「…何」 「何でもありません」 新聞を読んでいる私の腕の中に入ろうと狭い空間を無理やりくぐり抜け、人の膝の上に強引に乗ってきておいて「何でもありません」ではないだろう。 ちょうど今読んでいた記事がリザの長い金髪に邪魔をされて見えなくなってしまった。 顔をしかめる私をよそに、リザは居心地の良い座り方を求めて、私の膝の上で遠慮なくもぞもぞと動いている。 その結果、長い脚をたたんで私の膝にぺたりと尻をつき、上半身を私に預けるという形で落ち着いた。 他人が見ればリザが私に甘えているように見えるだろうが、私は一体どんな風の吹き回しなのだろうと眉を寄せて思考を巡らせていた。 大変嬉しい状況ではあるが、先ほどの出来事と今が結び付かず素直に喜ぶことができない。 つい先ほど、司令部から私の自宅に着き、やっと二人きりになれたと喜ぶあまり玄関でリザに口付けようとすると、彼女に手酷く拒まれたばかりなのだ。 あれから今まで私達の間に会話はなかった。 新聞を折りたたんで投げ捨てるようにしてテーブルに置き、ころりと態度を変えて私の胸にもたれ掛かるリザの様子を伺う。 「何か用かな?」 「何も」 新聞がなくなった代わりに、リザの体を抱き締めるように腕を回す。 短い返事を返すばかりのリザは不機嫌ではなさそうだが、機嫌が良いと断言もできない。 試しにショートパンツから伸びる脚や太ももに触れてみると、リザは嫌な顔をせず大人しく身を任せていた。 一体どのような心境の変化なのだろう。 リザの表情と覗き込もうと視線を下げると、顔ではなくタンクトップから覗く素肌に目がいった。 無防備にも下着を身に付けておらず、上から見下ろすと色々なものが見えてしまう。 わずかな隙間から顔を見せる柔らかな白いかたまりと、その影に思わず目を奪われる。 「何か?」 瞳だけを動かして無表情なリザが私を見上げた。 「いや…今日も柔らかそうだなと思って」 「変態」 いつものリザなら羞恥のあまり激怒しそうな発言も、頬を優しく抓られるだけで終わってしまった。 リザが体を動かす度にくにゃりと形を変える柔らかな肉に相変わらず見惚れてしまうが、それでも彼女は怒らなかった。 「…なあ、リザ」 何をされてもじっとしているリザの耳元で囁く。 もしかしたら今唐突に思い付いたことが、リザの突飛な行動の答えなのかもしれない。 「構ってほしいの?」 剥き出しな肩の丸みを優しく撫でていると、素直にぴくりと反応した。 リザは、別に、と呟いて俯いた。 「恥ずかしがり屋」の度を超しているほど恋愛事になるとリザは何をしても恥ずかしがり、以前は何かと心の準備が必要だと弱々しくもらしていた。 突然仕掛けた口付けは照れてしまい拒んだものの、今は照れ屋なりに甘えたいのだろうか。 「…君は本当に扱いにくいなあ」 突然の口付けは受け入れてもらえず、しかし突然リザが甘えてくるのは受け入れなくてはならない。 うんざりと、しかし愛おしさを込めた溜め息をつく。 「あー困った困った」 しょんぼりといったように眉を下げ、申し訳なさそうな表情を浮かべて顔を伏せるリザの顎を掴み、先ほど否定された分を補うために口付ける。 扱いにくく難しいリザが、ここに来て初めて口付けの合間ににこりととろけるような笑みを見せた。 バスルームにリザの鼻唄が響く。 彼女はブラックハヤテ号の黒い体を白い泡まみれにし、隅から隅まで熱心に洗っていた。 子犬は水が怖くないのか、それとも優しい主人だからなのか、リザにされるがままに気持ち良さそうに目を細めて大人しく白い犬になっている。 「ハヤテ号、今日はいつもに増してとても元気だったんですよ」 そう報告するリザも愛犬に負けじとかなりのご機嫌だ。 この小さな犬といる時、彼女の表情から笑みが絶えない。 リザの傍ら、脱衣所の壁に凭れ掛かりながら私は彼女の話に耳を傾ける。 愛犬と迎える初めての夏を、リザは暑さに負けずブラックハヤテ号を楽しませてあげたいと前々から意気込んでいた。 忙しい毎日の中から何とか時間を作り、たくさんの場所に行き色々なものを見せてあげたいと彼女は望んでいた。 しかし、私から見ればブラックハヤテ号はもちろんだが、リザ自身も子犬同様にとても楽しんでいるように見える。 「今日は噴水のところまで散歩したんです」や「初めて一緒にトンボを見ました」などと頬を緩めて嬉しそうに語るリザを私は毎日見ている。 今日リザとブラックハヤテ号が出掛けた先は公園で、ボールをキャッチする愛犬の姿がとてつもなく俊敏で可愛らしかったと、彼女は誇らしげに話してくれた。 そして子供達がシャボン玉を作り遊んでいるのを見たブラックハヤテ号が、今度はふわふわと宙を舞う透明なボールを追い掛けることに夢中になったため、次の遊びはシャボン玉作りらしい。 「大佐も一緒にシャボン玉作りますか?」 シャワーのコックを捻り、水で泡を丁寧に洗い落としながらリザが私を誘う。 「邪魔じゃなければ是非」 リザの側に屈み込み、高い位置でひとつに括られた金髪の束の毛先に、指をくるくると絡ませた。 彼女はそれに気が付かないほど夢中になって、小さな体を優しく扱い綺麗にしていく。 リザが、貰い手がいないために渋々と子犬を引き取るような人間ではないことを知っている。 捨てられ貰い手のない子犬に今までの寂しさを忘れさせるほど愛情と優しさを注ぎ、しっかりと躾をし、家族のように共に暮らす、それがリザだ。 しかし、彼女がこの黒い犬に向ける愛情は私の想像以上に大きかった。 リザはブラックハヤテ号をまるで我が子のように愛し、彼女が子犬を可愛がる様子は親馬鹿を見ている気分だ。 彼女が柔らかな眼差しで子犬を胸に抱いている姿を見ると、ふと親友の姿が頭を過ぎるのはそのせいだ。 ブラックハヤテ号も子供のようにリザに甘えて頼り、彼女も優しくそれに応じるため、二人の間にはとても私が入り込める隙間がないと苦笑する。 「ハヤテ、よく我慢したわね」 リザがシャワーを止めながら、終始大人しくしていたブラックハヤテ号を褒める。 白い犬から元の黒い犬に戻った子犬は、ぶるぶると体を震わせて水分を飛ばした。 「気持ち良かった?」 リザがブラックハヤテ号にそう聞けば、子犬ははいと返事をするように元気よくワンと吠える。 人間と動物の間で十分に言葉が通じるのか疑問だが、リザとブラックハヤテ号を見ていると疑問の答えは「通じる」であっさりと解決してしまう。 母と子の間には入れないと、ますます苦い思いをするが、同時にほほえましくもあった。 リザと子犬がそれぞれ楽しげな声を上げながら仲良く戯れる様は実に可愛らしい。 リザは気が付いていないが、彼女が目を細めてブラックハヤテ号を愛おしそうに眺めるその姿を、常に側で私が愛でている。 親友が妻と愛娘をしつこく自慢する気持ちが、この時だけは熱く握手を交わしたいほど理解できるのだ。 「なあ、中尉」 「はい?」 水に濡れて一回り小さくなった体をタオルでふわりと包み込み、優しく水分を拭き取りながらリザが私の方へ振り返る。 「この間の視察に行く途中に広い野原があっただろう?あそこに連れて行こうか」 「本当ですか!?」 主人が嬉しそうな声を上げたのに反応して、すっかり体が乾いたブラックハヤテ号も耳をぴんと立てて楽しげに鳴く。 子犬を胸に抱き、紅茶色の瞳を期待にキラキラと輝かせながら私を見るリザはまるで幼い子のようだ。 あの馬鹿な親友が妻子自慢の電話をしてきた時、今度からは私も負けじと応戦することができそうだ。 一気に二人の子供を持ったような気分を味わいながら、愛おしい二つの存在を胸に抱き寄せた。 「…幸せ」 ベッドに横になりうーんと大きく伸びをして、リザはうっとりとお気に入りの枕に顔を埋めた。 「眠りたい時に眠れるなんて最高に幸せです」 風呂上がりでまだ熱の残っている柔らかい頬が珍しく緩んだ。 リザはブランケットを被り、笑いを抑えなれないらしくうふふと微笑んでいる。 「久しぶりにまともな生活をしたので自己満足もありますし…。眠い時に眠れるなんて幸せ…」 私が相槌すら打たないというのに、常になくリザが喋る。 しかも同じことを二度言った。 リザは時間を無駄にするような人間ではないが、昼寝や何もせずソファーでのんびりとすることが大好きである。 ここ数日、私達は司令部に泊まり込んで仕事ばかりを続け、一般の人々が送るような生活ができていなかった。 寝食を後回しにして書類と向き合う日々は辛かった。 「やっぱり自分の家のベッドが一番ですね」 リザの話に耳を傾けながら天井を眺めていた私に、彼女が擦り寄ってきた。 何気なく押し当てられた体を無視するよう努めるが、薄いパジャマ越しに素肌のなめらかさや柔らかな肉付きを想像してしまい眉を寄せた。 リザは眠ることが大好きだ。 先ほどリザは「まともな生活」をしたと言っていたが、「まともな睡眠を取るための慌ただしい生活」ではないかと思う。 家に帰るなり溜まっていた洗濯物を洗濯機の中へ詰め込み、その間にリザは食べれればいいとばかりにかなり適当に料理をしていた。 野菜を摂ることを目的とした夕食は、口に入れることが難しいほど大きく切られた野菜達が食卓にごろごろと並んでいた。 リザはそれをぺろりと食べて急いで洗濯物を干し、次はバスルームへ向かった。 久しぶりに自宅の風呂に入るのだから、湯舟にゆっくりと浸かるのかと思いきや烏の行水で驚いた。 リザが料理を作っている間にバスルームに押し込まれたのだが、私の入浴時間よりも短い気がする。 そしてリザはバスルームから出て適当に髪を乾かすと、愛しのベッドへとダイブした。 「…中尉」 「はい?」 確かに睡眠は大切だ。 しかし、久しぶりに二人きりになれた恋人達がベッドの上でただすやすやと穏やかに眠っていいのかと問いたい。 リザが体温や体の線を押し付けるように抱き着いてくるなら尚更だ。 「お腹いっぱい食べて朝までぐっすり寝る前に、何かするべきことがあると思わないか?」 リザが私の胸にもたれ掛かるのをひっくり返し、彼女の上に覆いかぶさった。 「…戸締まりの確認?」 「ああ、それも大事だ。非常に大事だ。特に私のいない時はな」 「分かりました」 「よし。…じゃなくてな…その…」 「何ですか、勿体振って」 「…性欲とか…君はないのか…」 不思議そうに私を見上げていたリザの目が細く鋭くなった。 幸せだと目を細めていた雰囲気は消え去り、無言のまま横を向かれてしまう。 「食欲、睡眠欲ときたら性欲じゃないか」 「…大佐ってずいぶんと率直な物言いをするんですね。私はムードなんてどうでもいいと思っていますが、今のはさすがにまずいですよ」 開き直ると、リザから冷たくあしらわれる。 先ほどまで人形に縋るように可愛らしく私に抱き着いてリザは、今は私に冷たく背を向けている。 「…今日は駄目です。寝たいんです」 「中尉が部屋に上げてくれるからついその気なのかと思っていたよ」 「いっつも盛っている大佐と一緒にしないでください」 「……ソファーで寝ようかな」 「…え…」 何もさせてくれないのに小さなベッドの上で寄り添って眠るのは蛇の生殺しだ。 リビングで眠った方が楽だと思い何気なく発した言葉にリザが思いがけず反応した。 金髪を揺らしてリザが勢いよく振り向く。 「……それも駄目」 私の手の上に遠慮がちに指を添え、リザが呟いた。 「私、銃を扱うことの次くらいに眠ることが好きなんです」 「嫌というほど知っているよ」 「眠りにつくまでの時間が好きなんです。何かを考えたり、ブランケットの温かさを感じたり…。その隣に大佐がいると、一人でいる時よりも二割増し幸せなんです」 だから行かないでというように、リザが私に縋るように視線を反らさずじっと見つめる。 「君は幸せかもしれないが私は辛い」 「…三割増し幸せなんです…」 「…あのね、増やしても無駄だよ」 寂しそうに揺らめく紅茶色の瞳がそっと伏せられた。 「…大佐、お願い…」 私の手の上に重ねていた自らのそれをゆっくりと握り、指と指を絡め始めながら、リザが懇願する。 リザはずるい。 リザらしくないしおらしい態度に私が弱いことを知っている可愛くない女だ。 しかし演技だとしても、私をここへ留めようと手を繋ぎ、不安そうに答えを待つリザはやはり可愛い。 「…分かった。大人しく寝ればいいんだろう」 「いいんですか!?」 ぱあっと目を輝かせ、リザは明るくなった顔を上げた。 花が咲くように笑うリザを抱き締めたいところだが、暴走してはいけないと彼女の隣に慌てて横になった。 しかしリザは私の胸に再び腕を乗せて、体をくっつけてくる。 「おやすみなさい、大佐」 「…おやすみ」 確かに愛おしい恋人のふにゃりとした体つきや少し低い体温を感じるのは幸せだが、その先へ行けないのならばただの地獄だ。 明日は何が何でも絶対にリザを逃がさず好き勝手にしてやる。 だから早く朝が来るように、リザの呟きや吐息を意識しないように努力しながら目を閉じた。 月が灰色の雲に覆われてしまい、今夜はいつもより視界の悪い暗い夜だった。 雲の隙間からほんの僅かだけ金色の光がもれている状況ですら、私はリザの姿を見逃さないという自信がある。 私はいつだって彼女の存在を決して見落とすことがない。 「夜遊びは禁止したはずだぞ」 公園の湿った土を踏み締めながら声を放つと、リザは目を丸くして驚いたようにこちらに振り返った。 すっかりと肩を覆うほど伸びた髪の毛が彼女の動きに合わせてふわりと揺れる。 リードをつけていないブラックハヤテ号が、公園の遊具の周りを嬉しそうに駆け回っている様子を見守っていた彼女の元へ歩み寄る。 「大佐?」 リザは公園にひとつしかない街灯の側に立っていた。 私が近付くと、地面に二つの大きな影ができる。 「どうして大佐がここに?偶然通り掛かったんですか?」 紅茶色の瞳を丸くして、リザは驚きや疑問を隠しもせず表情に出した。 彼女の愛犬は私の存在に気が付いたらしいが、草の上を走ることに夢中らしく近寄って来ない。 「偶然じゃないよ。大体、この通りは私の家からずいぶん離れている」 「…そうですよね」 「とりあえずこれを着なさい」 片腕に持っていたジャケットを差し出すと、リザはそれを数秒見つめて眉を寄せた。 「…それ、私のですよね」 「ああ。さっき君の部屋を訪ねたら留守でね。ハヤテ号の散歩に出掛けているに違いないと思って、君がいつも散歩する道を歩いてここまで辿り着いたんだ」 「それで、そのジャケットは?」 「君のことだから薄着だろうと思って持って来たんだ」 案の定、夜中だというのにリザはブラウスの上にカーディガンを羽織るだけという薄着であった。 「…勝手に部屋に入らないでほしいんですけど」 リザにジャケットを着せている間、彼女はため息をつきつつ恒例の愚痴をこぼした。 「何か用があったんですか?」 「ん?」 「私の部屋に行ったんでしょう?」 「…ああ、うん。…何となくだよ」 「何となく?」 再び不思議に満ちた視線が寄せられる。 「それより大佐、今日はデートなんじゃなかったんですか?」 「ああ…情報収集という名のデートだよ。今回は特に収穫はなかったな」 「…そうですか…」 さりげなく、しかし念を押すようにデートではなく情報収集のために女性と会っていたのだと打ち明ける。 私の言ったことをリザが信じたかどうかは分からない。 しかし、一見は私の話に興味がなさそうに見える彼女の横顔に少し安堵の色が見えた気がして、愚かな期待を抱いてしまう。 悲しいことにリザは嫉妬という感情を抱くような人間ではないとよく知っている。 そもそも、彼女と私の間には「嫉妬」という言葉が出てくるような関係ではないと重々承知だが、それでも嬉しいと思ってしまう。 虚しいと分かっていても、彼女の一挙一動に心が揺さ振られてしまうのだ。 私とリザは恋人同士ではない。 しかし、その事実と私の言動は一致していない。 情報収集をしていることを隠すためにデートだと偽り、それを大袈裟に言い触らした日は、誤解を解くために何かと理由をつけて彼女の元へ訪れた。 先ほど、リザが部屋にいない理由は愛犬の散歩と分かっていても、もしかしたら男のところへ行っているんじゃないかという疑念が、彼女を目にするまで拭えなかった。 彼女に恋人はいないし、彼女が私の副官である間は恋愛に興味を持つことすらないと誰よりも知っているのに、突然不安になることがある。 恋人同士でも何でもないくせに馬鹿馬鹿しいのは分かっている。 「それで、中尉はどうしてこんな夜中に散歩をしているんだ?まったく、危ないじゃないか」 「ハヤテ号が散歩に行きたがっていて、リードを口にくわえて部屋の中を駆け回るんですよ。そんな姿を見せられたら、駄目とは言えないでしょう?」 「…君はハヤテ号に甘いなあ」 ジャケットを着せた時に軽く触れた髪の毛は冷たく、リザとブラックハヤテ号がずいぶんと長い時間外にいたことが分かった。 早く部屋に戻らないと風邪をひくのではないかと思った直後、彼女が小さなくしゃみをした。 「…あーあ、まったく…。君は私に口うるさく健康の大切さを説くくせに、自分のことは呆れるほどないがしろだな」 怒りをこめたため息をつき、険しい表情でリザの顔を覗き込む。 「中尉、寒いか?私のジャケットを貸そうか?君に風邪をひかれると非常に困る」 背を軽く屈めて、金の前髪を掻き分けてリザの額に手をあてる。 悪寒を感じているわけでもなさそうだし、熱もないようだ。 私が安心する一方、何故か彼女が表情をぴくりとも動かさず、人形のように固まってしまった。 「おい、中尉?」 リザの目の前で手をひらひらと振ると、彼女は我に返ったのかはっとして後ずさった。 「…あ…ごめんなさい…。その、突然で…驚いて…」 常になく歯切れの悪い物言いだ。 そして暗闇のせいか、それとも願望が生み出した錯覚なのか、リザの頬が僅かに赤い気がする。 リザに遠慮なく触れるのはいつものことだが、この反応を見るとどうやら彼女は不意打ちの接近が苦手らしい。 「…ハヤテ、帰るわよ」 私から逃げるように距離を置いて、リザは愛犬を呼んだ。 その彼女の様子は動きが機械のようで、どことなくぎこちなく感じた。 まるで彼女が先ほどの行動に照れているように思えてくる。 このように恥じらっているような、誤解してしまってもおかしくない態度をとられると、つい余計なことを口走りそうになっていけない。 「ハヤテ、楽しかった?」 リザに呼ばれるとすぐに駆け付けたブラックハヤテ号は、充分に遊んだのか満足げな顔で、愛しのご主人様の足に擦り寄っている。 リザは甘えてくる愛犬に話し掛けながら、小さな体中を目一杯撫でていた。 ブラックハヤテ号はやっと私にも興味を示し、リザの手をするりと擦り抜けてスーツのズボンに頭を擦りつけてきた。 「…大佐、毛が…」 「ん、いいよ」 ブラックハヤテ号は私とリザの間を行き来しながら、楽しそうに尻尾を振っていた。 ――私と中尉とハヤテ号って、まるで家族みたいじゃないか。 以前、何気なくそれを口にしたら後に逃げたくなるほど重い沈黙に襲われたので今回は黙っておく。 ちなみに私が父親、リザが母親、ブラックハヤテ号が子供である。 「じゃあ、行こうか」 「…はい」 リザはブラックハヤテ号の首輪にリードを付け、ゆっくりと立ち上がると、私と視線を合わせぬように歩き始めた。 私の歩調はいつも通りなのだが、彼女はいつも颯爽と司令部の廊下を歩いているのが嘘のように歩みが遅い。 まるで私との距離を広めているようだ。 ご主人様とリードで繋がっているブラックハヤテ号も、いつにないゆっくりとした歩き方に戸惑っているようだ。 気安く額に触れたのがまずかったのかと思っている矢先に、またリザがくしゃみをした。 「…早く家に戻って温かいものでも飲もう」 こうなったら強行手段だ。 さりげなく、私のずいぶん後ろを歩いているリザの手を取る。 しっかりと握った彼女の指がぴくりと動いて動揺を伝えたが、振りほどく気配はない。 私とリザが手を繋ぐのは今回が始めてというわけでなく、出会った頃から数えると結構な数になるはずだ。 私達が手を繋ぐ理由は、繋ぎとめて側に置きたいからとか、愛おしさのあまり触れたいからだとか、そんなものではない。 ただ皮膚と皮膚が触れ合うだけの色気のないものだ。 表面上は、他意のない「何となく」という私の気まぐれで手を繋いでいるということになっている。 私には下心があるが、彼女は無関心であり、ただ私に流されているだけなのだ。 戯れにリザに触れることも、いま手を繋ぐことも、理由は「何となく」であり、彼女は何とも思っていない。 それは悲しくもあり、また安心できることでもある。 リザへの恋心へ目を背け続けて出来上がったのが、今や軍で知らないものがいない「マスタング大佐とホークアイ中尉」だ。 それを今さら壊す術など知らず、そして何より怖い。 リザが愛おしいのだと告げる勇気のない臆病者のくせに、手の早い体は彼女に触れたいという欲求を抑えられない。 セクハラと訴えられてもおかしくない臆病者の過剰なスキンシップを、彼女は困りつつも寛大な精神で受け入れてくれている。 もともと彼女は情に疎く、異性と肌を合わせることや好意的な発言を特別だと認識していない。 恋人でもないくせにリザを側に置きたがる私の願いを嫌がることなく叶えてくれる彼女に甘えているうちに、そんな環境から抜け出せなくなっていた。 一時の弾みで今の関係が壊れてしまって戻れなくなるより、まだ彼女に優しくされていたい。 「…歩きにくくないか?」 手を繋いでいるというのにリザは私の三歩ほど後ろを歩くばかりで、少し強引に絡めた手を引っ張ってみる。 すると、何故か彼女は私の隣を歩いて良いのかと問うかのような弱気な視線を向けてきた。 無言のままもう一度手を引く。 そうして、ようやく彼女はおずおずと私の隣に並び歩き始めた。 今のように、例えリザが意識していなくても、少女のように初々しい姿や可愛らしい仕草を側で見ていると、彼女が本当に私の恋人になったかのような錯覚を覚える。 本当に恋人にしてしまおうか―― 端正な横顔を見つめながら、いま思いきり抱き締めてみたらどうなるのかと考える。 しかし、私にしては珍しく、そもそも異性として見られていないんじゃないかと落ち込み、煩悩を掻き消す。 居心地の良い、しかしたまに壊してみたくなる不安定な関係はいつまで続くのだろう。 「今度から夜中に外に出る時は私を呼びなさい。いいな?」 とりあえず、いつも通り父親のようなことを言って、逸る気持ちをごまかしてみるのだ。 どんなに愛情を注いでも、自由な時間を愛犬に捧げ可愛がっても、やはり日中にひとりぼっちになってしまう子犬の寂しさはそれだけでは補えないのだろう。 遊びざかりの子犬が一匹で一日の大半を過ごすのに、ボールひとつではとても足りないはずだ。 リザの言い付けを破ってベッドからシーツを引っ張り出して絡まって遊んでみても、ソファーに噛み付いてみても、ご主人様が頭を撫でてくれる温もりは得られない。 子犬のためにおもちゃを買い集めた結果、少しだけ一人遊びが上手くなったとリザは言うが、彼女が恋しくてうなだれている様子はたやすく想像できる。 リザが遊んでくれなくても、ただ側にいるだけであの子犬の欲求は満たされるのだ。 「ハヤテ号、ただいま」 部屋の扉を開けると、外から大好きなご主人様の足音が聞こえていたのだろう、子犬がリザの元に飛び掛かってきた。 「遅くなってごめんね」 リザは子犬を上手く抱き留め、赤子を扱うかのように胸に抱き締める。 くうんと甘えきった声でリザに擦り寄る子犬は、彼女のうしろにいる私の存在にまったく気が付いていたい。 ぱたぱたと忙しく尻尾を振って、リザとの再会の嬉しさを小さな体いっぱいで表現している。 「いま着替えてご飯をあげるから、少し待っていてね」 リザが子犬を床に戻そうとすると、真ん丸の大きな目が縋るように彼女を見つめた。 まだここにいたいと、その黒い瞳は訴え掛けているようである。 リザはその愛くるしい姿に負けて、結局クローゼットがある寝室まで子犬を抱いて行った。 リザが帰宅してから、子犬はご主人様を逃すまいとするよう必死に後ろをついて歩いていた。 リザが着替える時も一緒、洗濯物を取り込む際にも側に控えていた。 リザが部屋の中を歩く足音に、子犬の小さな爪がフローリングの床を鳴らす音が重なる。 リビングを行き来するリザにぴたりと寄り添い追い掛けている子犬は、まるで影のようであった。 夕食を作っているリザが「危ないからリビングにいて」と何度も言い聞かせたのだが、意外と頑固な子犬は置物ののようにキッチンから離れることはなかった。 当然、リザが夕食を食べている時も、子犬は嬉しそうに床に横になり彼女の足に擦り寄っていた。 夕食後は散歩に出掛けたのだが、子犬は外を楽しむというよりリザにべったりであった。 そしてなんと、家に帰り、リザがバスルームに向かうと子犬は当然のようにリザの背中を追って駆けて行ったのだ。 仕方がないと、苦笑の中にも嬉しさの見える表情で笑いながら、リザは子犬と共にシャワーを浴びた。 「ほら、ハヤテ」 入浴後は子犬と遊ぶ時間と決まっているのか、リザはボールを片手に持っていた。 リザが小さなボールを床に転がすと、子犬は喜んでそれを追い掛け、口にくわえて彼女の元に運んでくる。 一通りおもちゃで遊び、じゃれあい、リザにたくさん撫でてもらった子犬は、それでもまだ物足りないようであった。 私にはよく分からないが、リザが言うには子犬はまた散歩に出掛けたいらしい。 最近忙しい日々が続いたため、リザはなかなか子犬と遊ぶ時間を作ることができなかったらしく、甘えているようだ。 可愛いわがままだとリザは笑って、結局、子犬の望み通り本日二回目の散歩に出掛けることになった。 夜の風は冷たく、湯冷めをしないかと心配になったが、リザはそんなことをまったく気にせずに子犬が草と戯れている様子を愛おしそうに眺めていた。 二度目の散歩から帰ってきたあとも、子犬は元気いっぱいであった。 この小さな体のどこにそんなエネルギーが隠れているのだろうと疑うほど、子犬は疲れることなく構ってほしいとアピールしていた。 リザがベッドに潜って欠伸をしていても、子犬は寝床に行かずに床から彼女を眺めていた。 リザの手からボールがこぼれ落ちた。 子犬に向かって投げたわけではなく、手の力が抜けたのだ。 リザは元気の有り余る子犬のために、ベッドからボール遊びをしていたのだが、ついに限界がきたようだ。 先ほどまで目を擦りながら子犬の相手をしていたリザが、今は穏やかな寝息を立てている。 ぷつりと糸が切れるように眠りの世界へと落ちてしまったようだ。 「こら、駄目だ」 リザの異変に気付いたのか、ベッドからはみ出している力を失った彼女の腕に子犬が近付く前に止める。 子犬を抱き上げ、リザの腕をブランケットの中へ戻した。 腕の中にいる子犬は、心なしか不機嫌に見えた。 自分と同じくリザの後ろをしつこくついて回っていた私のことを、この子犬は快く思っていないらしい。 「リザは寝ているからあっちに行こう。な?」 すやすやと寝ているリザを起こさぬように小声で話し、子犬とボールを抱えてリビングへ向かう。 「すまないな。リザは君の世話をする前に司令部で私の世話をしているから疲れているんだよ」 おまけに家に帰ってからも、構ってほしいと付き纏う私の相手をしなくてはならないのだ。 我が家ですら後ろに寄り添う子犬に加えて、同じく背中に抱き着く私の世話をするのだから、リザの疲れはたまる一方だ。 なるべく静かにリビングでボールを投げると、渋々といったように子犬はボールを追い掛けて行った。 ご主人様が眠ってしまったため、私で我慢することに決めたらしい。 「残念ながら、君のご主人様は君だけのものじゃないんだよ」 私が少し我慢をすればリザの疲れは減るに違いないが、当然我慢する気などない。 |