじゃないぞ!男という生き物は良からぬことしか考えていないんだぞ!!」
「行くなと言われるとなんだか行きたくなりますね」
「だーめーだっ!!」
彼女の愛犬は構ってくれない私達に飽きてしまったのか、リビングから出ていってしまった。
遠くなっていく爪の音と、大声を出してはあはあと息を切らす音だけが部屋に響く。
「…大佐」
「なんだ」
「男は良からぬことを考えているって、大佐もですか?」
それは子供が親に何かを尋ねるような純粋な聞き方だった。
ついに反撃する機会がやってきた。
そう思ったことを、こういうことに関しては異常に鈍感な彼女は知らないだろう。
「……ほう、なら『良からぬこと』を実演してみせようか」
「…え…」
「絶対に私以外の男の部屋に行かないように教育してやる」
ソファーに馬乗りになるようにのし上がり、彼女の顔の横に両手を着いて、上から威圧するように見下ろす。
「…あの、ちょっと大佐…」
「覚悟しなさい」
私は今日始めて、ようやく心からにこりと笑った。
さあ、楽しい休日の始まりだ。







「少尉も大変だなあ」
執務室に入って来た少尉に、両手に顎をつきニヤニヤと笑いながら開口一番こう言うと、彼女は小さくため息をついた。
「…見てらしたんですか」
「最初に言っておくがのぞき見ではないぞ。廊下で大声を出して食事に誘うなんて、見てほしいようなものだ」
胸に抱えていた書類を執務机に置きながら、彼女はわずかに顔をしかめた。
先程のことを思い出しているのかもしれない。
公衆の面前であんなことをされたのだから、断るのによっぽど苦労したのだろう。
「何て言って断ったのかな」
「…仕事が忙しいから、と」
「ふうん。仕事が忙しくなくても行かない方がいいぞ」
「何故です?」
「ああいう男は絶対に女性に気を遣えない。私には一目で分かる。それに、付き合っていくうちに束縛しそうだし身勝手そうだし、何より出世しそうもないうだつの上がらない男だよ。君には釣り合わない」
「はあ…」
「少尉、決して自分を低く評価してはいけないぞ。君は美人だしスタイルもいいし仕事もできる。普段は厳しいが、ふとした瞬間に優しくされるともう堪らない。二人といない最高の女性だよ。君に釣り合う男はなかなかいないだろうな。いるとしたら……」
アメストリス一男前で紳士的で、女性に気を遣えるのはもちろん、昼も夜も楽しませることができる。
国家錬金術資格を取れるくらい頭脳明晰、かつ焔のようにワイルド。
大総統を狙うような野心家だが、少し子供っぽい一面もありそこもまた可愛らしい。
何より大切なのが、少尉をこの世で一番可愛がり理解できる男。
「……って、私しかいなくないか!?」
「空想のあとに訳の分からないことを言うのはやめてください」
「少尉、私なのか!?私だったのか!?」
「何のことだかさっぱり」
「……少尉、結婚するの遅くなってもいい?」
「はい?」








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