キャンドル



まるでバケツをひっくり返したかのように雨が強く地面を打ち付け、さらには雷が真っ暗な空を気まぐれに照らしては轟音を響かせていた。
雷が落ち、その被害を見事に受けた我が自宅であるアパートは、停電してしまっていた。
アパート内は真っ暗で周りの状況がまったく見えなかったが、体が階段の位置や部屋までの道筋をしっかりと覚えていてくれた。
アパートの廊下を濡らさぬように控え目に走って部屋へ向かい、扉を開けて中に入るなり、疲れ果ててしまったかのようにどさりと床に座り込んだ。
勢いよく扉が閉まる音と、深いため息が重なる。
土砂降りの中を走ってきたためにパンプスは雨と砂にまみれ、素肌まで黒く汚れていた。
髪や服に染み込んだ大量の雨が雫となってぽたぽたと落ち、床に小さな水溜まりを作る。
その様子をたいした関心を抱かずにぼんやりと眺めながら、玄関の扉に背を預けた。
膝を抱え込んで、水を吸いすっかり冷たくなったスカートに顔を埋める。
暗くて寒い。
最悪だ。
停電しているために部屋の暗さはどうにもならないが、いつもの私ならば、風邪をひかないようにすぐに風呂に入り体を温めていただろう。
しかし、雨と雷に見舞われながら自宅に帰ってくるだけで疲労困憊し、今は何もやりたくなかった。
顔に張り付く濡れた髪や、水分を吸って重たくなった布が素肌に纏わり付いて気持ち悪かったが、動きたくない。
カーテンを開けたままにしているために、窓ガラスを強く叩き付ける雨も、空を裂くように光る雷もしっかりと見えた。
冷たく濡れた頬を膝に埋めたまま、窓の外の風雨で荒れている夜の様子を見つめる。
服から伝う雫が規則的に床に落ちる静かな音を聞きながら、今頃、中佐はあの傘を持って、無事に濡れることなく女性と一緒にいるのだろうかと考えた。
私のロッカーには、女性が持つにはあまり相応しいとは言えない大きくて地味な傘が、何か起きた時の予備も含めていつも二本入っている。
中佐は仕事を早く終えたかと思えば、こんな豪雨だというのに暢気にも楽しげな様子でデートへ向かおうとしており、そして呆れたことに彼は傘を持っていなかった。
遠慮なく心配や文句を口にしながら、私は中佐に「傘を二本持っていますから」と傘を一本手渡したのだ。
中佐は人一倍雨の日を気にするべき人間なのに、天気予報というものにまったく関心を持たず、それどころか天気自体を気にしてもいないだなんて、護衛をする私の身にもなってほしい。
下手をすれば命に関わることだというのに中佐が天気に対してあまりにもいい加減で適当なため、プライベートの時でも雨の日には彼のことを気にする癖がついてしまった。
気をつけてくださいね、と中佐を送り出した私に対し、彼も私に同じ言葉を返した。
中佐は私の言葉を守ってくれているだろうか。
私も中佐と同じ紺色の傘をさしてひどい雨の中を帰ったのだが、自宅が近付いた帰り道の途中で目に入ったのは、閉店した店の軒先で雨宿りをしている若い恋人同士だった。
暗い空を見上げて途方に暮れていたその二人に傘をあげてしまったため、今こんなひどい有様なのだ。
「家がここからすぐだから平気よ」と笑って傘を手渡し、レンガがすっかり水に浸っている路地に足を踏み出した瞬間にますます雨が強まり、雷まで鳴りだすのだから空は意地悪だ。
中佐やあの若い恋人は雨に打たれず、傘の下でお互いの体の熱で暖を取り合っているかもしれないと考えると、ひどく惨めな気分になった。
肌の上を雨が絶え間無く滑り落ちてとても寒い。
スカートが吸った水を緩慢な動きで搾りながら、中佐はいま無事なのだろうかと心配になった。
私のようにずぶ濡れになっていないだろうか。
デートを楽しんでいるだろうか。
安全な場所にいるのだろうか。
不躾にも上官のデートの様子を想像するこの気持ちが、ただのやきもちであったのなら可愛かっただろうと苦笑する。
このような強い雨の日に私と中佐が離れた別の場所にいると、時にとんでもない無茶をする彼のことを一晩中でも心配してしまう。
嵐の夜はベッドの中で早く雨が止むことを祈りながら、電話にすぐに出れるように浅い眠りにつく。
今の私は動きたくないのではなくて、動けないのであった。
中佐が無事であることを何度も想像して安心せねば、次に何もすることができない。
私は中佐の副官と護衛をする立場であり、それ以上でもそれ以下でもない。
恋人でも特別に親しい関係でもないのに、雨の日はずっと中佐の護衛をしていたいとまで考えるなんて気持ちが悪い女だ。
拘束や束縛を嫌う中佐からすれば、私は雨より質の悪い人間かもしれない。
何度目になるか分からないため息をつくと同時に、ドアノブが動き、背を預けていた扉が不意に開いた。
突然の出来事に、思わず扉と一緒にうしろにひっくり返りそうになる。
「…おい、ドアが開いて…。…あれ、少尉?」
「…中佐…?」
窓の外から雨が激しく地面を叩き付ける音が聞こえる中、聞き慣れた足音がここへ近付いてくるのを感じていたが、まさか本当にその足音の主が現れるとは思わなかった。
間抜けにも口をぽっかりと開けたまま、突然訪ねてきた中佐を見上げる。
アパートの廊下も部屋も相変わらず暗かったが、私を見下ろす人物は確かに中佐であった。
私がこの人を間違えるはずがない。
「…少尉、君は何でまたこんなところに…」
中佐が怪訝そうな表情を浮かべ私を上から見る。
中佐は私が扉の鍵を閉めていなかったことと、玄関に座っていることに驚いているようだった。
「中佐こそ…濡れていませんか?軍で何か緊急事態でもあったんですか?」
私はというと、中佐の突然の訪問に驚いていた。
しかし、中佐の服が濡れていないことと本人の無事を確認して、安堵のため息をついた。
中佐の左手には私が貸した紺色の傘がしっかりと握られている。
「いいや、特に何もないが…。それより、停電して大変だな」
「…良かった…」
お互いに噛み合わないことを口にする。
暗闇の中で、ふと私と中佐の視線がぶつかった。
中佐が眉を寄せながら私を凝視する。
「…少尉…まさかとは思うが…濡れていないか?」
扉を閉めて部屋に入ってきた中佐が、首を傾げながら腰を屈めて、床に座っていた私の腕を掴んだ。
服も肌も水に濡れているため、腕に伝わる中佐の体温がいつも以上に高く感じ、温かさが肌に染み渡るようだ。
「はい。少しだけ濡れて…」
「少しじゃないだろう!?びしょ濡れじゃないかっ!」
言葉を遮ったのは中佐の怒号で、大きな声に驚きに思わず目を見開いた。
暗闇に目が慣れてきたのか、中佐は床に腰を降ろしている私を信じられないという目付きで、上から下までまじまじと見た。
そして、中佐は服も肌も雨に濡れた腕を強引に引っ張り、私を無理矢理立たせた。
「まったく君は何をのんびりしているんだ!自分のこととなるといつもそうだな!」
「中佐?」
中佐が怒りに満ちたものすごい剣幕で私に怒鳴る。
「なんで君が濡れているんだ!?傘が二本あると言っただろう!?あれは嘘だったのか!?」
「傘は帰り道で雨宿りをしている人にあげてしまって…」
「そんなの無視しろ!ああもう!だったらどうしてすぐに風呂に入らないんだ!」
アパートが近かったので、という私の言葉はきっと中佐には届いていない。
中佐は怒鳴りながら私の腕を強く引いて、他人の家だというのに暗闇の中を何にもぶつからずすいすいと進んで、バスルームに向かった。
中佐は勢いよくバスルームの扉を開けると、私を突き飛ばすように四角い部屋の中へ押し込んだ。
強い力に押され思わずよろめくと、突然上から熱いものが降ってくる。
「…ちょ…中佐っ!熱いです!」
「体が冷えているんだから当たり前だ!」
ちょうどシャワーの真下に連れて来られたのだと初めて気が付いた。
中佐は、彼の言動に唖然としている私をよそにシャワーのコックを捻っていたのだ。
「あの…中佐…。服を着たままなんですけど…」
とても怒っている様子の中佐に恐る恐る声を掛ける。
中佐の言動は時として不可解であり、今回もあまりに突飛で非常識な彼に巻き込まれてただただ驚いている。
シャワーが降り注ぎ、お湯を吸った前髪が顔にぴたりと張り付いて、中佐の姿がよく見えない。
シャワーのお湯を吸った服もますます肌にくっつき重たくなっていく。
「まずは体を温めることが大事だ。風邪を引いたら怒るからな。服なら、シャワーを浴びながら脱げばいいだろう」
もう怒っているではないかという言葉を慌てて飲み込んだ。
冷たい雨が温かいシャワーのお湯によって洗い流されていく。
中佐は私に服を脱ぐように促しながらバスタブにお湯を張り始めた。
他人の家だというのに、暗闇をものともせずに相変わらず中佐はてきぱきと動いている。
服を着たまま熱いシャワーに打たれながら、私はぼんやりと中佐の動きを眺めていた。
「ほら、早く脱ぎなさい。私は明かりを持ってくるから」
すたすたとバスルームから出ていく中佐の背中を、髪から滴る水越しに見送る。
司令部でもこのように無駄なく動いて仕事をしてくれればいいのにと、そんな考えが頭を過ぎる。
明かり代わりになるようなものなど私の部屋にあっただろうか。
中佐に聞きたいことは多々あったが、とりあえず彼の言い付け通りにのろのろと服を脱ぎ始める。
雨が冷たく濡らした服は熱いシャワーのおかげですっかり温かくなっていた。
まだかじかんでいる指でブラウスのボタンを外しながら、先程の中佐とのやり取りを思い出す。
怒鳴り声は外で鳴り響いている雷のようにひどかったし、とりあえず中佐はとても怒っていた。
中佐がプライベートで鬼のような形相をするのはとても珍しい。
思えば、こんな短時間のうちに中佐に一方的に叱られたのは初めてかもしれない。
肌を纏う重たい布をすべて取り去って水分を搾り出し、バスルームから顔を出して服を洗濯籠へ向けてぽいっと投げる。
ついでに、中佐が何をしているのか気になって、こっそりと耳をすませてみた。
残念ながらリビングからはごそごそと怪しげな音が聞こえてくるだけで、中佐の様子は伺えない。
シャワーに打たれ、ようやく全身が温まってきた頃、ちょうどよくバスタブにお湯が溜まった。
シャワーから流れるお湯を止め、白い湯気が次から次へと浮かぶ湯舟へ身を沈める。
バスタブの中で思いきり体を伸ばし全身をお湯に浸けると、自然と安堵のため息がもれ、ようやく落ち着いた気がした。
雨に濡れて震えていたのが嘘のように体の芯まで温まり、額にうっすらと汗すら浮かんでいる。
「少尉、風呂に入っているのか?」
「はい」
中佐の声と共にうしろを振り向くと、扉の磨りガラス越しに彼の姿が見えた。
「入るぞ」
「え?」
私の了解を得ないまま、扉が開き中佐は堂々とバスルームに入って来た。
しかも、中佐はリビングにあるはずの椅子を片手に持っている。
勝手に持ち出し、ここまで引きずってきたようだ。
「ああ、大丈夫だ。暗くて見えないから」
「はあ…」
私は男性に裸を見られることに抵抗を覚えないが、自称フェミニストである中佐らしくない行動に首を傾げてしまう。
中佐は私と向かい合うようにタイルの上に椅子を起き、そこに座る。
「まだ寒いか?」
「大丈夫です」
風呂に入っている姿を、椅子に座った上官に見下ろされるなんて変な気分だ。
「なあ、最低限の明かりは必要だと思わないか?」
「え?」
バスタブの縁に置いた両腕に顎を乗せたまま、瞳だけを動かしだけ中佐を見上げる。
中佐は椅子以外にもバスルームに何かを持ち込んでいた。
いつの間にか手に発火布を嵌めている。
「明かり」の正体は、中佐が手慣れた動作で指を擦ったことによって明かされた。
「…その蝋燭…」
「ああ、私が君にプレゼントしたものだよ。リビングに飾ってあるものをひとつ持って来た」
細部まで繊細に花の造形を模して削られた蝋燭に火が燈され、焔が揺れる。
皿の上に置いた蝋燭を、中佐はすぐ横にある棚に置いた。
「バスルームにキャンドルなんて、ずいぶんとロマンチックじゃないか?」
「…そうですね」
中佐はたまに、恋人に投げ掛けるような言葉を私にも当然のように言うから返事に困る。
「でも…もったいないですね。綺麗な形をしているのにすぐに熔けてしまうなんて」
焔がじわりと花の形を熔かし崩していくのを眺めて呟く。
「使わないなら意味がないじゃないか。私がいっぱい贈ったのに、リビングに飾るだけで一度も使ってないだろう」
「…使う時がありませんし」
使う時はないが、本物の花と見間違うような美しい蝋燭を引き出しの中に閉まってしまうにはももったいなく、リビングの一角に飾っていたのだ。
「私がいる時に使えばいいさ。私ならマッチなしで火をつけられるぞ」
「マッチくらい私だって使えます」
やや尖った私の言葉に、中佐が返答に困った顔を浮かべた。
我ながら可愛くない物言いをする女だと思う。
しかし、私と中佐は恋人同士の間で囁き合うような会話をする仲ではない。
「今更ですが、中佐、どうして私の部屋に来たんですか?何か用事が?」
「あー…、傘を返しに来たんだよ」
「明日でいいと言ったはずです。それに、今日はデートだったんでしょう?」
「皆がいる手前デートだと言ったが、情報収集という名のデートだよ」
「…そうですか」
デートのあと、誤解を解く必要などないのに、中佐は私の前でいつもこうして弁解をする。
「…まるで浮気してないと言い訳されている気分です」
「そうとってくれてもいいよ。少尉には誤解されたくないから」
またこうして、中佐は私に恋人に言うような言葉をさらりと紡ぐから困惑する。
「……どうしていつもプレゼントが蝋燭なんですか?」
どうも気まずくなり、下手くそながら話題を変えてみる。
私達を照らしながらゆらゆらと揺れている蝋燭の焔に視線を移した。
中佐は時々私に「部下への労いだ」などと言葉を添えて、職人が趣向を懲らし作り上げた本物の花やお菓子に負けないほど色鮮やかで繊細なつくりの、何かを模した可愛らしい蝋燭をプレゼントしてくれるのだ。
ちなみに、私以外の部下が中佐から贈り物をされている場面は一度も見たことがない。
「君への贈り物はいつも悩むんだよ。アクセサリー類を贈って重いと思われたくないし、もちろんミニスカははかないだろう?少尉は食べ物なら喜ぶけど形に残らないし…」
中佐が私へ贈り物をするのはただの気まぐれだと思っていたのだが、まさかそこまで深く考えていたことを知り驚いてしまう。
「というか…少尉は蝋燭が好きなんじゃないのか?」
「え?」
「ほら、私が師匠に錬金術を習っていた頃、よく屋敷が停電になったじゃないか。あの時、よく二人で蝋燭を囲んだのを覚えていないか?」
「…覚えて…ます…」
「君が蝋燭の焔を真剣にじっと見ているから…てっきり蝋燭が好きなのかと思っていたんだが…。もしかして違ったか?」
「…いいえ。…好きですよ、蝋燭…」
お湯で温まった腕に頬を埋め、懐かしい昔を思い出す。
そうだ、あの古い屋敷は小さな嵐にも耐えられず、少しでも強く雨が降るとすぐに停電してしまった。
あの頃、父が自ら編み出した術を使って蝋燭に焔を燈してくれたことが嬉しかった。
そして、父とその弟子の象徴である小さな焔を眺めているのが好きだった。
何より、焔を囲んで父の弟子と寄り添い合い、たわいもない会話をする時間がとても楽しかったのだ。
「…だいぶ温まったな」
「……はい」
中佐の手の平が剥き出しの濡れた肩に何気なく触れて、顔には出さないものの少しだけ動揺した。
中佐は昔の私達の戯れの延長のように、私に気軽に触れてくるけれど、それはいつも布越しであった。
同じ軍人でも中佐は男性で私は女性であり、悔しいけれど手の骨格や肉付き、つくりそのものがまったく違う。
中佐の手の平と指は大きくて逞しい。
何でも簡単に掴むことのできそうな大きく雄勁とした手が、どんなに鍛えても男性には到底及ばない私の頼りない首筋を撫でている。
最近、中佐はこのように私に自分は異性なのだと認識させるような行動ばかりとる。
私が女で中佐が男だなんて、今さら思い知らされなくてもそんなことはよく分かっている。
ただ、私が意図的に無視をしてきただけだ。
「…なあ、少尉」
今までの会話で発していた声より少し低い中佐のそれが、湯気のこもった小さなバスルームに響く。
「なんですか」
「私達が…その、世間でいう恋人同士という関係になっても、今とあまり変わらない気がするんだ」
まるで子供が人形で遊ぶように無邪気に首をくすぐっていた指先が顎を撫で、頬に触れた。
中佐の大きな手の平が、まるで上を見ることを強制するように力を込めて頬に添えられる。
蝋燭の小さな明かりの元で、私と中佐の視線が静かに交わった。
「…そうですね」
「スキンシップは…今まで以上に増えるかな」
「でも変わることだってあります」
「怖い?」
「当たり前です」
私達が上官と副官という枠を越え、恋人同士になり、例えその関係がうまくいかり再び距離をおくことになっても、主従関係に影響が出るほど私と中佐の絆は脆くない。
しかし軍服を脱ぎ、個人となったロイ・マスタングとリザ・ホークアイの間には、元の関係には戻れないような決定的なひびが入ることは確実だ。
うまくいなかないかもしれないという可能性が少しでもあるのなら、このまま異性を意識せずに家族のように振る舞い兄妹ごっこを続け、今まで通り仲良くしている方が良い。
小さな過ちがきっかけで気まずくなり、中佐の側を離れてしまうのは嫌だ。
本物の兄妹のように遠慮も気遣いもいらずに過ごしたがさつだが温かみのある時間があまりにも長すぎて、そして、心地良くて、私はそこから抜け出すことに臆病になっていた。
中佐が私を「妹」として見ていないことなど知っていたが、気付かぬ振りをして必死に無視をしていたのだ。
「…君は物事を難しく考えすぎなんだよ」
確かに、私は立場だとか関係が崩れることだとかを、やけに深く、そして後ろ向き考えている気がする。
「中佐は考えなさすぎです」
しかし、思い付いたら頭より体が先に動く中佐を一番近くで見て支えてきたため、彼の分まで考える癖がついてしまった。
そして今も、中佐がただ一時的に沸き起こった感情に流され、思い付くまま行動しているのではないかと失礼ながらも疑ってしまうのだ。
「私、中佐が思っているような人間じゃありません」
「それを知って理解していくのも楽しみじゃないか」
「私は…気持ち悪い女なんです。とっても…。もう、中佐が思っている以上に。雨の日に中佐は錬金術を使えなくなるでしょう?だから空を呪うくらい…雨が降り続ける間は、空を睨みながらずっと中佐の護衛をしていたいと思うような、そんな変な女なんです」
「なんだ、大歓迎だよ」
不器用ながらも必死に力説した私を、なんと中佐は軽く笑い飛ばした。
バスルームの中に中佐の笑い声が響く。
「…私は、もう君を妹のように扱うことに限界がきている」
私だって、きっと中佐を兄や上官以上の存在として見ている。
感情を抑えている留め金を外してしまえば、中佐への想いが一気に溢れ出るだろう。
「今後君より大切なひとが現れるなんてことはないと断言できる。今までそうだったから」
焔が蝋を溶かして、見事な花の造形を模っていた蝋燭がだんだんと崩れていく。
一度火がついてしまったのがきっかけで、この想いを言葉にしてしまえば確実に私達の関係は変わる。
初めは蝋燭のように輝いていた私達の関係も、世の中の恋人達が出会っては別れていくように、いつか壊れて廃れるのだろうか。
それとも、中佐の言動ひとつにすら敏感に反応して、焔のようにゆらゆらと揺れるこの不安定な気持ちは、決して一時的なものではないのだろうか。
「リザ」
頬に添えられた両手に、優しいながらも確かに力がこもった。
「好きなんだ」
中佐がゆっくりと大切そうに紡いだ言葉に頬が熱を持つ。
私だって、私だって昔から中佐のことが――
湯船が水音を立てて大きく動いた。
私の体からお湯が雫となって滴り湯船へ帰っていく。
私はバスタブから身を乗り出して、そして中佐はそれを予期していたかのように自然と私を受け止めた。
鼻先がぶつかり合うほど顔が近づき、そして当然のように唇が重なり合う。
まるで初めから恋人同士だったかのように自然と体が動くことが不思議だったが、昔から想い合っていたのだから当たり前なのだろうか。
「…ん…」
私が息をついた隙をみて中佐の舌が唇から入り込み、くすぐったさに思わず目をつぶった。
中佐の手がまるで逃がさないというように頬と頭のうしろを支え、震える私の体を固定する。
舌を甘く噛まれて、両手が濡れていることに構わず、縋りつくように中佐のシャツにしがみついてしまった。
好きだという中佐の言葉と、まるで征服されるかのような激しい口付けに背中が痺れる。
まるで食べられているみたいだ。
息が上手にできずに喉で声を出した私に気付いた中佐が、慌てて口付けをやめる。
顔を離すと、中佐はまず私の唇の端から溢れた唾液を親指で拭ってくれた。
中佐は湯舟から立ち上がっている私を抱き締めようと背中に腕を回そうとしたが、彼のシャツが濡れることに気が付いて私は慌ててバスタブの中へ戻った。
勢いよく戻ったために湯舟のお湯が大きく動き、私がどれほど動揺し混乱しているかを表しているようだ。
「…あの…濡れます…よ…?」
「…あ、ああ…」
中佐のシャツが濡れるからというのは建前で、本当はあれ以上彼に近付くのが恥ずかしくて咄嗟に逃げたのだ。
大体、中佐のシャツの胸元は私が掴んだことによりもう濡れており、おまけにくしゃくしゃに皺がついている。
中佐と視線を合わせることすら恥ずかしく感じてしまい、つい彼に背中を向けてしまう。
「……少尉、リビングで待っているから」
女性の感情について敏い中佐がそれに気が付いたかどうかは分からないが、特に言及をせず、彼は何故か口を手で覆ったまま照れたようにそう言った。
そして、中佐は椅子をずるずると引きずってバスルームから出ていった。
バスルームの扉が完全に閉まった時、やっとまともに呼吸ができた気がした。
深く息を吸って、大きくはき出す。
まだ中佐の温もりがしっかりと肌と唇に残っている。
ふと雨と風の音が耳に届き、そういえば壁の向こうは豪雨なのだと思い出した。
外の荒れた天気と、いま私と中佐の間で起きている嵐はいい勝負だと思う。
蝋燭の焔を見ていると、先程の出来事を思い出してらしくもなく頬が熱くなるため、小さな明かりを消してしまうことにした。
不安定な形でゆらゆらと揺れている焔に息を吹き掛け、バスルームを暗闇に戻す。
明かりがなくてもあまり不便ではなく、いつも通り髪と体を洗った。
リビングでは中佐が待っている。
ここは私の部屋なのだから、当然逃げ場はない。
バスルームを出て一歩踏み出してしまえば確実に何かが変わると思うと、いちいち動きが遅くなり、体を拭くことも、パジャマのボタンを閉めることすらゆっくりになってしまう。
一歩一歩を踏み締めるように緊張しながら歩み、バスルームを出て中佐のいるリビングへと向かう。
一時の高揚した感情に流されて動くなんて私らしくない。
そう思う一方、口付けた時に込み上げてきた愛おしさは、決して一時的なものではないという強い想いがあった。
私はあの人が好きだ。
ずっと好きだったのだ。
この感情が、蝋燭のようにすぐ燃え尽きて熔けてなくなってしまうものだとは到底思えない。
今度は私が伝える番でしょう?
さあ、リザ。
いつもより大きく感じる扉の前に立ちはだかり、深呼吸をしてドアノブを握る。
私はリビングへと繋がる扉を勢いよく開けた。
「…わあ…」
「遅かったな」
目の前に広がる光景を見て、緊張も忘れ思わず感嘆の声を上げた。
自宅の一角であるはずのリビングは、まったくの別世界へと変わっていたのだ。
「…きれい…」
「だろう?」
中佐が得意げに笑う。
小さな焔が暗闇の中でいくつも揺れ、まるで星空を眺めている気分になる。
花を模ったいくつもの蝋燭がテーブルや棚などに置かれ、真っ暗なリビングを赤で彩っていた。
「こういう風に、蝋燭は私がいる時に使ってくれ」
「…はい…」
暗闇のために焔を燈された花がまるで宙に浮かんでいるように見えて、リビングが花屋になったようだとその様子に魅入る。
殺風景な私の部屋が、自称東方一の遊び人と焔の錬金術師にかかれば、目を奪われる異空間に変わることに驚く。
そして一番驚いているのは、満天の星空の下のように雰囲気のある場所に私と中佐の二人きりしかいないことだ。
「髪を拭いてあげるからおいで。…別にパジャマを着てなくても良かったんじゃないか?」
自分でいいムードを作り出しながら自ら一気にぶち壊した中佐に呆れるが、ソファーに座りタオルを手にして私を待ち構えている彼の元へ、素直に向かう。
「よいしょ」
中佐は私をまるで子供でも扱うかのように膝の上に座らせた。
中佐と真正面から接することになり、バスルームにいた時よりも彼が近いことに少し焦る。
「…あの…」
「ん?」
「…私、今まで中佐がお付き合いした方と違って可愛くないですけど…」
「そう悩むところが可愛いじゃないか」
「真面目に聞いてください。…中佐はよく私のことを鈍感っていいますけど、私、本当に鈍感で変で…」
「幻滅されたくない…とか考えてる?」
「…多分…」
「可愛い」
私の心配をよそに、中佐は嬉しそうに目を細めて笑う。
「…少尉は…見た目以上にあるよなあ」
中佐の息遣いや温もりが伝わることに慣れずに居心地悪い気分であったが、それはつかの間であった。
髪を拭く中佐の視線は、遠慮なく私の胸元へ注がれている。
私は目をすがめて中佐を睨み、深くため息をついた。
「……何も見えていなかったのでは?」
「好きな女性のものなら、普通は見ちゃうだろう。なあ」
「『なあ』じゃありません。…もう、柄にもなく緊張していたのにムードのないことを…外は雨と雷でうるさいし…せっかくの演出が台なしですよ」
「まあムードなんてどうでもいいんだよ。君がいれば」
中佐の手から髪を拭いていたタオルが落ちた。
恥ずかしさから文句ばかりを言ってしまう私の唇を、中佐が黙らせるように塞ぐ。
そして、背中に手を添えられたかと思えば押し倒され、中佐が私を見下ろしている。
兄妹のように遠慮のいらない関係から一歩進んで、何かあれば壊れてしまう男女の繊細な間柄になってしまうことが、ずっと怖かった。
しかし、ふとした瞬間に沸き上がる不安は中佐の太い腕に強く抱きすくめられるとたちまち消える。
中佐の指が布を取り払い素肌に触れても怖さを感じることはなく、むしろ、溢れんばかり思いを体ごとぶつけられることが心地良かった。
肌にそっと唇が触れるだけで、体の芯が甘く痺れる。
「…中佐…」
お互いの鼓動の音が重なり合っているのが素肌に伝わり、貪欲にももっと奥深くまで近付きたくて、中佐の裸の胸に汗ばんで前髪が張り付いてしまった額を擦りつけた。
「…好き、です」
「……私もだよ」
子供のような笑顔で中佐が笑うから、緊張がほぐれ、ついつられて私も強張っていた頬を緩める。
中佐を愛するのも、彼から目一杯の愛情を注がれるのも、決して一時的なものなんかではないと今なら断言できる。
私と中佐の体が溶け合ってひとつになってしまうのではないかと思うほどの熱に翻弄されながら、このような愛に満ちた戯れがこれからもずっと続いていくことを確信した。
何の隔たりもなく中佐の存在や体温を感じ、言葉にできないほどのどうしようもない愛おしさが募って、たまらず汗に濡れた黒髪に指を差し込んで引き寄せた。

嵐の夜には必ず二人で蝋燭の明かりを楽しむことが決まりとなり、風雨を忘れて穏やかに笑い合う時がずっと続いたことは、今は知ることのできない未来の話だ。








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