「待ちなさいハヤテ号!」
愛犬は主人に大声で名前を呼ばれても、それが耳に入らないほど興奮して駆け回っていた。
初めて訪れる家、私の家よりも大きな部屋、そして本の山が迷路のように乱立している書斎。
いつもなかなか遊んでもらえない幼い犬にとって、これらは目を輝かせてはしゃぐ材料となってしまった。
――犬っころに多少部屋を荒らされても構わないから、一緒に連れて来なさい。
大佐はそう言ってブラックハヤテ号と共に彼の家を訪れることを快諾してくれたけれど、さすがに彼の大切な書斎で愛犬が好き勝手に遊ぶのはまずい。
「もう!ハヤテってば!」
広いリビングを隅から隅まで目まぐるしく動き回って楽しみ、次に愛犬の目に留まったのは書斎へと繋がる扉だった。
開けっ放しの扉へ迷うことなく飛び込んだブラックハヤテ号を追い掛け、今こうして捕まえようと必死なのである。
家主は本当に部屋を荒らされても構わないのか、それとも本を読むことに熱中していてこの騒動に気付いていないのか、リビングのソファーで一人のんびり読書をしている。
ろくに掃除もしないせいで書斎の床はゴミと埃で汚れ、換気もしていないせいか空気が澱んでいる気がした。
おそらく彼の法則なりに積み上げられた本やメモを崩さないようにぎこちなくブラックハヤテ号を追い掛ける私に対し、愛犬の小さな体はするすると動き回る。
書斎の奥にある、いつも彼が座っている机まで早々と辿り着いた愛犬は、こちらを振り向いてワンと嬉しそうに鳴いた。
これを鬼ごっこだと愛犬は勘違いしているのだろうか。
あとで躾をしなければならない。
それから、これからは時間を作ってもっとブラックハヤテ号と遊ぼう。
そう決心し、本の塔を掻き分けながら机に近付いていくと、愛犬は再び悪戯をしようとしていた。
ブラックハヤテ号は近くに転がっていた本をふんふんを嗅ぎ始め、小さいといえど牙のある口を開けて――
「やめなさい、ハヤテ号」
静かに、しかし低く言い放つと、愛犬の動きがぴたりと止まった。
もちろん本は噛み痕が残ることなく無事である。
やっと主人の声が届くようになったブラックハヤテ号は、サボり魔の誰かさんを思い出させるような、怒られることを覚悟した脅えに満ちた瞳で、私を恐る恐る見上げた。
ようやくブラックハヤテ号の元まで辿り着いた私は、その小さな体と目線を合わせるために屈み込んだ。
「お行儀よくしていなきゃ駄目でしょう?駆け回っていいのは外だけよ」
最後に、めっと叱咤すると、愛犬は耳も尻尾もうなだれさせてしまい、すっかり元気をなくしてしまったようだ。
「…最近全然構ってあげられなかったから、私も悪いわね。ハヤテ、あとで散歩に行きましょう」
言葉が全部伝わったどうかは分からないが、愛犬は「散歩」という単語に反応したのか、ぱっと表情を明るくさせた。
そんな愛くるしい子犬の様子に思わず目元が下がり、頭をくしゃくしゃと撫でる。
「…改めて見ると本当に埃だらけね」
ブラックハヤテ号が私の呟きと同時に、小さくくしゃみをした。
膝に乗り上がってきた愛犬の小さな体のいたるところに綿埃がくっついている。
錬金術のことをまったく知らない私が書斎の掃除をするというのは気が引け、今までは換気や床を拭く程度のことしかしてこなかった。
床を拭くと言っても、本や紙切れで覆い尽くされており、木目が露出しているのはほんのわずかだ。
一度、大佐と共に大掃除をせねばならないかもしれない。
普段大佐が使っている机すら指でなぞれば指先が汚れるのだから、書物が詰め込まれた棚や床に散らばるもの達はすべて埃をかぶっていると言っても過言ではないだろう。
掃除をするならばどこから手をつけるべきかと辺りを見回すと、ふとあるものが目に入った。
机と本棚のわずかな隙間、影になって薄暗いそこに、何かが落ちている。
膝から愛犬を降ろし、身を乗り出して隙間を覗き込む。
そして、落ちているものの正体に気が付いた時、思わず「あ」と小さく声を出していた。
あれは、大佐が最近なくしたとぼやいていた万年筆だ。
書きやすいからと愛用しており、あの万年筆をなくしてからは「あれは良かったのに」とぶつぶつ惜しんでいた。
大佐は使ったものを元のあるべき場所に戻さず、所構わずぽいぽいと投げるため、物をなくす名人なのだ。
その大佐がなくしたものが彼の元へ再び戻ってくる可能性は低く、いま万年筆を見つけられたのはとても運が良い。
愛犬のやんちゃさに感謝せねばならない。
私は床に這いつくばるようにして、机と棚の間へと手を伸ばした。
何か引っ掛けるものなど、紙と埃だらけのこの部屋にあるわけがない。
それを探すよりも、目の前にある万年筆を早く大佐の元へ届けようという気持ちの方が大きかった。
誰に急かされている訳でもないのに、早く早くと一人焦って、狭い隙間でぐっと腕を伸ばす。
震える中指がやっと万年筆の先に触れ、力を込めて手前へ引っ張ると、それはころころとこちらへ転がってきた。
「…取れた…」
万年筆片手に上半身を起こし、達成感と嬉しさに満ちたため息をつく。
私の後ろで一連の動きを不思議そうに見守っていたブラックハヤテ号と目が合い、柄にもなく突然くすくすと笑い出してしまった。
この万年筆を早く大佐のところへ届けよう。
彼の喜ぶ顔を思い浮かべながら立ち上がろうとした時、ちょうどタイミング良く書斎へ足音が近付いて来た。
「中尉、こんなところにいたのか」
「大佐!この万年筆――」
「見つけましたよ」と続けようとした時、扉に立っていた大佐が目を丸くし、次の瞬間、盛大に噴き出した。
「君、なんだその格好は」
大佐は途切れ途切れに言葉を紡ぎ、腹を抱えて大笑いしている。
何事かと眉をひそめて自分の姿を確認し、やっと笑われている理由に気が付いた。
「全身埃まみれじゃないか」
目尻の涙を拭いながら、大佐が私とブラックハヤテ号の元へ歩み寄って来る。
「ほら」
「…そんなに笑うことないじゃないですか」
立ち上がるように差し出された大佐の手を、大笑いされて苛立っている私は、当然のように無視した。
服が汚れるなんて、現場で作業をしていたら日常茶飯事ではないか。
愛犬を胸に抱え、拗ねてそっぽを向いた私を見兼ねたのか、大佐はやれやれと呟きながらその場にどっかりと腰を降ろした。
「で、どうして君たちはそんなに埃まみれなんだ?鬼ごっこでもしたのか?」
「確かに、こんな汚い部屋で鬼ごっこなんてしたら嫌でも服が真っ黒になりますね」
「君、ハヤテ号より埃がついているぞ。あーあ、顔にまで」
「……これが机と棚の間に落ちているのを見付けて、取っていたらこうなったんです」
すべての原因である万年筆を大佐へ差し出すと、彼は感謝の言葉ではなく、また笑い出した。
「…もうっ!何がそんなにおかしいんですか!」
「…いや、すまない。だから額に痕がついているんだな、と思って」
「痕?」
「万年筆を取ろうとして机に頭を押し付けただろう?額にその痕が赤く線になって残っているんだよ」
くくっと笑いを堪えながら大佐が説明する。
自分では見えない額の線を思わず手で隠したが、散々笑われている今ではもう遅い。
「そうかそうか。君は私の万年筆を取るために喜んで埃まみれになってくれたわけだな」
「…違います」
この万年筆を大佐の元へ返せば彼が喜ぶだろうと考えていたのは事実だが、ひねくれた心がそれを認めない。
おそらく赤く痕が残っているであろう部分を、大佐が前髪を掻き分け指先でそっと撫でた。
「感謝するよ。ありがとう、中尉」
髪の毛や肩についた埃を丁寧に払い落としながら、大佐が礼を述べた。
笑われたのは屈辱的だが、やはり感謝されると自然と頬が緩んでしまう。
「でも、もう新しい万年筆を買ってしまったのだよ」
「え?」
緩んだ口元が一気に強張った。
「その万年筆も、これまたなかなか書き心地がよくてね」
「…じゃあ…」
じゃあ、私がブラウスやスカートを埃まみれにさせてやったことは…無駄に近い。
「しかし従順な犬を飼う主人の気分を味わうのはいいねえ、中尉」
「…はい?」
「私に褒められたくてやったんだろう?」
「…と、とんだ勘違いです」
「よーし、いい子いい子」
「やめてください!」
「さすが鷹の目だな!」
大佐は私を胸へ抱き寄せると、髪が乱れるのをお構いなしに頭をぐしゃぐしゃと撫でてきた。
大佐から逃げようともがいていると最悪なタイミングでくしゃみをしてしまい、また彼に笑われ、そして同時に逃がさないとばかりに腕の力が強まった。
物をなくすことが得意な大佐が、この後、私の苦労が詰まった万年筆だけはなくさないように大切に机の中へ仕舞い込んだというのは、また別の話。







ここはリザの家からだいぶ離れた辺りだろうかと、後ろを振り返る。
目を凝らすと、来た道の奥に小さく屋敷が見えた。
師匠から錬金術を教わって数時間した頃、少し休めと師から休憩をもらい、私はリザと屋敷の近くの森で散歩をしていた。
手を繋いだ少女に歩調を合わせ、行き先を決めずにただひたすら前を目指して歩く。
生い茂る草を靴でさくさくと踏み締める音が心地良い。
私が伸ばした手を、躊躇いがちに繋ぎおずおずと隣に並んだリザも、今はすっかり遠慮が抜け、その音を楽しんでいるようだった。
木々の葉から差し込む夏の陽射しは眩しく、少女の金髪をきらきらと輝かせる。
「暑くない?」
「平気です」
見惚れていた金の髪が揺れ、リザは私がそう問うとすぐにぱっと顔を上げて、柔らかく目元を細めた。
「今日は風もありますし」
心地良さそうにリザがそう言った途端、タイミングよく風が彼女のブラウスの襟とスカートをふわり揺らし、木々をざわめかせる音を残して去っていった。
「ね」とリザは可愛らしく首を傾げて笑ったが、私はスカートが風に靡いた時に見えた白い膝に目を奪われたままで、曖昧に返事を返した。
今まで女性の、ましてや少女の細いだけの足を見て魅了され、それに罪悪感を覚えることなどなかった。
まだ幼くそして恋心など知らないであろうリザは、私をただ純粋に兄のようだと慕ってくれている。
素直で、少し世間からずれていて、そして私自信の心まで洗ってくれるような真っ白なリザを、性欲の対象として軽く見たくはなかった。
私がただ一方的に想いを寄せる少女を、汚れた視線で見ることすら嫌悪を感じた。
今までの私の女性に対する常識や恋に関係する考えをすべて覆す、彼女は私の「特別」だった。
「心配してくれてありがとうございます。マスタングさんは?」
「ああ、平気だよ」
見下ろせば、紅茶色の丸い瞳に見つめられ、その中に私が取り繕ったように笑う私が映っていた。
私の肩ほどしか身長のないリザと私の間には大きな距離があり、彼女から隙間を埋めることはできないが、私が腰を屈めれば簡単に唇を塞いでしまうことができる。
なんと私達にふさわしい空間だろう。
この距離がもどかしく、たまに壊してしまいそうになるが、しかし今はリザが信頼を寄せる「優しい兄」でいたかった。
突然ぼうっとしだした私を心配そうな表情を浮かべ見つめるリザが愛おしくて、安心させるように柔らかな金髪をそっと撫でると、彼女は照れたように笑う。
いつか遠い先の話、リザが大人になった時、私が恋心を打ち明けたら、彼女は同じように笑ってくれるだろうか。
リザの小さな手を握り直しながら、再び宛てもなく歩き始める。
繋いだ手がリザに動揺を伝えないか、それだけが心配だった。







師匠に休憩を言い渡された時、わざわざ外へ出る理由のひとつは、外の空気を吸って気分転換をしたいから。
二つ目の理由は、師匠の目の届かぬ範囲へ行きたいという少々後ろめたいものだった。
屋敷の中で私がリザと話すだけで、師匠は幽霊の如くどこからともなく現れ、「私のリザに何をする」と言わんばかりに鋭い目にさらに力を入れて私を睨むのだ。
なので、晴れた日はいつもリザの手を引き、逃げるように屋敷の外へ連れ出すのである。
今日も例の如く家事をしていたリザを誘い出し、屋敷の近くにある森を訪れていた。
木の根元に二人で並んで腰を降ろし、たわいもない会話を楽しんでいた。
リザが笑う度に彼女の細い肩が私の腕に触れ、たったそれだけだというのに意識してしまい、甘酸っぱい気持ちがじわじわと心に広がる。
リザが触れた部分が熱を持ち始める前に、私はなんとか気を逸らそうと視線を泳がせた。
「あ」
「どうしたんですか?」
「リザ、頭に葉っぱがついている」
視線を動かした先に、風で落ちてきたのであろう緑の葉が金の頭に絡まっているのを見つけた。
え、と呟きながらリザは見えるはずもない葉を見ようと、大きな瞳を上に向けた。
「取ってあげるからじっとして」
葉を落とそうと必死に小さな頭を振るリザにくすりと笑いながら、彼女の方へ体を向け、動かぬよう促す。
リザは素直に動きを止めて、そして葉を取ろうと手を伸ばした私の動きを目に焼き付けるかの如く、じっと私を見つめてきた。
大きな紅茶色の瞳が私を捕らえると、いつもそれに吸い込まれそうになる。
リザにその気はないのかもしれないのだが、彼女が私を見る度に、その瞳は私だけしか映さないような錯覚を覚えるのだ。
そして、私の視線は金の睫毛に縁取られた目から、薄く開いた小さな唇に自然と釘付けになった。
リザの頭に引っ掛かっている葉を取るために伸ばした手は、いつの間にか絹のように柔らかな髪に絡んでいた。
生い茂る葉が作る影と、その透き間から入り込んだ日の光の二つがまばらに幼くも端整なリザの顔に落ちている。
私がわずかにリザに顔を近付けても彼女は避けることなく、相変わらず私の一挙一動を見逃すまいとするように視線を逸らさない。
互いに言葉もなく見つめ合いながら、私はリザに顔を寄せた。
いつもリザからふわりと香る甘い匂いが濃く、それだけ体を寄せているのだと思うと頭が目眩を起こしそうだった。
今までは躊躇っていたり機会がなかったりで避けてきたが、今はそうすることがごく自然なことに思えたのだ。
「好きです」と、口数の少ないリザが、以前私の腕の中で独り言のように、けれど必死に想いを吐き出してくれた。
もちろん私も「好きだよ」と言い返すと、リザは耳まで真っ赤に染めて、照れつつもはにかんでくれた。
リザを木に押し付けるかのようにさらに身を乗り出して、彼女の肩にそっと手を起き、口付けようと顔を近付ける。
しかし、ふっという吐息がリザの唇からもれ、何事かと重なる寸前だった自身のそれを離す。
「…マスタングさん、鼻が…」
「…鼻?」
「くすぐったい」
顔を離して改めてリザを見ると、彼女は胸に手をやりくすくすと楽しそうに笑っていた。
口付けようとする前に鼻と鼻を擦り合わせたことが、リザにとってひどくくすぐったかったらしい。
それから、リザは私が何をしようとしていたか、まったく分かっていないようだ。
そういえばリザはくすぐりに弱いんだったと、私は肩を落とした。
「マスタングさんがずっと真面目な顔をしているから驚きました」
リザは先ほどのことを新しい戯れと勘違いしており、屈託のない笑顔を浮かべている。
リザ、これは遊びじゃないんだぞ、と大きな声で言ってやりたい。
金の髪からようやく葉を取り、リザに気付かれぬようくしゃりと手の中で握り潰した。
リザは私の想像以上にお子様で、そして思っていたよりも手強いようだ。
これは長期戦になりそうだと、人知れずため息をついた。







現場作業を終えて司令部に戻ると、休む間もなく次は書類の処理が待っていた。
太陽が一番高い時間にずっと外にいたためか、頭がぼんやりとし、いつもならすぐに取り掛かれるはずのデスクワークに手がつかない。
外から室内に入ったというのにたいした涼しさも感じられないどころか、ますます体が熱を帯びていく気がする。
ペンを握ったままぼんやりとしている私を見兼ねてか、近くにいる部下が、顔色が悪い、大丈夫ですかなどと心配そうに声を掛けてくれた。
無理やり口元に笑みを作り、大丈夫だと答える。
具合が悪そうな人間が側にいては仕事がしにくいだろう。
私はすぐさま処理するべき書類を脇に抱え、ごく自然に大部屋をあとにした。
そしていつものあの部屋へと、何とか背筋をぴんと伸ばし、「いつも通り」を意識しながら廊下を歩く。
いつものあの部屋とは、日の当たらない場所に作られた、使われなくなった椅子や机などが置いてある物置部屋のことだ。
埃っぽいのが難点だが、司令部内の部屋の中でおそらく一番日の光がほぼ遮断されているであろうあそこは、ひんやりとしていて涼しいのだ。
あの部屋に人が訪れることはないと言い切っていいほど、あそこへ誰かが入っていくのを見たことはなく、私が使用している間も扉の前を人が通ることすらない。
ようやく涼むことのできる物置部屋まで辿り着き、私は部屋に足を踏み入れた途端、体の力を抜いた。
後ろ手で何とか鍵を閉め、机の上に書類を置くと、扉近くにある愛用のソファーへと勢いよく倒れ込む。
所々痛んでいる革張りのソファーは冷たく、しかしすぐに私の熱が移ってしまった。
自分の体がどれだけの熱と光を吸収したのかを思い知る。
目を閉じると、外にいた時に感じた軽い目眩に再び襲われた。
耳に心臓の鼓動がやけに大きく伝い、ドクドクと頭の中でそれが響くのと同時に頭痛がして顔を歪める。
実は、現場にいた時から、部下に具合が悪そうだと言われていたのが、知らんぷりをして平常を装っていた。
熱い日差しを浴びて皆が働く中、上官である私が暑さに弱いという理由だけで一人怠けるにはいかず、いつも以上に動き回った。
ロイ・マスタング大佐の副官を名乗る以上、そして何より上官として、情けない部分を見せては示しがつかない。
大佐はそれをただの意地っ張りだと笑うけれど。
「――私だ」
未だ目眩が続く中、扉の外から聞き覚えのある声が聞こえた。
そして、その声と同時に鍵を破壊するための閃光が走り、あっさりと扉は開かれた。
扉の向こうから、一連の出来事を一瞬でやってのける人物――大佐がひょこりと顔を出した。
「サボっている部下を一名発見」
驚いている私の顔を見るのが珍しくそして可笑しいのか、大佐はにやにやと笑いながら鍵を直した。
「…サボってません」
「あ、中尉、そのまま寝ていなさい」
寝そべっている現場を見られた恥ずかしさから、慌ててソファーから体を起こそうとすると、こちらに近付いて来た大佐に止められた。
よく見ると、大佐は脇や片手に色々なものを持っていた。
「サボっているんじゃなくて具合が悪いんだと、何故はっきり言えないのかね」
「…え…」
大佐は大荷物を机の上に置くとその一つを、ほら、と私に見せ付けた。
「意地っ張りな部下のために氷枕を持ってきたぞ」
そう言いながら、大佐はまず私にグラスに入った冷たい水を無理やり飲ませた。
「ほら、冷たくて気持ちいいだろう?」
「…はい。あの、大佐」
忙しく動き回る大佐は、ソファーへ寝かせた私の首の後ろにタオルを巻いた氷枕を当て、満足そうに笑った。
今度は額に掛かる前髪を掻き分け、頭に氷枕を乗せる。
「…後をつけて来たんですか?」
「ああ、もちろん」
そうでなければ私がここにいることなど分からないだろう。
「…どうしてそんなことを…」
「可愛い部下がどこにいるのか把握するのは上官の義務だよ。ほら、これで終わり」
最後に氷枕を脇に挟め、膝にタオルケットを掛けると、大佐は優しく私の汗ばんだ頭を撫でた。
「君はしばらく寝ていなさい。そうだな…一時間くらいしたら起こすよ」
「そんな…私、ここには休みに来たんじゃなく書類を片付けに来たんです」
「これ、今すぐ片付ける必要がないやつだろう?最近寝不足が続いたし、休むのが先だ」
大佐は私が持ってきた書類を眺め、ぽいっと机の隅に投げてしまった。
「でも…」
「でも、じゃない。上官命令だ」
大佐は厳しくそう告げると、机を挟んだ向かい側のソファーへと腰を降ろす。
そして私と同じように、大佐は机の上に脇に抱えて持って来たであろう書類を広げた。
「…大佐、それ…」
「私は君と違っていつもギリギリだからね。ここで君を監視しながらデスクワークに励むとするよ」
そう言いながら、大佐は書類の上にペンを走らせる。
「意地を張る部下を持つと大変だが…涼めることのできる場所を見つけられたのは良かったな。これからは密会に使おうか」
「…何を言っているんですか」
体にじわりと染み込んでくる氷の冷たさに心地良さを感じながら、ゆっくりと目を閉じる。
小さい頃から他人に自分の弱さを見せることは苦手であり、何があっても気丈に振る舞うことが癖になっていた。
守るべき人である大佐の前だと、隙を見せまいとなおさら意地を張ってしまう。
しかし、大佐は私のそんな高いプライドの柵をあっさりと飛び越えて、つまらない意地など張るなと笑う。
大佐が大切な人だからこそ弱みを見せることは嫌なのに、頭の固い私の中に入り込んでくる彼だからこそこうして弱みを見せてしまうという矛盾が生まれる。
「…大佐…」
「ん?」
「…ありがとうございます」
「君が礼を言うなんて珍しいな」
「そっ、そんなこと…。…ありますか?」
もしかしたら自分が思っていた以上に意地を張りすぎていたのかもしれないと慌てて反省する。
大佐は私の動揺に気付いたのか、くすりと口元を緩めた。
「いいから今は休みなさい」
今度からは少し、大佐の前では意地を張るのを止めようか――
大佐の鼻唄を子守唄に、私はゆっくりと眠りの世界へと落ちていった。







涙を流すという行為は苦手、というより大嫌いだ。
嬉しさのあまり思わず零れる涙ならいいのだが、悲しみや苦しさのために泣くなんて絶対に嫌だ。
嫌、というより恐怖に近い。
涙は怖い。
涙が頬を伝う分だけ、どんどんと自分の強がりや意地が剥がれていってしまう。
唇をどんなに噛み締めても、何度も頬を拭っても、目から溢れる雫は止まらず自分の弱さが明るみになる。
泣けば泣くほど「お前は弱い」と自分の中の誰かが低い声で囁き、悲鳴を上げてどこかへ逃げ出してしまいたかった。
しかし逃げる場所などどこにもない。
走って自宅へ帰り、電気もつけず、それからカーテンも閉めずに息を切らして寝室へ急ぐ。
床に転がる物に躓きそうになりながら、ようやく目的地であるベッドへもぐり込んだ。
頭からブランケットを被ってシーツの上で丸まり、この辛い嵐が去るのを待つしかない。
必死に身に纏っている強がりが零れ落ちた今の私は惨めで弱くて、誰の役にも立てない。
自分は本当は弱いのだと自覚するたびに呼吸が苦しくなり、しゃくり上げて泣いた。
鳴咽を抑えるために口元を必死で手で覆う。
短い髪を濡らし、耳の中にまで入り込んでくる冷たい水が欝陶しくてならない。
こんなみっともない自分の姿を他人に見せたことは一度もない。
自分が泣いている現実や、この様子を鏡で見ることすら嫌なのだから当たり前だ。
常に隙を見せず、弱い自分を隠すばかりに意地ばかり張っているのだから、そんなプライドばかり高い私が泣き顔などを見せられるわけがない。
しかし、突然部屋にやって来たその男は、誰にも入られたくない範囲に乱暴に足を踏み入れた。
ブランケットを引きはがし、男は必死に暴れる私を簡単に押さえ付け、みっともなく涙に濡れた髪や頬に口付けを落とした。
帰ってくださいと涙交じりに大声で叫んでも、男は言うこと聞かないどころか、私を腕の中へ無理やり抱き寄せた。
呼吸の荒い私の背を優しく撫で、一人で泣くことないじゃないかと、まるで遊びに誘われなかった少年のように拗ねる。
「君は弱くないよ。私がこうして生きていられるのは君のおかげだ」
伏せようとした顔を、普段はフェミニストである男が痛いほど強い力で顎を掴み、無理やり上を向くことになる。
顎を伝う涙が男の指を濡らした。
黒い瞳には、醜い泣き腫らした赤い顔が映っているのだろうと思うと、また呼吸が苦しくなる。
「もしそれでも自分を弱いと責めるなら、周りを頼ればいい。できれば私だけにしてほしいが」
ぽたぽたと瞳から零れる涙を、男は何故か愛おしそうに眺め、それどころか指先で撫でた。
「…私はそんなに頼りないかな。それとも私じゃ不満か?…泣きたい時くらいは素直になりなさい」
違う。
この男の前だからこそ、泣いている姿を見られて弱い女だと呆れられるのが怖いのだ。
「…君が私にすべてを捧げてくれているなら、辛い部分もちゃんと見せてくれないと、結構寂しいんだぞ」
涙が濡らした目尻、顎、首筋などに優しく唇を落としながら男が言う。
「意地ばっかり張ってないで、たまにはこうして泣くのもいいと思うぞ。泣いている君、すごく可愛いし」
男に馬鹿、と言ってやりたかったがまた涙が溢れてきて声にならなかった。
気付けば先ほどのように泣くじゃくってしまっていた。
この男、ロイ・マスタングの前ては強い自分だけを見せていたい反面、すぐに弱さを晒して縋ってしまいそうになる。
この人は、私の強がりや意地やプライドもすべてを受け入れてくれる人だから。
「…リザ、私は君の葛藤や涙でさえも愛おしいよ。だから一人で苦しむのはもう止めないか」
最後に残った意地が頷くことを頑なに拒否した。
彼はそれに苦笑しながら、私をあやすように抱き直した。
結局、その晩は私のプライドに反して、よしよしと私の頭を撫でる彼の腕の中で大泣きしてしまった。
人の温もりに包まれながら涙を流すことは、辛さは消えないけれど安心することができることを初めて知った。
強がりを捨てた何も持たない本当の私を愛してくれた彼の胸に寄り添い、私は初めて泣きながら幸福を感じることができたのだ。








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