シーツから香る彼の匂い。 冷たい私の体に温もりを分けてくれるように絡む足と足。 男性と見間違うほど短く切り揃えた髪にすら、愛おしむようにキスを送ってくれる唇。 このまま彼に寄り添って安らかな眠りに落ちるのもいいが、何もしていないのにも関わらずこの優しく暖かな時間を手放してしまうのも惜しい。 「恋愛」なんて言葉を口にすらしたことのない私が、まさかこんな柔らかな気持ちを持つようになるとは想像もつかなかった。 そして何よりも、私の上官である彼と、彼の副官である私が、世間では「恋人同士」と呼ばれる関係に転じてしまうなんて、信じられないこと続きだ。 いつも他の女性に見せている男性を意識させる彼の表情が、今この瞬間は私一人に向けられているという事実は、嬉しいというよりも何だか居心地が悪い。 そもそも、恋人に捧げるような言葉を彼に投げ掛けられても、急に手を握られても、どう返していいのかが分からないのだ。 そして、ついには司令部にいる時のように「どうなさったんですか」などと愛想なく応じるしかできない。 先ほどだってそう。 夕方、今日は非番だった私の元へ、早急に仕事を終えた彼が走って駆け付けてきた時のことだ。 アパートの扉を開けた瞬間、彼に飛び付かれるように抱きしめられ、このまま後ろへ倒れてしまうのではないかと思った。 「会いたかった」 まるで逃がさないかのように体にきつく腕を回されながら囁かれた言葉に、例の如く困ってしまう。 こういうことに免疫がない。 彼の昔の恋人達はどうしていたのかしら、などと悠長に場違いな考えをすることすらある。 いま自分の身に起こっていることなのに、まるで流行りの恋愛映画でも見ているような気分になるのだ。 以前、彼の側にいた可愛らしい女性達はすぐさま相応しい答えを返すのだろう。 しかし、前に何度か、彼と彼の恋人とのやり取りを間近で見て、「何をやっているのだこの人達は」と理解しがたい光景に眉を寄せた私に、そんなことができるわけがない。 「……別に、一日会わなかっただけじゃないですか」 我ながら可愛くない返事だとは思う。 しかし、これが私なのだ。 彼を喜ばせる答えは一生思い付かないだろうし、甘い台詞なんというものは窮地に立たされない限り言いたくない。 そうだね、と耳元で彼がくすりと笑う。 私の考えていることなど、彼にはすべてお見通しなのだろう。 何だかいたたまれなくなって、この空気をごまかすかのように彼の胸元に顔を埋めて、黒髪を撫で始めた。 首も頬もコートすらも、触れた部分のどこもかしこも冷えている。 温めるように何度も触れて撫でていると、彼が気分よく私の肩に顎を置いた。 ああやっぱり駄目、と顔をしかめる。 どうしても慣れない。 「中佐、お茶をいれますので、中に入って温まっていてください」 「うん」 うん、なんて聞き分けよく返事をしたくせに、彼は私の後ろをついて回り、ついにはハンガーにコートを掛けている私を背中から抱きしめた。 「…中佐、温まってほしいのですが」 「んー」 「『んー』じゃなくて!」 私の両手が塞がっているのをいいことに、彼はやりたい放題だ。 耳たぶを軽く噛まれ、同時に冷えた手をブラウスの中に差し込まれた時は思わず声を上げてしまった。 「あったかい」 彼が面白そうに笑う吐息が首筋に当たる。 この人はなんでも見抜いてしまうから嫌だ。 私の普段の素っ気ない態度の中に少しだけ照れが混じっていることに、彼はとうの昔に気付いている。 この世に「恋人同士がすること」以上に恥ずかしいものなんてないのではないかと本気で思う。 しかし、恥ずかしいだけで、こういう行為が嫌いなわけではない。 少々癪に触る時もあるが、彼が触れてくるのは本当に心地良いのだ。 「考えごと?」 ぼうっとシーツに顔を埋めていた私の意識を自分に向けるかのように、彼は剥き出しの肩に痕を残しながら問い掛ける。 少し、と小さな声で答えて、彼の胸に顔を押し付けた。 この関係はいつまで続くのだろうかと、そんな考えが頭を過ぎる。 女性に関する彼の噂があまりにも多すぎるからだとか、彼の連れている女性がいつも違う人だからとか、そういう理由からではない。 昔、二人で誓い合った夢を叶えるための階段を上るうちに、恋人である私が邪魔になれば、すぐにでもこの関係は壊されるだろう。 それでいいと納得できるし、むしろそれが私の望みだ。 もし、たった今、彼に突き放されたならば、あの時はどうかしていたと軽く笑い飛ばせる日がすぐに来ればいいと思う。 それから、彼に「いらない」と言われたその日から、私はもう二度と誰の恋人にもならないだろう。 私が恋人と呼ばれる位置にいるのは、彼とのこの日々が最初で最後だ。 私が恥ずかしくて俯いてしまうのも、答えに困って黙ってしまうのも、愛おしいと思わず笑ってしまうのも、彼だけがさせられることだ。 私はロイ・マスタングしか愛せない。 うとうととしている私に「おやすみ」と静かに囁いて、彼が頬に唇を落とした。 できれば、少しでも長く、この香りや指や唇に手の届く距離でいたい。 眠る寸前、祈るようにそう思った。 疲れた体に水のようにアルコールを入れるんじゃなかったと後悔した時には、ベッドに寝かされていた。 彼が運んでくれたのだろう。 背に感じるシーツの冷たさが気持ち良い。 霧がかかっているかのようにぼんやりとしている頭に、どんどんとグラスを傾ける私を必死に止めようとしている先程の彼の姿が思い浮かんだ。 そっと重い瞼を開けると、そこには暗闇が広がっていた。 緩慢な動きで視線をさ迷わせていると、すっと白い何かが横から伸びてきた。 「起きた?」 ひんやりとした指先が頬に落ちてきて、自分の体がどれほどの熱を持っているのかを思い知る。 ゆっくりと首だけを横に向けると、ベッドサイドに心配そうに私の顔を覗き込む彼がいた。 「…ちゅう…さ…」 「自分が疲れているのを承知であんなに飲んだんだったら呆れるな。止めるのに苦労したんだぞ。覚えてるか?」 「…ごめんなさい…」 責める言葉とは裏腹に、彼はまるで子供を扱うかのように前髪を梳き優しく額を撫でてくれる。 「水、飲めるか?」 彼の言葉に頷いて体を起こそうとするが想像以上に酔っており、一瞬頭の中がぐらりと揺れた。 すかさず彼の手が伸びてきて、情けないながらも言うことを聞かない体を委ねる。 彼の手を借りながらグラスに口をつけ飲み干すと、冷たい水が喉を通って落ちていくのが、まるで見ているかのように伝わった。 「君が酒で無理するなんて珍しいこともあるんだな。…少尉?」 背を支えてくれている彼の手にずっと寄り掛かっていたいと思った。 でもそれだけではまだ足りなくて、彼に縋り付くようにふらつく体で胸に抱き着いた。 ひんやりとしたシャツに熱い顔を埋めて目を閉じる。 「…リザ?何かあった?」 気遣うように頭を撫でてくれる手。 彼のこの手が好きだ。 私がまだ少女だった頃も、事あるごとによくこうして撫でてくれた。 思えばあの時から、私は彼しか見えていなかったのかもしれない。 「リザ?」 昔から、この人が手に入ることなどないと分かっていた。 彼はいつも遥か遠くの未来と大きすぎる野望を見つめていて、私はその背中について行くことしかできない。 彼は私を支えとして、そして背中を預けてくれているけれど、ただそれだけだ。 彼は後ろを振り返ることもなければ、その黒い瞳に私が映ることもない。 「…中、佐…」 もっと彼に近付きたくて、まだ覚束ない体で首に腕を回そうとすると、見事に失敗し体が崩れ落ちてしまった。 「君、酔いすぎだよ」 私の体がシーツに落ちる間際、私を抱き留めた彼は少々困ったように笑った。 いいから大人しくしていなさいと、再びベッドに寝かされる。 嫌だ。 遠い。 ブランケットを掛けようとしている彼のシャツの襟を鷲掴み思いきり引っ張った。 うわっと彼が軽く呻くが、構わず頬を両手で挟んで拘束する。 いつもなら暗闇の中ですら、彼が少しでも私に顔を近付けてくるのが恥ずかしいのに、今はお互いの鼻がぶつかり合うほどの距離ですら足りないと思ってしまう。 隙間ができないように頬と頬を合わせ、逃がさないように黒髪の中に手を差し込んでまた引き寄せる。 「…どうした?酔っているだけならいいが…何かあったのか?」 私の上に体重を掛けないように慎重に覆いかぶさった彼が、通常ではありえない行動ばかりをする私に気遣わしげに問う。 確かに私はひどく酔っているのかもしれない。 しかしこれは本心からくる行動だ。 必死に押さえていた蓋がアルコールによって外れてしまったのかもしれない。 些細なはずみで本音が零れ落ちるほど、私は彼を欲しているのだろうか。 「…中佐は、やっかいな女に捕まっちゃったんです…」 突拍子もなくそう言うと、案の定、彼は眉を寄せて顔を疑問符でいっぱいにした。 しかし私は正気だ。 彼の背中を見つめ、その背中について行くだけで良かったのに、彼から何かひとつもらうともっと欲しくなってしまう。 前しか見ない彼の視界に少しでもいいから映りたいと、ずいぶんと欲深いことを考えるようになってしまった。 彼は誰の手にも入るような男ではない。 しかし、こうして彼を抱き締めて、それから時間や匂いや温かさを共有していると、彼が私だけを見ていてくれているような、一瞬でも彼が私のものになってくれたような錯覚を覚えてしまうから手に終えない。 「…質の悪い女なんです。あなたが私を必要としなくなったら、すぐにただの部下に戻る自信はあるんです。…でも、きっと未練がましく引きずります…邪魔になるくらい…」 「…あの〜、リザちゃん?」 私な独り言のような謝罪に、彼はついていけるはずもなく戸惑っていた。 こんな面倒な女に、私の大切な人をこれ以上関わらせない方がいいに違いない。 なのに。 「…中佐が飽きるまででいいので…今だけでも、こうしていたいです…」 口では正論とは正反対の欲を紡ぐ。 それに「今だけでも」なんて、とんだ嘘つきだ。 彼の背中に控え目に手を回して答えを待っていると、ため息がひとつ髪を撫でた。 「…今日はどうしちゃったのかな、リザちゃん。マスタングさんは困りっぱなしだよ」 まあ君に困るのはいつもか、と、冗談っぽく笑いながら、彼も私の背に手を回してくれた。 彼はほっと力を抜く私を胸に抱き寄せて、二人でブランケットに包まる。 「今の君の行動と私の反応は、いつもの私達と正反対だとは思わないかい?」 上から降ってくる彼の声、耳に直に伝わる心音。 これほど居心地の良い場所は一生を掛けても見つからないだろう。 「リザ、聞いてる?」 瞼が重くなってきているのを感じながら頷く。 このままずっとこうしていたい。 あまりの心地よさから思わずそう呟きそうになったが、それだけは辛うじて飲み込んだ。 この言葉が、いつか優しい彼の重荷になる時がくるかもしれない。 彼がずっとやっかいな女に捕まったままでいればいいのに。 叶わない望みを胸に抱きながら、いつかはこの手から水のようにすり抜けてしまうであろう彼を見上げる。 見つめ返してくれる暖かな黒い瞳には私しか映っていないような気がして、都合の良い幻を瞼に仕舞い込むかのように目を閉じた。 その後の出来事は、自分が勝手に作り出した夢かもしれない。 「…本当に参ったな。今日の君は変だよ。いつも以上に変で扱いにくい」 「いつも以上」という言葉が引っ掛かったが、背を撫でる手が止まると嫌なので黙っておいた。 「別れ話でも始めるのかと思ってひやひやしたよ。…やっとの思いでようやく君を手に入れたのに」 別れ話じゃありません。むしろその逆です。 そう言おうとしたが、眠さが勝って声にならなかった。 「…いや、君は簡単に手に入れられるような女じゃないな。一生掛かっても無理かもしれない。…手に入れる、という考えすら間違っているかもしれないな」 変なのは私も同じか。 君が朝になったら覚えていない状態ででしかこんなことを言えないなんてな。 彼らしくない弱弱しい声で、苦笑交じりに言葉を紡いでいく。 「今みたいなことを言われると本当に参る。仕事の時は君が必ず後ろにいてくれるのを疑ったことは一度もないのに、プライベートの君は振り返ったらどこかへ消えているような気がするんだよ」 急に、苦しいほどに体温を押し付けられた。 「実は、君が考え事をしているだけでも妙に気になるし、余所見している時なんて格好悪いくらい心配しているんだよ。…君の発言ひとつにもこんなに振り回されるし、理解はできないし、これでは幼なじみ失格だな」 彼が私をきつく抱きしめているのだ。 「悪い男に捕まったのは君の方だ。私が求めるなら、優しい君は応じてくれるんだろうけど…。もし君が私から逃げようとしても、絶対に手放さない」 どんな手を使ってもな、と彼は付け加える。 「君の望み通り、私はずっとこうしているつもりだよ」 飽きる日なんて来ないからなと言い切り、彼は再びきつく腕の中に私を閉じ込めた。 |