「ねえ、リザちゃん」
「何ですか」
「楽しい?」
「楽しいです」
司令部にいる時よりもいくぶん柔らかい彼女の声が首筋をくすぐる。
それもそのはずだ。
今はプライベートで、私の部屋で気兼ねなく「恋人同士」を満喫できて、ソファーの上で二人隙間なく寄り添っているのだから。
しかし、良い条件ばかりが揃っていて、やっていることはまったく違う。
シチュエーションの良さを見事に台なしにしてくれる彼女に思わず拍手だ。
こんなの…
「こんなの間違っていると思わないかっ!?」
「大佐っ!動いちゃ駄目です!」
うしろへ振り向こうとすると、すかさず注意が入り、同時に容赦ない力で無理やり頭をぐいっと前へ戻される。
「…ちゅっ、中尉…!いま首から音が…!」
「大佐の髪って見た目よりも柔らかくてさらさらしてますよね」
「おい中尉、聞いているのか」
「触り心地が良くて好きです」
「ずーっと壁を見ていても楽しくも何ともないのだが」
「うるさいですね。いま集中しているんです」
「うるさいって君ね…」
「いいところなんですよ」
「……人の髪でみつあみするの、そんなに楽しい?」
「楽しいです」
と、また後ろから笑いを交えた楽しそうな声。
私は強制的に壁を見させられているからお目にかかれないが、きっと彼女は私の背中にあの屈託のない笑顔を向けているのだろう。
見慣れた壁よりも、滅多にお目にかかれない彼女の笑顔が見たい。
触られるよりもたくさん触りたい。
なのになんだって彼女は……
「って、痛っ!」
「あ、二本ほど抜けましたね」
「…き、貴重な私の髪を…!!」
「大佐、心配しないでください。これからどんどん抜けますよ」
「ええ!?」







肩につくほどに伸びた金髪を揺らして、彼女はまたシーツの上でごろりと寝返りを打った。
シーツが自分の体温で温まってしまったら、冷えている隣へ移り、暑くなったら再び元へ戻る。
暑いのが苦手で、少しでも涼しい場所を求めて右へ左へと寝返りを打つその姿は、まるで猫のようだと思う。
おまけに、触ろうとするとものすごい形相で「暑い」と凄まれるのだ。
というわけで、茹だるように暑い午後、ベッドに上がらせてもらえるわけもなく私はお預けを食らっていた。
ベッドサイドに椅子を持ち込んで本を読むふりをしながら、こっそりとシーツよりも透き通るように白い体を盗み見る。
触らせてくれないくせに、肌の露出が裸に近いほど多いなんて嫌がらせに近い。
「夏用のパジャマです」なんて彼女は言い張るが、ただの下着姿じゃないか。
司令部にいる時は徹底して隠されている手足が目の前に広がり、彼女がけだるげに呼吸する度に動く白い胸元まで晒されては、目がいかない方がおかしい。
「…大佐」
「ん」
「火なんて暑苦しいものじゃなくて、水とか風とかそういう涼しいものを錬金術で出せないんですか」
「君ね、焔の錬金術は師匠が生涯をかけて生み出したもので暑苦しいなんて言っては…」
「…風吹かないですね」
暑さに頭を翻弄されている時の彼女は人の話を聞いてくれないし何かと適当だし、まさに気まぐれな猫のようで未だに扱い方が分からない。
しかし、彼女は触るなと威嚇するだけで帰れとは決して言わない。
本を閉じ、ふと目についたテーブルの上の書類の束を手にとって、ぱたぱたと扇ぎ風を作ってみる。
「…それ、大事なものですよ」
注意するものの止めさせない。
むしろ心地良さそうに目を閉じて、先ほどまでの警戒心はどこにいってしまったのか、ベッドサイドの方へころりと寝返りを打った。
「少しは暑さもまぎれた?」
「ちょっとだけ」
吐息と一緒にそう呟いて、目をつむったまま彼女が口元だけで今日初めて笑う。
少し汗ばんでいる前髪にそっと触れて後ろへ撫で上げても、彼女は抵抗せずされるがままだった。
これは、彼女を悩ませる太陽が沈み、涼しい風が寝室に入りこんでくる数時間後に期待しても良いのだろうか?







だんだんと意識を取り戻しつつある中、まず始めに感じたのは、腕の中にある自分より一回り小さな温もりだった。
人形で遊ぶ子供のように遠慮なくそれを強く抱き寄せながら、瞼の裏に光を感じた。
わざわざ目を開けなくても、窓の外で鳴く鳥達の声が朝がきたことを知らせてくれる。
さっさと彼女を起こしてベッドから出て、仕事へ向かう準備をしなくてはならないところだが、ずっとこうしていたいなあと、出ていくべきシーツの中へ潜っていく。
彼女を片腕に抱えたままシーツを被り直した。
「…ん…」
金の髪を指先にくるくると絡めて遊びつつ、飽きることなく無防備な寝顔を眺めていると、彼女が吐息と共に小さく声を漏らした。
目覚めが近いのか、大きな目を縁取る睫毛がかすかに揺れている。
ずっとこうしていたい、なんて願いは叶うはずもなく、彼女がゆっくりと目を開いた瞬間にその夢は破れた。
まあいい。
このシーツの中での甘い時間を手放す代わりに、彼女から「おはようのキス」をもらうことで我慢しよう。
「中尉、おはよう」
体重を掛けないように、しかし昨晩私が服を取っ払ったおかげで生まれた時のままの姿をしている彼女のなめらかな肌を自分の肌で味わうように、上に覆いかぶさる。
「…た、いさ…?」
「うん、そう。君の上官の大佐だよ。というか私の他に誰がいる。いるのか、そんな男」
真っ白く柔らかい胸が無防備に押し潰され歪む姿に見惚れる男なんて、私しかいないじゃないか。
「…仕事、今日は会議で…。今、何時ですか…」
彼女は寝ぼけているらしく、会話は繋がらないし、私の小さな苛立ちにも気付いていないらしい。
しかし、彼女の頬を両手で包み込むようにして挟むと、それに応じるようにするりと白い腕が首に絡み付いてきた。
嬉しいハプニングに顔がにやけるのを抑えられるはずもなく、だらしなく笑ったまま彼女に顔を近付ける。
寝ぼけている彼女は時に厄介なことをしでかすが、たまにこういうとてつもなく可愛らしいこともしてくれるのだ。
首を抱き寄せるという行為だけで、私をこんなに喜ばせられる女性は世界で彼女一人だ。
「…たいさ…」
「ん、リザ…」
ごつんっ。
今まさに口付けをしようとした瞬間、それには相応しくない音が寝室に鳴り響いた。
それと同時に、手の平で儚く溶ける雪のように、甘い空気が見事に消え去る。
「い、痛っ…」
額に走ったまったく予想外の痛みに呻くと、下にいる彼女も涙目で額を両手で押さえていた。
「……ようやく目が覚めたか中尉」
「…はい…。それより大佐、寝起きの人間にいきなり何するんですかっ」
「何!?いきなり頭突きを仕掛けてきたのは君だろう!?」
「誰が朝っぱらから頭突きなんてしますか!それは大佐の方じゃないですかっ!」
「あー違う違う!私はただ君にキスしようとしただけだっ!そうしたら、君が急に勢いよく起き上がったんじゃないか!」
「起き上がったんじゃありません!私だって大佐に――…」
本当に寝起きかと疑いたくなるほどわあわあと喚いていた彼女の声が、ぴたりと止まる。
窓の外ではまだ鳥達がうるさく鳴いていた。
しばしの沈黙のあと、彼女は失言をどうごまかそうかと顔には出さないものの焦り始めていた。
私と目を合わせようとはしない彼女とは正反対に、私はもちろん嫌味ったらしいくらいなまでの笑顔を浮かべた。
彼女が私の首を引き寄せた謎が嬉しいことに解けてしまった。
「ふうん。そうかそうか、君も私にキスをしようとしていたのか。へえー」
「…何を言っているのかさっぱり」
「照れることないじゃないか。さあ、存分にキスしてくれたまえ」
「…もう嫌な人…!あ、あれは寝ぼけていただけですからっ!」
「ほう。目を覚まして一番最初に、寝ぼけながらも私を求めていたということか」
「違いますっ!」
耳まで真っ赤にしている彼女をからかうのも楽しいが、そろそろ否定ばかりを紡ぐ言葉を飲み込んで、桃色の唇の柔らかさを唇で舌で歯で、何でもいいから味わいたい。
「君が求めてくるなら頭突きでも何でも大歓迎だよ、リザ」
「だから違うって言って……っ!」
赤くなってしまった額を労るように撫でてやりながら、彼女のお望み通り唇を塞ぎ、ようやく待ちに待った「おはようのキス」をした。







「ふむ。やはりハボック少尉がまたまたまたまた恋人にフラれたというのは本当のようだね、ホークアイ中尉」
「大佐、『また』が多すぎます。そして声も大きいです。…残念ながら事実です。ブレダ少尉にも裏はとってあります」
「ハボックはつくづく私の期待を裏切らない男だな。今度は『ごめんなさい、友人としか見れなくなって』か?」
「ハボック少尉がこれ以上落ち込まないための対策として、少尉の前でそのような話は一切禁止です」
「えー、傷心の少尉をからかってからかい抜いて奈落の底まで突き落とすのが面白いのに」
「駄目です。ブレダ少尉達にも同じ指示を出しておきました」
「じゃあ今夜あたりにハボックのフラれ人生をつまみに酒を…ではなくて、恒例の『ジャン・ハボックを励ます会』かな」
「はい。ブレダ少尉が会場の手配、ファルマン准尉が失恋に効くカウンセリングの本を暗記、そしてそれを実行するのがフュリー曹長、となってます」
「ほう。で、中尉、私は何をすればいいのかな」
「大佐は黙っていてください。それか来ないでください」
「……おい、私に異様に冷たくないか、中尉」
「励ますどころかハボック少尉をいじめているのはどこの誰ですか」
「面白いくらい見事にばさばさとフラれるあいつが悪いんだ!」
「しっ!声が大きいです!」
「それに私は君以外には一度もフラれたことがないから、どう励ませば良いのか分からんのだよ」
「それにしても、少尉は優しい顔に似合った気な性格で一緒にいると楽しいのに、どうして必ずフラれるんでしょうね」
「……今のは聞き捨てならんぞ中尉!私とハボックに対する態度が違いすぎるじゃないかっ!」



「あのー、さっきから俺が持って来た書類も俺自身も無視して、部屋の片隅で二人でなに仲良く内緒話してんスか。ていうか全部丸聞こえですから。いやー、内緒話っていい大人がやるとエロいっつーか、失恋したての俺には痛すぎる光景っつーか…。もう突っ込む所が多すぎで何がなんだか…」







「おい、ホークアイ中尉」
「……中尉がいないって分かってて呼ぶの止めてもらえますか。怖いんスけど」
「お前の代わりに中尉がここにいればいいなという願望を込めて言ってみただけだ。気にするな」
仕事をするそぶりすら見せなかった上官は、ふうと溜息をついて、とうとう万年筆を机に放り投げた。
東方司令部を任されている人間とは思えないほど腑抜けた顔をして、椅子の背もたれに思いきり寄り掛かっている。
机に足を乗せていないだけマシと言えるか。
新しい錬金術でも考えようかななんて言っているが、どうせ頭にあるのは中尉のことだろう。
「こんな亀みたいな…いや、亀の方が速いかもな…。とにかく今の仕事の進み具合じゃ、明日、中尉に大目玉食らいますよ」
「だろうな。うん、どうせ怒鳴られるなら明日ではなく今がいいな。ハボック、中尉を呼んでこい」
「だから中尉は非番だっつの…」
子供のような言動ばかりする上官のお守りほど大変なことはないと、今日は存分に思い知らされた。
非番のホークアイ中尉に代わり、俺がマスタング大佐の補佐をしているのだが、こんな駄々っ子なんかもうとっとと見捨てて煙草を吸いたいと思った回数は数え切れない。
とことんお子様な上官に愛想を尽かすことなく、根気強く世話をしている中尉を改めて尊敬する。
いや、今のこの状況、つまりやる気がなく、かつ空気の抜けてしまった風船のように大佐自身の中身がどこかへ行ってしまっているのは、中尉がいないせいだ。
今日一日、俺がお茶を出しても資料を探して来ても、大佐はとにかく何かにつけて「中尉だったら」と文句を付けてきたのだ。
ただ廊下を歩くにしても「うしろに美人がいないと猛烈に家に帰りたくなる」と顔をしかめるのだから手に負えない。
「…ああ、何が悲しくて男共と一緒に仕事をしなくてはならんのだ…。何か華やぐものがなくては仕事にならん!」
ほらきた。
というかそれは俺の台詞でもある。
「はいはい。だったら大佐の今の恋人のニコールさんでもミシェルさんでも誰でもいいから連れてくればいいんじゃないっスか?中尉はいないわけですし、怒られませんよ」
「……そういう気分ではない」
「可愛いし頭もいいし話し上手だし、たまに抜けてるとこも愛らしくてとても魅力的だとか何とか、俺に散々自慢してきたんですから、この状況には持ってこいですって」
「うるさい。お前が側にいる時点で私はもう仕事をする気がないんだ。明日潔く中尉に怒られる」
何が「潔く」だ。
ここにいない中尉のことが気になって仕事にならないだけだろう。
この我が儘な男をうまく動かせるのも原動力になるのもホークアイ中尉で、結局、「魅力的」な人物というのも中尉一人しかいないんじゃないか。
母親を取られた子供のように拗ねるこの人に、もう突っ込む気すら失せる。
「私がこんなにも忙しいというのに、中尉は悠々に休日を満喫しているなんて許せんな」
「あのー、アンタのどこが忙しいんですか」
「中尉は今頃、この私の危機的な状況なんか露知らずのんびりと惰眠を貪っているかもしれないんだぞ!?」
「あーっ!もう!その口は『中尉』しか言えないんですか!?」
「悪いか!?」
ついに逆切れだ。
そして大佐は、苛立った手つきで机の上に置いてある電話の受話器を持ち上げた。
「…あの、大佐…。まさかとは思いますが中尉に電話なんてしませんよね?」
「それ以外に何がある」
「休みの日ぐらい仕事というか大佐の存在を思い出させず穏やかに過ごさせてあげてくださいよっ!」
「何を言う。中尉はああ見えても寂しがり屋なんだぞ。今頃、私のいる日常を有り難み、懐かしんでいるかもしれないじゃないか」
…って、それは丸っきり自分の事じゃないか。
「それに、私がいない間に中尉に魅了された恐ろしいストーカーが中尉宅を襲撃していたらどうする!」
「…中尉の銃の腕を一番信頼しているのは大佐でしょう。過保護っスねぇ…」
あ、ただの心配性か。
それとも電話をする口実が欲しいだけか。
「あ、というか大佐、休日ですし出掛けているかもしれませんよ」
男と、なんて付け加えたら、冗談だと分かっていても跡形もなく燃やされそうだ。
「中尉は日頃の疲れを癒すために今日は自宅でゆっくり過ごすそうだ」
すでに確認済みなのか。
ストーカーってアンタのことじゃないのかと疑いたくなる。
程なくして、今日一日ずっと不機嫌だった大佐の表情がふっと柔らかくなった。
お待ち兼ねの恋しくてたまらなかった中尉が電話に出たようだ。
「どうして電話してくるって…ふと君がどうしているかと思ってね。ま、いつもの私の気まぐれだよ」
この大嘘つきめ、と声を大にして言いたい。
大佐は中尉のことになると途端に自分を取り繕うというか、変な見栄を張る癖がある。
「仕事をしてください!」という中尉の怒鳴り声が受話器から漏れてきて、俺は思わず肩を竦めた。
が、怒られている当人はだらしなく口元を緩ませ、実に嬉しそうだ。
思えば、大佐は今日初めて笑ったかもしれないと気が付く。
この不器用な人のためにも、そして俺の平和のためにも、司令部に中尉のいる日常が早く戻って来ることを密かに願った。








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