「わあ…すごい部屋…」 「だろう?スウィートルームだからな」 ホテルの部屋の扉を開けると、リザは歩みを進めることなくその場に立ち尽くした。 リザは目の前に広がる部屋の様子に驚いている。 好奇心旺盛な子供のように、目をきょろきょろとさせて華やかに内装された室内を物珍しそうに眺めるリザの様子に、自然と口元が緩む。 ホテルの最上階にあるこの部屋は、どれも一流品であろうアンティークな家具が置かれ、その上には色とりどりの花が飾られている。 「ハヤテ号、出て来ていいわよ」 リザは胸に大切に抱えていた大きなかばんを絨毯の上に置くと、急いでファスナーを開けた。 すると、かばんの中からブラックハヤテ号がひょっこりと顔を出す。 「よく大人しくしていたわね。いい子」 リザが優しい表情を浮かべてブラックハヤテ号の頭を撫でる。 「ばれなくて良かったな」 私達はこっそりとホテルにブラックハヤテ号を連れ込んだのだが、ロビーでもエレベーターの中でも、リザの愛犬はずっと大人しくしていた。 「トイレはここ。あとは好きな場所で寝ていいからね。あ、汚しちゃ駄目よ」 リザがブラックハヤテ号の簡易トイレを用意しながらそう告げると、彼女の愛犬も飼い主に似てこの部屋に興味津々なのか、ワンと元気よく返事をすると絨毯の上を駆けて隣の部屋へ行ってしまった。 「…ここ、部屋が何個あるんでしょうか」 「さ、私達もここにいないで、この部屋を楽しもう」 未だ入口に立っているリザの手を引いて、毛が柔らかで色鮮やかな絨毯の敷かれた部屋の中を歩く。 壁には有名な画家が描いたであろう絵が飾られていたが、そんなものは目に入らず、急いでネクタイを緩めた。 スーツのジャケットを脱ぎ、絨毯の上に適当に放り投げて、水の中に入るように広いベッドの上に勢いよく飛び込むと、リザがむっと顔をしかめた。 「…もう。脱ぎ散らかしたら駄目って、いつも言っているじゃないですか」 リザはジャケットを拾い上げるとハンガーに服を掛け、壁のフックに吊るす。 「お、さすがは新妻」 「いつもやっていることでしょう」 リザは呆れた様子でそう言いながら、背中の秘伝を隠すために羽織っていた黒いストールをテーブルの上に置いた。 結婚式後の二次会用に用意した栗色のビスチェドレスを着ているリザは、私と同じくベッドに俯せに倒れ込んだ。 「あ、リザ、靴脱ぐか?」 「…脱ぎたいです」 「どれどれ」 花飾りのついているドレスに合わせた華奢でヒールの高いパンプスのストラップを外して足から脱がせると、リザがうーんと唸りながら体を伸ばした。 私も靴を脱いで再びベッドに上がり、リザと二人、天井を眺めながら仰向けに寝転がる。 「夫の初仕事だな」 「いつも脱がせてくれるじゃないですか」 「いや、それはできるだけ君の脚に触りたくて…」 「え?」 「何でもないよ」 リザとようやく夫婦になれたというのに変態だと怒られるのは嫌だ。 話を逸らすように、ベッドの上に投げ出されていたリザの手を掴むと、彼女は自然と私の指に自分のそれを絡める。 「…天井まで豪華ですね。シャンデリアがあるなんて…」 「結婚式が終わったら、すぐにこの豪華な部屋で君と夫婦の愛を確かめ合おうと思って予約したのに…。二次会も三次会も、あんなに伸びるんだもんな。もう朝じゃないか…酔いなんて醒めたよ」 「でも…楽しかったじゃないですか」 「…そうだな」 ふふっと頬を緩めて笑うリザは、たくさんの知り合いや友人達が、夫婦になった私達を見て喜んでいたことを思い出しているのだろうか。 よく晴れた日の午後、私とリザは都会から離れた小さな教会で結婚式を挙げた。 「終わってみると、どっと疲れが出ますけどね」 「そうだな。…君のウェディングドレス姿、とても綺麗だったよ。やっぱりカメラマンを雇って良かったな!」 「…私はフラッシュをたかれる度にすごく気が散ったんですけど…恥ずかしくて」 「…本当に美しかった…。まるで女神を見ているようだったよ」 白い肌の上に純白のウェディングドレスを身に纏ったリザは儚げながらも、目に眩しかった。 気品を漂わせながらドレスに身を包んだリザは美麗としか表現できない。 「どこかの国の姫のようだ」と何度も褒めると、少し恥ずかしそうに私に対して微笑むリザを思い出して、つい頬が緩む。 「…結婚式って…あんな感じなんですね」 「どんな感じ?」 「実感がわかないまま始まって、盛大さに圧倒されて…。友人から『おめでとう』って言われて、やっと結婚したことを感じるような…不思議な日でした」 「確かに何だか不思議な日だったな…。皆からあんなに祝福されるなんて、きっともう二度とないよ」 私達を見る友人達の嬉しそうな笑顔、そしてシャワーのように浴びせられた祝福の言葉を思い出すと、自然と胸が温かくなる。 「…本当に結婚したんだな」 「…そうですね」 「嬉しくて気を抜いていると、明日辺りグサッとやられるかもしれん」 「その時は私も一緒です。…罪深い結婚ですね」 「…そういえば…君って意外に泣き虫なんだな。友人にお祝いの言葉を言われる度に泣いて…可愛かったなあ。あと、赤くなった目尻がすごく色っぽかった……」 「…あっ!やっ、夜景が綺麗ですよ!」 リザのことを抱き締めようとすると、彼女は私に泣き虫だと指摘されて恥ずかしかったのか、ベッドの上からから飛び上がるように起き上がって、裸足でカーテンの開けられた窓辺に向かった。 いつも私の背中について来てくれるのに、風に靡く花びらのようにどこか掴み所のないリザは、結婚をしたというのに、やはり思い通りにはいかずに簡単に私から逃げる。 「夜景?そんなのどこにあるんだ?もう日が出てきてるじゃないか」 「…心の綺麗な人にしか見えないんです」 「何を言っているんだ」 窓ガラスの向こうは、夜の暗さが太陽の光によって青白くなり、夜が消えかかっている。 窓辺に立つリザを背後から抱き締めて、昔と比べるとうんと長く伸びた髪を器用に結い、高い位置で花飾りと共に纏めてある金の頭に鼻を埋めた。 リザは、腰に回した私の腕にそっと手を触れ、同時に私の胸にわずかに体重を掛けて寄り掛かり、体を預けてくる。 しばらくリザと一緒に、だんだんと明るくなっていく町並みを眺めた。 「…父も母も、きっと喜んでいますね」 夜の青と朝の赤が混じり合った空を見てリザは呟いた。 「…私はホークアイ師匠に燃やされそうだな」 「きっと笑ってますよ」 「そうだといいんだけど」 「…ヒューズ中佐も、きっと笑っています」 「…ん」 リザの言葉は穏やかで、ひたすら私に優しい。 懐かしい人を思い出す時に感じる小さな胸の痛みを、これからはリザと二人で分け合っていくのだと思うと、寂しさではなく心が温かいもので占められる。 「…いたっ」 「ごめん。目の前にあったから」 つい愛おしくなって、剥き出しの白い肩に軽く歯を立てると、リザが痛みに小さく声を上げた。 「…こうしているとリザの匂いがする」 「え?」 石のネックレスの掛かったリザの細い首に鼻を擦りつけると、彼女が不思議そうに頭を傾げる。 「式の最中にリザに近付いても香水の匂いばっかりで、君の匂いがしなかったんだけどさ」 「…だって着付けの係の方に香水をたくさん振り掛けられたんです」 「でもこうして思い切り近付くとリザの匂いが…」 「きっ、気持ち悪いことを言わないでくださいっ!」 「気持ち悪くない!」 「わっ」 リザの腰をがっしりと掴んだまま、勢いよくうしろにあったベッドに再び倒れ込む。 「…もう…重たいんですけど…」 私の下敷きになったリザは、何とか私の下から逃れようとシーツの上で手足をもがく。 しかし、そうはさせまいと、ドレスが大きく開いているために剥き出しになっている背中に体重を掛けて覆いかぶさって、腰に回した手にさらに力を込める。 「逃げないでよ、奥さん」 「奥さんって…」 「奥さんだろう?」 「…そうでした」 リザは私から逃げるのを諦めたのか、体から力を抜いて大人しくシーツの上に身を埋めた。 「リザ」 「ひゃっ」 ピアスごと耳たぶを口に含むとリザの白い肩がびくりと跳ねる。 「…もっと色っぽい声を出してくれよ。相変わらず耳が弱いな、君は」 「…うるさいです」 リザがシーツに顔を埋めているため表情は見えないけれど、彼女は子供のように唇を尖らせていじけているのだろう。 私にしか見せないあどけない顔。 いつまでも幼子のようなリザが可愛くて、どこもかしこもまるでスポンジ菓子のように柔らかい彼女の体を思い切り抱き締める。 「…あの、首…」 「首も嫌?」 うなじに唇を寄せてぺろりと舌で舐めると、リザが熱っぽい息をはく。 肩のくぼみを軽く噛み、だんだんと唇を下へ向かわせると、リザの背中に刻まれた秘伝と火傷が目に入る。 ホークアイ師匠が娘に刻んだ秘伝、私が肌を焼いたためにできた火傷。 リザの背中の秘伝に指先でそっと触れながら、昔の出来事を思い出す。 初めてリザに背中の秘伝を見せられた夜、彼女と師匠の思いを裏切って犯した過ち、彼女の背中を焼いた瞬間、二人でこの国を変えようと交わした約束。 過去のたくさんの辛い思い出が頭に蘇る。 リザは背中に秘伝が刻まれているため、女性が当たり前のように得ることのできる幸せを誰にも求められず、彼女は、「あなたはその罪悪感から私の側にいるのでしょう」と私に言ったことがある。 私がリザを愛していると自覚したのは、彼女に秘伝を見せられるずっと前のことで、秘伝や火傷のことなどなくても私は彼女の側にいたかった。 私とリザは擦れ違ったまま何度もひどい言い争いをし、その果てにようやく誤解が解けて、今はこうして結ばれた。 「…本当に、これは罪深い結婚だな」 私達は出会いこそ温かさに満ちたものだったけれど、イシュヴァールの地で血に濡れ、あんな惨劇を二度と繰り返さないためにリザの背中を焼き、そして彼女に国を変えると約束をした。 私とリザはいくつもの苦渋の選択を迫られ、思わず涙を零してしまうような出来事にぶつかり、いつも障害だらけの辛い道のりを裸足で歩んで来た。 「私はいつ死んでもおかしくない身だよ。もし明日殺されても文句は言えない」 笑いながら話すが、冗談ではなく本気だ。 「本当にグサッと刺されても…いつ殺されてもいいと思うくらい、やるべきことはやった。でも人間はどうしようもなく欲張りだな」 リザの手を握り、結婚した証である左手の薬指に嵌められた指輪を、苦笑気味に撫でる。 「…国が安心して暮らせる幸せを得たのを見たら…次は君を幸せにしたくなったんだ、リザ」 リザは、年頃の娘が好みそうな服やアクセサリーを身に付けるのではなく、軍服を着て銃を片手に、いつも硝煙の匂いを纏って、途方もない野望を抱く私の背中にいつもついて来てくれた。 私に危険が迫れば身を挺して私を守ってくれた。 私が道を踏み外そうとした時、正しい在り方を示してくれた。 リザはどんな時も私の味方だった。 リザは自分のことは二の次で私に尽くし、心身共にずっと私を支え続けてきてくれた。 「…私のわがままに付き合ってくれて…結婚してくれて、ありがとう」 リザは私に不満などひとつも言わなかったが、背中に秘伝を刻まれたことも、イシュヴァールで私がたくさんの人の命を奪ったことも、背中を焼いたことも、そして身をもって私を守り続けてきたことも、どれも辛くなかったと言えば、それは嘘になるだろう。 「どうしても君には幸せになってほしい」 しかしこれからは、今腕に抱いている私より小さな体も、リザの人生も考えも悲しみも、これからは夫として私が目一杯愛していくのだと思うと胸が熱くなる。 「…私が、絶対に君を幸せにするから」 ようやく、この世で一番大切な人に守られるのではなく、その人を守る時がきたのだ。 「…それで、リザ。これから何がしたい?またここに泊まる?それとも旅行?」 リザが先ほどから相槌もしないで無言のままでいることに、ふと気が付いた。 「…リザ?もしかして寝たのか?」 リザは式の疲労から眠ってしまったのだろうか。 リザの体の上から起き上がり、彼女の肩を掴んでそっと体を仰向けにさせると、私は驚きに目を見開く。 「リ、リザっ!?どうしたっ!?」 何とリザはぼろぼろと大粒の涙を零して泣いていたのだ。 「リザ、どこか痛いのか!?それともまさか今さら結婚が嫌になったとか…!?」 「…違い…ます…」 リザが懸命に首を横に振って涙声で否定する。 「じゃあ、どうしていきなり…」 「…だって…」 リザは目尻からとめどなく溢れて落ちる涙を両手で拭った。 「…私…出会った時から…ずっとマスタングさんのことが好きだったんですよ…?」 目元を赤くし、しゃくり上げながらも何とか言葉を紡いで告白をするリザの様子を見て、私もつい目頭が熱くなる。 「…なのに…そんな人と、結婚しちゃうなんて…」 「…そういうことって、普通はプロポーズの時に言わないか?ちなみに君ももう『マスタング』だ」 この人が愛おしくて堪らない。 リザが瞬きをする度に零れ落ちる涙に口付けながら、彼女に対する愛おしさが胸に込み上げてきて、どうしようもなかった。 私がリザを愛していると自覚したのは―― 笑うととても可愛いのに、滅多に笑わない少女の笑顔が見たくて、何とか笑わせてみようと彼女のあとを追い掛けて試行錯誤をしている時だった。 「…リザ、笑って」 ぐすりと鼻を鳴らすリザが、私の言葉を聞いてしばらくしたあと、無理やり口角を上げる。 「はは、可愛くない」 「…ひどい」 「嘘だよ。とてつもなく可愛い」 むっとして私を軽く睨んだリザに微笑み、彼女の頬を両手で優しく挟んで唇に口付けを落とす。 「…ん…」 口の中を舌でじわじわと征服していくと、いつの間にか私のシャツを掴んでいたリザは、その度にびくびくと指を震わせる。 いつまでたっても初々しいリザの反応が可愛らしくて、つい口付けに熱が入る。 「…初めてキスをしたわけじゃないのに」 「…だって…」 口の端から溢れた唾液が唇を濡らし、それを指で拭うリザは恥ずかしそうにうっすらと頬を桃色に染めていた。 「結婚したっていうのに、やっぱりまだまだリザはお子様だなあ」 「…うるさいです」 にやにやといやらしい笑みを浮かべながら意地悪くからかうと、私の花嫁は拗ねてそっぽを向いてしまった。 「リザ、また聞くけど…これから何がしたい?」 リザはしばらく横顔を向けたまま黙っていたが、首を動かすと私の顔を真っ直ぐに見つめて口を開いた。 「…何もしなくてもいいです。…ただ、ずっと一緒にいられれば」 まだ目尻に浮かぶ涙を拭っているリザの答えを聞いて、私は思わず声を上げて笑っていた。 リザはどこまで私を喜ばせてくれるのだろうか。 「私もだ」 花の飾りのついた髪留めを外して枕元へ投げる。 シーツの上にふわりと広がった柔らかな金髪に鼻を埋めると甘い香りに包まれた。 再びリザに口付けながらドレスの背中のファスナーを下ろす。 あわらになった白い陶磁器のような肌が温かな朝日の色に染まり、その様子に目を細めた。 「ずっと一緒にいよう」 汗ばんだ額と額を擦りつけながらそう告げると、蕩けるように目尻を下げていたリザがやっと嬉しそうに笑う。 リザが妻となった幸福感に包まれながら、脱ぎ捨てた礼服がベッドから落ちるのにも気付かずに、愛していると彼女に何度も囁く。 いつこの世からいなくなっても構わない。 ただ、できればあと少し、この愛おしい人と距離を作って歩くのではなく肩を並べて歩いて、愛おしさや喜びや悲しみを共有して、支え合って生きていきたい。 素肌から伝わるリザの心地良い温もりに溺れながら、また欲張りなことにひたすらそんなことを願った。 |