雪を丸めて遠くに放り投げると、愛犬は嬉しそうにそれを追い掛けて走って行った。 イーストシティはここ数日雪が続き、アパートの近所にある公園もすっかり真っ白に染まっている。 今なお雪がちらつく深夜、雪原の上には私と愛犬の足跡のみが刻まれており、一人占め状態だ。 白い溜息が黒い夜空に浮かび、そしてたちまち消える。 部屋に篭っていると余計に気が滅入ると思い、夜中にも関わらず愛犬を連れて散歩に出掛けたのだが、それでも頭から悩みの種である上官のことが離れない。 ――私は、あの人のようにはなれない。 手がかじかむのも構わず、再び雪の玉を作っては遠くに投げる。 『男っつーのは弱みを見せたくないものなんだよ』。 彼の親友は、私に対して事あるごとにこの言葉を口にする。 確かに大佐は隙がなく、他人にまったく弱みを見せない人間だ。 辛い出来事にぶつかっても、ふとした瞬間に苦しげな表情をしていても、平気を装って決して胸中を吐露しない。 副官の私にでさえ、大佐はどんな事態が起ころうとも平常を取り繕って、それ以上言及することを許さない。 しかし、彼の昔からの親友であるマース・ヒューズ中佐だけは別なのだ。 あの人だけには、大佐は私には決して見せてくれない心の奥底に溜まった悲しみを晒すのだ。 溜息ばかりつく飼い主とは対照的に、ブラックハヤテ号は雪の上を元気に駆け回っている。 ざくりと雪を踏む音と共に、背後から慣れ親しんだ気配が近づいてくる。 私と愛犬だけが独占していた空間に、頭を悩ませている人物が足を踏み入れたのだ。 ――あの人は、私が知ることのできない大佐を知っている。 そして、大佐はあの人に弱みを見せることを、深い領域まで入り込むことを許している。 『男っつーのは弱みを見せたくないものなんだよ』? ヒューズ中佐は知らないでしょうけど、大佐は、あなたにはくだらない失敗談から誰にも漏らさない弱みまで、何でも話してしまうんですよ。 どうして―― 「こんな時間に何をやっているのかな、君は」 「大佐こそ、こんな時間までお仕事ですか?ご苦労様です」 どうして、大佐は私には何も言ってくれないんですか? 後ろを振り向くなり、丸めた雪の玉を大佐に向かって投げると、黒いコートの一部が白く染まった。 完全に子供のするような八つ当たりだ。 「…何をするんだリザちゃん。まさか遅れてきた反抗期?」 「その呼び方は止めてくださいと何度も言ったはずです」 私服の私に対し、大佐はまだ軍服を着ていた。 先ほどまで司令部にいたのだろうか。 本日分の仕事は定時を大幅にオーバーしたもののすべて片付けたというのに、大佐はこんな深夜まで家に帰らず軍で何をしていたのだろう。 「口答え、深夜の外出…間違いなく反抗期だな」 さて困ったななどと難しい顔をしてコートの雪を払い落とした大佐が、私の隣に屈みこむ。 そして私の手を取り、今度は私の指についた雪を払い始めた。 「あーあ、手をこんなに冷たくして。反抗期のわりに雪ではしゃぐなんてお子様だな」 「反抗期でもお子様でもありません。勝手な言い掛かりはやめてください」 「まあまあ、何があったのかマスタングお兄様に話してみなさい」 雪で冷たくなった肌を温めるように、大佐の手の平が私の手を包み込む。 「…大佐こそ何があったんですか?こんな時間まで司令部にいたんですか?」 「ああ、ずっと司令部にいた。今帰りなんだ。別に童顔を軍服でごまかし女性達を誘い、侍らせて遊んだりなんかしてないぞ」 「そんなこと聞いていません」 「君が帰ったすぐあとに、ヒューズから電話が掛かってきてね。奴の長電話にまた付き合わされたんだよ」 彼の親友の名前が出た途端、表情が強張った。 「家から掛けてきたあいつはまだ司令部にいる私にお構いなしに長ったらしい話をしてきて本当に参ったよ」 欝陶しそうな表情とは裏腹に、大佐の物言いはとても楽しそうだ。 「…昼間にあれだけ長話をして、夜にもまた話すなんて、よほど仲がよろしいんですね」 嫉妬の滲み出た浅ましい発言をしてしまったことに気が付き、慌てて俯いた。 大佐に信頼されている中佐を羨ましいと思うあまり嫉妬してしまうなど、きっと今の私はひどく醜い顔をしているに違いない。 「もしかして、昼間にあいつと電話していたことまだ怒ってる?あれは奴から掛けてきたから仕方がない。それに仕事を放り出してサボるなんていつものことじゃないか」 威張らないでください、と、まったく怒気のこもっていない声で言う。 今日の昼間、執務室に入ろうとした時、ドアの向こうから聞こえてきた大佐の楽しそうな笑い声が今も耳にこびりついている。 私が入り込める空間ではないと察し、部屋の前でどうしようかと躊躇していると、大佐の声は馬鹿笑いから聞いたこともない真剣なものへと一転していた。 会話の内容がどのようなものか検討もつかないが、ただひとつ言えることは、私には明かしてくれないことを話していたのだろう。 その後、長電話のせいで仕事が遅れたと大佐をこっぴどく叱ったが、それに託けて、私へ何も打ち明けてくれない怒りをお門違いにも大佐へぶつけたのだ。 「ヒューズの家族自慢はもう不治の病だな。それにあいつは相談相手としては最悪だ」 「…相談…?」 「そ、まともな答えなんか返ってきやしない。私は真剣なのにあいつは普段通りくだらないことばかり言ってくるから話にならない」 また心に歪んだ感情が広がっていくのを感じた。 大佐が弱みを見せられない自分の無力さを、彼や彼の大切な親友への苛立ちに転換させるなんて、私は本当に見苦しい女だ。 こんな女、頼られなくて当たり前だ。 大佐が胸中をすべてを打ち明けない原因のすべては、器の小さい私にある。 「……ヒューズ中佐が、羨ましいです」 大佐がすべてを預けることのできる中佐が、そしてそれをしっかりと受け止められる寛大な人柄が羨ましくてならない。 「は?あいつが?どうしてまた?」 「…大佐は気付いてないでしょうけど、ヒューズ中佐と話している時、大佐はとても楽しそうなんです。…大佐をあんな表情にさせられる中佐が羨ましいです」 「あいつとはくだらない話しかしてないぞ」 「……そのくだらないことすら、私は聞けないんです」 手持ち無沙汰だったのか私の指を触ったり握ったりして遊んでいた大佐の手から逃れ、ぎゅっと固く掌を作る。 その様子を見ていた大佐が、不思議そうな表情を浮かべた。 「中尉?」 「私では頼りないって分かっているんです。でも、いつか…ヒューズ中佐に話すように、私にも何でも話してほしいです。笑い話でも泣き言でも、全部聞きたいんです」 「…確かに私はヒューズに何でも話すが…。同じように君にも話していると思うけど」 「…でも私、大佐から相談されたことなんてありません…」 「してるじゃないか」 「してません」 まるで、ぐずる子供と、それをたしなめる親のような会話が続く。 しかし私は子供のようなわがままを言って大佐を困らせているのだから、あながち間違っていないのかもしれない。 「相談ねえ…。君だって私に何も相談してこないくせに。どうせ昼間から君が落ち込んでいる理由なんて、私には話してくれないんだろう?」 「…それ、は…」 落ち込んでいたことを大佐に見抜かれていた驚きに目を見開く。 「君は頼れる私の自慢の副官だよ。私は些細なことでも君に話すようにしていたつもりだが…今まで仕事に支障があったのなら申し訳ないな。不満に思っていたなら謝るよ。すまなかった」 「大佐、謝らないでください。これは、仕事は関係ない私のわがままですですから」 「しかしね、男というのは弱みをみせたくないものなんだ」 「…ヒューズ中佐のようなことをおっしゃるんですね」 「惚れたひとには」 「え?」 大佐は私の固く握った拳を手に取ると、指一本ずつ丁寧にほぐし、それからまるで離さないと言わんばかりの力で自身の指を絡めてきた。 「じゃあ、さっそくヒューズに相談していたことを君にも話そう。その惚れたひとがなかなか振り向いてくれないんだが、どうすればいい?」 リザ・ホークアイを副官につけてから数週間、溜息ばかりつく日々が続いていた。 彼女の仕事での振る舞いを嘆いているわけではない。 少尉は「鷹の目」という異名を持つ銃の使い手であり、事務能力も高い。 おまけに、いかに長く巧妙にデスクワークをサボろうかと日夜考えている私の扱いも上手い。 上官に銃をちらつかせたり暴言をはいて脅すのはどうかと思うが、結果としては書類の締め切りを守ることに繋がるのだから、恐ろしいといえど上官を引っ張る達人だ。 というわけで、滅多に他人を褒めない私だが、少尉の有能さは誰彼構わず自慢したいほどなのだ。 そして美人とくるものだから、彼女の存在ははあっという間に司令部中に広まった。 少尉と一言でもいいから話しがしたい、少しでもお近づきになりたい、あわよくばこの恋焦がれる想いを伝えて恋人になりたい、などと考えている輩は多いに違いない。 私はそんな愚民どもに声を大にして馬鹿だと言ってやりたい。 彼女は恋愛なんかに興味などない。 もしかしたら恋愛のれの字すら知らないかもしれない鈍感な子だ。 お前らなど、少尉にとっては道端の名のない雑草にすぎず、想いを打ち明けたところで検討違いな答えが返ってくるだけだ。 ふん、ざまあみろ。 私なんて、彼女がまだ私の肩ほども身長がなかったあどけない少女時代から知っているもんねーだ。 顔も覚えてもらえないような貴様らとは、絆の深さも付き合いの長さも違うんだからな。 ははは、どうだ悔しいだろう。 「……でも、それだけだ」 そう。少尉に懸想している奴らと私の差は、旧知の仲であるかないか、ただそれだけだ。 それ以外は奴らと何の変わりもない。 先程の言葉はすべて私自身にも降り掛かることなのだ。 一人きりの執務室で、椅子の背もたれに思いきり寄り掛かりながら大きく溜息をついた。 今日も仕事を無事に終え、そして少尉も「有能な副官」のままだった。 私を叱る際に恐ろしい形相をする時以外は常に無表情で、人形のようにちっとも表情を崩さず、くすりとも笑わない。 惚れたひとを笑わせられないなんて、女性の扱いはアメストリス一と謳われるロイ・マスタングの名が廃る。 それから、彼女に私を異性だと意識させることすらできていない。 私が歩くだけで女性達から黄色い声が上がる今、青かった昔とは違うところを見せ付けてやろうと、この前彼女を食事に誘ったのだが、見事惨敗した。 大人の色気を惜しみなく出し切りときめかせるつもりが、逆に、フォークで料理を口に運ぶ姿やナプキンで唇を拭く彼女の仕草にこちらがときめいてしまった。 物を食べるという些細な動作だけでこの私を見惚れさせるなど末恐ろしい子だ。 それに負けじと少尉を口説いてみたものの、すでに勝利は彼女の手にあったのか、「意味が分からないです」と素っ気なく返された。 彼女は私の常識をことごとくぶち壊す人だ。 「…少尉め、私が女性にあんなことしたら普通は逆プロポーズされるぞ」 ここ数週間の溜息の理由は、なかなか思い通りにならない彼女に手を焼いているからなのだった。 このまま家に帰っても、寒く汚い部屋が待っているだけだ。 こんな状態であの部屋で眠りについたら、柄にもなく反省や後悔をしてしまいそうだ。 それは絶対に嫌だ。 女性のことで落ち込むなど私のプライドに反する。 いつもの場所で本でも読んで、気分が落ち着いたら帰ることにしよう。 机から引き出しから読みかけの本を取り出し、私は執務室をあとにした。 「……どうして君がここにいるんだ」 片手に持っていた本を落としそうになった。 「いつもの場所」に向かうと、思いもよらない先客がいたのだ。 目下悩みの種であるリザ・ホークアイが、ところどころ革のはげたソファーの上で寝息をたてている。 ここは司令部のはずれにある物置部屋だ。 日当たりの悪い部屋だが、使わなくなったソファーや古びた机が無造作に置いてあり、なにより滅多に人が寄り付くことのない場所だから絶好のサボり場だと彼女に教えたことがあった。 少尉は仕事を終えたあとにすぐに帰宅したはずなのに、なぜここで寝ているんだ? 寝るのならばこんな寒く汚い部屋ではなく仮眠室に行けばいいじゃないか。 もしかして仮眠室がいっぱいだったのだろうか。 というか、寝るのならば自宅で寝れば良いのに。 「……ああ、そうか」 彼女はどんな状態にあっても限界まで我慢し、それを表に出さないことをすっかり忘れていた。 私の下についてから数週間ずっと、慣れない仕事をこなし、ろくに休みもとれない状態で働き続け、彼女は疲労が溜まる一方だったのだろう。 少尉は有能だからと心配せず、家まで帰れないほど疲れていたことに気付いてやれなかった自身に腹が立つ。 「…すまなかったな、少尉」 彼女の顔を覗き込むように、床に膝をついて身を屈める。 「少尉、ここで眠っていると風邪をひくぞ。車で家まで送ってあげるからちょっと起きて…あ、別に下心はないぞ」 ぺちぺちと軽く叩いた頬はすっかり冷えていた。 「おーい、しょーいー。起きないと勝手におんぶして連れて帰るぞー、ホークアイ少尉ー。」 私が部屋に入ってきたことに気付かないほど深い眠りについていた彼女だが、何度も呼び掛けているとわずかに顔をしかめた。 「リザ・ホークアイ少尉ー、リザちゃーん。起きてー」 ん、という小さな声と共に、白い瞼がぴくりと動いた。 「ほら、リザ」 次の瞬間、少尉が弾かれたように目を開き勢いよく起き上がった。 すっかり眠気が吹っ飛んだのか、驚いたように目を見開いて私を見ているが、急に飛び上がった彼女に私も驚いている。 「…ちゅうさ…?」 「すまない、急に起こして驚かせたね。でももうこんなところで寝ちゃ駄目だぞ」 「…まさか今って朝ですか?起こしてくださったんですね。ありがとうございます。……ああ、ここは中佐の場所でしたね。以後気を付けます。でもどうして中佐がここに?あれ、私を起こしに来てくれて…でもどうしてこの場所が分かったんですか?」 少尉の言っていることが若干おかしい。 寝ぼけているのだろうか。 「少尉、安心しなさい。まだ夜だ。本を読もうと思ってここに来たら君が眠っていたんだよ。 「本…?私、お邪魔してしまったみたいですね 」 「…君、本当に疲れているみたいだね。言ってくれたら家まで送ったのに」 「疲れてません。平気です。送るだなんて、私がすることであって中佐がなさることではありません」 「気を遣うことはないさ。それに、君が寝ている間に家まで送ろうと決めたんだ。これは上官命令だ」 もしかしたら彼女は寝ぼけているのではなく動揺しているのではないだろうか。 少尉が混乱している姿など、笑顔に匹敵するほど珍しい。 「いえ、私はこれで失礼します」 「…少尉、出口はこっちだよ」 「あ」 慌ててソファーから下り、何故か部屋の奥へ向かおうとした少尉の手首を掴む。 熱いのは彼女の体と私の手の平の、どちらなのだろう。 「……名前で呼ばれるの、久しぶり…で…驚いて…」 らしくなく口を濁す彼女の短い金髪からちらりと覗く耳が、ピアスと同じく真っ赤に染まっていた。 だから、私がときめいてどうするんだ。 「このような部屋…いや、掃き溜めで生活していたなんて尊敬に値しますよ、大佐」 「……まさか中尉に褒められる日がくるとは」 「嫌味です」 中尉はコートとマフラーを椅子の背に掛け、服の袖を捲った。 ゴミ袋を片手に、床の表面を見つけるのが難しいほど本やアルコールの空き瓶や脱ぎ捨てたシャツなどが散乱している汚濁地帯へ足を踏み入れた。 部屋に上がるなり、さっさと仕事に取り掛かるところが中尉らしい。 「寒い中せっかく来てくれたんだから、掃除の前にお茶でも飲んでゆっくりしようじゃないか。ということで、お茶入れて」 「ゆっくりしている暇なんかありませんよ。この悲惨なありさまをのんびり片付けていたら明日になっちゃいます」 「悲惨って…まだマシな方なんだけどな」 「大佐、ぼさっと立っていないで本を本棚に戻してください。入らない本があったらとりあえず箱に入れて…あと研究のメモもどうにかしてください」 かき集めた服を洗濯機に放り込んでいる中尉が、リビングにいる私に大声で指示を出す。 私も気合いを出すために腕捲りをして、リビングで雪崩を起こしている本を集めていると、私の三倍ほどの速さで中尉がビール瓶を拾っていた。 「洗濯をしていたかと思えばもうゴミ集めに移っているとは、さすが中尉だな」 「大佐が遅いだけです」 中尉が部屋の中をてきぱきと動くたびに、それに比例して床の木目も顔を出す。 物を置きすぎるあまり、まるでトランプで作った城のように絶妙な均衡を保っていたテーブルも、元の形を取り戻しつつある。 「中尉、君はいいお嫁さんになるぞ。お兄様が認めた相手じゃないと結婚どころかお付き合いもさせないけどな!はは、悔しいか!」 「大佐、口じゃなくて手を動かしてください。……それから私にはお兄様じゃなくて三十路が見えます」 「ん?何か泣きたくなるようなことぼそっと言った?」 中尉は聞こえなかったはずのない私の言葉を無視して雑巾を絞っている。 「せっかくの非番だから今日一日は昼寝したり本を読んだりのんびり休むつもりが、どうしてこんなことに…」 唇を尖らせ中尉がぶつぶつと呟く。 朝っぱらから無断で中尉の家に乗り込んだ時も、無理矢理腕を引っ張って私の部屋に連れてくる間も彼女は不機嫌な顔で同じ文句を言っていた。 しかし文句を言いながらも、中尉はこうして私の部屋を人が生活できる場所に戻そうと手伝ってくれている。 「可愛く拗ねても無駄だぞ、中尉。妹はな、皆に人気な素敵でかっこいいお兄様の言うことを聞かなくちゃならないのが世界共通のルールなのだよ」 「あ、洗濯終わりましたね」 「ちょっと中尉ー、聞いているかー?」 軽い昼食を挟んで、中尉に何度か怒られながら掃除に励んだ後、部屋は見違えるほど綺麗になった。 ゴミ袋の端と端を結びながら部屋を見渡すと、床やテーブルを占拠していた物達があるべき場所に収まり、ゴミひとつ落ちていない。 「さすが私だ…」 額の汗を腕で拭いながら完遂感に浸る。 「いえ十割は私がやりました」 「十割って全部じゃないか」 洗濯物たたみましたからと告げて、中尉は腕を組み、うーんと小さく声を漏らしながら体を伸ばす。 「疲れましたね」 「まさか今日一日で終わるとは思わなかったよ。中尉、ありがとう。じゃあ、さっそく片付いた部屋でお茶でも飲んで休もうか。お茶入れてくれ」 「私は結構です」 「おーい、リザちゃーん。どこ行くのー?」 中尉は我が物顔で、すたすたと先ほど掃除したばかりの寝室に向かい、ベッドへ倒れ込んだ。 「…何をしているのかな」 中尉の後を追い、開きっぱなしの寝室の扉に背を預け、呆れながら問い掛ける。 「前に言ったじゃないですか。せっかくの非番だから今日一日は昼寝したり本を読んだりのんびり休むって」 「で?」 「寝ます」 中尉はブランケットを被りながらきっぱりと答えた。 「せめて家主の許可くらいとるべきなんじゃないのか」 「大佐の大好きな等価交換ですよ。掃除した代わりにここで寝かせてください。あとこのベッドください」 「君の家にこのベッドは入らないと思うぞ」 ため息をつきながら、ベッドの横にある椅子に座り中尉を見下ろす。 中尉は余程眠いらしく、紅茶色の瞳が瞼に隠れつつある。 「これだけでは等価交換にならないので、大佐の美味しくない料理でもいいので夕食お願いします。出来たら起こしてくださいね」 「美味しくない…?君、だんだんただの我が儘で口の悪い子になってきているぞ」 「錬金術師らしい独創的な料理、期待しています」 中尉は胡散臭さの滲み出た、しかし可愛らしい笑顔を浮かべて、誰に教えられたのか首まで傾げる。 「…こんな時だけ可愛い顔して。騙されないぞ、私は」 「それから、もう部屋を汚くしないことと、明日から真面目に仕事をすること、あとは…」 「もう等価交換じゃなくなってきているぞ!…で、これは何だ」 「これ?」 「手だよ、手」 先ほどから、ブランケットから伸びた中尉の手が、私の手をしっかりと握っているのだ。 「朝は天気が良かったのに、午後になってから急に冷え込みましたよね。一人で寝るには寒いと思いませんか?」 「中尉、さっき私に夕食を作れと言わなかったか?」 「言いました」 「これじゃ作れん」 そう言われるとそうですね、などと興味なさ気に中尉は欠伸をしながら答えた。 中尉は目に滲んだ涙を片手で拭い、枕に顔を埋める。 「夕食、楽しみにしてますから」 手を繋いだまま、中尉はとうとう目を閉じてしまった。 スイッチを切ったおもちゃのように動かなくなってしまい、もうすでに小さく寝息を立てている。 中尉が要求した等価交換は、あまりにも彼女に利がありすぎ、そしてめちゃくちゃだ。 しかし、妹が兄の言うことを渋々聞くように、兄は憎たらしくも可愛い妹に逆らうことが出来ないのも世界共通のルールなのだ。 可愛い妹に免じて、叶えられるものだけ叶えよう。 夕食は久しぶりに外に出掛けて食べれば良い。 繋いだ手はそのままに、どこの店にしようか考えながら、ベッドに潜り込んだ。 背後から聞こえるのは聞き慣れた足音なのに、それを奏でるのは軍靴ではなくヒールの高いパンプスだということに慣れないまま夜道を歩く。 「やはりパーティーの護衛にはハボック少尉が適任のようですね」 今日感じた数々の苛立ちを解せずにいると、中尉の不機嫌な声が背中にぶつかった。 歩いたまま後ろを振り返ると、中尉は淡い桃色を乗せた唇を尖らせ、拗ねたように私を見ていた。 今日一番初めに感じた苛立ちは、この色付いた唇だった。 「私では不満だったようですが、指名したのは大佐ですよ」 そう、着飾った人々が集まってお世辞を言い合うような場所は苦手だからと、私の護衛を断り続けてきた中尉に、今日のパーティーに出るように命じたのは私だ。 今までは渋々ハボック少尉を護衛にしていたのだが、むさい男を連れて歩くことにそろそろ限界がきた。 それに、少尉と中尉のどちらと一緒にいれば楽しいかなど、考えるまでもなく答えは出ている。 だから私は中尉を会場へと連れ出したのだ。 それから―― 「…何が…不満だったんですか?私では力不足でしたか?」 「いいや、違うよ」 中尉を護衛につけた理由は、私が彼女の着飾った姿を見たかったというのもある。 人々がドレスやアクセサリーをこれみよがしに自慢する中、護衛といえど軍服を着ている人間がいるのでは興ざめだ。 「…なら、しかめっ面の原因を聞いてもいいですか?」 「……君」 計画通り、私は、控えめだが綺麗に装った中尉の姿を見ることができた。 しかし、その姿を見た時から私は満足するどころか逆に不満でしかたない。 「…私、ですか…」 「そう、君だ」 珍しく時間を掛けて化粧を施したであろう綺麗な顔が傷付いたように歪む。 中尉は背中の陣を隠すためか、いつもはきつく結んでいる金色の髪を下ろし、襟の高い黒いワンピースを着ている。 パフスリーブから伸びる腕が白く、会場でも一際目立っていたことを思い出す。 特徴が上等な生地だけという飾り気のないワンピースは護衛には相応しいが、パーティー会場に着るにはあまりにも地味すぎる。 しかし、それなりの人物が着れば、地味なワンピースも気品のあるものに変わるものだ。 太腿にホルスターを巻き付けていることを除けば、正装した中尉は軍人ではなくただの女性だった。 いや、とびっきり可愛い女性だ。 中尉は知らないだろう。 私と挨拶を交わした若い男性のほとんどが後ろに控える中尉を見ていたことに、雑談に夢中のふりをして中尉を目で追う輩が多かったことに、中尉はまったく気が付いていない。 そんな中尉にも腹が立つ。 動く度にスカートの裾から見え隠れする膝も、パンプスに包まれた真っ白な足の甲にも、腹が立って仕方がない。 「さっき大佐は私の仕事に不備はなかったと…。では、私の何が不満だったんですか?」 「全部だ。今日の君の全部」 道を歩く足を止めて、中尉を高圧的に上から見下ろす。 化粧で色の乗った顔、何より桃色の唇がふっくらと艶やかで、これにも苛立つ。 「だいたい何だ、その服は。屈んだ時に危うく胸元が見えそうだったぞ」 「…どこを見ているんですか」 落ち込んでいるようだった中尉の様子ががらりと変わり、軽蔑の眼差しを向けられる。 「それからスカートの丈も短い。脚を…それから腕もそんなに露出して君はどうしたいんだ」 「…以後気を付けます」 「それから化粧もだな…」 「大佐に恥ずかしい思いをさせてはいけないと私なりに努力したんですが…。総括すると似合わないということですね」 「いいや、似合っているから怒っているんだ」 「…意味が分かりません」 「私もよく分からん」 正装姿の中尉を護衛につけたいと自分で望んだはずなのに、今になってそれが気に食わないなどとんだわがままだ。 道の真ん中で訳の分からない言い合いをする正装した男女の間に、もう止めなさいとでも言うように夜風が吹き抜ける。 柔らかな金の髪がふわりと揺れ、思わず目を奪われる。 「…今言っても遅いが、会場は冷えることがあるから上着を持ってくるのは常識だぞ」 顔には出さないが寒いと思っているだろう中尉に、スーツの上着を肩に掛けてやる。 「あの…大佐、私平気ですから」 「いいから黙って着ていなさい」 「…ありがとうございます。着替えや化粧のことで頭がいっぱいで、羽織るものを持つことに気が回りませんでした」 「あ、そうだ。そう、化粧。どうして君はそんな丁寧に化粧をしているんだ」 「…ですから、大佐が正装しろとおっしゃったからです」 「ハボック達と飲みに行く時はまったく化粧っ気がないのに」 「失礼なことを言いますね。ハボック少尉達と仕事帰りに飲むのと今回は別です」 「私と食事に行く時は今みたいな気合いの入った恰好してくれないくせに」 「ですから、上司と食事に行くのと東方の名家の方ばかりが集まるパーティーを一緒にしないでください。だいたい大佐と食事に行くだけなのにこんな恰好してたら場違いです」 「パーティーごときのためにそこまでめかし込むなんておかしい!」 君は私のためだけに綺麗な恰好をしていてくれればいいんだ―― 思わず口走りそうになった言葉を、すんでのところで飲み込んだ。 そうか。 どうやら苛立ちの理由は、中尉が私のためでなくパーティーのために綺麗に飾り付けたことにあるらしい。 私は救いようもないほどわがままな男だったらしい。 同時に、胸の底に秘めていた彼女に対する独占欲にも気が付く。 「…要するに私には似合わないんですね。私では護衛が務まらないんですね。私では不満なんですね」 顔を伏せ、珍しく中尉が暗い声を出す。 「あー違うんだ。違ったんだ。確かに苛立ちの原因は君にもあるが、私にも大いにあるんだ」 「…私が嫌いでも憎くても何でも結構ですが、気が向いたらどこが不満だったか教えてください。直しますから」 「…君はどこまで真面目なんだ…」 私を追い越して歩き出した中尉の背に向かって呟く。 「…あ、言い忘れていたが、中尉、似合ってるぞ。とてつもなく可愛い」 アメストリス一のフェミニストとしたことが、女性の服を今更褒めるなど、とんだ失態だ。 しかし、着飾った中尉を見た瞬間に感じた可愛さが苛立ちに変わるほどだったのだから、彼女も悪い。 「それから中尉、今度二人で食事に行こう。今みたいに正装とはいかずとも、化粧はそのままで」 「大佐、今の状況分かっているんですか?それとも新手の部下いじめですか?」 「そうじゃなくて、今度は私にだけ綺麗な姿を見せて……」 「いじめ決定ですね」 「人の話は最後まで聞きなさい。食事が駄目なら今から私の部屋で飲み直そう」 「お一人でどうぞ」 「君は心配性だから、私を家まで送ってくれるんだろう?」 「送ったらすぐ帰ります」 「ふふん、君は今、私からスーツを借りていることを忘れているようだね」 「な…っ!卑怯ですよ!」 慌てて上着を脱ごうとする中尉の肩を後ろから掴み、止めさせる。 「有能な副官に風邪をひかれたら困るんだよ」 上着を貸す代わりに飲むのに付き合いなさい、と付け足す。 にんまり笑う私を、中尉が悔しそうな顔で見上げ睨んできた。 中尉に上着をしっかりと着せ直し、それに便乗して後ろから彼女を軽く引き寄せ、金の髪に顔を寄せた。 中尉が不思議そうな表情を浮かべて振り向く。 口紅を舌で舐めとって地の色に戻し、中尉が泣いて嫌がってもその唇に噛み付きたい―― わがままな男に引っ掛かって中尉はさぞかし災難だと必死に別のことを考えながら、唇を奪ってしまいたい衝動を抑えた。 「……喉が渇いた」 シーツの上に広がる柔らかな金の髪を指に絡ませ遊びながらぽつりと呟く。 「奇遇ですね。私もです」 すると、背中を向けて寝ていた中尉が振り向きそう答えた。 男女が同じベッドで眠るには異様なほど離れていた隙間を彼女が埋めることによって、指からするすると髪が逃げていく。 何度も触れて目にしているるはずなのに、引き締まった白い肩が胸に寄り添ってくる姿には目を奪われる。 しかし、今はそんな甘美な彼女の身体を味わう時ではないようだ。 「じゃあ話が早い。中尉、水を持ってきてくれ」 「では、大佐、私の分もお水よろしくお願いします」 きれいに二つの声が重なった。 中尉が好戦的な視線を向けてくるが、私も負けじと紅茶色の瞳から一切目を反らさず見つめ返す。 「大佐、いつも自分のことをフェミニストっておっしゃってますよね。身に何ひとつ纏わない女性に水を持ってこさせるなんてこと、させませんよね」 「うむ。身に何ひとつ纏わない女性が私のためにあれこれするのは実に興奮するな」 「…フェミニストじゃなくてただの変態ですか」 「君な、私のことを一度もフェミニストなどと思ったことないくせに、こういう時だけ卑怯だぞ。私は全部分かってるんだからな」 要求が通らず駄々をこねる子供のように唇を尖らせていた中尉が、ちらりと目を動かすだけで私を見た。 図星に違いない。 しかしその後、つい先ほどまで不機嫌だったのが嘘のように、中尉は少女のような華やかな笑みを向けてきた。 「マスタングさん、私、お水が飲みたいです」 ぱあっと周りに花が咲いているかのように笑っているが、長年の付き合いから表面上だけだと見抜ける。 中尉はよく私のことを胡散臭いと言うが、それは彼女自身にも言えることだ。 「ほら、まただ。さっきまで素っ気なかったくせにどこからそんな声出してるんだ…。いつもそういう風に可愛くしてなさい!」 「…分かりました」 「ん?結局、君が水を持って来てくれるの?」 「じゃんけんしましょう」 「子供か君は」 「出さなきゃ負けですからね」 「仕方ないな…付き合うか」 乱れた白いシーツの上、色っぽい雰囲気などとうの昔に消え去り、今は両者ばちばちと火花が飛びそうなほど真剣に睨み合う。 結果は中尉がパー、私がチョキ。 さすがいつでも何にでも負けない男、ロイ・マスタング。 「じゃあ、中尉よろしく」 「あ、言い忘れてました。これ三回勝負です」 「……君、本当に根っからの子供だな」 中尉は行為が終わるとすぐそっぽを向くような冷たい人間なのに、どうしてこういうくだらないことには熱心になるのだろう。 本当に同一人物か? 負けず嫌いの中尉の言う通りにじゃんけんを続けたものの、彼女は見事に全敗した。 「中尉、頼んだよ」 私は中尉に向かってひらひらと手を振りながら、憎らしいほど爽やかに勝利の笑みを浮かべてやる。 「……分かりましたよ。取りに行けばいいんでしょう」 中尉は不機嫌をあらわに乱暴に床からシャツを拾い上げ、ぶつぶつと文句を言いながらベッドを降りた。 ここまできて、やっと気付いたことがひとつある。 「……中尉がいないと寂しいから、私も付いて行こう」 「あなたは子供ですか!だったら最初から大佐が取りに行ってくれれば…とんだ時間の無駄使いですよ」 「いいや、子供は君だと思うよ」 |