「ペンが動いていませんよ」
聞き慣れたはずの声が、妙な位置から耳に届くので未だ慣れない。
声の主は私の胸ポケットの中に潜んでいる。
ポケットからひょこりと顔を出して、大きな目を鋭く細めて私をじろりと睨んでいる。
「ああ、すまない」
ポケットの中にすっぽりと収まっている様子が可愛らしくて、書類の上で万年筆が止まっていたことを叱られてしまった。
「『すまない』じゃありませんっ!」
小さな声の主は、ポケットから勢いよく飛び出して、とんと無事に机の上に着地した。
さすが日夜体を鍛えることを怠らず、そして並外れた身体能力の持ち主だ。
他人がこの様子を見たら、私の胸ポケットからねずみなどの小動物が飛び出したと勘違いするだろうが、私はねずみを飼った覚えはない。
「仕事、してください!」
机に華麗に降り立ち、私の方を向き腰に両手を当てて怒鳴るのは、紛れもなく私の副官のリザ・ホークアイ中尉だ。
今の中尉は私が手にしている万年筆とほぼ同じような大きさに縮んでしまったが、可愛らしい容姿もバレッタも堅苦しい軍服も厳しさも、大きさ以外はすべて変わっていない。
「ほら、早くペンを動かしてくださいっ!」
中尉は書類のところまで駆けて行くと、万年筆のペン先をびしっと指差して怒鳴る。
「うん、分かった分かった」
「もう!いつもその返事ばっかりですね!」
中尉が真っ白な書類の上で、きつく握った拳を振り回しながら悔しそうに地団駄を踏む。
自分が本来の大きさであればひと睨みしただけで効果があるのにと悔しくてたまらないのだろう。
そう、元の大きな中尉ならば怖い言動が小さな彼女だといまいち迫力が足りず、怒っていても小動物がひょこひょこと動き回っているようで愛らしい。
今日はどんなセクシーな下着を身につけさせようか、メイド服でも錬成して作ろうか…。
などと、机に肘をつきその上に顎を乗せ、元から人形のように可愛らしかったのに、本当に人形のような姿になってしまった中尉を眺めながら楽しく悩む。
「た・い・さっ!し・ご・とっ!」
うっとり悩む私に痺れを切らし、中尉がとうとう鬼のような形相と、地に響くような声でさっさと仕事をするように脅迫する。
この表情や声は中尉が小さくなっても変わらず効果抜群で大変恐ろしい。
「分かった。ちゃんとやるよ」
ようやくやる気を出したのだが、懲りずに仕事をする前に中尉にちょっとした悪戯をする。
万年筆の上下を持ち直し、キャップの丸みで中尉の胸元を軽くつつく。
「わっ!」
「お」
「やめてくださいっ」
「あまり怒鳴ると声が枯れるぞ」
ペンの圧力に耐えられず書類の上でよろけた中尉の背をすかさず手の平で支え、肩の上に乗せる。
「ここで見張れば文句ないだろう?」
「…そうですね。嫌がらせもされないですし」
私と同じ目線に立ち、すべてが見渡せる位置にいるは中尉は、頬を膨らませており、先ほどの悪戯に機嫌を損ねていた。
あれは立派なセクハラなのだが、恥じらいもしなければ、セクハラだと気付かず嫌がらせだと思っているところが中尉らしい。
「……小さくなってもやはり柔らかいな」
「はい?」
私がぼそりと呟いた言葉が聞こえなかったのか、私の肩に腰掛け足を揺らしている中尉が首を傾げた。
先ほどからポケットの中でもささやかな柔らかさを感じていたのだが、その正体はやはり私の思った通りだった。
リザ・ホークアイ中尉のことに関して私の目に一寸の狂いがないことがまた確かになった。
「仕事しないとここで暴れますよ」
「それは光栄だな」
ペン先で突いた柔らかさと、いま感じる新たな柔らかさを堪能しながら、頬が緩むのを抑えきれずにペンを動かし出した。







まるで低く暗い場所から高く明るい場所へ引き上げられるように、眠っていた意識が現実へ向けて緩やかに浮上する。
休んでいた頭と体が徐々に感覚を取り戻し、自分が腕の中に柔らかな何かを抱いていることに気付き、目覚めたばかりだというのに胸が満たされた。
重たい瞼を開けると見慣れた色素の薄い髪が目に入り、緩慢な動きでそれに顔を埋めると甘い香りがした。
朝起きて一番最初に目に飛び込んできたものが中尉というだけで、とても幸せな気持ちになる。
髪に鼻を埋めたまま頬を緩めた。
まるで人形を抱いて眠る子供のように、まだ眠っている中尉をさらに強く抱き寄せる。
頭を少し高く上げてベッドの横のテーブルの上にある時計を見て、まだ起きるには早過ぎる時間であることに驚いた。
変な時間に目覚めてしまったと心中で呟きながら頭を掻きむしる。
だから、寝坊をする私と、毎朝早起きをする中尉がいつもと逆の立場なのはそういう理由か。
いつも私より先に起きるはずの中尉がまだぐっすりと眠っており、まったく起きる気配を見せない。
「中尉…おい、中尉」
もう一度眠りに戻る時間は十分にあるのだが、再び眠るという選択肢を私は選ばなかった。
やけに目が冴えて二度寝できそうにない。
そして、一人で起きているのはとつもつまらない。
中尉からしてみれば迷惑すぎる話だが、彼女が恋しいという私の身勝手な理由で彼女を起こしにかかる。
「中尉、朝だぞ。中尉ー」
「…た…いさ…?」
体を軽く揺さ振りながら何度か中尉に呼び掛けると、彼女がゆっくりと瞼を開いた。
中尉は今にも再び眠ってしまいそうな顔でのろのろと目を擦り、彼女らしからぬ気の抜けたぼんやりとした瞳で私を見る。
「…いま何時…?…まだ暗いですよ…」
中尉はカーテン越しに差し込む光がいつものように明るくなく、まだ薄暗いのを見て不思議そうな表情を浮かべた。
おはようのキスと称して額に口付けても、中尉は部屋の暗さが気になるのかまったく反応してくれない。
「ああ、私が早く起きすぎただけだ」
「…なんで…私まで…起こさないでください」
寝起きのために中尉は掠れた声でゆっくりと言葉を紡ぐ。
「…早起きしてほしい時はいつも寝坊するのに…変な時だけ…」
中尉は不満を最後まで言うことなく、うとうとと再び目を閉じてしまった。
放っておけばまたぐっすりと眠ってしまいそうな気がして、わがままながら慌てて中尉を起こすように揺さ振る。
「中尉、寝るな」
「…やだ…」
中尉は目を閉じたまま、私の声が届かぬところへ逃げるようにブランケットの中へもぞもぞともぐっていく。
いつもの私のようだ。
眠りを妨害されないように中尉が頭まですっぽりとブランケットに埋まってしまったのを見て、いつも彼女が私にするように負けじとブランケットを剥ぎ取る。
「…寒い…」
「寒いなら…そうだ、風呂に入ろうじゃないか。な、一緒に入ろう」
「…眠い…」
「風呂に入ったら目が覚めるぞー。温まって、朝食を食べて、余裕を持って出勤しようじゃないか。うん、いつも慌ただしいがゆっくりとした朝もたまにはいいな」
ちなみに朝食を作るのは私ではなくもちろん中尉である。
さらに付け足せば、私達の朝がいつも慌ただしいのは、私が寝坊をしたりベッドからなかなか出なかったりして中尉の手を煩わせるからだ。
「…私は眠いんです…」
中尉は未だ目を閉じたまま手探りで私の手の中にあるブランケットの端を掴み、取り返そうと引っ張ってくる。
「なあ、中尉、起きるんだ。そして風呂に入ろう」
「…寒い…」
「だから風呂に…」
「…眠い…」
「…さっきから同じことしか言わないな」
「…だるい…」
同じようなやりとりを繰り返す中、中尉がぽつりと口にした言葉を聞いて、ブランケットを奪い取っていた手が止まる。
中尉の剥き出しの白い肩をちらりと見ると、痛々しくも歯型の痕がついていた。
昨晩の情事で勢い余って私が噛み付いてしまったのだが、一晩たって冷静になった今、その痕を見てみると申し訳なさが込み上げてくる。
昨日は暗くてよく見えなかったが、今は部屋が少しだけ明るくなっており、白い肩にくっきりと歯型が残っているのがよく見える。
中尉がだるく眠い理由は私が一番よく分かっている。
だって私が原因なのだから。
「…その…すまないな…」
もう若いとはいえない年齢だというのに、乱暴にがっついて、そして最低なことに見境をなくして中尉を傷付けてしまうとは恥ずかしい。
肩の赤い痕を隠すように、中尉から奪ってしまったブランケットをそっとかぶせた。
中尉は私の謝罪に対して何も言わず、ブランケットを返してもらって一安心したのか、嬉しそうに再びそれに包まった。
ブランケットを取り戻し、中尉の意識は再び眠りの世界へ向かっているようだ。
自分のわがままで早く起こしてしまわずに、いつもの起床時間まで寝かせてあげた方がいいだろう。
珍しく反省の念が込み上げ、せめてものお詫びに下手くそながら朝食でも作ろうかとふと思い付いた。
中尉を起こさぬようそっと体に絡めていた腕を離し、ブランケットから抜け出して床に足を乗せる。
すると、突然腕に何かが巻き付き、うしろから強く引っ張られた。
急な出来事に思わずベッドに腰掛けたままよろめいてしまう。
「中尉?」
驚いてうしろを振り向くと、中尉の白い腕が私の腕を離すまいというように絡み付いていた。
「…寒いんです…」
中尉はまるで眠っているかのように目を閉じているが、腕を引っ張る力はその顔からは想像できないほど強い。
指先にちょうど柔らかいものが当たっていることが非常に気になるが、中尉は特に気にならないのか、ずるずると私の腕を引っ張りついには腕を枕にして寝ようとしている。
「…寒いの?」
「寒いんです」
中尉は私の腕にしがみついたままこくりと頷く。
側にいてほしいと素直に口にしないところが中尉らしい。
再びベッドに戻りブランケットごと中尉を抱き寄せると、彼女は温かい布を脱ぎ捨て、まるで猫のように嬉しそうに胸に擦り寄ってくる。
頬が緩むのを抑え切れないまま、背中に腕を回して中尉の白い体を抱き締める。
目を閉じている中尉の顔は一見無表情に見えるが、長年の付き合いから彼女が満足していることがすぐ分かる。
遠慮なく押し付けられる裸の体が柔らかくてますます眠れそうにないが、中尉の可愛らしい姿に免じて大人しく抱き枕に徹しよう。







「大佐、朝ですよ。大佐」
「…んー…」
眠そうな声と共に肩を揺さ振られ、ふと夕べは腕の中にいたはずのリザがいないことに気が付いた。
重たい瞼を緩慢な動きで開く。
「おはようございます」
「……おはよう、中尉」
リザはベッドから上半身を起こしており、口に手を当てて大きくあくびをしていた。
私より早起きして起こしたものの、リザも十分眠そうである。
目を擦りながらリザが豪快にあくびをする様子を、まだいつも通りに機能しない頭で寝そべったままぼんやりと眺めていると、ふとあることに気が付いて口元を緩めた。
一気に眠気が覚めた。
そして思わず同時に笑い出してしまう。
「…何ですか?」
枕に頬を埋めたまま体を揺らして笑い出した私を、リザが変なものを見る目付きで冷たく見下ろす。
「中尉の寝癖は相変わらずすごいなあ」
大笑いしながらそう指摘すると、リザは途端に恥ずかしそうに私から視線を逸らした。
「……うるさいですね」
普段は真っ直ぐなはずなのに、今は言う事を聞かないようにいろんな方向を向いている自らの長い金髪を、リザは横目でちらりと見た。
「毎朝これで嫌になっちゃいます」
そして、リザは、まるで彼女の愛犬が体についた毛を払う時のように、豪快にぶんぶんと左右に頭を振った。
もしかして頭を振って寝癖を直しているつもりなのだろうか。
「……おいおい、ハヤテ号じゃないんだから」
どんなに頭を振っても、余計に髪の毛が膨らんで乱れるだけだ。
「…もう、絡まりやすくて嫌です」
そして次に、リザは絡まった毛先同士を解こうと乱暴に髪に指を通した。
当然、毛先に適当に差し込んだ指は髪を擦り抜けることができず、むしろますます絡まりが強くなる。
「…まったく…君は犬でも子供でもないんだぞ」
髪をぞんざいに扱うリザの様子を見兼ね、よいしょとベッドから身を起こした。
乱れた髪と格闘しているリザの背中と向かい合うように座り、金髪に触れている彼女の手を掴んだ。
その手をリザの膝の上に置く。
「私がやってあげるから、君は少し大人しくしていなさい」
リザのせいで余計に髪の毛があちこちを向き、ぼさぼさになった頭を軽く叩いて彼女に何もしないよう促す。
「……私、子供じゃないんですよ」
「子供や犬みたいなことをしていたのは誰だ」
陽の色をしている色素の薄い髪に指を差し込み、頭のてっぺんから優しく梳かしていく。
リザの髪は柔らかく細いために、ちょっとしたことでも癖がつきやすいのだろう。
リザはこの自分の髪の性質に困っているようだが、絹糸のように美しくしなやかな髪に頬擦りするのが私は好きだ。
リザの背中を覆う金の髪を梳かし、次に毛先を痛めぬように絡まった髪の毛同士を解いていく。
私の副官になりたての頃は少年と見間違うほど短く切り揃えられていたリザの髪は、今は胸をすっかりと隠してしまうほどまで伸びている。
胸元でふわふわと揺れる長く綺麗な髪はリザによく似合い、彼女をより女性らしく、そして余計に可愛らしく見せるから少し困っている。
「君は女性なんだから、少しは髪を大切に扱いなさい」
「面倒なんですよ、髪が長いのって。前みたいに短くしたくなります」
枕の縁を指でいじりながら、リザが拗ねた声でぶつぶつと文句を言う。
「でも可愛いじゃないか。もちろん髪が短いのも似合うが、髪が長い君もすごく可愛いぞ」
「……いろんな方にそう言っているんでしょう」
「まさか」
この私の何気ない言葉がきっかけで、リザが何度も短く切ってしまおうと思った髪を、毛先を切り揃えるだけに留めてきたことを、私は知っている。
リザの答えはひどく素っ気ないけれど、この長く美しい髪が私の言葉で保たれていると思うととても嬉しい。
「ほら、できたぞ」
手で梳かしただけで、リザの髪は彼女の真面目な性格を表すかのようにいつも通り真っ直ぐになった。
リザの反応がないために、前を向いている彼女の顔をそっと覗き込むと、彼女は照れたように頬を桃色に染めていた。
リザが俯くと、柔らかく長い金の髪が可愛らしい横顔を隠してしまう。
頬を緩めながら金色の頭のてっぺんに口付けると、リザの甘い香りが鼻を掠めた。
慌ただしい朝の始まりに、心が満たされる小さな幸せを感じた一時だった。







仮眠室に行ったはずのリザが、生気のない顔でまるで幽霊のようにふらふらと大部屋に戻ってきた時は驚いた。
連日の残業がようやく終わって一休みしようかと思えば運が悪くも仮眠室が空いておらず、途方に暮れながらどこで寝ようかとさ迷っていたところらしい。
眠そうなリザが大部屋の安っぽいソファーで寝ると言い出した時は慌てて止めた。
大部屋ではまだ仕事をしているやつがいるし、第一男所帯の軍内で無防備に眠るなんて危険だ。
リザが簡単にそこら辺の兵士に襲われるとはこれっぽちも思っていないが、それでも心配だし、絶対に安全だと言い切れないのだからそれは避けた方が良い。
なので私はリザに客間のソファーで寝るようにすすめた。
こんな深夜に来客は来るはずはないし、あそこのソファーはなかなか上等なので眠るのに差し支えはないはずだ。
それに、まさか客間で誰かが眠っているとは思わないだろうから、これで兵士がリザに近付く可能性は消えた。
これで一件落着だ。
「……どうして大佐がいるんですか?」
客間に向かうリザのうしろをついて歩き、処理すべき書類を持ち込んだ部屋に私を見て彼女は首を傾げた。
「大佐は執務室にいればいいでしょう」と言いながら、リザはバレッタを外し髪を解いて、早々とソファーに体を横たえた。
客間で眠るリザを襲うやつなどいるわけがないが、何度も言うようだが彼女は襲われるより襲う人間だが、それでもやはり絶対に安全な環境などないのだから心配だったのだ。
それから、リザを部屋に一人にしないで、彼女の側にいた方が安心して仕事ができるという私の勝手な理由もある。
リザは、まさか客間でサボる気ですか、なんてぶつぶつと文句を言っていたが、連日の残業と疲労に負けてすぐに瞼を閉じた。
というわけで今、テーブルを挟んだ向こう側のソファーにうずくまり、ブランケットをかぶってリザはぐっすりと眠っている。
リザが向かい側にいれば彼女に見張られている気分になり、仕事がはかどると思ったのだが、逆に彼女のことが気になってしまった。
気が付けば書類の上を走らせるペンを止めてリザの寝顔を眺めてしまう。
そしてしまいには、リザの眠るソファーに近寄って床に膝をつき、彼女の寝顔を間近で眺めていた。
リザが眠る姿を見ることは初めてではないのに、なんだか彼女に興味が沸いてしまうのだ。
相変わらず綺麗な顔をしていて飽きさせないなと思う。
リザは私が顔を覗き込んでも起きる気配を見せず、穏やかにすやすやと眠っている。
リザが眠る表情からは「鷹の眼」と恐れられる鋭さや、いつもの隙のなさが消え、安心しきった顔はいつもより幼く見えた。
私の親友から「お前らは兄妹みたいだな」とよく言われるが、リザと私との長年の付き合いが、この私と二人きりの空間を彼女に安全だと認識させているのだろう。
リザのあどけない寝顔が、ふと彼女がまだ幼かった頃や、先週会った親友の愛娘を彷彿とさせる。
母親の腕の中で眠るエリシアのふっくらとした頬を、ヒューズに隠れて指でつついてみた時のように、リザの頬にそっと指先で触れてみる。
真っ白な肌はしっとりとしていて柔らかい。
そういえばエリシアは眠りながらグレイシアの指を掴んでいたけれど、リザはどうなのだろう。
口元に当てられているリザの手をそっと取り、握ってみる。
私より少し温度の低い手は、指を握り返すことはなくただ私の手の平の中に収まっている。
もう成人してしまうと握り返すことはなくなるんだなと、兄ではなく今は父親のような気分で、新たな発見に少し寂しさを覚える。
私より一回り小さな手を握りながら、穏やかな寝息をたてて眠るリザをじっと見つめた。
ヒューズのやつは、生まれたばかりのエリシアがいつかは嫁に行くことを今から嘆いていたが、今ならその気持ちが少し分かるような気がした。
安らかな寝顔が昔の幼いリザを思い出させても、やはり彼女は大人になった。
見惚れてしまうほど端正な顔立ちはそのままに、リザはより美しく優しい女性に成長したのだ。
いつかリザはどこかに嫁にいってしまうのだろうか。
花嫁姿のリザを頭に思い描くと、言葉で表すのは難しい漠然とした寂しさが胸に広がった。
リザは結婚に興味はないといつも言っているけれど、彼女の心を揺るがす男が今後現れるかもしれない。
リザが結婚をして最愛の夫ができても、彼女は今まで通り私のお守りをしてくれるだろうか。
リザの気持ちが上官である私より愛する夫の方へ向くことを考えると、かすかな苛立ちを覚えた。
「大きくなったらパパと結婚するの!」
愛娘が嫁ぐことを欝陶しくめそめそと憂いていたヒューズに対して、エリシアが無邪気に放った言葉を思い出す。
あの時、ヒューズは幼いエリシアの言葉を真に受けて思いきり喜んでいたが、これも、今ならその気持ちが理解できる気がする。
娘を抱き上げてはしゃぐヒューズを見てあの時は呆れたが、あれは実に嬉しい言葉だ。
リザが私と結婚したいと言ってくれたら――
今までのように献身的と言えるまで私に尽くし副官を続けてくれるだろうし、この苛立ちも寂しさも、すべてが丸く収まるんじゃないか?
「……さすがに父親を気取りすぎだな」
私はリザの本当の父親ではないし、第一彼女はもう子供ではないのだからとやっと気が付いて苦笑する。
勝手に父親を気取って感傷的になったり喜んだりしたことを一人恥じた。
馬鹿馬鹿しい考えを振り払うようにリザの手を離して、ため息をひとつついて仕事へ戻った。







※101話のネタバレを含んでいます。





「中尉!中尉っ!」
耳に馴染んだあの人の声が、私を何度も呼んでいる。
五感が眠りから目覚めようとしているけれど、まだ頭と体が思うように動かず、瞼が重たい。
「中尉!目を覚ませ!」
シーツの上で体を激しく揺さ振られ、まるで川の奥底に潜む魚が陸に釣り上げられたかのように、自分の意思ではなく無理やり起こされた。
必死な声、痛いほど肩を掴む手、夜の寒さ。
たくさんの情報が一気に私を襲う。
「起きるんだ、中尉!」
「…た…いさ…?」
瞼を開けて一番最初に飛び込んできた人物を、寝起き特有の掠れた声で呼んだ。
隣で眠っていたはずの大佐は、何故か私の上に覆いかぶさっている。
「…中尉…」
「何か…あったんですか…?いま何時…?」
大佐はひどく切羽詰まった真面目な顔で私を見下ろしており、じわりとインクの染みのように不安が心に広がる。
カーテンの向こうは未だ暗闇で、起きる時間にはまだほど遠いことが分かった。
寝ぼけながらベッドの横にある時計を見ようとすると、ふと、いつもより温度の低い大佐の手が首に当てられた。
時計を見るために頭を起こそうとした動きを思わず止める。
大佐の手の平が恐々と触れているのは、あの時の傷だ。
ふと、肌寒いことに気が付いて視線を下へ向けると、パジャマの前がはだけられ、キャミソールがたくし上げられているのが見えた。
「…血が出ていない」
「……はい」
刃物で切り付けられたことにより残った深い傷痕がもう塞がっていることを、大佐は丁寧に確かめるように何度も何度も撫でる。
「…動いている」
そして、次は左胸に手を乗せ、素肌を伝って心臓の上にそっと指先を当てた。
大佐の手が冷たくて軽く身震いをするが、努めて大人しくする。
指先のすぐ下で心臓がゆっくりと鼓動を刻むのを、大佐は黙って感じている。
「……どうしてすぐに起きないんだ」
口調は私を責めるものだったが、安堵したような声色で、大佐は私の裸の胸の上にそっと頬を埋めた。
大佐は今度は胸に耳を押し当て、生きている証である音を直接聞いている。
「…ごめんなさい。疲れていたんです」
「当然血なんて出ていないし、心臓だってちゃんと動いている。…でも、君がなかなか目を覚まさないから」
だから、焦りながらパジャマを剥ぎ取るようにしてボタンを外し、私を必死に揺さ振り起こしたのだろう。
「…またあの時の夢を見たんですか?」
大佐の背を撫でると、いつも大きく感じるそれが今は小さく感じた。
「……最悪だ」
「あなたは『死ぬな』と言ったでしょう。だからこうして私は生きているんです」
「…君が悪いんだ。すぐに起きないから」
大佐の額に滲んだ冷や汗と、何か冷たいものが素肌に突き刺さるように染み込む。
私が首を傷付けられたあの時の夢を見て、大佐がうなされるのは今夜で何度目になるのだろうか。
私が眠っている間に、大佐がどんな気持ちで、どんな表情で私が生きているかを確かめていたかを考えると胸が痛い。
ふと泣き出しそうになる気持ちを唇を噛むことで抑え、子供をなだめる時にするように、黒髪に指を差し込んで撫でた。
優しすぎるこの人が、あの時を思い出して感情が不安定になることや、私のせいでひどい悪夢を見続けることが苦しい。
しかし、大佐が苦しんでいるからこそ、私は弱音を吐いてはいけないのだ。
私には魔法の言葉がある。
「…大佐、命令を」
「……死ぬな」
「了解しました」
「絶対に死ぬな」
「絶対に死にません」
胸をくすぐる大佐の呼吸がだんだんと穏やかになっていき、彼はようやく安心したように体から力を抜いて目を閉じた。
強くて弱い優しい大佐が悪い夢の世界へ連れて行かれないように、まるで人形でも抱くようにしっかりと彼を胸に抱き寄せた。








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