「珍しく定時前に仕事を終えたと思ったら…。一体何事ですか」 地面を覆い尽くす大小さまざまな石のひとつを爪先で軽く蹴り、リザは怪訝そうに私を見た。 彼女の足元では、川を見るのが初めてのブラックハヤテ号が大きく尻尾を振って喜んでいる。 明るいうちに自宅に帰れることは滅多にないため、リザは時間を有効に使おうと、買い物や家事をしたかったらしい。 それなのに、自宅に着いた途端に私がリザを愛犬ごと誘拐するように車に押し込んで、理由も告げられずこんな場所へ連れて来られたために、彼女は怒っているのだ。 足元には石の絨毯、そして周りには青々と生い茂る木々や草、そして目の前にはのどかに川が流れている。 その清流の遠く向こうには、街の風景にはない山や野原が見えた。 「君をここへ連れて来たかったんだよ」 「……誰かとのデートの予行練習ですか?」 素直にそう告げてみたものの、唇を尖らせているリザは未だ機嫌が悪い。 「せっかく来たんだし、楽しもうじゃないか」 目の前で水が流れる様子を興味深そうに眺めているブラックハヤテ号の元に屈み込み、川の中に手を入れる。 「ほら、中尉、冷たいぞー」 「…水は嫌いなんじゃないですか?」 「そろそろ機嫌直してくれよ」 「ひゃっ!」 川から掬い取った水をリザの膝を目掛けて投げると、彼女は小さな悲鳴を上げた。 「もう!何てことするんですか!」 「冷たくて気持ち良かっただろう?」 「スカートと靴が濡れました!」 「大丈夫、タオルを持ってきてあるから。準備万端だろう?」 「そういう問題じゃありませんっ!」 リザは頬を膨らませ、それから目を険しく細めてますます怒ってしまった。 「ま、ここに来なさい」 椅子代わりになる丸みを帯びた大きな石がちょうど二つ仲良く並んでおり、私は片方に座り、隣の石をぽんぽんと叩き座るように促す。 「…嫌です」 一度機嫌を損ねるとなかなか直らないリザは、拗ねた子供のようにぷいっとそっぽを向いた。 「中尉、今日言っていたじゃないか」 「……何をです?」 「『この中に入りたい』って」 リザは首を傾げて何の話だとわずかに考えたあと、私が言っている出来事を思いだしたのか、驚きに目を丸くした。 「…覚えてたんですか?」 「もちろん」 今日、茹でるように熱い司令部内で、リザは透明なグラスに入ったアイスティーを眺めながら「この中に入りたい」とぽつりと呟いたのだ。 ガラスから滴る雫が机に落ちる様子やカランと音をたてる氷を、羨ましそうに見つめていたのが何とも可愛らしかった。 「……そういうくだらないことは覚えているんですね」 「中尉のことなら何でも覚えているさ」 「今日が締め切りの書類のことは忘れていましたよね」 未だつんけんとした口調のリザだが、仕方がないといった様子で私の隣の石に腰を降ろした。 「アイスティーは無理だが、川なら浸かっても平気だろう。全身は厳しいが、足だけでもと思ってね」 リザに笑いかけると、先ほどまで不機嫌だった彼女はなかなかすぐに素直になれないのか、気まずそうにはいと頷く。 「…大佐は?」 「うん?」 「大佐はやらないんですか?」 「…まあ、うん。君のために来たんだし」 「……もしかしてかなづちなんですか?水が怖いんですか?」 今まで必死に隠していたことを当てられてしまい、思わずうっと顔をしかめる。 その時、リザがここに来て初めて楽しげににこりと笑った。 リザは軽快にパンプスを脱ぐと、勢いよくくるぶしの上までまで川に足を沈ませた。 「冷たくて気持ちいいですよ」 リザが足で水しぶきを飛ばしながら、私をからかうように、ふふふと笑う。 私の弱点を見つけたことでリザが機嫌を直したことは少々引っ掛かるものがあるが、頭の固い彼女が珍しく短時間で上機嫌へとなったから良しとしよう。 私が川に足を突っ込む代わりに、毛むくじゃらで暑いであろうブラックハヤテ号の後ろ足をそっと川につける。 ご主人様と同じく、子犬は尻尾をぱたぱたと大きく振って喜んでくれた。 「…大佐」 もっと水と戯れようと私の手の中で暴れるブラックハヤテ号を宥めることに苦戦していると、リザが私のシャツの袖をついと引っ張った。 「ん?」 「魚がいます」 リザは真剣な表情で、内緒話をするように私の耳に顔を近付けて小さな声でそう告げた。 そして、魚が逃げないようになのか、控え目に川の中を指差した。 リザが指で示した先を見ると、彼女の足元の近くの小石の影に、子魚が数匹泳いでいた。 「…うん。いるね」 「はい」 「…で?」 「え?」 お互いに意味のない単語を言い合い、きょとんとした顔で見つめ合う。 「川だから魚くらいいるだろう」 川に魚がいると当たり前のことを言われ、どうしたものかと首を傾げた私を見て、リザはまたへそを曲げてしまった。 「…そうですよね。川だから魚くらいうっじゃうじゃいますよね」 「もしかして君、あんまり川に来たことがなくて珍しかったのか?」 「いいえ泳いでいる魚なんてちっとも珍しくありませんっ」 「真剣な顔をして何を言うかと思えば…魚くらいで機密を発見したように言うから驚いたよ」 まさかリザが川の中を自由に泳ぐ魚を見て感動するとは思わなかった。 新しい発見を親に嬉しそうに告げる小さな子供のようで、リザがあまりに可愛くて仕方がなく、思わず吹き出してしまう。 「ああ、そうだね。お魚さん達だねー、可愛いねー。あっちにもいるかもしれないぞー」 「その話はもういいですっ!」 「またお魚さんを見つけたらちゃんとマスタングさんに報告するんだぞー?」 「…人をいじめるのがそんなに楽しいですか」 からかいすぎたせいでリザはまただんまりになってしまった。 しかし、リザは流れる水の形を自分の足が変える様子、水の中で揺れる水草、その影に潜む魚達に目を輝かせていた。 涼むという理由を忘れ、リザは完全に川に夢中になっていた。 はしゃぎながら川の水を手足でばしゃばしゃと私に飛ばしてくる、この手の中の子犬くらい喜んでいるのかもしれない。 私達の住む街から車で数十分で辿り着けるこの場所に、もっと早くリザ達を連れてくれば良かったと後悔する。 存分に私のシャツを水でびしょ濡れにして楽しんだブラックハヤテ号は、今度は風に揺れる草達に興味を持ったのか、今は石の上を元気に駆け回りあちこち匂いを嗅いでいる。 「中尉、水切りって知っているか?」 司令部にいる時よりも幾分柔らかな表情で飽きることなく川の流れを見つめているリザに問い掛ける。 「水切り?」 リザは顔を上げて首を傾げた。 「知らないのか。…こういう平べったい石を投げるんだよ」 足元に転がっていた石を拾い上げ、その場に立ち上がって川に向かって石を投げる。 沈むのではなくぴょんぴょんと生きているかのように川を跳ねる石を見て、リザはぱあっと顔を明るくさせた。 すごい、とぽつりとリザが呟くので思わず得意げになってしまう。 「…初めて見ました」 「中尉もやってごらん」 川の中にいるリザを慎重にその場に立たせ、石を手渡す。 「さっき大佐がしたように投げればいいんですよね」 「ああ」 ひゅっと勢いのいい音を立ててリザが腕を振り、石を投げる。 初心者が投げた石とは思えないほど軽快に、その石は川の上を飛んだ。 「あら、意外と簡単なんですね。大佐を尊敬して損しました」 「…一言多いぞ。いや、水切りって結構難しいんだぞ。さすが私の鷹の目!」 「それって関係あるんですか?」 二人で平たい石を探しては川に向かっては投げ、いつの間にか、どちらがより多く跳ねさせることができるかの勝負になっていた。 「…一、二、三、四、五、六、七、八…。あ、私の勝ちですね」 「いーや、さっき私も八いったぞ」 「大佐は七止まりですよ。私ちゃんと覚えてますから」 「君、そういうくだらないことは覚えているんだな…」 ごまかしたのをあっさり見抜かれ、思わず聞き覚えのある台詞を口にする。 リザは水切りの勝負に勝っただけだというのに、石を片手に大いに喜んだ。 私達は気付かぬうちに、蝉が鳴く声を聞きながら子供のようにはしゃいでいた。 水切りのあとはブラックハヤテ号と共に、川にどんな種類の魚がいるのかを探し、大きな魚を見付ける度に歓声を上げた。 それから、心地良い風に吹かれながら空を飛ぶ鳥やトンボを飽きることなく眺める。 リザは岸近くで川に浸かっているだけでは飽き足らなくなってしまったのか、大胆にもスカートを捲くり上げ、川の中を歩き始めた。 「中尉ー、急に深い場所があるかもしれないから気を付けるんだぞ!」 「はい」 「それから転ばないようにな!」 「分かってますよ」 ここは浅瀬で、間違っても溺れることはないとはいえ、ブラックハヤテ号を胸に抱きハラハラしながらリザの挙動を見守った。 リザはこちらの心配をよそに川の心地よさを満喫している。 この時ばかりはいつものようにリザの保護者に戻ってしまう。 「…中尉は意外と子供っぽいところがあるからなあ…。たまに心臓がもたないよ。だろ?」 遊び疲れたのか、胸の中でうとうとしている子犬に思わず話し掛ける。 リザは膝ほどまで水に浸かり、スカートを捲くったところから覗く白い太ももが目に眩しい。 リザは自分の足を避けて流れる水の動きを楽しんでおり、心配のあまり彼女を凝視している私と目が合うと、花が咲くようににこりと微笑んだ。 ここに来た時はまだ昼のよう明るかったのに、リザの背には沈んでいく夕日があり、強い赤に照らされ川の中に佇む彼女はどんな絵画よりも美しかった。 しかし、もう時間切れだ。 あれほどうるさく鳴いていた蝉も声もだんだんと静まってきた。 「中尉、もう帰ろう」 「はい」 そう告げると、リザは名残惜しそうに岸へと戻ってきた。 リザを石の上に座らせると、長い間水に触れていたためすっかり冷たくなった足をタオルで拭いていく。 「大佐、自分でやりますから…」 「いや、是非私にやらせてくれ。ああ、今日はずいぶんと目の保養になったなあ…」 「…何を考えているんですか」 水に濡れた足を拭き終わり、靴を履かせようとすると、ふと視線を感じて上を向く。 顔を上げると、私をじっと見つめているリザと目が合った。 「中尉?」 「大佐は…どうして急に出掛けようなんて言い出したんですか」 「君を川で遊ばせようと思って」 「それだけですか?」 「うーん、それから…」 大人しく答えを待つリザに靴を履かせ、私は彼女に胡散臭いと評される笑みを作った。 「愛おしい君とならもう一度童心に戻り、寂しい子供時代の隙間を埋められると思ったんだ」 映画俳優のように芝居がかってそう言うと、リザはそれが可笑しかったのか、くすりと吹き出した。 結構本気で言ったのに、と私は少し落ち込む。 暑さに弱いリザを涼しくしてあげたい、彼女と子犬に川を見せてあげたい、など、ここへ連れて来た理由はたくさんある。 後ろを振り向くことを許さず前しか見ない生き方を選んだが、たまにはそれを脱ぎ捨て、わずかな間だけ無邪気な頃に戻ってみたかったというのもある。 「中尉が喜ぶ姿が見たかったんだよ」 指折り数えて理由を上げてみるものの、結局答えはそこに行き着く。 それを聞いたリザは、少女のような初々しい仕草で照れた顔を俯いて隠した。 ――それから、もうひとつ理由があった。 私もリザも幼い頃は特殊な環境におり、子供らしい生活を送れなかった。 私達はそのことに文句は一切ないし、その環境に生まれたことを恨むなんて以っての外だ。 両親を失い養母に引き取られるまでの間のあまり幸せとは言えない幼少の話を、私はリザならば自然に打ち明けられることができた。 それを静かに受け止めてくれたリザと、子供の頃に感じていた寂しさを塗り替えるように、一度だけ子供らしく過ごしてみたかったのだ。 「大人になった今でも、子供らしく遊んでみたいじゃないか」 「…そうですね」 リザがそっと桃色の唇を緩ませる。 そして、リザはぽんと私の肩口に額を寄せて、遠慮がちに私の背中に腕を回した。 私が口にしなくても、似たような環境を経験し、それから私と長い時間を過ごしたリザは、私が何を考えているかすぐに感じ取ったのだろう。 言葉にはしがたい郷愁的な感情を共有できるのはリザしかおらず、そして彼女で良かったと思う。 詮索や馴れ合いを嫌う私だが、リザになら自ら己をさらけ出そうと思えるのだ。 私もリザの背に腕を回し、きつく抱き寄せる。 「今度は山に行ってみるか?魚はいないだろうけど」 「またその話ですか…」 リザは憎たらしげに目を細めて私を見つめながらも、どこか楽しそうだった。 「…大佐」 「ん?」 「ありがとうございました。すごく楽しかったです」 リザが再び肩に額を強く埋め、今にも消えてしまいそうな声で照れたように呟く。 どういたしまして、と耳元で囁きながらリザの頬に触れ、頬から顎のラインをゆっくりとなぞる。 「…大佐?」 くすぐったいのか顔を上げたリザの顎を持ち上げ、目を閉じる暇も与えず口付けた。 「…子供…じゃなかったんですか?」 「誘ったのは君だよ」 「さ、誘ってなんていません!」 「それに、子供の時間はもうおしまいだよ」 逃げられないようにリザの頭の後ろに手を回し、柔らかな金髪に指を絡めながら、今度は角度を変えて深く口付ける。 「…ん…」 リザが子供には似つかわしくない甘い吐息をもらした。 日が完全に沈むのを合図に、短く幸せな子供ごっこは幕を閉じた。 |