ソファーには座らず、ソファーのすぐ下に敷いた絨毯の上で本を読むのがすっかり癖になってしまった。 狭いソファーの上と違って、ここならいくらでも本を並べられるし、積み上げた本が崩れたって被害は少ない。 それに、何となく買った割にこの絨毯は座り心地が良いし、本来なら座るべき場所で背もたれにはならないはずのソファーもずいぶん背中に馴染む。 彼女はそれを「だらしがないですね」と呆れたように非難していたが、最近ようやくこの場所の魅力に気が付いたらしい。 気が付けば、リビングにあるこの絨毯の上で彼女と過ごす時間が多くなっていた。 「大佐、お借りしました」 「うん」 寝室かどこからか見つけてきたのだろう、私の厚手のセーターをブラウスの上に被った彼女がリビングへ戻って来た。 彼女が私のセーターを借りるのはいつものことだし、私なんて彼女のものを無許可で使うことがあるのだから、いちいち了解を取る必要などないのにと思う。 ただ、彼女はそういうことに関しては律儀だが、胡座をかいた私の足の上に少し無理やりに頭を乗せる時には、彼女は何も言わない。 ここが自分の居場所なのだとでもいうように、ごろりと絨毯の上に横になり、当然のように私の足の上に頭を乗せる。 彼女が居心地の良い場所を探すべくもぞもぞと動いている間、本を読む手を止めて、ソファーに上にいつも用意してある彼女専用のブランケットを掛けてやるのが私の仕事になっていった。 私達がこうして絨毯の上で過ごすから、大きなソファーは彼女の小さな愛犬が独り占めしているという状態だ。 私の足を枕代わりにして丸く縮こまり暖を取る彼女は、ソファーの上で眠りこける子犬にそっくりだと思う。 君の方がよっぽどだらしないじゃないか、とは思っていても決して口にはしない。 彼女が機嫌を損ねると後のご機嫌取りが大変だし、それに何よりそんなつまらないことでこの温かな重みを手放すのはもったいない。 「今日は冷えますね」 「そうだな」 「でもハヤテ号が散歩に行きたがってました」 「ふうん…。…で、何?」 「はい?」 「さっきから視線が気になる」 「そうですか?」 しらばっくれたように彼女が答えるが、先ほどから本の文字よりも、下から私の顔をじっと見上げる彼女の視線の方が気になって仕方がない。 「視線の先に大佐がいただけですよ」 「もしかして男前とか見惚れてた?惚れ直した?」 「…いえ、ハヤテ号よりも大佐を散歩に連れて行かないと、と思ってました」 「は?」 「いいえ、別に何でもありません。気にしないでください」 そう言って、彼女が意味ありげにふっと視線を逸らす。 ごろりと寝返りを打った彼女の視線の先にあるのは私のお腹。 ぴくぴくと顔が引き攣るのを感じながら、私はようやく合点がいった。 「……太ってないぞ!」 「大佐、誰もそんなこと言っていませんよ」 「言っているようなものじゃないか!」 「最近、油っこいものばかり食べている割には運動不足だなんて、私はそんなこと決して思ってませんから」 「…あーっ!もういいもういいっ!…君は本当に嫌な女だな」 最近自分でもそれとなく気にしていたことをずばりと指摘されて、つい不機嫌になるが、下で悪戯が成功した子供のように無邪気な顔で笑う彼女が、悔しいけれどそれを吹き飛ばすくらい可愛い。 「ハヤテ号が起きたら一緒に散歩に行きます?」 「…別に構わないけど」 「楽しみですね」 遠くまで行った方がいいでしょうかね、なんて笑いながら憎たらしいことを言う彼女に、何かを反論する代わりに綺麗な金髪を思いきりぐしゃぐしゃに乱してやった。 嫌味の仕返しのつもりが、乱れた髪の間から覗く茶色い瞳と白い肌が今すぐキスしたくなるほど愛おしくて困る。 ――私の家にいれるのも、枕の代わりになってあげるのも、こんなに私の近くにいることを許すのも、ただ君一人だけなんだよ。 そう言ってやったら、彼女はどんな顔をするのだろう。 見てみたいと思うが、やはり、これも彼女には胸に秘めておくだけで言わない。 人をからかうのは大好きだが、からかわれるのは大嫌いな恥ずかしがり屋の彼女は、あんなことを言ったら当分口を聞いてくれないだろうから。 私はずいぶん彼女に甘くなってしまったようだ。 少尉を追い詰めた結果、執務室のソファーの上に俯せに押し倒すという最高の体勢になり、私は勝ち誇った笑みを浮かべながら息を切らす彼女の上に馬乗りになった。 逃れる方法などないと分かりきっているはずなのに、それでも彼女はやみくもに金の髪をぐしゃぐしゃに乱して抵抗し体をよじる。 ふうとため息を漏らしながら暴れる体を片手のみで押さえ付け、すっかり乱れた軍服の上着の下、黒いアンダーシャツに手を這わせると、彼女は息を止めた。 「…あ…っ!」 少尉のものとは思えない甲高い声が執務室に響き渡り、それに気が付いた彼女は慌てて手の甲で口を塞いだ。 軽く指を動かすだけでも予想以上の反応が返ってくるのが可愛らしくて、ついつい行為に熱が入ってしまう。 大きな目にうっすらと涙が滲んでいることに気が付いたが、それは加虐心を煽るだけに終わった。 「…ちゅう…さ…!もう、やめっ…!」 肩で大きく息をしながら、涙声で弱々しく懇願してくる彼女に残酷に微笑む。 「駄目だよ」 「あ…そこ、は…っ!」 「ほう、君はここも弱いのか」 「…嫌…!」 彼女は震える唇を噛み締めながら、ソファーの革を指が白くなるまできつく握る。 「少尉、ここで根をあげてもらっては困るな。まだ始まったばかりじゃないか」 「……あのー、さっきから何やってるんですか」 「ん?」 「あ…」 声がしたので振り返って扉の方に目を向けると、背の馬鹿高い金髪の部下が呆れたようにこちらを見ていた。 「何って、見れば分かるだろう」 「あー、セクハラ」 「何を馬鹿なことを言っているんだハボック。くすぐり以外の何でもないだろう」 「はあ?くすぐり?」 「あまり他の奴には教えたくないが、ホークアイ少尉の意外な弱点だ。彼女は異様にくすぐりに弱いんだよ。そうそう、この前なんてね、朝になかなか起きない私をくすぐって起こそうなんて可愛いことをしてきたが、くすぐりが駄目なのは彼女で…」 「…ホークアイ少尉、大丈夫っすか?生きてます?」 「何とか大丈夫よ…。…もう、中佐は強引で乱暴すぎです」 「ふむ、じゃあ今度は優しく…」 「あのー、俺が言うことじゃないかもしれないですけど、じゃれあってないで仕事してください」 今日も一日、わがままなご主人様に一生懸命仕えてご苦労様でした。 そんな意味をこめて、わざわざ机の上の整理までしてくれている副官の頭を撫でようとすると、気配を察知したのか瞬時に避けられた。 椅子に腰掛けている私を、すぐ隣に立つ彼女が上からむっと睨む。 が、いつの間にか彼女の関心は私が頭を撫でようとした行為から、行き場を失った私の手に移っていた。 茶色い瞳がじっと私の指を見つめている。 「…何?」 「大佐、指から血が出ています」 「え?…ああ、書類ででも切ったのかな」 彼女の視線の先にある指を眺めてみると、確かに小さな切り傷ができていた。 しかし、血が出ているなんてよくよく見なければ分からない程度だし、自分では気付かなかったくらいだし、大騒ぎするほどのものじゃない。 仮にも軍人。 しかし、彼女はとても真剣な顔でごそごそと自らのポケットの中を探り始めた。 「絆創膏、はりますね」 今日一日、私の命令ひとつで歩いて走って働いて、おまけに散々世話を焼いて、最後の最後までこれだ。 自分が血を流した時にはそのままほったらかしにするくせにと、眉を寄せる。 さすが私の犬、彼女は馬鹿みたいに私のことしか頭にないらしい。 「指、出して下さい」 彼女の言葉に従って大人しく手を差し出すが、聞く振りだ。 私のことばかり考えているから、こうして私に簡単に隙を見せる。 そんな私の考えなど知らず、絆創膏を片手に持ち待ち構えていた彼女を捕まえて引っ張り、器用に膝の上に座らせる。 彼女が驚きの高い声を上げた。 「…ちょっ、大佐っ!」 「んー?」 「『んー』じゃなくてっ!離してください!」 彼女の言葉なんてもちろん無視し両手首を押さえ付け、胸元に顔を埋める。 柔らかい膨らみに頬を寄せていると、ふと、青い軍服に彼女の愛犬の毛がついていることに気が付いた。 「あいつの毛じゃないか」 「え?」 「出勤ぎりぎりまで遊んでやっていたのか。ご苦労様」 「……どうでもいいからいいから離してください」 彼女とあの子犬は似ているようで似ていない。 彼女の犬は構って欲しいと無邪気に甘えてくるのに、私の犬はそんな可愛いことは言わず命令を聞くだけ。 彼女は――構って欲しいとは、思わないのだろうか。 不機嫌さを十分に表す鋭く細められた目元に口付けるのをきっかけに、私はまるで犬がじゃれるように顔中にキスを始めた。 膝に乗せた彼女の体が途端に面白いくらいに強張る。 次に何が起こるのか彼女は知っているからだ。 唇にわずかに薄く塗られた口紅を舌でちろりと舐めとり、逃げようとする顎を捕まえて地の色に戻りつつある桃色を軽く噛む。 「…ん…っ」 やっとのことで私の手から逃れた彼女は濡れた吐息を漏らしながら、それでもきつく睨み付けてきた。 「…こういうことは…ほかの女性となさってください」 「嫌だよ。君だから構いたくなるんだ」 「はい?」 「君は構ってほしくないの?」 彼女の黒い愛犬を思い出させる真ん丸な大きな瞳で、彼女は不思議そうに私を見上げてきた。 やはり、彼女が構って欲しいと思っているなんて、主人の都合の良い勝手な思い込みでしかない。 私の犬は純粋なまでにただ主人に仕えて、主人のことを思い考え、それだけなのだ。 構いたくなるのは、犬を部下以上に思っている私のわがままだ。 相手を思う気持ちに世間でいう恋だとか愛だとかが欠けているから、こんなにも焦れる。 「…もう、本当にこういうことはやめてください」 体の力を抜いて、彼女がそっと胸にもたれ掛かってきた。 厚い軍服越しに感じる鼓動が心なしか速い。 ほつれた金髪によってうまく隠れている耳もほんのりと赤い。 ――これだから、また構いたくなるんじゃないか。 無意識に庇護欲と加虐心を煽る彼女は憎らしくも、とても、この世で一番愛おしい。 そして、有能で、ある意味では私のことをこの世で一番思っていてくれいる彼女は、気持ちを精一杯押し殺した主人のちょっかいを結局は許してくれるのだろう。 「今日、君の家に行っていい?」 「……もう、何も分かってませんね」 「遅い」 「…まだ五分もたってないですけど」 彼女の代わりに宛てがわれた身長が馬鹿みたいでかい部下が、呆れた眼差しを私に向けた。 こんな間抜け顔を見せられては、こいつの胸ポケットに入っているであろう煙草どもに火をつけてやろうかという衝動に思わず駆られる。 しかし火をつけたところでこれが馬鹿みたいにぎゃーぎゃー騒ぐのは非常に耳障りだ。 これ以上気分を害したくない。 どこぞの田舎からのこのこ訪ねてきた将軍が私の副官を呼び出してから、書類にサインをするはずの万年筆は机を断続的に叩いていた。 かんかんという音が、いつものように「大佐、子供のようなことはやめてください」と注意する者のいない執務室にむなしく鳴り響く。 「遅い。何をしているんだホークアイ中尉は」 不機嫌さを隠しもせずもう一度言い放ち、ついでに万年筆を床に放り出す。 万年筆が遠くに転がっていく音と一緒に、部下の盛大な溜息が聞こえた。 「大佐、中尉は悪くないでしょ」 「いーや、悪い。中尉もこの間恋人にフラれたお前もあの狸将軍も仕事も、みーんな悪い」 「…何をそんなに苛立ってるんですか。というかあんた、忘れかけていた傷をえぐるなんて…」 何をって。 そんなこと、中尉は私のものだからに決まっているだろう。 「遅かった」 「それは何度も聞きました」 「謝って」 「申し訳ありませんでした」 「心がこもってない」 滅多に人が来ない資料室に中尉を無理やり引きずり込んでから、同じようなやり取りを何度も繰り返していた。 誠意のこもっていない彼女の態度に、ついアンダーシャツ越しの首筋に軽く噛み付く。 壁に押し付けた体がわずかに揺れ、きゅっと眉間に皺ができた。 しかし肩と腰を必要以上に私にかたく拘束されている彼女は逃げられない。 「どうして行ったんだ」 「呼ばれたからです」 「どうして君はすぐ目をつけられるんだ」 「世間話をしただけですよ」 「食事はちゃんと断ったんだろうな」 「仕事が忙しいからと断りましたが…。なぜ私が誘われたことを大佐が知っているんです?」 「やつの考えていることなんか大体分かるさ」 彼女に対して下心丸出しな男のすることなど手に取るように分かる。 認めたくないが私も同類なのかもしれない。 彼女がこうしてあるべき場所に帰ってきて、いつものように彼女が私の目の前にいるのに、わがままな私の苛立ちはなかなか消えてくれない。 気まぐれに今度は耳を舐めると、彼女はやめてくださいと上擦った声と一緒に睨んできた。 呼吸がわずかに乱れるのが面白くて、目尻やこめかみにも唇を落とす。 先程から口付けても抱きしめても、さらには服の中に手を入れても、彼女の否定は口先だけで絶対に逃げようとはしない。 「君は…私に甘いな。甘すぎる」 「そうでしょうか」 「結局は、いつもこうして私の機嫌が直るまで付き合ってくれるだろう」 「そうじゃないと仕事にならないからです」 「君が私に甘いから、私はどんどんわがままになってしまうんだよ。悪いのは全部君のせいだ」 「…ずいぶんと勝手な言い分ですね。ならとことん厳しくします?」 我ながら本当に勝手な言い分だと可笑しくてくつくつ笑う。 確かに彼女は私に甘いが、そのせいで私はあまりにもつけ上がりすぎている。 こうして彼女を引き留めて八つ当たりしたり、部下と優しさ故に「いいえ」と言えない彼女を困らせたり、彼女は私のものだと思い込んだり―― 「……中尉、私のことが好きなんだろう?」 絶対に否定されると分かっていながら、口付けの合間に甘く囁く。 「こんなことをするあなたを好きになれるわけないでしょう」 長い口付けのあととは思えぬ、美しい氷の彫刻のような表情のない顔でいつも通り彼女は答えた。 「…君が甘やかすから、私はますます駄目な上官になってしまうんだろうな。そうしたら君も私をたぶらかした駄目な副官決定だ」 「どうしてそうなるんです」 「愛してやまない女性に一度でも甘い顔を見せられたら男は駄目になるんだよ。すぐに勘違いする」 「それは大佐だけです」 うんざりした表情で彼女が長いため息をついた。 髪留めを外して金の髪の柔らかさを楽しんでいると、ふと、まだ聞きたいことがあったのを思い出した。 「そういえば世間話にしては長すぎだったな。まさか何かされたのか?」 「またそれですか。……あなたのことを悪く言われたので、遠回しに『油断していると席がなくなる』と忠告していただけです」 一瞬の沈黙のあと、古びた資料室に似合わない私の盛大な明るい笑い声が響いた。 腕の中の愛おしい彼女をより一層きつく抱きしめ、頬ずりをする。 「前言撤回だ。君はやはり優秀な私の副官だよ」 「恐れ入ります」 「久しぶりに自宅で寝れるのですから、夜遊びせずちゃんと自宅で休んでくださいね」と、司令部から家まで護衛してくれた私の副官は覇気のない口調で注意した。 私が少尉にそう大声で言ってやりたいところだ。 彼女こそ、私なんか送っていないで一刻も早く家に帰り休んだ方がいいと言い切れるくらい、彼女は私以上に疲れきっていた。 彼女は相変わらず人形のように綺麗だが、疲労の色が濃く、目の下の隈が化粧で隠しきれていない。 「それでは」と礼をして部屋を出て行こうとする彼女の足元が明らかにふらついている。 このまま彼女を帰しては、家に着く前に路上に倒れてその場で熟睡してしまうんじゃないか。 「少尉、ちょっと待ちなさい」 「はい?」 私は覇気なく振り向いた彼女の腕をがっしりと掴んだ。 というわけで、少尉は今、私の寝室でまるで昼寝をしている子供のようにすやすやと眠っている。 戸惑う、というか嫌がる彼女を私は無理やり寝室に引っ張ってきてベッドに投げて、倒れ込んだ彼女に頭からブランケットを被せた。 それから、ぐしゃぐしゃに乱れた髪をそのままに唖然とブランケットから顔を覗かせた彼女に、「今から言うことは上官命令だ」と、びしっと言い放ったのだ。 「私はシャワーを浴びてくるから、遠慮せずここでゆっくり寝なさい」 彼女はもう抵抗する気力すらなかったのか、それとも驚いて事態についていけなかったのか、寝室を去る私の背中を、ただぼうっと見つめていた。 シャワーを浴びている間に逃げてしまったら、とも思ったが、それは杞憂に終わった。 体も髪もろくに拭かずにバスローブを羽織って足速に寝室に向かうと、そこには穏やかな寝息をたてて眠る少尉がいたのだ。 ふと視線を落とすと、彼女の靴と上着がベッドの横にたたんで置いてあった。 「上官の家で休むなんて」と抵抗していた彼女だが、諦めて本格的に寝ることに決めたらしい。 ベッドを軋ませないようにそっと彼女の隣に腰掛け、雫の滴る髪をタオルで拭きながら寝顔を覗き込む。 彼女はちゃっかりと私愛用の枕を使っており、おまけにそれを抱き込むようにして彼女は眠っていた。 そういえば以前、「中佐の匂いって落ち着きます」と彼女に言われたことがあった。 あの時は加齢臭かと心配したが、昔を思い出させるような可愛らしい寝顔を見せてくれるのならば、これは良い意味にとってもいいのだろうか。 私が少尉を怒らせるせいもあるのだが、職業柄彼女はいつも気を張っており、司令部では笑顔とは掛け離れた表情しか見せない。 いつも肩に力を入れている彼女の無邪気な顔など、ずいぶんと久しぶりに見た気がする。 雪のように真っ白な肌に惹かれるように頬に触れると、指先に心地良いなめらかさと体温が伝わった。 よほど疲れているのか、それとも安心しているのか、深い眠りの中にいる彼女は私が労るように指先で肌を撫でても目を覚まさない。 もし理由が後者ならば、嬉しくもあるし悲しくもある。 彼女の兄のような存在で居続けた私としては嬉しいものの、男としての私は非常に残念だ。 枕に縋るようにして寝息をたてる彼女の短い髪を梳きながら、よほど男として見られていないのかと苦笑する。 彼女にしてみたら、兄の家に泊まりにきたようなものなのだろうか。 出会った時から、歳の差のせいもあるのか、私達の関係は兄と妹のようなものに似ている。 しかし私にとってはそれは昔の話だ。 私達はあれからずいぶんと大人になって、そして私はただの「兄」ではいられなくなってしまった。 私の目に映る彼女はあまりにも眩しくて、ずいぶんと前から「妹」から脱し、今はたった一人の大切な女性でしかない。 少尉が書類をチェックするために目を伏せるという些細な仕草ですら気になって、最近いつも目で追ってしまうことに、彼女は気が付いていない。 彼女を私の部屋に引き留めたのは純粋に早く休ませたかったからだが、まったく下心がなかったといえば、それは――嘘になる。 髪を撫でていた手で美しい輪郭をなぞり、柔らかな頬まで巡らせる。 なめらかな肌の感触を指先で楽しみながら、そっと眠っている彼女に顔を近付けた。 彼女の規則正しい呼吸が私の肌を撫で、頬と頬を合わせると、彼女の甘い香りが鼻を掠めた。 甘すぎて彼女の香りに酔ってしまいそうだ。 まるで初めて女性に触れるように舞い上がり、しまいには頭がくらくらとしてきたがそれが心地良い。 彼女に近付けば近付くほど、しまい込んでいた彼女への想いがぼろぼろと零れ落ちて、今すぐにでも彼女の体に自分の存在を刻み付けたい衝動に駆られる。 ささくれ立った心が凪いでいくように彼女の存在は優しく、これほど愛しいものはないと本気で思う。 「……リザ」 そっと呟いて唇を合わせようとしたその時、私の髪から雫がひとつ、ぽたりとこぼれた。 雫が落ちたその先は、親の腕の中で眠る子供のように無防備な寝顔の上。 うん、と小さく声を出して、彼女はまるで頬に添えた私の手に擦り寄るように寝返りを打った。 その瞬間、はっと我に返り彼女から離れた。 静かに雫を拭ってやりながら、再び彼女の幼くみえる寝顔を見つめる。 彼女が気を許せる時間は私が思っている以上にきっと少ないに違いない。 そんな彼女が、今、私の前でこのような穏やかな顔を見せてくれいる。 私が彼女に感じるものとはまた違う意味で、彼女にとって私の側は、数少ない安らぐことのできる場所なのだろう。 その理由が長年の腐れ縁の賜物なのは悲しいが、これほど喜ばしいことなんてないじゃないか。 自然と目を細めながら、ベッドから立ち上がる。 そもそも、彼女が本当に気を緩める男なんて、私しかいないのではないだろうか。 まだ、彼女の良き兄のままでいよう。 親でも加齢臭でも何でもいい。 出来る限り彼女が心を許せる穏やかな存在でいてやりたい。 これだけ疲れていればソファーでも眠れるはずだ、などと考えながら彼女を頭の中から追い出し、そっと寝室の扉を閉めた。 |