「ヒューズのやつ、いまだに結婚式の時の写真を送ってくるんだよ。式からもう一年経つというのに…うざったいやつだ」
「そうなんですか」
仕事の休憩中、椅子の背にどっかりともたれ掛かり、リザのいれてくれたコーヒーを一口飲んで愚痴をこぼす。
真面目なリザは休憩を取らず、私の傍らに立ち、書類にミスがあるかどうかを確認していた。
部屋には私とリザの二人しかいない。
リザがいれるとまずいはずのものが美味しく感じるなどと思いながらカップから唇を離し、また口を開いた。
「ヒューズの愛妻自慢の電話を適当に聞き流しているのが気に食わなかったらしく、家に大量に写真を送ってくるようになったんだよ。かっこいい俺と可愛いグレイシアがどうのこうの…という手紙付きでな」
いい加減にしてほしいと大きなため息をつく私を見て、対照的にリザは口元を緩めた。
リザが「結婚」という言葉に反応するかを確かめるために、妻を愛しすぎている馬鹿な親友の話をしたのだが、彼女は一生新婚気分でいる夫妻を微笑ましく思っただけで、それ以外の感情は抱いていないようだ。
「…少尉は…結婚のことを考えたことをないのか?」
差し入れだという皿に綺麗に盛られたクッキーを手にしながら、自然に、何気なくを心掛けて聞いてみる。
リザの考えを知るには、まどろっこしいことをせず直接聞いてみることが一番良いのだ。
「結婚ですか?考えたこともありません」
結婚という言葉を口にするのも初めてというような、驚いた表情を浮かべてリザが答える。
そうだよなと、クッキーを手にしたままうなだれる。
リザは仕事熱心、つまりは私の補佐と護衛をすることを何よりも優先していて、それ以外のものが彼女の心を占めることは難しい。
常に私のことで頭がいっぱいなのは嬉しいが、私がそれとなく彼女を口説くことに気付いていないのは非常に悲しい。
リザが結婚に興味がないという答えは知っていたが、改めて彼女の人生には恋愛と「男性という異性」が存在しないことを思い知らされて落ち込む。
「…女性なのに結婚のことを考えないなんて珍しいなあ」
「そうですか?」
リザに淡い期待を抱いた先ほどの自分を、乾いた笑みを浮かべて心中で馬鹿だと罵る。
「誰と結婚したいとか…この人を恋人にしたら楽しそうだとか…そういうことも考えたことはないのか?」
「ないです」
「…あ、そう」
「中佐はあるんですか?」
「……ん?」
矢のようにすぐに返ってくる冷たい答えにどんどんと気持ちが沈んでいると、リザが逆に意外な質問をしてきた。
「結婚についてまったく考えたことはなかったんですけど、考えていない方が変なのでしょうか?中佐はどうなんですか?」
書類をめくる手を止めて、リザが私を見る。
「…私は…もちろん、結婚について考えたことがあるよ」
少し方向性が違う気がするが、結婚という言葉にリザが反応を示したことは喜ばしい。
しかも私の意見を聞き、上手くいったら二人で結婚について語り合えるかもしれない。
黒い雲の隙間から眩しい太陽の光が差し込んだような気分になり、いまだ指に挟んだままのクッキーが興奮のために割れてしまいそうだ。
「そうですか。中佐はいつも可愛らしい女性と一緒にいるので、結婚を考える方が当然かもしれませんね。連れて歩いている女性がいつも違うという話を聞くんですが、もう理想の方には出会えたんですか?」
興奮が一気に冷め、今度はクッキーを持つという力すら失いそうなくらいまで、失恋という名の底辺にたたき落とされる。
たくさんの方とお付き合いをしているならお一人くらいは良い方がいらっしゃいますよね、などとリザは暢気に話している。
「でも、中佐が結婚されたらたくさんの方が恨む…いや、悲しまれるでしょうね…。そのクッキーを差し入れしてくださった受け付けの方も」
ああ、このクッキーは受け付けのあの小柄な子が差し入れしてくれたんだったか。
リザが私のためにコーヒーをいれてくれたことに意識が向いていたため、彼女が話してくれた、クッキーがここに来たいきさつをぼんやりとしか聞いていなかったのだ。
「中佐は多くの方を怒り狂わせ…いえ、悲しませてまで結婚なさることになるでしょうから、必ず幸せにならないと駄目ですよ。…それに、差し出がましいかもしれないですが、中佐が幸せになることは私の喜びですから」
リザは私が結婚したら、悲しまないでむしろ喜ぶのか。
愛する人に結婚を応援されるなんて、今すぐ外に駆け出していたるところに焔をつけて暴れたくなる。
「…はは、そうだな。…それで…君は結婚するとしたらどんな相手がいいのかな」
敗者の谷底から何とかはい上がり、瀕死の状態でまた問い掛ける。
リザが、私と誰かの結婚を祝福しているのは攻撃力が高すぎるが、彼女が結婚に興味を持ったのだからこれは大きな一歩なのだ。…多分。
「…結婚する相手、ですか…。…中佐と結婚をしたら毎日が楽しそうですね」
ついに指からクッキーがすり抜け、コーヒーカップの中に落ちた。
水音と同時にリザがくすりと笑った。
辛うじて息をしているような状態に陥りながら、目の前で微笑むショートカットの女の子を凝視する。
少し口元を緩ませるだけで多くの男を虜にできそうなこの子は、可愛い姿とは正反対に実は悪女なのかもしれない。
「中佐、クッキーがコーヒーカップの中に落ちましたよ。…もう、子供じゃないんですから」
つい先ほどまでは、私が結婚をして幸せになってほしいと願っていたリザが、今は私と結婚したいだと?
「中佐のこういうところが楽しいんです。失礼ですが、見ていて飽きないというか…」
それは、ただ私が目の前にいたから私を結婚相手に指名したんじゃないのか?
幼い子供が「大きくなったらお父さんと結婚する!」という発言より、夢も現実味もない。
しかしリザは私を選んだ。
つまり、リザは私と結婚して、私と幸せを育むことが喜びなのか?
「…美人の君とかっこいい私の間に生まれる子供なら、絶対に可愛いだろうな…」
喜ぶべき状態なのか、何気ない発言に振り回されている状態なのか分からないまま、変なことを口走ってしまう。
天国と地獄を何度も行き来したために、あまりにも混乱していたのだ。
そして、頭の整理がつかないまま、ヒューズがそろそろ子供がほしいと話していたことを思い出し、それが口をから出てしまったらしい。
「…え…っ」
リザの声が珍しく動揺を滲ませていた。
リザが大きく目を見開くと同時に、彼女が手にしていた書類をばらばらと床に落とす。
しかし、リザはそれに気が付いていないようだった。
「…それって…」
リザは驚きを隠さぬまま、私の方を真っ直ぐに見つめた。
私と結婚したら楽しそうだと、リザは冗談で話したつもりなのに、話があまりにも飛躍しすぎて気持ち悪がっているのだろうか。
しかし、私の目が妄想で歪んでいなければ、リザは金の髪に縁取られた頬を桃色に染めているように見える。
「…そんなことをおっしゃるなんて…。ま、まるで、私と中佐が結婚するみたいじゃないですか…」
リザは心なしか声が上擦っているように思えた。
そしてやはり顔が赤くなっている。
私と結婚したら楽しそうだと自分からあっさりと言ったくせに、どうして私が結婚を仄めかすような言葉を口にすると恥ずかしそうに俯くのだろう。
そして、初恋をしている男の子と女の子が醸し出しそうなこの初々しい雰囲気は何なのだろう。
つい忘れそうになるが、ここは花がたくさんある草原ではなく、神聖な職場だ。
「…私も、君と結婚したら楽しそうだと、思う」
コーヒーの中に落ちたクッキーも、床に散らばった書類も気にせず、リザと私の視線が絡む。
頬だけではなく目元まで赤くなったリザを見つめながら、今しかないというように急いで口を動かした。
「君はとてつもなく可愛い。可愛いというか美人なんだ。いや、やっぱり可愛いのか?」
「…ちゅ、中佐…」
今までの重たい雰囲気を壊すかのように突然喋り出した私の言葉を聞きたくないのか、リザは遮るように私を呼ぶ。
「腹が立つほど思考が噛み合わないがそれが面白いし、怒ると怖いが不思議なくらい君は優しいし、何より愛おしいんだ。私の結婚したい相手は実は、リザ――」
「中佐っ!!!」
部屋の外まで聞こえるのではないかと思うほどの怒鳴るように大きな声で、リザが私の話を中断させた。
「ちゅ、中佐っ」
「な、何だっ!?」
上官と副官らしくない、そして前の展開と繋がらないおかしな会話だった。
リザはいつものように、くだらないことを言わないでくださいと、この出来事をなかったかのように軽く流すのだろうか。
しかし今の私は、くだらなくないと強く反発するつもりだった。
早口で、しかもムードのない職場で伝えようと思っていたことではないのだが、ずっとリザに知ってほしいことだったのだ。
「…もし、ですよ。もし、私と中佐が結婚をしたら――」
何故かリザは両の手ともきつく拳を握っており、まるで今から戦うかのような構えをとっていた。
「私が中佐のことを幸せにしますから、安心してください」
可愛らしい顔を赤く染め、そして緊張で強張らせながら、リザはその姿に似合わないこと力強く言い放った。
「幸せに、しますから」
「…え…っ、リザっ!?」
リザは同じことをもう一度呟くと、敬礼も退室の言葉もなしに、逃げるように部屋から飛び出してしまった。
残されたのは、唖然とする私とクッキーの入ったコーヒー、そして床に散乱する紙達だ。
「…リ、リザーッ!?」
一人きりになった部屋に虚しく私の動揺の声が響く。
廊下からは、リザがものすごい勢いで走る足音、そして何かにぶつかりながらもまた駆け出す音が聞こえた。
「…今のは何なんだ…」
本来なら私が言うべき言葉を、リザに言われてしまった気がする。
それから、昨日まで私のことを上官だとしか思っていたかった副官と、副官をひそかに愛していた上官が結婚するかもしれないということになってしまった。
あのリザの反応を見て彼女が私を好きであると、勝手に都合よく判断して良いのだろうか。
そして、順番をたくさん間違えてしまった私達は、次にどんな顔をして会えば良いのだろうか。







「重たい」
胸に抱いた愛犬の頭を撫でていたリザの視線が、子犬から不満をもらした私へと移った。
別に、リザが私の膝に頭を乗せていることに本当に重みを感じているわけではなく、普通は私が彼女の太ももを味わうべきだろうという不満だった。
先ほど膝枕をしてほしいと甘えたら、リザは「恥ずかしいから嫌です」という可愛らしい答えではなく、「重たいから嫌です」という冷たい断り方をしたのだ。
そのくせ、私がソファーに腰を下ろした時を見計らったかのように、リザに奇襲をかけられた。
不公平なことに私に断る権利などなく、リザは堂々と膝に居座った。
膝枕を断固として拒否した相手が、愛犬とブランケットを持って膝を占領してきたならば、文句の一つや二つは言いたくなる。
もちろん、滅多にないリザからの触れ合いは嬉しいが、どうせなら私があのすべらかな太ももに顔を埋めたい。
「どうして君が私に膝枕をされて、君は私に膝枕をしてくれないんだ。不公平だ!」
「ちょうどいい枕があったので、お邪魔させて頂いただけです」
「リザ、何度も言うが、君がそこにいると邪魔だ」
「生憎動けません。ハヤテ号が寝ちゃったんですから、静かにしてくださいね」
「何度も態勢を変えようって言ったのに…。動けない理由を作るためにわざとハヤテ号を寝かしつけたな。わざわざブランケットまで持ってきて」
「見てください、この愛らしい寝顔…」
プライベートのリザは意外と少し我が儘で、都合が悪い時があると話を聞いていない振りをする。
その様子にため息をつきながら、リザが穏やかな寝息をたてる子犬を愛でる様子を上から眺めた。
司令部ではきつく結ばれている金髪が今はほどかれ、ズボンの上でふわりと広がっていた。
柔らかさを余すことなく知っている二つの膨らみの上には、子犬が小さな体を埋めて幸せそうに寝ており、非常に羨ましい。
私の膝を枕にして寝そべるリザは、本来ならソファーからはみ出るはずの長い脚を折りたたみ、ブランケットの中に隠していた。
せめて引き締まった綺麗な脚を見ようとブランケットにそろりと手を伸ばすと、目敏くも下から鋭い視線が突き刺さる。
「何か?」
「いや、暑くないのかなーと思っただけだ。気遣いだ。優しさだ。決して下心じゃない」
「ご心配どうもありがとうございます。まったく暑くありません」
「…そう…」
リザの突き刺さるような冷たい言葉に目を泳がせながら、彼女がいれてくれた紅茶へと手を伸ばす。
「…私も君に膝枕をしてほしいなあー。私も君を見習って図々しくなろうかなあー」
「まるで人形みたいに可愛いですよ、ハヤテ号。グレイシアさんとエリシアちゃんの写真をこれでもかと撮るヒューズ中佐の気持ちが分かります」
「なあ、今から本を読みたいんだが、間違って君の顔の上に落としたら危険じゃないか?そろそろ交代しないか?」
「あ、いま耳がぴくって動きました!可愛い…」
「…熱々の紅茶をぶっかけるぞ」
「大佐は女性にそんなこと、できませんよ」
私の話を聞いていないと思いきや、下を見ればリザは得意げと表現できそうな可愛らしい笑顔を浮かべて見ていた。
滅多に拝めないリザの笑顔を目にするとすべてを許したくなることを、彼女は知っているのだろうか。
こうしていつもリザのいいようにされてしまうと苦く笑いながら、紅茶の入ったカップをテーブルに戻した。
リザの膝の上で読もうと思っていた本を、大人しくソファーに寄り掛かりながら読むことにする。
もちろん天地がひっくり返っても、綺麗なリザの顔の上に本を落とすだなんていう馬鹿な真似はしない。
「…大佐」
「…んー?」
数頁ほど読み進めた頃、ブラックハヤテ号の体を撫でる手を止めてリザが私を呼んだ。
私が文字に夢中になっている時にリザが声を掛けるなんて珍しいことだ。
「何?」
「…大佐って、下から見るとかっこいいですね」
「……は?」
実は、先ほどからそれとなくリザの視線を感じていたのだ。
まさか、私が超絶にかっこいい素晴らしい良い男だということ考えながら私を見上げていたとは想像もつかない。
「…突然、何を言うかと思えば…」
本をテーブルの上に置き、栗色の瞳で私を見上げているリザの柔らかい前髪に指を絡めた。
「今さら気付いたのか?というか、下からじゃないとかっこよくないのか?」
冗談っぽく笑いながら話しているが、内心では実はかなり動揺していた。
リザが私を褒めるなど、悲しいことに滅多にない。
それから、いま私がリザに触れていることに文句を言わない彼女にも驚いていた。
私が甘えるのを冷たくあしらい、ちょうど良い枕になると何の気なしに私の膝に頭を乗せてきたリザは、どこまでも素っ気ないと思っていたのに――
前髪に触れていた私の手に、不意にリザの白い指が絡む。
くすぐったいと呟いたリザの言葉は、髪で遊ぶのを止めずにもっと触れてほしいと訴えているように思えた。
膝に頭を擦り寄せて私を見上げるリザの表情は安らいでいるように見えて、先ほどの横暴な態度とはなかなか結び付かない。
今のリザは気持ち良さそうに眠る子犬そっくりだ。
「…リザは、いま動けないんだよな」
「ええ。ハヤテ号が寝てますから」
「何をされても動けない?」
「そうかもしれませんね」
私達が上官と副官という関係の時は、リザは私の言葉ひとつで動き、抗うことを知らないされるがままの犬だ。
しかしロイ・マスタングとリザ・ホークアイという個人に戻ると、リザはたちまち言うことを聞かない犬になる。
「…私を褒めてその気にさせたのは合格だが…。相変わらず君は甘えるのが下手だな」
それから、司令部にいる時の忠犬とは違って、とても扱いにくい。
自由奔放で滅多に振り向かないリザが、突然されるがままの犬になってしまった。
「何を考えているか分からないし」
以前、リザが膝枕は恥ずかしいんですと、もらしたことがあった。
何があっても冷静に対応しそうなリザの外見からは想像できないくらい、彼女はたくさんのことを、特に男女の間のことを恥ずかしがる。
数え切れないほどの女性を見てきた私が困ってしまうほど、リザはどんな小さなことにも戸惑い照れる時がある。
膝枕をするのは恥ずかしいが、膝枕をされるのは恥ずかしくないというリザの難解な思考は理解できそうにない。
それから、突然、私に何をされても喜んで受け止めるほど甘えたがりな犬に切り替わる心も掴めない。
「ハヤテが起きるようなことは…」
「もちろん駄目です」
リザが愛犬にしたように私が彼女の頭を撫でると、彼女はわずかに目を細めた。
下手に動けないリザは私が何をしても拒めないし、彼女自身がそれを望んでいる。
普段は言うことを聞かない犬が、わざわざ自分で自身の自由を奪う状況を用意してまで甘えてくるのだから、思いきり愛してやろう。
「じゃあ、ハヤテが起きないことなら何をしてもいいんだな?」
唇を親指でなぞりながら問うと、リザは何も答えなかった。
リザにしたいことといえばそりゃあもうたくさんあるが、まずは私がどの角度から見てもいい男であることを教えてあげよう。







リザの言い分も聞かずに突然彼女の家に行きたいと言い出し、無理やり夕食を作ってもらう約束を取り付け、強引に小さな手を引いて司令部から彼女のアパートまでを歩いていた。
リザの部屋に私が行くまでのいきさつを要約すると「我が儘で身勝手」だと判断されそうだが、彼女はしぶしぶ許してくれたし、今も嫌そうな顔をしているが照れているだけだろう。
リザは私のことが大好きなので、たいていのことは大目に見てくれる。
愛されているって最高だ。
「中尉、星が綺麗だなあ!」
「声が大きいですよ」
「なんだ、まだ機嫌が悪いのか」
「うるさい方ですね」
手を繋いでいるというのに、リザは司令部にいる時のように私の斜め後ろを歩いていた。
まるで私が嫌がるリザを引っ張って歩いているような形である。
「なあ、中尉…」
「大佐っ!」
並んで歩かないかという提案は、リザのやや大きめな声で遮られた。
そして同時に、急に強く腕を後ろに引っ張られ、提案するまでもなくリザの隣に並ぶことができた。
情けなくもよろけた私の体を、リザが咄嗟に背中に手を添えて支えてくれた。
「…おい。なんだね急に…腕が痛いんだが」
「大佐、コオロギです」
「ん?コオロギ?」
「はい」
リザは真面目な声で答える。
足元を見ると、リザが腕を引かなければ靴底が踏み締めていたであろう場所に小さなコオロギがいた。
リザのおかげで命拾いをしたコオロギはぴょんぴょんと跳ねて、レンガの敷き詰められた歩道から草むらへと消えてしまった。
「…コ、コオロギ一匹すら見逃さないなんて、さすが鷹の目だな!」
「今年初めてコオロギを見ました。もう秋ですね」
「…うん。…そうだな、秋だな」
「ハヤテ号、まだコオロギを見たことないんですよ」
星空を見上げた時は素っ気ない返事をしたリザだったが、おかしなことにコオロギには興味があるらしく小さな虫が消えた草むらをじっと眺めている。
そして私は対応に困っている。
「コオロギですね」と言われても、「ああコオロギだな」としか言えない。
星を見て感動するのならば「君はあの星より輝いているさ」と言えるが、虫の場合は「君はあのコオロギより俊敏だよ」と言えばいいのか?
そんな変な褒め言葉に頬を染める女性なんて…いや、リザなら喜ぶかもしれない。
「…中尉って可愛いな」
星よりコオロギを気にするなんて、リザと一緒にいると新鮮な出来事ばかりを体験する。
今すぐリザをぎゅーっと強く抱き締めて、髪をぐしゃぐしゃにして、このときめきを彼女に伝えたい。
「…あ、ハヤテ号が家で待っているから早く帰らないと」
私の言葉を見事に無視したリザは、はっとしたように呟いて急いで歩き出した。
先ほどとは逆で私がリザに手を引かれて歩いている状態だ。
「大佐、早く歩いてください」
「さっきは君がしぶしぶ歩いていたくせに…」
リザは、私も手を繋いでいることも気にせず、早歩きで家路を急いでいる。
「…なあ、中尉」
「はい」
「君は本当に可愛いよ」
「はい?」
リザは私のことが大好きだが、私の方がもっと彼女のことを愛していると家に着いたら教えよう。







目を離した隙にまた逃げやがった。
主のいない執務室に盛大に私の舌打ちが響く。
デスクワークから逃げたって書類は溜まる一方だし、必ずいつかは片付けなくてはいけないし、というか逃げたって絶対に逃げ切れないのだから、嫌なことは早く片付けてしまった方がいい――
という普通の考えを大佐が持っているのなら、私はこんなに苦労しない。
大佐は嫌なことから限界の限界まで、本当にぎりぎりまで逃げようとする人だ。
深くため息をついて、机の上にできた紙の山と、書類の上に投げ捨てられた万年筆が目に入り、余計に苛々とした。
私が大佐の振りをしてサインを書いてしまえば数時間ほどで仕事が片付くんじゃないかと、怒りで沸騰している頭は馬鹿なことを考える。
椅子は大佐が逃走した時のまま、机の方ではなく横を向いていた。
何気なく、本当に何となく、座ってくださいというようにこちらを向いている椅子に腰を降ろしてみた。
当たり前だが座るのが初めての執務室の椅子は、かなり上等で座り心地が良い。
大部屋にある簡素な椅子とは、体を支える柔らかさも背もたれの大きさもまったく違う。
このふかふかの椅子ならば仕事がはかどりそうなものなのに、どうして大佐は逃げるのだろう。
書類にサインをしなければならないと決まっていることなのだから、すぐ終わらせてしまって、早く帰宅する方が良いではないか。
無意識のうちに厚く絨毯の敷かれた床を軽く蹴って、椅子をくるりと回しながら、大佐がどうすれば大人しく仕事に集中してくれるかを考える。
同時に、見慣れているはずの執務室の様子が、椅子に座るというだけで少し違って見えて、その景色をぼんやりと眺めた。
椅子に座っている大佐からは、立っている私はあのような角度で見えるのか…。
またくるりと椅子を回し、机と向き合っていた体が窓や棚と向かい合い再び正面へ戻った時、本当にちょうどよく、執務室の扉が開いた。
扉を開けたのはこの部屋の主であった。
そろそろ仕事でもしてやろうかという表情で帰って来た大佐が、私を見て固まった。
私も大佐と同じく顔も体も固まった。
椅子だけが、きぃ、と音を立てる。
やっと頭が状況を飲み込み、顔を赤くしながら慌てて立ち上がろうとした時、大佐の盛大な笑い声が執務室に響いた。
「中尉…っ、君、椅子で遊んでいたのか!」
腹を抱えて大笑いしているために言葉が途切れ途切れだ。
もちろん、勝手に椅子に座るなんて失礼な真似をして申し訳ありません、なんて言葉は大佐に届いていない。
「まさか中尉が椅子を回して遊ぶなんて、いいものが見れたな!サボって正解だ!」
正解なはずがない。
しかし、椅子を回す様子を見られてしまったという恥ずかしさが込み上げてきて、たしなめる言葉が上手く出てこない。
「どうだい、その椅子の座り心地は?いいだろう?」
「…あの、大佐…」
「私がいなくなって、恋しくて椅子に座ってみたのか?そうなのか?」
「これはですね、いま東方で大流行中の美容法なんです。遠心力によって血の巡りが良くなり肌が綺麗に…」
「あー、はいはい」
「いえ、実を言いますと…く、訓練をしていたんです。どんな状況であっても敵を見逃さないように、体を回して敵を狙撃する訓練を」
「ほうほう」
口からぺらぺらとでまかせを言ってみるが、目尻に浮かべた涙を拭っている大佐は当然ながら信じていない。
「…だ、大体…っ」
「ん?」
「大佐がサボるから悪いんでしょうっ!?」
私にしては珍しく逆ギレだ。
椅子から勢いよく立ち上がり、恥ずかしい場面を見られた悔しさをごまかすように怒鳴る。
「ああ、そうだな。まさか私がサボっている間に君が遊んでいるなんて…ははっ!」
大佐は私が椅子で回っているのを思い出したのか、また大笑いを始めた。
「笑わないでくださいっ!」
執務机から怒る私と、その向かいで腹を抱えて笑う大佐という変な構図であった。
私が怒鳴っているというのに、大佐が爆笑しているなんて、隣の部屋や廊下にいる人間からしても不思議な出来事だっただろう。
「可愛い中尉を見てやる気が出た。よし、今すぐ仕事を片付けるよ。そのあと食事に行こう!なあ中尉!」
「……この仕事がすべて片付いたらの話ですけどね」
何日も溜めていた書類達と大佐の睨めっこがいつまで続くのか見物だと思ったのだが、彼は見事にすべての書類を片付けた。
おまけに、大佐がにやにやと笑いながら明日の分の仕事にまで手をつけ、私の怒りを買ったのは言うまでもないことである。
最近女性達の間で人気の高級レストランに大佐を引っ張って行き、高いメニューを片っ端から頼んでやろうと、まるで戦に向かうように気合いを入れて、彼との待ち合わせ場所まで歩いた。







何の前触れもなく勢いよく大部屋の扉を開けると、部屋の中にはリザ一人しかいなかった。
今は深夜のためにすでに帰宅している者がほとんどであり、あとの者はどうやら出払っているらしい。
大部屋にリザが一人でいるなんてよくある光景だ。
しかし、私はリザの姿を見るなり、遠慮なく大声で笑い始めた。
目に飛び込んできた光景があまりにもおかしくて可愛くて、思わず腹まで抱えて笑ってしまう。
リザは私が笑うと予想していたらしいが、それでも機嫌を損ねたらしく、唇を尖らせて私を見上げた。
私が予告なしに部屋の扉を開けた時、リザは床を蹴って椅子を回していたのだ。
リザは部屋に一人だからと気が緩んでいたのだろう。
「…うるさいですよ、大佐。今は仕事中です」
「ほう、仕事中に中尉はまた椅子で遊んでいたのか」
うっ、と珍しくリザが言葉に詰まる。
先日、レストランで大量の料理をぺろりと平らげたリザの姿を思い出しながら、彼女の隣の椅子に座った。
「……考え事をしていたんです。決して遊んでいたわけではありません」
リザの手にはペンが握られており、机の上には制作途中の書類があった。
どうやらリザは考え事をする時に椅子を回す癖があるらしい。
「そんなことより、大佐、お仕事は進んでいるんですか?」
リザがさりげなく話の矛先を変えた。
リザは椅子を動かして体を隣にいる私の方へ向ける。
「君がなかなかそう言いに来てくれないから、ここに来たんだ」
「…私は大佐のお守り以外にも仕事があるんですよ」
「ここの椅子は座り心地が悪いなあ」
リザのため息交じりの言葉を無視して、彼女のように椅子をくるりと回転させてみる。
壁や机や棚など、見慣れたいろんなものが流れるように目に飛び込んでくるのを楽しんだあと、リザの正面でぴたりと動きを止める。
「なかなか楽しいな」
「何度言わせるおつもりですか。私は遊んでいるわけではありませんからね」
「執務室の椅子はもっと座り心地がいいし、楽しいぞー。さあ、遊びに来なさい」
「…いい加減怒りますよ」
リザは私をひと睨みすると、あたなには構っていられませんというオーラを放ちながら机へ向かってしまった。
怒られることを覚悟でせっかくリザに会いに来たのに、彼女が相手をしてくれなけば意味がない。
「……なあ、中尉」
「やっと仕事をする気になりましたか?」
「今すぐ立ちなさい。これは命令だ」
「…大佐」
リザをびしっと人差し指を向け、安っぽい椅子から勢いよく立ち上がった私をリザが呆れたように見上げる。
しかし、一度言い出したら聞かない私の性格を誰よりも理解しているリザは、ペンを置いて嫌々ながら立ち上がってくれた。
文句も出ないほど呆れ果てているようだ。
「立ちましたよ」
「よし、暴れるなよ」
「…ちょ…っ、大佐っ!?」
立ち上がったリザに背中を向けさせる。
後ろから抱き締めるように、リザの胸の下にしっかりと両腕を回し、彼女の体をぐいと持ち上げた。
驚いているリザに構わず、そのままぐるぐると回り始める。
「大佐っ!何をするんですかっ!?」
「ほーら、椅子より楽しいだろう?」
バレッタで纏めきれなかった金髪の後れ毛が目の前でふわふわと靡いた。
リザの体と脚が宙に浮き、抗議の声と一緒にぶんぶんと揺れる。
リザの甘い香りが漂ってきて、彼女は怒っているようだが、私は温かな体を腕の中に収めているだけで楽しかった。
「よいしょ」
私の目が回る前にリザを床に降ろした。
リザの両足が床に着いても腕の中から彼女を解放せず、さらに力を込めて抱き締める。
「…もうっ、いきなり何をするかと思えば…!仕事中にあなたは何をするんですか!それに私は子供じゃありませんっ!」
「でも楽しいだろう、こういうの」
「…あのー…」
私の腕から何とか抜け出そうとしても抜け出せず、仕方がなく顔だけ後ろを向いてリザが怒鳴る。
怒るリザの乱れた前髪から覗く額に口付けようとすると、どことなくだらしない声が耳に届いた。
声のした方を見れば大部屋の扉が開いており、金髪の長身男が気まずそうに私達を見ていた。
「あら、ハボック少尉。仮眠はもう終わり?」
「…いや、中尉、ほかにもっと言うことあるでしょ…。職場でイチャイチャしないでくださいよ…」
「…いっ!?いっ、イチャイチャなんてしてないわよ、少尉っ!」
「いーや、ハボックの言う通り私達はイチャイチャしていたんだ。お前は出て行け!」
「大佐!」
またリザが物凄い形相で怒る。
しかしリザはふと、後ろにいる私と、未だ部屋の入口で居心地悪そうに立っているハボックをちらちらと見比べた。
「……ハボック少尉にしてもらった方が楽しそうですね」
「何!?駄目だっ!そんなことは許さんぞ!」
「え?何の話ですか?」
背と体がただ馬鹿でかいだけのハボックをきらきらとした瞳で見つめるリザを、逃がさないように抱き締める。
リザはやはり回るのが好きで、椅子を回転させることはささやかな遊びだったのだと気付く余裕は、もちろん今はない。








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