白夜



夜中に突然目が覚めたかと思えば、頬や耳が冷たく濡れていた。
ぼんやりと天井を見上げたまま、指で肌を濡らす水にそっと触れ、それが涙だと気付く。
瞬きをすると目尻に溜まっていた涙がつーっと頬を伝い耳の中へ入り込んだ。
息苦しく、気分が悪い。
自分はどんな夢を見ていたのだろうかと、まだ寝起きでいつも通り働かない頭で思い出そうとするが、なかなか記憶が掴めない。
緩慢な動きでベッドから降り、覚束ない足でキッチンへと向かった。
グラスに水を注ぎ、冷たいそれを半分まで飲み干したところで、唐突に夢の内容を思い出した。
父親に興味を持ってほしくて、もっと私を見てほしくて、必死に父に縋っていたあの頃の夢だ。
父は私を愛し、必要としてくれていたけれど、当時私はずいぶんとひねくれていた子供だった。
不器用で、態度で愛情表現をすることを知らない父に、私は物足りないと過剰に愛情を求めた。
先ほど見た夢の中で、私に背を向ける父に振り向いてほしくて、遠ざかる背中を足元に転がる物に躓きながらも、息を切らして追い掛けていた。
どんなに必死に走っても追い付かず、そうしているうちにいつの間にか父の姿がぱっと消え、暗闇の中に私一人が残された。
周りには人の気配すらなく、自分を中心にして暗闇が広がる世界で、私はただ立ち尽くす。
幼い頃はこの夢を見る度にひどくうなされ、自分は肉親である父にすら必要とされない人間なのだと、夜中に一人で静かに泣いていた。
――大丈夫、父はもういないけど、リザは愛されてちゃんと必要とされていたのよ。
乱れた呼吸を整えながら自分に言い聞かせる。
気が付くと、手の中にあったはずのグラスがシンクの上で割れていた。
平常ぶってみても、久しぶりに見た夢に振り回され、涙を零す私はまだまだ幼いらしい。
額を濡らす冷や汗が欝陶しい。
グラスだった一部の、輝きながらも鋭利に尖るガラスに手を伸ばすと、指がすっと切れ血が滲んだ。
白い肌にじわりと広がる赤をじっと見つめながら、これから嫌な日々が続きそうだと他人事のように思った。



案の定、あの夜から急に食欲がなくなり、そしてなかなか眠りにつけなくなった。
安いベッドの上でぎしりと音を立てながら何度も寝返りを打ち、眠るどころか目が冴えていくような感覚にため息をついた。
越してきたばかりでまだ見慣れない暗い部屋を眺めていると、今日の出来事が頭にぼんやりと思い浮かぶ。
士官学校からの友人に顔色が悪いと心配そうに眉を歪められた。
幼い頃から体調や態度を表に出さぬようにしてきたのだが、簡単に見抜かれてしまうほど今の私はひどい顔をしているのだろうか。
それから最悪なことに、上官であるロイ・マスタング少佐にも体調を気遣われてしまった。
あの人にだけには気付かれたくなく、それから心配を掛けたくなかった。
少佐は私が守るべき人なのだから、心配を掛けてしまうようでは彼は私に安心して背中を預けられないではないか。
彼が何の不安もなしに私に身を任せられるよう、私は少しでも弱みを見せてはいけない存在なのに。
シーツを指できつく握って、自分の失態を恥じる。
――必要とされているんだから、これ以上迷惑を掛けちゃ駄目よ、リザ。
幼い頃から「誰かに必要とされたい」と病的なまでに望んでいたせいか、他人と関わりの少ない人生を歩んでいるというのに、「必要とされているかどうか」ということにはどうしても固執してしまう。
士官学校に入り、周りから銃の腕を褒められた時、居場所を見つけられた気がして不意に泣きそうになったことがある。
それと同時に、それほど「必要とされる」ということに私は飢えているのだと思い知った。
そして、その感情は厄介なことにロイ・マスタングに対しては倍増して働いてしまう。
少佐が私に望む以上に、期待する以上に、私は彼の役に立ちたいのだ。
ロイ・マスタングは、私にとって特別な存在だ。
少佐から見れば、私はただの師匠の娘であり、今は副官であるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
しかし、私が少佐に向ける思いは、彼とは重みがまったく違う。
少佐と初めて出会った時から「憧れ」や「尊敬」というような、上手く言葉にはできない好意的な感情を抱いていた。
少佐の部下になった今でも、彼を大切に思う気持ちに変わりはない。
むしろ、命を懸けてでも少佐の盾になり守りたいという強いものへとなった。
今、私達の罪を償い、そして血に塗れた過去を希望へ塗り替えようとしている少佐のうしろに控え、彼を守る立場になれたことに誇りを持っている。
しかし、過度に必要とされたいと望むあまり、もっと違う形でも少佐の力になりたいという煩わしい感情が働いてしまった。
君が必要だと少佐が私に手を差し伸べてくれた時、厚かましいが、私は彼の親友であるマース・ヒューズ大尉のような存在になりたいと願ったのだ。
少佐を簡単に笑わせることができて、心置きなく話ができて、彼が安らぐことができる、そんな穏やかな存在になりたい。
昼間、少佐がヒューズ大尉と電話で話しながら、私では聞けないような大きな笑い声を上げていたことが頭を過ぎる。
私も、盾になり守るだけじゃなく、道を外さぬよう背中を追うだけじゃなく、ヒューズ大尉のように彼に安穏をもたらしたい。
私にも気兼ねせず胸の内を明かしてほしい、甘えてほしい、我が儘を言ってほしい。
頼りがいがないくせに頼ってほしいというはた迷惑な感情は日に日に肥大する。
しかし、少佐に何かしたいと願うだけで、結局私は何もできてはいない。
ただでさえ少佐は私という新しい副官の扱いに困っているようなのに、体調を崩しているところを見抜かれ気遣われてしまった。
少佐の力となるために側にいるのに、これ以上彼に迷惑を掛けてがっかりさせたくない。
あの人に必要とされなくなったら、「いらない」と言われたら、私はどうすればいいの?
もっと頑張るから、しっかりするから、お願いだから必要として――



翌日、少佐のいる部屋に入ろうとノックをしようとした時、またヒューズ大尉と電話しているのであろう楽しそうな笑い声が聞こえてきて、扉を叩こうとした手を静かに下ろした。
去ることも入ることもできず、目の前にあるはずなのにひどく遠く感じる扉の前にただ立ち尽くす。
胸に抱えた書類をぎゅっと強く握った。
今日も、少佐と私の間には、ヒューズ大尉なら決して生まないに違いないぎこちない空気が流れていた。
そして主従関係に相応しくなく、少佐は命令を下す時でさえ他人を扱うかのように素っ気無く私に言い放った。
私が部屋から去る時、少佐が重い空気から解放されるかのようにほっとした様子に見えて、自分の不甲斐なさが悔しくて唇を噛んだ。
どうして私は少佐の役に立てないのだろう。
ヒューズ大尉のように笑わせられるどころか、少佐を困らせてばかりだ。
電話を置く音が廊下にかすかに聞こえ、私は深呼吸をし、ようやく部屋に足を踏み入れた。
「失礼します」
楽しそうだった少佐の表情が、扉を開け入室してきた私の顔を見てたちまち強張る。
駄目、ちゃんとしないと駄目。
「書類をお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
副官なんだから、しっかりして。
「あー…その…」
机に広がる書類を仕事がしやすいように整理していると、少佐が気まずそうに声を掛ける。
「ここ、間違っているよ」
「…あ…」
「真面目な君にしては珍しいね」
「も、申し訳ありません!すぐに直します!」
気遣わしげに書類のミスを指摘され、顔が一気に青ざめる。
少佐から書類を奪うかのようにして取り返し、すぐに直すために大部屋へ足を向ける。
「いや、急ぎの書類じゃないからゆっくりでいいよ」
「いえ、今すぐ直します!」
何てことをしてしまったのだろう。
また少佐の前で過ちを犯してしまった。
「君、最近疲れているようだね。それなのに私の残業やほかの部下の仕事まで手伝ってくれているからすまないと思っているよ」
少佐は使えない副官を持ってしまったとうんざりしているだろうか。
ヒューズ大尉のような人が副官であれば良かったと思っているだろうか。
「今日はたいした仕事もないし、早く帰って休んだらどうだい?」
早くこの書類を直さないと。
失敗をすぐに訂正して、少佐が心配なく頼れるように信頼を取り戻さないと。
少佐に必要とされているんだから。
「…おい、聞いているか?」
少佐に、必要と、されてる?
本当にそう?
私が勝手にそう思い込んでいるだけじゃなくて?
支えたいと一方的に思うだけで、私は彼の簡単な要望にすら応えることができないのに、そんな人間を必要とする?
「…あ…」
必要とされているのは私の勘違いで、少佐はもう私を――
「リザ!?」
扉のドアノブに手を掛けた瞬間、少佐の声を聞いたのを最後に、目の前が真っ暗になった。



「…リザ?」
目を開けると見慣れぬ天井が瞳に映り、そして聞き慣れた声が耳に入ってきた。
ゆっくりと視線だけを横へ動かすと、少佐が心配そうな表情で私を見つめていた。
「…しょ…さ…?」
「…リザ…」
私が少佐の名を呼ぶと、彼は安心したようにほっと息をついた。
「ここは医務室だよ。君、書類を持って来てくれた時に貧血で倒れたんだよ。覚えているか?」
私が聞きたいことを少佐が話してくれた。
起き上がろうとすると、少佐にまだ寝ていなさいと手で制される。
「……少佐が…ここまで運んでくださったんですか?」
「ああ」
「……申し訳ありません」
「謝ることないさ」
また面倒を掛けてしまったと目を伏せる。
体調管理はどの仕事においても基本であり、特に命を懸けて働く軍人にとって大切なことなのに、それすらしっかりできていない。
「ああ、心配するな。君が運んできた書類はすべて急いで片付けたよ。本当はずっと君についていたかったんだがそうもいかなくてね…」
少佐の声は耳に入ってくるだけで、頭の中までは届かない。
「ちょうど今来たところなんだ。タイミングが合って良かったよ」
どうして私はこうも迷惑な存在なのだろう。
少佐を支えるどころか、面倒を掛けて役にすら立てない。
ただその事実に打ちのめされていた。
「…最近、体調が優れないようだね。副官になったばかりだし…大変だろう?」
いいえ、大変なのは役立たずの副官を持ってしまったあなたです。
「今日はもう帰りなさい。な?」
「いえ、今日の分の仕事が残っているので…。それに、あのミスもまだ直していないですし…」
「あんなものミスのうちに入らないさ。それに君は私と違って真面目だから書類を溜め込んでいないだろう。今日渡された書類と言ってもすぐに片付けるべきものではないはずだ。さっき、失礼ながら机を拝見させてもらったよ」
優しく庇ってくれる少佐に、私は力なく首を振る。
私のプライドが、そしてロイ・マスタングの副官という名を持つ以上、今日割り当てられた仕事に手をつけないまま自宅に帰ることを私は許さなかった。
「…今日は家に帰って早く休みなさい。さっきも言ったが、最近しっかり休んでいないんじゃないか?」
「…平気です」
「駄目だ。私が君を家まで送る。いいね?」
「…お気遣いは嬉しいですが、本当に平気です」
「これは命令だ」
「…だから平気ですってばっ!」
これ以上少佐を不快にさせたくない、お荷物になりたくない。
医務室にヒステリックな私の声が響いた。
少佐は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに表情を険しくさせた。
「もう一度言う。君は私が送る。気分が落ち着いたら帰宅をする準備をしなさい。いいかい、これは命令だ」
少佐の冷静な、だけれど低い声が私の体に突き刺さる。
どうして――どうして、少佐を支えたいだけなのに、上手くいかないのだろう。



自宅に着くまで、私に付き添う少佐との間に会話は一切なかった。
「…上がっていいかな」
扉の鍵を開けると、少佐は私の了承を得る前に先に部屋の中に入ってしまった。
のろのろと少佐の後ろをついて行くと、ソファーに座るように促される。
上着も脱がぬまま力なくソファーに座ると、俯いたままの私の顔を覗き込むように、少佐は床に膝をつき下から視線を合わせてきた。
少佐の上着を脱がせてハンガーに掛けないといけない、上官である彼をまず最初に座らせないといけない、などと思うのだが、頭にぼんやりと浮かぶだけで実行に移せない。
唇をきつく噛み締めて涙を流さないようにすることで精一杯だった。
「…君は、子供の頃もよくそんな顔をしていたね」
膝の上で爪が食い込むほど強くスカートを握っていた私の指を、少佐が一本一本解すために手を添えた。
「最近、ちゃんと食事をしていないだろう。睡眠もだ」
開いた私の手の平に少佐が指を絡めながら、彼は説教をするような口調で尋ねる。
「体調が悪いのか?それとも体のどこかの具合が悪い?」
失礼だと分かりながらも、少佐の質問に黙ったまま首を横に振る。
「ならいいんだが…。じゃあ、今の生活に不満があるのかな。副官になったばかりで忙しいだろう」
また無言で首を小さく振る。
いま何か言葉をこぼせば、涙も一緒に溢れてしまいそうだった。
「私なんかの副官になってしまって、大変だと思うよ。…何か不満があるなら遠慮なく言ってほしい」
「…違いま…す」
優しい少佐を泣いて困らせたくはない。
しかし、否定の言葉を紡いだ瞬間に、堰を切ったようにぼろぼろと涙が溢れ出た。
「…違うんです…不満だなんて、ひとつも…っ」
「…じゃあ、どうして君は泣いているんだ?」
案の定、泣き出した私を少佐は心底困り果てた表情で見上げた。
それでも涙は止まってくれない。
「…少佐の副官になれて、とても嬉しいんです…。…ただ私が勝手に、あなたが必要としてくださった以上に役に立ちたいと空回りしているだけで…っ」
「うん」
「…でも…、逆に迷惑ばかり掛けてしまって申し訳なくて…」
「そんなことないさ」
涙や弁解したいという焦りのせいで、上手く言葉が紡ぐことができない。
伝えたいことの半分も言えていない気がする。
それでも少佐は静かに耳を傾け、すぐさま否定してくれた優しい彼の言葉に、私は思いきり首を振った。
「…私じゃ、駄目なんです…」
「何が?」
「…私じゃ少佐の支えになれないんです…っ。…支えるどころか、私はあなたを満足させることもできない…」
「…リザ」
しゃくり上げて涙を流す私の頬を、少佐の親指が涙を掬い上げるようになぞる。
「…リザには本当に助けられているよ。君を副官にして本当に良かったと思っている」
「…うそ…っ」
「嘘じゃないさ。君を役立たずだと思ったことは一度もないし、迷惑を掛けられた覚えもない」
「…でも…」
「…リザ、おいで」
少佐の言葉を頑なに否定し、泣きじゃくりながらごめんなさいと言い続ける私を、彼はソファーから降ろし、自らの膝の上に乗せた。
同じ高さになった目線を、少佐は愛おしむかのようにじっと見つめてくる。
「…引っ掛かることはたくさんあるが…。とりあえず、君は私の役に立てず迷惑ばかり掛けていると、そう思って泣いているのか?」
少佐に改めて言葉にされて胸が苦しくなるが、強く頷いた。
「最近、思い詰めた顔ばかりしていた原因はそれでいいのかな」
止まらない涙を手の甲で乱暴に拭いながらまた頷くと、少佐はふうとため息をもらした。
「…そうか、君が元気のない原因は私だったのか…。ずっと気になっていたから理由が分かって安心したよ。…気付いてやれなくてすまなかったな」
視界が涙でぼんやりと滲む中、少佐がほっと安心したように笑うのが見えた気がした。
「君がとても落ち込んでいるようだから、副官になる相手を間違えたことを悩んでいるのかと思い冷や冷やしていたんだ。君に見限られたらどうしようと電話でヒューズに相談までしたんだぞ」
「…そ、んな…」
「君に嫌がられていたらどうしようと私も悩んでいてね。君にこれ以上呆れられるのが怖くて、最近まともに会話もしていなかったな…。まさか原因が私とは…」
少佐は私の頬を濡らす涙を自らのシャツの袖で拭ってくれて、またため息をひとつついた。
「君が…リザが側にいてくれて本当に助かっているよ。私の尻を叩いて書類の締切を守らせることができるのは君くらいだろうし、私がサボらないように叱ることができるのも君しかできないな」
私が普段怒鳴る様子を思い出しているのか、くすくすと笑いながら少佐の温かい手の平が私の頬を撫でる。
「君になら仕事ももちろん、安心して背中も私自身も任せられる。とても頼りにしているんだ」
少佐の力強く述べる声が、泣いてばかりの冷えた体に染み入る。
しかし、まだそれでもあの厄介な感情が動き出してしまう。
「…でも、私…」
「ん?」
「…ヒューズ大尉のように、少佐を支えることができません…」
「ヒューズ?なんでまたあいつが出てくるんだ?」
「…厚かましいのは承知ですが、私、ヒューズ大尉のように少佐の力になりたいんです…」
「…ヒューズ…。うーん、ヒューズねえ…」
「…力不足のくせに我が儘なのは分かっています…。でも、私も少佐が安らげるような存在になりたくて…」
「…そうか…」
何でまたヒューズなんかを…と、ぶつぶつと呟きながら、泣き腫らして赤くなっているだろう目元に少佐が指先で触れる。
「…リザは…私の役に立てないと勘違いして、悩んでいて、そして今泣いているんだよな?」
改めて問い質され、不思議に思いながら頷くと、少佐は何故か場違いにもくすりと笑った。
「君は本当に可愛いな」
「…か…っ!?」
可愛い?
私は本気で悩んでいるのに、まるで子供扱いをされ簡単に流されてしまったようで悔しさに近い衝撃を受ける。
「わ、私は真面目に悩んで…!」
「そう、真面目に私の役に立てないと勘違いをして、悩んで泣いているんだろ?ああ、もう駄目だ。本当に可愛い。泣き顔も可愛い」
「…そんな…」
「ちなみにヒューズとはこんな話ばかりしているんだよ…。リザの話ばかりだから、君に話してもあまり意味がない気がするんだよ」
頬を緩ませて、少佐は人形でも抱くかのように遠慮なく私に腕を回し、ぎゅうぎゅうと抱き締めた。
事を扱う私と少佐の間のあまりの温度差に、私は先ほどまで泣きじゃくっていたのも忘れて唖然とした。
「…うん、そう。君は真面目なんだよな。ごめんごめん。すまないね」
楽しそうに笑っていた少佐が急に表情を変え、黒い瞳が射抜くように強く私を見つめた。
「君を本当に頼りにしているんだ。背中を任せるという重い使命は心の底から信頼している君にしかできない」
ひねくれた心の底にじわりと少佐の温かい言葉が伝わり、また目尻が熱くなる。
「君がいつでも私を守ろうとしてくれるから、風当たりが強くても心強いよ。君が側にいてくれれば何だってできる君がする」
「…ありがとう…ございます…」
「礼を言うのは私の方だよ。君にはいつも支えられてばかりだ。…穏やかな人生を歩んでいるとは言えないが、いつも君がうしろに付いて来てくれると思うと公私共に安らぐよ」
だから泣かないでと、少佐は苦笑しながら、また手の平で優しく涙で濡れた頬を拭ってくれた。
「…君が悩んでいるのに気付かなかったことにすごく反省している。今までも些細なことでも君に話してきたつもりだが…。そうだね、君が望むならヒューズに話すようなくだらない話もするよ」
「…ご迷惑じゃないのなら、少佐が私に許せる範囲で何でも打ち明けてほしいです…」
「じゃあ君も今回みたいに一人で悩まないで、何でも私に話すと約束してくれるか?」
「…はい…」
返事をすると、少佐はよしと嬉しそうに目を細めた。
「…しかし、ヒューズに話していることを君に話したら、嫌われてしまうような気がするけど…」
必死に首を横にぶんぶんと振る。
男同士の友情に首を突っ込んでしまうなど私が欝陶しいと思われて当然のはずなのに、少佐の優しさに恐縮してしまう。
「……リザは」
「…はい」
「リザは小さな頃から『誰かに必要とされたい』と一人で悩んでいたね」
「…え…?」
幼い頃からひっそりと抱いていた胸のしこりを少佐に気付かれていたのかと、私は驚きに目を見開いた。
「私は君が本当に必要だよ。君じゃないと無理だ。リザ・ホークアイだから副官にして、望んで、側にいてほしいんだ」
「…しょ、さ…」
「あ、今はロイって呼んで欲しかったなあ」
安堵と嬉しさから体の力が一気に抜けるのと同時に、また枯れることを知らない涙が溢れ出してしまう。
「安らぐよ…本当に」
少佐はそんな私を体も心もすべて受け止めるように、強く抱き締めてくれた。
「…ああ、でもやばいな。嬉しいけど困る」
しゃくり上げる私の背中を宥めるように優しく撫でながら、少佐が心底困ったように呟いた。
「…リザはさっき私が言った『公私共に』の意味、ちゃんと理解できたか?」
「…え…」
そういえば、少佐のプライベートまで私が支えることなどできているのだろうか。
鼻をぐすりと鳴らしながら、疑問に首を傾げて少佐を見上げる。
「…やはりヒューズに話すように君に打ち明けても理解されない…というか嫌われる気がする…」
「…どうして、ですか…?」
「十代の女の子の仕草に、いい歳した男がいちいち可愛いと悶えていたら気持ち悪くないか?それも仕事中に」
少し考えてから、別に平気ですと答えると、少佐は何故か安心したように何度目になるか分からないため息をついた。
「…ずっとヒューズに相談していたんだよ。十代の間は絶対に手を出さないでおこうと」
少佐の指が、泣きすぎて鎖骨まで濡らした涙の跡を頬から辿り、首に残る水の線をゆっくりとなぞる。
その指の動きにぞくりと背中が粟立ち、勝手に唇の間から吐息がもれた。
「…だけど無理そうだ」
首筋から顎まで戻った指が顎を優しく包み、そっと上向かせる。
ゆっくりとしたその少佐の艶のある動きに魅入ってしまい、私はただ黙って顔にかかる吐息に肩を震わせた。
頬と頬が擦り寄せられ、少佐の顔まで涙で濡れてしまう。
そして鼻と鼻の先がぶつかるほど少佐の顔が近付いたかと思えば、静かに唇が重ねられた。
驚いてわずかに唇を開いた隙間から、それを待っていたかのようにすかさず少佐の舌が私の口の中へすべり込み、びくりと肩を揺らしてしまう。
無意識に逃げようとして後ろへ下がろうとすると、頭に強く手を添えられ動くことができなくなった。
唇の中を柔らかな舌で丁寧になぞられる。
食べられてしまいそうなほど熱い初めての行為に頬が赤く染まり、頭の中まで熱を持ったようにぼんやりとし始めた。
お互いに荒くなる呼吸を近くで感じて恥ずかしい。
少佐が私の舌を甘く噛みながら、私の髪の中にまで指を滑り込ませる仕草に全身がびくびくと揺れてしまう。
どれくらい口付けていたのだろうか。
おそらく短い時間だったのだろうけれど、ひどく長く感じた。
水音と共に少佐の唇が離される。
私の唇の端から、誰のものか分からない唾液がぽたりと溢れた。
「……嫌じゃなかった?」
熱が出た時のようにぼうっとして上手く働かない頭で少佐の問いの返事を何とか考え、彼以外の人とこういうことをするのは嫌だという答えを導き出した。
はい、と声を出すつもりが言葉が出てこなく、代わりにこくりと頷く。
そうか、と少佐が真剣に相槌を打った。
「…ああ、君が十代のうちには手を出さないって決めていたのに…このまま止まらなかったらどうしよう…」
やっちゃったなーと、後悔と喜びが交じったような声で少佐はひたすら嘆いていた。
私は未だのぼせた時のように頭も体も熱くぼんやりとしたまま、少佐にされるがまま胸に抱き寄せられた。
「…君が成人するまで我慢するつもりだったんだよ…」
「…はい…」
「……リザ、二十歳までまだまだ先だよな?」
「…はい…」
少佐に何とか返事を返しながら、このどうしようもなく熱い体をどうすれば良いのか考えていた。
しかし、体を支配する熱は嫌なものではなく、むしろ痺れと甘さの混ざり合った甘美なものに感じた。
「十代から手をつけてしまってもいいかな…。またヒューズに相談だな…」
安心し、そして急にぐっと体温が上がったためか、瞼が急激に重くなってきた。
――ヒューズ大尉、少佐を理解するのはとても難しくて、やはり私はまだまだあなたの足元にも及びません。
――でも少佐、私、まだまだ未熟ですが頑張ります。
「とりあえず私が何か栄養のあるものをたくさん作るよ。…それから…うん、心配だから今日は私が添い寝をしよう」
体の中まで響く少佐の心地良い声を聞きながら、私は久しぶりに穏やかに眠りの世界へと落ちていった。
この日以来、私はあの恐ろしい夢を見ることはなくなった。








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