肩まで湯舟に浸かり、ふうと一息ついた。 顔を上げれば見慣れないバスルームの天井へとぶつかり、風呂に入っているというのに落ち着かない気分になる。 あれは怒りから咄嗟に口をついた冗談のような発言だったのだ。 残暑が厳しい中、人がせっせと大佐のために働いているというのに彼は暢気にソファーで寛いでいるから、「あなたが欠伸をしている間にこんなに汗をかいたんですよ」と怒鳴ってやったのだ。 そしたら大佐は「だったら風呂に入ればいい」と言って、私をやや強引にバスルームへと押し込んだのだった。 他人の家、しかもプライベートとはいえ上官の自宅のバスルームを借りていると思う居心地が悪い。 湿った空気にまたため息が交じる。 大佐に電話で呼び出された理由は「部屋に足の踏み場がないんだ」という呆れたものだった。 しかしもう慣れてしまっている。 大佐の副官になった時から、彼の部屋を掃除するのは私の仕事だった。 仕事の一環ではなく、もちろん副官という位置にいるから自分の自由な時間を削ってまで掃除をしているわけではない。 ただ、大佐に頼まれたからやっているだけだ。 断ることのできる頼まれごとを、わざわざ作業をするための服を持って出掛け、汗水流してやっているだけ。 「…だって」 だって、大佐は私以外に掃除を頼む人がいないし、放っておけば平気でますます部屋を汚くする人なんだもの。 自分が理由もなく大佐に尽くしすぎているような気がして、言い訳のように心の中で呟く。 妹は兄に逆らえない。 それが世の中の摂理なのだと大佐が前に言っていたけれど、本当なのかもしれない。 父が古びた本や走り書きをした紙切れを書斎に散らかしていたように、大佐も片付けなど毛ほども頭にない錬金術師だ。 それに、もともと大佐は自分が使ったものを元の場所へ戻すという発想を持つ人間ではない。 それだというのに部屋が汚れるのは嫌で、しかも他人に自分の領域を荒らされることを嫌う。 そこで錬金術師の父を持ち、昔から大佐と知り合いであり、兄妹のような仲にある私が掃除係へと選ばれるわけだ。 詮索されることを嫌がる大佐はたくさんいる恋人達を一度も部屋に上げたことがなく、もちろん掃除もさせたことがない。 何度も恋人を取っ替え引っ替えしているのだから、そろそろ心を許せるひとを見付けてもよいはずなのに、未だこの家に足を踏み入れる女性は私だけだ。 大佐の恋人達は、このバスルームや、本や紙が散乱する書斎、大きなソファーがあるリビングを目にしたことがない。 それから、大佐の香りのもとも知ることができない。 バスタブから手を伸ばして、先ほど体を洗った石鹸を手に取った。 手の中にある白く大きな石鹸は、私が普段使う安さや量を重視するような安っぽい石鹸ではなく、鼻孔をくすぐる甘い香りを放つ高級なものだ。 シャンプーも石鹸と同様であり、今バスルームには大佐の香りが漂っている。 しかし、香りのもとである石鹸を鼻に近付けてみても、大佐に抱き締めらた時に体を包み込む甘さや安心感が感じられない。 大佐から香る匂いの方がずっと良い。 ふと考えると、恋人同士でもないくせに私が大佐に抱き寄せられることがもう日常と化している私達のスキンシップの多さは異常であり、関係を正すべきではないかと眉を寄せた。 石鹸を元の場所に戻し、バスタブに寄り掛かりながら、また大きくため息をついた。 大佐の家のバスルームに入るのは初めてではないのに未だ慣れないのは、彼の恋人達に後ろめたさがあるからだ。 大佐の恋人に対する罪悪感を持ちながら、どうして何度も彼女達が入ることのできない部屋へと足を運んでしまうのだろう。 「気持ち良かった?」 掃除中に着ていたTシャツではなく、大佐の家に向かう間に着ていた服に袖を通しリビングに向かうと、彼は相変わらずソファーで寛いでいた。 「…お風呂、ありがとうございます」 「髪を乾かしてあげるからここにおいで」 私が片手にタオルを持っていることに気が付くと、大佐が自分の隣をポンポンと叩いた。 ごく自然に大佐の隣に座り、髪を拭きやすいように彼に背を向けて座ったところではっとした。 もしかしたら、このような行為も大佐の恋人達が知ったら悲しんでしまうことのひとつなのかもしれない。 しかし私達の間にあるのはあくまで家族愛のようなものであり、大佐とその恋人達が作り出す甘い雰囲気など決して生まれないのだ。 「ずいぶん伸びたな」 悩みの種である大佐は、髪が伸びたことを喜びながら、のんびりと髪の毛の水分をタオルで拭き取ってくれている。 大佐にとって「恋人」とはどのような位置付けなのだろうか。 私が東方司令部に勤める前から大佐は女遊びは激しかったと聞く。 しかし大佐はただ女性達と遊んでいるだけではなく、情報収拾のために夜の街に出掛けることもあるため、どの女性とも深い関係にあるわけではない。 私から見れば、大佐が女性といる理由は情報収拾が半分、遊びが半分、だろうか。 掴みどころのないひとだから、真実は大佐にしか分からない。 そもそも大佐の側にいる女性を「恋人」と判断して良いのかすら分からなくなってきた。 大佐との関係を遊びと割り切る女性ばかりならば彼に振り回されても平気だが、遊びと割り切れない女性や、遊びから本気になってしまうひとは傷付くのではないのだろうか。 私だったら。 兄妹ごっこに興じる私ですら、大佐にそれを遊びだと冷たくあしらわれ、もうここを訪れないようにきつく言われたら、きっと傷付く。 「…大佐」 「うん?」 私が振り向こうとすると、大佐が丁寧に髪を扱う手を止めてくれた。 「中尉はすっぴんでも可愛いな。元から化粧薄いけど」 女性を見れば褒めずにはいられないのが大佐というひとだ。 だから余計に「恋人」を作りやすいのだろう。 そして、私にはよく分からないが、ハボック少尉曰く、大佐は女性を口説くことや甘い言葉で酔わせることが得意らしい。 「大佐、いい方はまだ現れないんですか?」 「何だね急に…。いるよ、たくさん」 たくさんという発言を聞いて、大佐は相変わらずだと肩を落とす。 「…そうではなくて、結婚したいと思えるような方とお付き合いしていないんですか?」 「ああ、そういういい方ね」 「いないんですか?」 「残念ながらいい方とお付き合いはしていないよ」 「…そうですか」 「どうして突然そんなことを?」 「私がまた掃除に呼ばれたということは、まだいい方が見つかっていないということでしょう?」 「まさか中尉、掃除が嫌になったのか?掃除は君の役目だぞ。君が来ないならいつまでも汚し続けるからな」 変なことで威張る大佐に眉を寄せる。 「そういう話じゃありません。いろんな方とお付き合いしている割りには心を許せる女性が見つからないものだと思っただけで…。あ、大佐、理想高いんですか?」 「ああ、自慢じゃないが理想はかなり高いぞ。それにな、付き合ってはいないが、君の言ういい方はもう見つかっている」 「…本当ですか!?」 「ああ」 身を乗り出すかのような勢いで聞き返してしまった。 大佐が安心して身を任せられたような女性を見付けていたことに驚きつつ、紙に零したインクのように、ほんの少しの寂しさが心に落ちる。 大佐にとって大切な存在が現れたことに戸惑う私をよそに、彼は落ち着き払っている。 その女性とは長い付き合いのようだ。 「…まったく気が付きませんでした」 「だろうな。君、鈍いから」 「だって…大佐がそのような方と電話をしているところを見たことないですし…。惚気だって聞いたことありません」 「惚気なら結構言っているけど…ま、鈍い君は気付かないさ」 「…副官なのに知らなかっただなんて…。プライベートのこととはいえ、何だかおいてきぼりみたいで寂しいです…」 子供が拗ねるかのように目を伏せる私の様子を見て、大佐がほうと声を上げた。 「寂しい、ね。中尉がそう思うだなんて意外だな」 「あの、その方は…」 その女性とはどのような関係なのか、この家に訪れたことはあるのかなどを聞こうとしたが、慌てて口をつぐんだ。 大佐は大事なことは心に仕舞い明かさないひとであり、大切な人のことも口にするのは嫌がる性格だ。 大佐の副官という分際で、そこまで聞いてしまうのは厚かましい。 大体、今まで大佐がどんな女性と一緒にいても気にならなかったのに、どうして今回の女性のことはこんなにも気になってしまうのだろう。 いつか大佐のことを幸せにしてくれる素敵な女性が現れることを望んでいたはずなのに、心がひどくざわつく。 軍人という立場を忘れた大佐が、優しい恋人と安らかな時を過ごすことをずっと願っていたはずだ。 「大佐、お願いがあるんですけど」 落ち着かない気持ちを振り払うかのように、再び勢いよく大佐に背を向けた。 「何?」 「その方のこと、大切にしてあげてくださいね」 詳しく話を聞くことはできないが、しかし妹であることを利用して余計なお節介とも言えるお願いをしてみる。 妹は兄の言うことに逆らえない。 そして、兄は妹に甘い。 どちらも大佐が言っていたことだ。 「大佐、絶対に浮気なんかしちゃ駄目ですよ。男性が認識している以上に女性は傷付きやすいんですからね」 「…まさか君から恋愛について指南されるとはな」 「…あ、まさか私がここに来ていることが知れたら修羅場に…!?」 「いや、それは大丈夫だ。君が心配する必要はない」 「…そうですか…」 それほど信頼し合える仲なのかと感心するのと同時に、兄を取られてしまったような変な寂しさを覚える。 大佐が愛おしそうに語るその女性が晴れて彼の恋人になれば、私は必要なくなり、むしろ邪魔になる。 「悲しい思いをさせないで、大切にしなきゃ駄目ですよ。絶対ですからね」 「ああ。分かっているよ」 この香りを纏えるのも最後かもしれない。 プライベートのことを偉そうに忠告できるのもこれでおしまいかもしれない。 これからは、大佐が選んだ女性が彼とすべてを分かち合い、足りない部分を補ってくれる。 「…じゃあ、中尉」 「何ですか?」 「いま何かしてほしいことはあるか?欲しいものとかは?」 「え?」 体の一部を失ってしまったような、欠けてはならない大事なものを落としてしまったかのような悲しみが訪れたのもつかの間であった。 大佐がいつものように突然変なことを言い出す。 「急に何ですか?」 「妹を甘やかすくらい、たまにはいいじゃないか」 大佐に背を向けたまま、私はぱあっと瞳を輝かせた。 兄が両手を広げているのならば、その腕の中に勢いよく飛び込んでしまうのが私の悪い癖だ。 大佐が私を甘やかそうとすると、その優しさがくすぐったくて嬉しく、とことん甘えてしまう。 「恋人を大事にしてあげてください」 心の奥底を乱すような、引っ掛かりを覚える願いだが、それが一番だ。 「それ以外で何かないのか?」 「それ以外…?」 つい先ほどまでは真剣に兄離れを考えていたのに、私は首を傾げてほしいものを探す。 恋人を大事にして、などとこの口からとても言えたものではないのに、我ながら本当に図々しいと呆れてしまう。 「じゃあ、明日からきちんと仕事をしてください。書類の締切を守って、執務室から逃げないで…」 「予想通り中尉らしい色気のない答えだな。却下」 「…仕事はきちんとしてもらいますからね。じゃあ…掃除をして、汗を流してお風呂に入ったから……お腹がすきました」 後ろで大佐がくすりと笑った。 「また本能に従った君らしい要求だな。じゃあ今日は私特製の手料理を…」 「私が作った方が早いですね。それに私は大佐の独創的な料理は口に合わないんです」 「…遠回しにずいぶんひどいことを言うじゃないか。あとで覚えていろよ。…じゃあ、この近くに新しくできた店にでも行こうか」 大佐が言うには、私は彼のプライドなどを気にせず遠慮なくずばずばと物事を言い、見事な苦言ばかりお見舞いするためにたまに感心すらするらしい。 私は大佐に注意をしているだけで「苦言」だなんて言い過ぎだと思うが、とにかく私の発言は長年の付き合いだからこそ許されるものなのだろう。 大佐の恋人もきっと、彼の子供っぽいところや可愛らしい欠点を見付けては、からかっているに違いない。 私のように腐れ縁からではなく、大佐から深い愛情を受けているからこそ許される厳しい言葉を、彼は笑いながら受け取るのだろうか。 大佐の恋人の顔を見たことすらなく、声だって聞いたこともないのに、一人で勝手に想像して落ち込む。 大佐を叱ったりからかったりできるのは、妹の特権だと思い込んでいたのだ。 私にしては珍しく、今日は短時間でころころ気分が浮き沈みする。 「ほかには?」 「…お腹も空いたんですけど、それよりも眠くなってきました…」 体を動かして、温めて、そして大佐にやっと大切な人ができたと安心したせいだからだろうか、ひどく眠い。 いいや、しばらくは埋めることねできない寂しさを紛らわすために、眠りにつきたいのかもしれない。 ほとんど乾いた髪の毛をタオルで包む大佐の優しい手つきが、さらに眠気を誘う。 「はいはい」 大佐はこのまま寝ても良いというように私の背を自分の胸に寄り掛からせ、後ろから腹に腕を回した。 私は大佐にされるがまま、穏やかさを覚えながら大きな胸に体を預ける。 いつか、鼻をくすぐるこの香りを纏い、遠慮のない物言いをする女性が大佐の伴侶になるまで、妹として私がしっかり女性に関して難を持つ彼を教育しよう。 そして、その日まで思いきり甘えてしまおう。 大佐が幸せになる幸福と、彼を失う喪失感と葛藤をしながら、私はそっと瞳を閉じた。 「…馬鹿だなんてひどい言葉を可愛い妹に言いたくないが…。中尉は本当に馬鹿なのか?」 眠りの世界に落ちる間際、大佐が何かを呆れたように呟いた気がした。 男性に関して難を持つ妹を教育しようと兄が苦笑していたことや、私の寂しさがとんでもない勘違いであったことには、まだ一人しか気付いていない。 |