バスルームの扉を開けた瞬間、ふと頭を過ぎるものがあり思わず「あ」と呟いた。
明日、部下に渡さなければならない資料のことを思い出したのだ。
家に帰ってからすぐ鞄に入れておくつもりが、今まですっかり忘れていた。
適当にバスタオルを手に取り濡れた体に巻き付け、足から水が滴るのも構わずリビングにある棚へと向かう。
忘れてしまわないうちに、今度こそ明日きちんと渡せるように用意しなければ。
その時だった。
アパートの廊下から聞き慣れた足音が耳に入り、その後すぐ起きた小さな閃光に目を閉じたのは。
「やあホークアイ少尉、こんばんは。楽しいデートを終えたというのに最後の最後に急に雨が降ってきたからお邪魔させて……」
当たり前のように玄関の鍵を破壊し、ずかずかと部屋に入ってきた上官は、口を開いたまま言葉を続けるのを止めた。
私の姿を目に捕らえたのだ。
中佐の顔から胡散臭い笑顔が消え、目を見開いたまま彫刻のように固まっている。
ちなみに、私も情けないことながらこの状況を処理するのに時間が掛かり動きが止まった。
バスタオルをぞんざいに身につけただけの私と、雨に濡れたジャケットを脱ぎかけている中佐は、無言で見つめ合ったまま、しばし時が止まってしまっていた。
そして、その沈黙を破ったのは、ぎゃーーー!!!という中佐の驚きというよりは恐怖に近い叫び声だった。
本来叫ぶのは私の方かもしれないが、私の分まで中佐が有り余るほど叫んでくれた。
偶然とはいえ、女性の裸など見慣れているだろうに、この世の終わりを嘆くような奇声を上げるとはずいぶん失礼ではないだろうか。
咄嗟に背を向けた中佐の背中を、私は部下としてではなく女としてむっとして睨んだ。
「みみみみ、み、見てないっ!!私は何も見てないぞっ!!」
「中佐、奇声は近所迷惑です。人が来たらどうするんですか。静かにしてください」
「しっ、しかし…!!」
「だから鍵を壊して勝手に入ってくるのは止めてくださいと言っているじゃないですか。私じゃなかったら訴えられていますよ」
「…ごめんなさい…!どうか撃たないで…!」
私の言葉が耳に入っているのかいないのか、中佐は無抵抗を示すテロリストのように両手を大きく挙げて脅えていた。
「ですから大声を上げるのは止めてください。中佐、そこでは寒いでしょう?温まりに来たんでしょうからとりあえず中に入ってください」
「は!?私よりもまず君の恰好をどうかするべきではないのか!?君こそすぐに服を着ないと風邪を…というか今にもバスタオルがずり落ちそうだったぞ!」
「……何も見てないんじゃなかったんですか?」
「よ、予想だ!だいたい何でそんな破廉恥な恰好をしているんだ!」
「私の部屋なんですからどんな恰好をしていても文句は……あ、資料」
そもそもバスタオル一枚で部屋にいたのは資料のためだった。
そのことを思い出し急いでファイルの並んでいる棚へ向かい、資料を探し出す。
「しょ、少尉!?何をしているんだ!?」
「資料の用意です」
目当てのものが入ったファイルを抜き取りながら横目で中佐を見ると、相変わらず私に背を向けて困惑していた。
「風邪をひくからまず服を着なさい!」
「中佐こそ濡れたままだと風邪をひくので早くこちらに来てください。あ、服を乾かしている間にシャワー浴びますか?」
「……いっ、一緒にか!?」
「は?」
「…あ、いや、何でもない…」
いつになく態度のおかしい中佐に首を傾げつつ、鞄の中に資料をしまい込む。
「…少尉。君は上官の前でバスタオル一枚なんて恥ずかしくないのか」
「まあ裸ではないですし。なんだか中佐の方が恥ずかしそうですね。女性の裸なんて飽きるほど見ているでしょうに」
「…君はいつからそんな子になってしまったんだ…男所帯の災いか…」
何かをぶつぶつと嘆いている中佐を放っておいて、再びバスルームに向かいやっとパジャマに着替えた。
リビングへ戻ると、中佐は何が楽しいのかいまだ玄関の扉と睨めっこをしていた。
「中佐、タオル持って来ましたから拭いてください」
「…少尉、着替えた…よな?」
「裸で何をするんですか。早くこっちに来てください」
堂々と不法侵入してきたとは思えないほど何かにびくびくしている上官に頭からタオルを被せ、リビングまで引っ張ってきてソファーに座らせる。
何もする気が起きないのか、頭にタオルを乗せたままうな垂れて動こうとしない中佐に焦れて、代わりに濡れた黒髪を拭き始める。
「思ったより濡れてませんね。小雨だったんですか?」
「…ああ」
「雨が上がってから帰ってくださいね。一応傘は貸します」
「…うん…」
「それとも送った方がいいですか?」
「いや、いい…」
中佐はすっかり意気消沈してしまっている。
そんなに目に悪いものを見せてしまったのだろうか。
勝手に入って来たのは中佐の方なのにと、苛立ちを水分を拭き取る手に込める。
「…君はいつの日からそんなに漢らしくなってしまったんだ…」
「またその話ですか」
髪を拭き終わり、お茶でもいれようとソファーから立とうとすると、中佐にぐいと腕を引っ張られた。
再び中佐の隣に座らされる。
何事かと中佐の顔を覗き込むと、いきなり有無を言わせぬ力でがっしりと肩を掴まれた。
「…中佐?」
「少尉、家の中でも気を抜いてはならない。バスタオル一枚で部屋をうろうろするなんて論外だ」
「はい?どうしてです?」
「勝手に部屋に上がり込むような不届き者にそんな恰好を見られたらどうする!」
「それは中佐だけです」
「私は紳士だから何もしないが他の男は良からぬことを考えているかもしれないんだぞっ!」
「紳士は鍵を壊したりしません!」
今さらだが鍵を壊された怒りがふつふつと沸き上がり、負けじと中佐を睨み返す。
どうでもいいが中佐とまともに目を合わせたのは今が初めてかもしれない。
すると、中佐がまたしても急に、肩に置いた手で私を勢いよく突き飛ばした。
すぐうしろの腕置きに思い切り体をぶつけたが、中佐がここまで奇妙な行動を繰り返すと怒る気もなくなる。
「…中佐、私に何か恨みがあるんですか?」
「あー、いや、その…」
中佐は首から音がしそうなほど思い切り私から顔を逸らし、居心地悪そうに頭をかいた。
「…そういえば肩が白かったなあと…思い出して…」
場違いな発言に数秒固まる。
「…中佐、何も見てなかったんじゃ…」
「……ああ駄目だっ!」
中佐は今度は頭を抱え、誰もいない方向に向かって叫んだ。
確かに今のこの人はもう駄目だ。
「帰る!」
「はい?まだ少し雨が降っているようですけど」
「私は紳士なんだ!帰らねばならん!」
勢いよくソファーから立ち上がった中佐は、まだ半乾きのジャケットを羽織り、私を無視して玄関へ一直線に向かった。
完全に雨が止むまで引き留めたいところだが、挙動不審の中佐を止められるわけがないと諦めて玄関まで見送る。
肩だけで取り乱すとは私もまだまだだな…と本日何回目になるか分からない妙な言葉を呟いている中佐に傘を手渡す。
「気を付けてくださいね」
「うむ」
別れの言葉もそこそこに、中佐は一度もこちらを振り返ることなく、まるで逃げるように帰っていった。
思えば今日は中佐の背中ばかり見ていた気がする。
「……中佐は何をしに来たのかしら」
ものすごい早さで遠ざかる足音を聞きながら、私は首を傾げた。







「あーあ。つっかれたー」
家主より先にずかずかと部屋に上がり込み、私の上官は勢いよくベッドにダイブした。
ベッドの軋む音が私の溜息をかき消す。
「誰のせいで疲れていると思うんですか」
「私に何の恨みがあるのか鬼のように仕事を押し付ける中尉」
「恨み…そうですね。大佐が執務室から逃げ出して遊んでいる間に書類は溜まる一方、そしてもちろん期限も迫る。毎日毎日あなたの尻を叩いて締め切りぎっりぎりに間に合わせる私の苦労がお分かりですか?」
「最近、デートのでの字もない日ばっかりだなあ。ちょっとサボったくらいじゃ溜まりに溜まったこのストレスは解消できずに困っている」
少しもこちらの話を聞かない大佐に、嫌味を言う気も失せる。
再び溜息を漏らしながら、軍服の上着をハンガーに掛けた。
「あの、大佐」
「何かな、中尉」
「見てお分かりの通り、私は着替えているんです」
「ああ。そうだね」
ベッドに寝そべり、おまけにブランケットに包まって、図々しいまでに寛いでいる大佐は真面目な顔で頷いた。
「大佐は私のことを時々迷惑に感じるくらいまるで妹のように可愛がってくださっているので、私はもう女性という範疇から外れているかもしれませんが、上官に堂々と着替えを見られるのはさすがに嫌です。リビングに行ってください」
「しかしだな中尉、一度ベッドに入るとなかなか出たくないものなのだよ」
うーんと大きく伸びをして、大佐は暢気に欠伸をひとつ。
出て行くつもりは端からないらしい。
「そうだなあ…。じゃあ目をつぶるから、私のことは気にするな」
そう言って、大佐は眠るように目を閉じた。
これほどまでにデリカシーのない人が、一歩外へ出れば女性達の視線を集める理由が本気で分からない。
いや、今は私と大佐の二人でいるが、腐れ縁故に良い意味でも悪い意味でも私にまったく気を使わない大佐のことだから、一人でいるようなものなのかもしれない。
事実、フェミニストだと名を馳せている大佐が、今から下着姿になる女性を何とも思っていない。
この扱いはひどいのではないかと少しむっとしてしまうが、考えてみれば私だって大佐を空気のようにしか考えていない時がある。
大佐は動かないと言ったら絶対に動かない人だと私が一番分かっているので、仕方がなくこのまま着替えることにする。
しかし、一応大佐に背を向けた。
長年連れ添った女の裸など記憶にすら残らないくらいつまらないだろうが、というかそもそも目をつぶっているが、他人が近くにいる状況で肌を晒すのはやはり居心地が悪い。
服を脱ぎ部屋着に着替える手順が自然といつもより早くなる。
ブラウスの最後のボタンを掛け終えてベッドの方へ振り返ると、体勢すら先程とまったく変わっていない大佐がいた。
もう着替え終わりましたよ、と声を掛けたが返事がない。
目をつぶってそのまま寝てしまったのだろうか。
「大佐?」
ベッドに腰掛けて、大佐の肩を小さく揺する。
「何か食べたくてわざわざ私の部屋まで来たんじゃないんですか?寝るなら食べてからにしてください。最近、大佐の食生活が…」
「そう、そのことなんだが」
眠っていると思っていた大佐の目がぱちりと開いた。
それと同時に大佐は私の腕と腰を掴み、呆気に取られている私を人形でも扱っているかのように軽々とベッドの中へ引きずり込んだ。
情けないことに、大佐が眠っていると思っていたため気が抜けており、突然の出来事についていけず大佐のなすがままになってしまった。
視線を上に向けるとすぐ大佐の顔にぶつかる。
「…何がしたいんですか」
「食生活は中尉が見直すべきだ。君、少し痩せただろう?」
「え?」
「君は自分を疎かにしているから気付いていないだろうが、私は君の体のくびれを見ただけで分かったぞ」
「……見た?」
「腹を触れば一番分かるかな」
「見ていたんですか」
ブラウスをめくって、遠慮なく肌に触れてくる大佐に軽蔑の眼差しを向ける。
が、大佐は気にしていないのか気付いていないのか、相変わらず私の腹部付近に興味津々だ。
「君はいつも公私共に私の健康を気遣かってくれているが、自分のこととなるとさっぱりだから心配なんだ。少しは自分のことも考えなさい」
大佐が珍しくまともな発言をしたように思えるが、盗み見の可能性があり、しかも体型を確かめるように私の体をあちこち触っているという状況だ。
相手が私ではなかったら大佐の地位を剥奪されていたかもしれない。
「君に体重を元に戻すという課題を与えよう。微力ながら、私は自らの食事を中尉に分け与えるという形で応援するよ」
「そう言って嫌いなものを私に押し付けるんですね」
「君は常に曲がった考えしかできないようだな」
「大佐といると嫌でもそうなるんです。そもそも痩せたのはあなたが仕事を溜めたつけが私に回ってくるからなんです。真面目に仕事してください」
「…ん?」
「『ん?』じゃありませんっ!…それより、離してくれますか?」
「なんで」
「食生活を見直せと言ったのは誰ですか。これから大佐の大嫌いなにんじんをたくさん入れたポトフを作るんですよ」
「あー、そうだったね。でも眠たくなってきたな」
「ああ言えばこう言う人ですね」
「抱き枕は黙っていてくれないかな」
「抱き枕?」
「君は今は私の抱き枕。で、起きたら私の家政婦だ」
「…勝手な人」
「休むことも大事なのだよ中尉。十分だけでいいから」
「大佐の言う十分は一時間を越えるの知ってます?」
大佐は本当に抱き枕を抱いているかのように、躊躇なく私に腕を回してきた。
やけに胸に大佐の顔が押し付けられているような気がするが、それは私の考えすぎだろうということで片付けておく。
肌にじんわりと染み込んでくるように大佐の体は温かく、私も瞼が重くなってきた。
自宅のベッドに疲れた体を横たえること自体が久しぶりなのだからなおさらだ。
疲労と心地良い体温の誘惑に負けて、十分だけならと、私も目を閉じた。
結局そのまま朝まで寝てしまい、食生活云々どころか何も食べれず、遅刻だと騒ぎながら司令部へ向かったのはまた別の話。







「大佐がさ」
「おう」
「首に湿布をつけてただろ?」
「ああ」
「『首を寝違えたと中尉に言ったら無理矢理つけられた』だと」
「らしいな」
「格好悪いから嫌だって、ずーっと愚痴ってんの」
「へえ」
「でさ、その後に大佐が『中尉も首を寝違えているのに彼女ときたら恥ずかしいから自分は貼らないと言ったんだぞ!私はどうなる!』って言ったんだよな」
「やべ、落とした」
「…おい!ブレダ!お前、さっきから相槌は適当だし食ってばっかだし俺の話聞いてんのか!?」
「お前だって煙草ばっかり馬鹿にすぱすぱ吸いやがって…チョコでも食って禁煙しろ」
「チョコを差し出すな。戻せ。ちなみにここは喫煙室だ」
「で。ハボ、お前さ…」
「お、ついに真面目に話をする気になったな、相方よ」
「意外と大佐の真似が上手いな」
「………お前、ちゃんと人の話聞いてたか?…ていうか俺が大佐に似ているだと!?嫌だ嫌だ嫌だっ!!あんな悪の塊と一緒だなんて人生の終焉だっ!!!」
「俺は物まねが似ていると言っただけだ」
「…駄目だ…!あれは男の敵でもあり女の敵でもある全人類の敵…!!」
「大佐と中尉が同じ日に首を寝違えたっつっても、偶然だろ。というかそう思うべきなんだ。深入りはしない方が身のためだ」
「…俺も、俺もいつか中尉の銃の餌食に…」
「勘がいいってのは嫌だな。…おーい、ハボック、聞いてるか?」







「……いたい」
目覚めて最初に発した言葉がこれだった。
低血圧かつ寝起きが最高に悪い彼女は、たった三文字の単語ですら口にするだけで相手を青ざめさせることができると改めて思い知る。
「今すぐ起きなきゃところ構わず噛んでやるって先に言った」
「聞こえませんでした」
「言った」
「本当に噛む馬鹿がどこにいるんですか」
寝起きの彼女の形相は、巷を騒がせているテロリスト達が涙目になるんじゃないかと思うほど怖いのは重々承知だ。
形相に違わず言動もそれ相応に恐ろしいのも知っている。
しかし彼女がすやすやと眠っているのを指をくわえて見ているよりも、少々痛い目を見てでも構ってもらえる方がずっと良い。
「痛いです。謝ってください」
私が甘噛みした頬をわざとらしく何度もさすり、彼女が目を細め凄んでくる。
「君がそれくらいで痛みを感じるわけがないだろう。この間の事件で銃弾が足を掠ってもちっとも泣かなかったじゃないか。両手を広げて待っていたのに……って、危ないっ!」
ようやく傷口が塞がりかけた例の彼女の左足が、脛を思い切り蹴り上げる寸前で避ける。
もうちょっとだったのに、と的を外した彼女は舌打ちをした。
「あー、ごめんごめん。私が悪かった。しかしだな、私は君を起こしてやったんだぞ?もうそろそろ起きないと遅刻する」
「私は今日非番ですが」
「私は今日非番じゃない。通常出勤だ」
「威張らないでください」
ブランケットを被りなおし再び眠ろうとする彼女の腕を、そうはさせまいと、がしっと掴む。
「だから朝ごはん作ってほしいんだ」
「そういうことはメアリーさんとかキャサリンさんとか山ほどいる恋人達にお願いしてください」
「そんなことしてたら遅刻するだろうなあ。むしろ仕事行かないで遊んじゃうかもなあ」
「………もーっ!」
「痛っ!」
今度こそ見事に脛を蹴り上げた彼女が、先程までの気だるさはどこへいってしまったのか、華麗にベッドから飛び降りる。
「五分以内に身支度を整えてリビングへ来てください。さもないと…」
「…さもないと…?」
涙目で脛を押さえる私の問いには答えず、彼女は意味深な沈黙を作った後、キッチンへと消えて行った。
その後、私がすぐさま洗面所へ向かったのは言うまでもない話である。



五分も経たないうちに身支度を終えてリビングへ向かうと、すでにテーブルの上には質素な…ではなく、朝に相応しいシンプルな朝食が用意されていた。
さっそくパンを頬張ると、彼女が重たい瞼を我慢しながらいれたであろうコーヒーが手元に置かれた。
そして、向かいの席にまだパジャマ姿のままの彼女が座る。
どの皿の上にも火の通ってないもの、つまり手の加えられていないものばかりが並んでいる。
これくらいの朝食なら自分一人でも用意できるが、やはり朝は目の前に寝ぼけまなこの彼女がいなければ始まらない。
コーヒーを飲み干しながら、ふと、この光景はまるで恋人や夫婦のようだと思う。
しかし、私と彼女の仲は「男女の関係」なんて笑ってしまうほどもっての外、見事なまでに健全だ。
同じベッドで眠って目覚めても、彼女に私の痕なんて残っていないし、そもそも彼女のパジャマはボタンひとつ外れていない。
狭い、暑い、重いなどとベッドの場所取りで大騒ぎしながらただ一緒に眠りにつくだけで、私は下心など決して持っていないのだ。
ちなみに、私は彼女の身体の柔らかさは抱き枕に持ってこいだと思っており、彼女を誰にも譲る気はないが、これは下心ではないと固く信じている。
お節介な親友は「むしろ不健全だ」と非難してくるが、共に仲良くに眠りにつく兄と妹のように美しい仲をそんな目で見ないでほしい。
いや、頬を噛んだことは健全とは言えないか?
「もうすぐ出ないと遅刻ですよ。さっさと行ってください」
「私を早々と追い出して二度寝するつもるだな…。いつもみたいに好きに使っていいから」
「分かりました。…私の顔に何かついてます?」
嫌がる彼女を無理やり玄関まで引っ張ってきて見送りに来させ、そして、じっと見下ろした。
やはり頬の件はまずかったかな、と、今頃になって反省する。
「中尉、肩にゴミが」
「え?」
というのはもちろん嘘で、ありもしないゴミを取る振りをして、そちらに気を取られている彼女の肩を掴んで引き寄せる。
不健全な朝を、健全な朝へ。
「さっきはすまなかったね」
噛み痕の消えた柔らかい頬を労るように舌で舐める。
そして、いつもの健全な朝に少しだけ悪戯を。
滅多にお目に掛かれない唖然とした表情が彼女を幼く見せて、それが妙に可愛くてつい暴走してしまった。
桃色の唇に触れるだけの口付けをして、彼女の肩から両手を離して解放する。
「まさか君がこんな古風な手に引っ掛かるとはね」
新たな発見に喜びつつ、じゃ、と片手を上げる。
「行ってくるから」
ちょっとしたことで本当に恋人っぽくなってしまったなと、何故か満足しながら扉を閉めた。
健全なのか不健全なのかもはや分からなくなってきている朝、扉の向こう側で、私が舌でなぞった頬が赤く染まっているなんて知るよしもない。







自分の部屋よりも大きく座り心地の良いソファーの上に寝転び、うーんと大きく伸びをした。
疲れた体を柔らかいソファーに沈めていると、このまま眠ってしまいそうになる。
「そこで寝ると風邪ひくぞ」
テーブルを挟み、向かいにあるソファーに座り本を読んでいる大佐の声によって、夢うつつだった意識が現実へと戻る。
私には理解不能な古びた紙の上に羅列する文字達に夢中だと思っていたが、目敏いことに、私が目を閉じたことに気付いたらしい。
「親みたいなことを言うんですね」
「中尉、私は親なんて歳じゃないだろう。マスタングお兄様と呼びなさい」
「……あら、大佐、ついに老眼鏡ですか?」
「眼鏡だ!」
勢いよく本から顔を上げた大佐が、近所迷惑になりそうなほど大声で否定する。
眼鏡を掛けた大佐の顔は見慣れなく、まじまじと見入りながら年月が経ったことを感じていたのだが、どうやら違ったらしい。
「この本は少し文字が小さくて読みにくいのだよ。だから眼鏡を掛けているのであって、決して老眼鏡ではない!」
「そこまで必死に否定しなくてもいいじゃないですか」
「ふん。どうせまた君は三十路を目前にした私を年寄り扱いして遊ぶんだろ」
「年寄り扱いじゃなくて年上扱いです」
ぶつぶつと文句を言っている大佐を無視し、小さく欠伸をしながらソファーから下りる。
眠るのならここではなくベッドで寝よう。
マスタング家には座り心地のよいソファーもあれば寝心地抜群の値の張る大きなベッドも揃っているのだ。
大佐は相変わらずだらしなくシャツを着ているなどと思いながら、ソファーを横切り、ふと目に入ってきたものに寝室へ向かう足を止めた。
ボタンをきちんと止めていないが故にシャツがはだけ、そこから肌が覗き、胸に赤い傷があるのを見つけたのだ。
大佐の護衛をしているため、この人のどんな小さな傷でも人一倍敏感になってしまう。
どこでそんな怪我をしたのだろうと胸の傷を見つめていると、大佐が私の視線に気が付いた。
「どうした中尉…。ああ、これか?」
何故か大佐が意味深ににやりと笑う。
「君は私を年寄り扱いするがね、私はまだまだ現役なのだよ。お嬢さん方が放っておいてくれなくてね、相手をするのが大変だよ」
長い間この人と一緒に過ごしてきた私にはとても信じられないが、確かに、常に大佐はご婦人方から熱い視線を向けられている。
「これは『あの時』の傷…と言ってもリザちゃんには刺激が強すぎたかな?それとも分からないかな?」
大佐はニヤニヤと腹立たしい笑みを浮かべ、先程の年寄り扱いへの反撃に出たようだ。
なぜ巷の女性はこんな人に黄色い声を上げるのだろうと再び疑問を抱く。
「子供扱いは止めてください。気持ち悪いです」
「子供扱いではなく年下扱いだよ」
くだらない話が続きそうだと長年の付き合いから察知し、早々と寝室へと逃げこんだ。
自慢げに何かを語っている声を、扉を必要以上に力を込めて閉めることで遮断する。
ベッドに身を投げ天井を見上げると、何故か溜息がもれた。
数日前、大佐のコートから甘ったるい香水の匂いがしたが、あの香りの持ち主が大佐に傷をつけたのだろう。
目を閉じてみたが、先程の眠気はさっぱり訪れてくれない。
眠気の代わりに頭を支配するのは、あの胸の引っ掻き傷だ。
あの傷が目に焼き付いてしまったかのように、鮮明に瞼の裏に浮かび上がる。
そして、胸に苛立ちに似た感情が広がるのを感じた。
何に腹をたてる必要があるのだろうと、まるで他人事のように思う。
何が、誰が気に食わないのだろう。
あの人を守る身であるから、小さな傷でも必要以上に気になってしまうだけだろうか。
答えを出せないうちに、頭を悩ませる元凶が寝室の扉を静かに開いた。
大佐がベッドに腰掛けると、その重みでシーツが沈む。
「ねえ、リザちゃん」
「…その呼び方、止めてくれませんか」
目を開けると、先程のへらへらした顔とは打って変わって真剣な表情で私を見下ろす大佐と目が合う。
「さっきのことなんだが」
「さっきのこと?」
「だから、引っ掻き傷のこと」
「それがどうしたんですか」
「私に恋人はいない。これをやったのは恋人ではなくて、情報収集するために近付いた女性に…」
「そうですか」
「人の話は最後まで聞きなさい」
「そういう関係を恋人って言うんじゃないですか?」
「いいや違う。彼女から欲しいのは情報だけで、しかしちょっと遊びすぎただけだ!」
威張るところではないだろう。
また自然と溜息がもれた。
それに傷をつけた主が恋人ではない女性というのも、私としてはまったく構わないが、普通ならば聞き捨てならないことだと思う。
「どうして私相手に弁解するんですか?」
「え?」
「恋人に浮気を謝られている気分です。そんな間柄でもないのに」
それこそ、私達が恋人同士のようではないか。
「大佐は私ではなく、もっとほかにたくさん謝るべき方がいらっしゃるでしょう」
「だから私に恋人はいないんだってば」
そう言いながら、大佐は親指と人差し指で私の鼻を軽く摘んだ。
「私に恋人はいない。つまりこの傷をつけたのは恋人ではない。愛ではなくて仕事の傷だ。すべては君の誤解なのだよ。分かった?」
「……手を離してください」
「君の誤解がとけたら離してやってもいい」
「誤解…?私、誤解なんてしていませんけど。私が何を誤解しているんです?」
「私が恋人と傷にも気付かないほど甘く熱く盛り上がったって思っているんだろう?」
「大佐がたった一人の恋人を大切にする誠実な方であっても、一晩限りの恋人をたくさん持つ最低な方であっても、私には関係ありません。どうでもいいです。なので誤解すらしていません」
「……何だかたくさんひどいことを言われたような気がする」
力を込めてぎゅっと鼻を摘まれたと思うと、それを最後にやっと解放された。
「どうして大佐は小さい子を相手するみたいに私を扱うんですか」
「言っておくが子供扱いじゃなくて年下扱いだよ、リザちゃん」
「ですからそう呼ぶのは止めてください」
「…誤解されていないのは良かったが、誤解すらされていないのは寂しいものがあるな」
私が鼻をさすっていると、大佐が独り言のように呟いた。
「中尉にとってはどうでも良い話かもしれないが、私は君が思うほど最低な男ではないよ。むしろ君が言ったように誠実かもしれない」
大佐はベッドから腰を上げ、寝室の扉へと向かう。
「恋人はいないからたった一人の恋人を大切にするということはできないが、たった一人の女性に誤解をされたくはないと一応思っているんだ」
扉を開きながら大佐はこちらへ振り返ると、小さく笑った。
「君に誤解されるのだけは嫌なんだ。邪魔して悪かったね。おやすみ、リザちゃん」
私が言葉に詰まっている間に、返事はいらないとでもいうように扉は閉まってしまった。
しかし、私に言える言葉なんてあるのだろうか。
強いて挙げるのならば、「ずるい」?
はっきりとした答えはくれないくせに、私を悩ませるだけ悩ませて、あの人はいつもいなくなる。
当然、眠気はきれいさっぱり消え去り、その後も眠れる訳がなかった。
「……今度あの呼び方したら殴ろう」








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