エターナル・サンシャイン



生前のままにしてある母の部屋の引き出しから適当に引っ張ってきたこのカーディガンは、やはり私にはまだ大きすぎた。
肩の位置は合ってないし、裾も長すぎて不格好に太ももの辺りまで落ちてきてしまう。
玄関の壁に背を預け、何となく真っすぐに腕を伸ばすと、桃色のカーディガンが私の指先を隠して、余った布がだらりと垂れた。
このカーディガンは母がよく着ていたものだ。
私がまだ言葉もうまく話せないうちに母は逝ってしまったけれど、母は私と違って美しい人だったとよく覚えている。
華やかという言葉が似合う女性だと、娘の私でも褒めてしまう。
私が何を言っても父は聞き入れてくれないけれど、母が少し笑うだけで、あの変わり者は頑固な意見をあっという間に変えてしまうのだ。
古びた玄関の扉から、絶え間無く隙間風が入ってくる。
寒さに思わず膝を抱え、その間に強く顔を埋めた。
母が生きていた頃は、嵐がくれば簡単に壊れそうなこの屋敷でさえ明るく見えたのに、今は見た目通りの寂しく薄暗い家に成り果ててしまった。
――このカーディガンは、私には似合わない。
父の頭には錬金術の研究のことしかなく、私の言葉はあの偏屈者には何をしても届かない。
私は母のように美しくないし、可愛らしくも笑えないから。
それから、珍しく父が興味を持ったあの人にも、私はなれない。
もう少しであの人が来る頃だ。
あの人は、いつも約束の時間よりも早くこの屋敷へ来るのだ。
案の定、まだここを訪れるには早い時刻に、草を踏む音が近付いて来て、その後に控え目に扉を叩く音がした。
「どうぞ」
膝から顔を上げて小さく呟くと、静かに扉が開いた。
「こんにちは」
扉から顔を覗かせたのは、他人と関わりを持たない父の唯一の弟子、マスタングさんだ。
彼はにこやかに挨拶をしながら家に足を踏み入れる。
しかし、視線を足元に下げ、私と目を合わせるとマスタングさんはたちまち表情を固まらせた。
「リザ、どうした?具合でも悪いのか?」
私が立ち上がろうとする前に、マスタングさんが屈み込んで私と目線を合わせた。
この人は何かと私のことを心配してくるが、気遣われるということに皆無な人生だったために未だ慣れず、私は慌てて顔を逸らした。
「平気です。今日は父の機嫌が悪いので、もしかしたら会うことも無理かもしれないと伝えたかっただけです」
「…そうだったのか。そのためだけにわざわざありがとう」
逸らした私の顔を覗き込み、マスタングさんが頭をくしゃくしゃと撫でてきた。
それから「鍵を開けっ放しにするな」とか「ここにずっといたら風邪をひくだろう」とか、恒例のお説教が始まった。
私が実際に子供だから仕方がないが、子供扱いされると妙に腹が立つ。
いや、この人だから、腹が立つのだ。
ここじゃ冷えるだろうと、私を立ち上がらせようとしたマスタングさんの手を振り払い、自ら腰を上げる。
マスタングさんに乱された髪をわざとらしく直しながら、私は玄関と唖然とする彼に背を向けて歩き出した。
「リザ?」
「一応書斎に行ってみましょう。私に対しては機嫌が悪かったですが、マスタングさんなら喜んで迎えてくれるかもしれません」
どうしても尖った物言いをしてしまうのは、私がこの人に一方的に劣等感を抱いているからだ。
錬金術の才能のあるマスタングさんは、私が何をしても向けられなかった父の興味を、簡単に奪ってしまった。
父を取られた。
そんなくだらない嫉妬から、私がいくらぶっきらぼうでも常に優しく接してくれるこの人に、事あるごとに冷たくしてしまう。
「お父さん、マスタングさんが来ました」
滅多に入ることの許されない書斎の扉を叩き、机に向かっているであろう父を呼ぶ。
父と私の関係は冷たく奇妙で、一般的な家族とはあまりにも掛け離れている。
しかし、父は私を愛していないわけではない。
不器用ながらも父に愛されていることを、私はちゃんと知っている。
しかし、私が父を愛している分だけ、その愛情が丸ごと返ってこないことも知っている。
入りなさい、という父の静かな声が扉の向こうから聞こえてきた。
「どうぞ」
マスタングさんに部屋の中に入るように促すなり背を向けて、来た道を戻る。
朝の不機嫌さはどうしてしまったんだと、そう扉の向こうにいる父に大声で問い詰めたくなった。
父から「私」だから駄目なのだと何度思い知らされても未だ慣れず、唇をきつく噛んだ。
「…あの、リザ」
書斎のドアノブに手を掛けたマスタングさんが、急に私を呼び止めた。
「…何ですか」
失礼だと分かりながらも、立ち止まることなく背を向けたまま答える。
「そのカーディガン、すごく似合っているよ。…それだけ」
私が何か言う前に、マスタングさんは書斎に入ってしまった。
ぱたんと扉が閉まり、廊下に一人残される。
例え母の服を着てみても、「私」では駄目なのだ。
場違いな憎しみがまたマスタングさんに募ってしまって、そんな自分が心底嫌になる。
父に愛してほしかった。
母やマスタングさんの次でいいから、父に私を少しでもいいから見てほしかった。
私が母みたい美しかったら、何かが変わっていただろうか。
私が錬金術を使えたら、父は私をもっと愛してくれたのだろうか。
私が男だったら、マスタングさんのような人間だったら、こんな惨めな気持ちは知らずにすんだのだろうか。
ふと顔を上げた先に窓があり、泣くのを堪えた情けない自分が汚い硝子に映っていた。
愛されたいばかりに自分ではない何者かになりたくて、しかし何にもなれなくて、残ったのは誰からも愛されないひねくれた心だけだ。



「その仕草、師匠そっくりだ」
不機嫌になるとわずかに目を伏せて右を向く。
顔の造形や雰囲気は違えど、父と娘の血の繋がりは濃いらしく、リザは時たま師匠を彷彿とさせる仕草をする。
喧嘩中ということも忘れて思わず呟くと、そっぽを向いていた彼女の表情から苛立ちが消えた。
代わりに紅茶色の目を大きく見開き、驚き入った顔をして私の方へ振り返る。
「そう…ですか?」
「ああ、そっくりだ」
やはりリザに師匠絡みの発言は効果覿面だ。
おそらく彼女はもう怒っていない。
くだらない言い争いなど忘れ、むしろ機嫌が良くなっているはずだ。
その証拠に、ベッド上でリザが私との間に作った距離を縮めて抱き寄せても、彼女はされるがままだった。
さっきはごめんねと口付けながら謝ると、一度機嫌を損ねるとなかなか直らないリザも、珍しくごめんなさいと呟いた。
「ふとした仕草が似ているからたまにどきりとするよ」
「ふふ」
リザはまるで褒められた子供のように無邪気に笑って、胸に擦り寄ってきた。
「君は本当に師匠が好きだな」
「…父、ですから」
「師匠も君のことをうんと大切にしていたしな。君たち親子の間にはどうやっても私は入り込めないよ」
「…そんなことないですよ」
小さな声で短くそう言い放つと、リザはシーツに顔を埋めてしまった。
表情は見えないが、きっと先ほどの笑顔は消えているに違いない。
師匠はリザを愛し、またリザも師匠を健気なまでに愛していた。
しかし師匠は人としても父親としてもひどく不器用な人間であり、まだ幼かったリザにうまく愛情が伝わっていない場面が多々あった。
例を挙げればきりがないが、師匠が弟子である私にリザの様子をぶっきらぼうに尋ね、私の報告に耳を傾けながら娘のことをひっそりと心配していたことを、リザは知らない。
第三者の私が、まるで片思いのように相手に届かない一方通行の愛情をぶつけ合う不器用な親子に、何度歯がゆくなったことだろうか。
「リザ」
横顔を覆っている金髪を耳に掛けて、あらわになった耳たぶに口付ける。
シーツに埋めた顔を撫でながら頬に手を添え、こちらを見るように促す。
リザの顔を覗き込むと、紅茶色の瞳は心なしか濡れているように見えた。
「…大切にされていたのは、マスタングさんですよ」
「私は悪い虫扱いで警戒されていたんだけどね」
リザは未だに師匠を心底愛しつつも、肝心の師匠の愛情を受け止めきれていない。
「…まったく君は」
なんて不器用で独りよがりで、そして愛おしいのだろう。
苦笑しながらリザを胸にきつく抱え込む。
人の情に疎いあの師匠が父親だったため、リザも感情を扱うのが下手だ。
私が教育し直そうと日々奮闘しているのだが、しかし、それが役に立つこともあるのだ。
例えば、下士官に熱烈な愛の告白をされても、リザはそれをただの言葉や事実として受け取るだけで、彼女の心を揺るがすことはない。
リザに情熱的に想いの丈をぶつけても、涼しい顔で「ありがとう」の一言を言われるのがオチだ。
リザの不器用さは虫よけとして大活躍しているのだが、裏を返せばそれは我が身にも降り懸かる。
私とリザの関係をはっきりと「恋人同士」と言い切れず焦れるのは、件の彼女の性格故だ。
「…リザはさ…」
「はい?」
「本当に私のことが好きなのか?」
女性にこのようなことを確認するなど色男のプライドが許さないが、リザの前ではそんなことなど言っていられない。
「大佐は好きじゃない相手とこんなことするんですか?」
不思議そうな表情を浮かべてリザが首を傾げた。
見下ろした先にある豊かな胸の上には、私が身勝手に残した赤い痕がたくさん散っている。
「もちろんしないが…。リザには分からないだろうけどね、君といるとたまに不安になるんだよ」
「好きですよ」
「…そうか」
「大佐の手が」
リザの髪の毛を撫でる手がぴたりと止まった。
「あと、体があったかくて好きです」
うっとりとした表情で、リザが体温の低い滑らかな素足を私のそれに絡める。
「…それだけ?」
「ええ」
何も纏わない体と体を密着させて温まりながら、リザは清々しいほどきっぱりと言い放った。
「じゃあ、私じゃなくてもいいんじゃないか?」
「そう言われてみればそうですね」
「……泣きたくなってきた」
「冗談ですよ」
リザはくすりと笑って、ショックのあまりうなだれて白い肩口に顔を埋めた私の頭をよしよしと撫でた。
しかし、彼女が言うとどうも冗談には聞こえない。
「マスタングさんにはよく疎い疎いって言われますけど…好きですよ。本当に」
「ああ、私も大好きだよ」
「ありがとうございます」
そこら辺の下士官と同じ扱いじゃないか、と、私はまた密かにうなだれた。
リザの言葉は、いつも良くも悪くも私の心を大きく揺さぶるが、私の言葉はあの人ほど彼女には響かない。
不器用なリザを簡単に喜ばせたり悲しませたりできる超人とも呼べる人間は、あの人しかいない。
リザの心を揺さ振ることのできるたった一人の異性、それは彼女の父であるホークアイ師匠だ。
「…勝てる気がしないんだが」
「え?」
リザに出会った時からずっと恋心を抱き続けているというのに、彼女はこちらを向いてくれず、それは未だ実ることなく燻っている。








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