事の発端は、我が子のように可愛い恋人に旅でもさせてみるか、という軽い気持ちだった。
「……眠い…かも…?」
ワインを口にしたあとしばらく何も喋らなかったリザが、疑問系でぽつりと呟いた。
「眠い?」
「…頭が…ぼーっとします…」
ソファーに背を預けて埋もれるようにして座っていたリザは、ワインが空になったグラスを目の前のテーブルに置いた。
「…中佐…、私、先に寝ますね…」
元気のない声でそう言うと、リザはふらふらとした覚束ない足取りで寝室へ消えてしまった。
すぐにリザの後を追うと、彼女はベッドの上にそのまま倒れ込んだのか、ブランケットを被らずに横になっていた。
「リザ?どうした?」
「…暑い…」
「暑いの?」
ベッドに乗り上がり、横になっているリザの隣に座ると、彼女は熱に浮かされたようにぐったりとした様子でシーツに顔を埋め、目線だけで私を見上げた。
「…ラジオで…今夜は熱帯夜なんて言ってましたっけ…」
「言ってないかな。私は暑くないけど」
「…そうですか…。じゃあ風邪…?」
「うーん、ちょっと熱いかも」
リザの額にそっと手を当てると、手の平にいつもより少し高い彼女の体温がじんわりと伝わる。
リザは私が熱を計る様子を、眠たそうに目尻を下げて眺めていた。
「…風邪ひいたんでしょうか…。どうしよう…薬、飲まなきゃ…」
「ああ、その必要はないよ」
「え?」
リザがベッドから下りようとするのを頭を軽く撫でることで制すると、彼女は不思議そうな表情を浮かべた。
普段ならば人目を憚らずに、上官を傷付けてまで自分の意見をはっきりと、よく通る声で述べるリザが、今はぽつりぽつりと短い単語だけを口にする。
いつもより幼く見えるリザの様子は、まるで我が子でも見ているようで愛おしい気持ちになり、目を細めて彼女を眺めながら短い金髪を撫でた。
ベッドに横たわるリザの体に顔を近付けると、パジャマ越しに石鹸とシャンプーの匂いが香る。
乾かされたばかりの柔らかい髪の毛を手で梳かしながら指をだんだんと下へ這わせ、うなじに手の平で触れる。
すると、その途端、まるで電気ショックでも与えたかのようにリザの肩がびくりと大きく跳ねた。
「え…っ!?」
先程まで病人のようにぐったりとしていたのに、目を丸くしたリザは首を持ち上げて驚いたように私を見上げた。
「どうした?」
「…中佐…今、何を…!?」
「何って、触ってただけ」
「触ってただけって…。…あ…、でも…そうですよね…」
リザは目を真ん丸くしたまま首を傾げ、納得のいかない様子で再びシーツに顔を埋めた。
「顔も熱いな」
「ひゃっ!?」
熱を計ろうとリザの頬を手の甲で軽く撫でると、彼女は再びびくりと肩を揺らした。
そしてリザは先程と同じように、信じられないといった様子で私をまじまじと見つめる。
自分の体に何が起きているのかまだ分からないリザの混乱している様子を見て、唇の端をそっと上げる。
リザは今、普段の状態ならば絶対に有り得ないような甘い刺激が体の中を駆け巡ったことに驚愕しているに違いない。
「…何…!?…また…」
「また?」
「…ま、また…」
私が聞き返すと、その先を答えられずにリザは口をつぐんだ。
答えを促すように、リザの顔の横に両手をつき、彼女の上にそっと覆いかぶさる。
「リザ…どうした?」
唇が触れ合いそうなほど顔を近付ける私から、リザは咄嗟に目を逸らした。
「言えないようなことなのか?」
「…そんな…ことは…」
「そうかな?今の状況を君が私に言えるはずないと思うけど」
私の言葉を聞いて、リザは目を動かして視線だけを私に向け、不審そうに眉を寄せた。
「…中佐…?」
「リザ、君にね、薬を盛った」
「…そうですか…。……え?」
リザの疑問をなくすべくあっさりと告白すると、彼女は私を見つめたまま人形のように固まった。
「君が風呂に入っている間に前から作りたかった薬をちょちょっと錬成して、出来立てのそれをワインに入れて」
「…ええっ!?」
「風呂上がりの君に薬入りのワインを渡した。で、君は何の疑いもなくワインを飲んだ」
「えええーっ!?」
リザは心底驚いた様子でらしくなく大声で叫んだ後、口をぱくぱくとさせた。
「薬の錬成は専門外だけど、ちゃんと勉強も練習もしたし上手くいったぞー。まあ私は飲んでないんだけど」
「…待ってください…ちょっとまだ理解が…」
リザは頭痛がするのか、こめかみを指で押さえて目を閉じている。
「ワインを飲んでから急に頭がぼーっとして、体がほてっただろう?薬が効いてきた証拠だよ。だから風邪じゃない」
「…そうだ、薬…。…薬って、何の薬ですか…?」
自分の置かれた状況を嫌々ながらも理解し始めたリザが、恐る恐る私に尋ねた。
「媚薬だよ」
「…び…やく?」
「まあ、お子様の君にはまだ分からないかー。感度がとーっても良くなる薬で、ちなみに頭がぼーっとして体の動きが鈍る。だからじゃじゃ馬娘も簡単に大人しくなり……いったぁっ!」
「なんってことするんですかっ!!!」
リザは側にあった枕を私の顔に思い切り叩き付け、怒りに満ちた目を鋭くとがらせて怒鳴った。
「リザ、今のはひどい…美形が崩れる…」
「ひどいのはどっちですかっ!」
枕で叩かれてじんじんと痛む頬を手で押さえながら訴えると、リザが今にでも牙を剥きそうなものすごい剣幕で抗議する。
「人に馬鹿げた薬を盛るなんて…!中佐がこんな最低な人だとは思いませんでした!帰ります!」
「うわっ!」
リザはもう一度枕を振り上げて私の顔に容赦なくぶつけると、私がふらついた隙を見てベッドから下りようとした。
「…って、おい…リザ!?」
「きゃっ」
しかし、薬が効いてきた体は反射神経が鈍くなりリザの言うことを聞かずに、おまけに最悪なことにブランケットが脚に絡まって、彼女はブランケットと一緒にベッドから床へ転げ落ちた。
重いものが床に叩き付けられる耳を塞ぎたくなるような痛々しい音のすぐ後、慌ててベッドを下りて、ブランケットの上にうずくまっているリザの肩を揺さ振る。
「リザっ!?大丈夫か!?」
「…中佐…触らないでください…っ!」
リザは、今度は丸めたブランケットを私に向かって投げ付けると、猫のように四つん這いになって床をゆっくりと這い、何とか私と距離を作ろうとする。
「床に絨毯を敷いていたからまだ良かったけど…リザ、痛いところは!?怪我でもしたらどうするんだ!気を付けなさい!」
「はあ!?中佐だけには言われたくありませんっ!」
リザはとにかく私から逃げようと、必死になって手足を動かし体を引きずって床を這うが、所詮ここは小さな寝室だ。
リザはすぐ壁にぶつかって行き場をなくし、そして私は数歩歩いただけでリザの背中に追い付いた。
「…来ないでください!」
「どうして?触られるとおかしくなりそうだから?」
「違います…!変態に付き合うほど暇じゃないんです!帰ります!」
「帰れるの?」
「帰れます!」
壁に力なく寄り掛かっているくせに、やはりリザは口だけはかなり強情だ。
私に背を向けているリザの体をくるりと回し、私の方へ振り向かせた。
「ちょっと動いただけなのに、もう息が上がっている。リザは耐性がない分、効きやすいのかな」
「…普通、です…」
リザは息が上がっているのを隠すようゆっくりと言葉を紡いだ。
「体も熱いし…」
「やめて…!」
汗がうっすらと滲む額に触れると、リザは唇を震わせながら強く目を閉じた。
固く寄せた眉と唇を噛み締めるその表情が艶っぽく、つい魅入ってしまう。
「…どうして…こんなこと…。…私のこと嫌いなんですか?」
「んー、大人のプレイってやつだよ。リザのことが大好きだから、もっといろんな君が見たい」
「…いつも私のこと…子供扱いするくせに…。中佐は子供に薬を盛るんですか」
「ふーん、いつも大人ぶるくせに都合のいい時だけ子供になるんだ」
「…子供じゃないです…!もう…!腹立つ!」
リザはまだしぶとく抵抗をする気力はあるようだが、やはり、段々といつものような覇気がなくなってきた。
「…中佐の馬鹿、最低、最悪、変態…」
「まだ元気だね。もう大分薬が効いてきて、ものすごく辛いと思うんだけど…。そろそろ触ってほしくない?」
「…いや…!」
パジャマの裾を強く握っていたリザの手を取り指を絡めると、彼女の唇から行為中の時のように高い声が漏れた。
「駄目…触らないで…」
「触ってほしいくせに」
親指で手の平をなぞりながら言うと、リザは否定をしなかった。
桃色の唇から悩ましげな吐息がもれる。
「苦しい?」
「…当たり前…じゃないですか…」
絡めた指を私の方へ軽く引っ張るだけで、壁に寄り掛かっていたリザは人形のようにがくりと私の胸へ倒れ込んできた。
「…すごく…苦しい…」
お互いの表情が見えなくなって気が緩んだのか、ついに、リザが今にも泣き出しそうな声で本音をもらす。
「触られるのも…苦しいけど…触られないのも……」
熱っぽい息を唇からこぼし、リザは乱れた前髪が汗で張り付いた額を私の胸に押し付けた。
「…どう苦しい?」
「…中佐が…手を…手を握っているだけなのに…背中がぞくぞくって…」
「…そうか…」
――やっぱりリザはまだまだ子供だ
薬を盛った相手に簡単に弱点を教えてしまうなんて馬鹿だ。
「…や、やだっ…!」
リザが首を振って高い声を上げる。
手を握っていた方の親指を口に含み軽く歯を立てると、とうとうリザが目尻にうっすらと涙を浮かべた。
しかし、リザのもう片方の手は私に縋るかのようにシャツをきつく握っており、私の行動に抵抗している様子は見られない。
舌を絡めた親指も、リザの体も小刻みに震えており、彼女は苦しそうに呼吸をしている。
「…リザ…」
親指を口に含んだまま名前を呼ぶと、リザは涙で濡れたひどく切ない眼差しを私に向けた。
「…ちゅ、さ…」
唾液にまみれて光る親指に口付けてから解放すると、リザはひどく緩慢な動きで私の首に腕を回した。
リザはもう自分で動くのすら辛いのかもしれない。
「…もう…変になりそう…!」
リザは切迫した声で私に訴えた。
首筋に押し当てられた頬は赤く染まっており、そしてわずかに汗ばんでいて風邪でもひいたかのようにとても熱い。
「…あ…っ!」
リザに誘われるがままパジャマの中に手を差し入れ、背骨を指でなぞると彼女は体を大きくのけ反らせた。
「…中佐…もう駄目…助けて…!」
リザは私の耳元に唇を寄せ、泣いているかのような震える声で必死に懇願する。
「お願い…助けてください…!」
「…いいよ」
薬を盛った悪い大人に「助けて」と「お願い」するんなんて、やっぱり子供だ。
それだけ私はリザに信頼されているのか、愛されているのか、ただ単純に彼女が幼いだけなのか――
「…中佐…」
リザを絨毯の上に押し倒し、パジャマのボタンを外しながら唇に口付けると、リザは苦しみから解放されると安心したのか、目を潤ませたあどけない顔で私を見上げた。
いかにも子供らしい表情に少々罪悪感を覚えつつ、悪い大人は素直になった体に容赦なく食らい付いた。







※時計じかけのオレンジの続編です。


高い叫び声が聞こえて、はっと目を覚ました。
急いで横を見ると、隣で眠っていたはずのリザの姿がない。
寝室の扉が開いていることに気が付き、勢いよくベッドから下りると慌てて廊下に出る。
「リザ!」
リザは寝室を出てすぐのところで床にうずくまっていた。
「リザ、大丈夫か!?」
眉を寄せて目をつぶり、胸を手で押さえて苦しそうにしているリザの元へしゃがみ込む。
「リザ、吐き気は?リザ!」
彼女は私の存在に気が付くと、うっすらと涙で濡れた目を開けて私を見て、怯えたように表情を強張らせた。
「…いや…っ!」
きっとリザは、私を夢の中に出てきたイシュヴァール人だと勘違いしているのだろう。
リザは悪夢を見ると、いつも駆け付けた私を見て恐怖に体を震わせる。
「こ、来ないで…!」
「リザ、ここはイシュヴァールじゃない。もうあの戦いは終わったんだ」
「やめてっ!」
悪夢を見て頭も心も混乱しているリザに、何度もここはイシュヴァールではないと言い聞かせるが、彼女に私の声は届かない。
リザの肩に触れると彼女の震えはいっそう大きくなり、彼女は涙をぼろぼろと流しながら、床を這って私から逃げようとする。
「リザ…私だよ。ロイ・マスタングだ」
手足をばたつかせて暴れるリザを捕まえるのは心が痛んだが、無理やり彼女の背中に覆いかぶさって背後から抱き締める。
リザは私の腕の中で悲痛な悲鳴を上げた。
「ごめんなさい…!本当は殺したくはなかったの…っ!」
「私は君の夫だよ、リザ」
「お願いだから離して…お願い!」
床にぽたぽたと涙を零し、恐怖に泣き叫ぶリザの耳元で、子供をあやすようにゆっくりと話し掛ける。
「リザ、もう一度言う。ここは戦場じゃない」
辛抱強く何度も言い聞かせる声がやっとリザに届いたのか、私の腕を爪で引っ掻いて逃れようとしていた彼女の動きがだんだんと弱まる。
「リザ」
私が名前を呼ぶと、その声に反応するようにリザが顔を上げた。
リザの荒れた呼吸が徐々に落ち着いていく。
頭を振り乱したためにぐしゃぐしゃに乱れた髪の毛の間から、リザが恐る恐る背後にいる私を見た。
「…マスタング…さん…?」
リザは肩で息をしながら、ゆっくりと私の方へ体ごと振り返った。
「そうだよ。ロイ・マスタングだ。ちなみに君ももう『マスタング』だよ」
「マスタングさん…!」
リザを怖がらせぬように、そっと乱れた長い金髪を梳かして彼女の視界を広げると、彼女は私の首に腕を回して勢いよく抱き着いてきた。
「…リザ、ここはイシュヴァールじゃないよ」
「…本当…に…?」
「本当だよ。ここは私達の家で、君はさっきまで寝室のベッドで寝ていた」
リザを抱き締め返すと、彼女は私を離すまいとしているのかさらに体を押し付けてきて、彼女の異常なまでに速い心臓の鼓動が肌に伝わる。
結婚してリザと生活するようなってから何度もこのような出来事が起こるために対処には慣れてきたが、未だに彼女が苦しんでいる様子には胸が痛む。
結婚当初よりもリザが悪夢を見る回数がぐっと減ってきたのが唯一の救いだろうか。
「…あ…私…またあの夢を…」
「そうだよ」
リザはやっと状況を理解したのか、胸を撫で下ろすと同時に、体からぐったりと力を抜いた。
私を抱き締めていた腕からもだらりと力が抜け、リザは人形のように私の胸にうなだれた。
「…また…あの夢を…」
「寝室に戻ろう、リザ。ここは寒いだろう?」
リザは宙を虚ろに見つめているだけで返事をしなかったが、彼女の背中と膝の裏に腕を回して抱き上げて寝室へ運ぶ。
ベッドに座らせると、汗と涙で濡れた頬をタオルで拭いた。
「私がパジャマを着替えさせてもいいかな、リザ」
リザがぎこちなく、緩慢な動きでこくりと頷く。
「今日、庭に野良猫が来ただろう?あれを見てハヤテ号がずいぶんと喜んでいたな」
リザの耳に私の言葉が届いているかは分からない。
ただ、できる限りリザがあの夢を思い出さぬように、悪夢が心を覆う前に、何かを話していたかった。
汗で濡れたパジャマのボタンを外していくと、リザの雪のように白い素肌があらわになる。
ずっと昔、リザが一時期付き合っていた男から受けた暴行の傷や肩の怪我は今はもうすっかりきれいに消えている。
しかしリザがイシュヴァールで受けた心の傷は、癒されることがないまま今も根深く残っている。
リザは戦場で受けた深い傷があるにも関わらず誰にも頼らず、弱みも見せず、いつも強さだけを表に出して私の背中を守り、後ろについてきてくれた。
私は「完璧な副官」を演じたリザと共に野望を達成し、やるべきことを成し遂げ、そして現役を退いた。
自分ができるだけのことをすべて行った過去に、後悔がただひとつだけあった。
どうしてあの時、無理やりでもリザの手を引いてやらなかったのだろうか。
リザは私を守るためにこんなにも心をぼろぼろに傷付けて――悔やんでも悔やみきれない。
「リザ、終わったよ」
「…ありがとうございます…」
ベッドに入ると、リザはベッドから落ちてしまいそうなほど端のところに横になった。
明らかに私と距離を置いて眠ろうとするリザの腕を掴んで引き寄せると、彼女は驚いた様子で目を丸くした。
「マスタングさん?」
「そんなに離れることないじゃないか。夫婦なんだから」
「…でも…」
「一緒に眠ろう」
子供が人形を抱くようにして強引にリザを腕の中に収めると、彼女はおずおずと私の胸に両手を当てた。
「…じゃあ…今日だけ、一緒に眠ってくれますか?」
「いつも一緒に眠っているじゃないか」
「え?」
やはりリザはまだ完全に落ち着いていないのか、過去と今の出来事が入り交じっていて混乱している。
夫である私を「マスタングさん」と昔の呼び名で呼ぶのもそのためだろう。
「…マスタングさんは…あったかいですね…」
「…リザの体は冷たいな」
「…夢で…いつも、血の……」
リザはそこまで言うと辛そうな表情を浮かべて口をつぐんだ。
私のパジャマを握る指が震えていることに気が付く。
「…無理して言わなくていいんだよ」
夢の内容を思い出して再び怯えているリザの頭を、安心させるように優しく撫でる。
「…あの夢は多分…一生、私を苦しめると思います。当たり前です。…私は、償いきれないことをしたから…」
「…すごく辛い?」
私になかなか弱い部分を見せようとしないリザが、珍しく控え目に頷いた。
「…辛いなら、私を頼ればいい」
「え?…でも…」
「リザはもう私の副官じゃない。私を守らなくていい。君は私の妻なんだ」
今まで頼るということをしてこなかった、というより知らなかったリザは、私の言葉を聞いて戸惑いの表情を浮かべた。
「…マスタングさんは…どうしてそこまでしてくれるんですか…?」
「愛しているからだよ」
目を伏せていたリザがはっと顔を上げ、やっと私を真っ直ぐに正面から見つめた。
「愛しているから、頼ってほしい」
泣き腫らして赤くなった瞳に、再び涙がじわりと滲む。
「…いいんですか…私で…」
「リザだからいいんだ。…もう強がらなくていいんだよ」
リザの顔が歪み、彼女は塞き止めていたものが溢れ出したように、大粒の涙を流して泣き出した。
「ずっと側にいるから」
私の胸に顔を押し当てて涙をぼろぼろと流すリザの、震える背中をなだめるように撫でる。
冷たいリザの体に私の体温を分けるようにきつく抱き締める。
もう離さない。
ずっと一緒にいよう。
安心していい。
私がいるから。
我慢しなくていい。
あの時、言いたくても言えなかった言葉達をリザの耳元で諭すように紡ぐ。
リザが血の海に溺れるならば、私はあの時助けられなかったことを後悔しながら、過去の分まで必死で何度でも彼女を助け出す。
「…愛してる」
泣きじゃくるリザに愛していると何度も囁きながら、彼女がせめて今晩だけは心安らかに眠れるように願った。







司令部にいる時と同じで、キッチンに立ち料理をするリザの動きに無駄はない。
いつもリザが料理をする時、私は何か手伝おうとするのだが、彼女が「中佐が手伝うと迷惑です」と怒るので、キッチンの壁に寄り掛かって彼女がてきぱきと夕食を作っていく動きをただ眺める。
リザが私の部屋のキッチンで料理をする姿はすでにもう見慣れてしまった。
「最近まともなものを食べていない」
そう呟けば、リザは私の体調管理のだらしさに目をとがらせて怒りつつも、それ以上に私を心配してこうして料理を作ってくれる。
不健康さを訴えればリザはすぐに私の家に出向いて何から何まできちんと世話をしてくれるが、もしかしたらほかの男に対してもそうなのではないかと思うと、いつも彼女とその周辺を見張るように注意してしまう。
しかし、リザがまるで母親のように無償で尽くしてくれるのは、私が昔からの馴染みで、その上信頼できる上官である特権じゃないかと淡い期待を抱いている。
「手の掛かるマスタングさん」より「少し気になる異性」と思われた方が、私は嬉しいのだけれど。
「どうぞ」
テーブルに並べられたのは、サラダとパンと、そして私がホークアイ師匠の元で錬金術を学んでいた頃からリザがよく作ってくれた野菜たっぷりのシチューだった。
子供が大好物を前にした時のように口を綻ばせてスプーンでシチューをすくい、懐かしくて温かな味を大切に味わう。
「…あ、雨ですね」
「え?」
とりとめのない話をしながら食事を楽しんでいると、ふとリザが雨が降ってきたと呟いた。
耳を澄ませると、確かに窓ガラスを雨が打つ音が聞こえる。
「最近、ラジオの天気予報はよく外れますね…。片付けをしたらすぐ帰りますね」
「じゃあ送って行くよ」
「何をふざけたことを言っているんですか。私は中佐の護衛官ですよ?私が中佐を送り迎えするなら普通ですが、あなたが私を送るだなんて有り得ません。大体、雨の日は無能でしょう」
リザのいいところは上官だろうと誰だろうと自分の意見をはっきりと述べるところだけれど、それが時たま私を傷付けることもある。
「…無能って言わないでくれないかな。君、傘を持っていないだろう?送っていくから」
「では傘を貸してください。中佐がわざわざ出向く必要はありません」
私の護衛官であることに責任と誇りを持つリザは、なかなか私の意見を聞こうとしない。
こうなったら最終手段だ。
「少尉が帰るなら…出掛けちゃおうかなー」
「え?」
リザはパンをちぎる手を止めて、信じられないといった表情を浮かべて私を見た。
「だって暇だしさ…夜の街に繰り出しちゃおうかなー」
「雨の日の外出は避けてくださいって言っているでしょう!?」
テーブルがぐらりと揺れそうなほど大声でリザが怒鳴る。
雨の日は絶対に一人で出掛けないでくださいと、リザはいつも口うるさく、しかし心配そうに私に言い聞かせているのだ。
「…じゃあ…出掛けないから…少尉、泊まっていってよ」
「はい?」
「少尉が私の家に泊まるなら君を送っていく必要もないし、暇じゃなくなるし…うん、いいね」
一人で満足げに頷いてシチューを頬張ると、リザが深くため息をついた。
「私が中佐の家に泊まるのならば…中佐は出掛けないんですね?」
「うん」
「…分かりました」
実に簡単にリザは私の家に泊まると承諾をした。
このように、堅物で真面目なリザを家に泊めることは意外と簡単なのだ。
まったく筋の通っていない話で、私がただわがままを言っているだけなのに、リザは私に危険が及ぶ可能性があると知ると、それだけに目がいってしまっていつものように冷静な思考ができないらしい。
「歯ブラシは前に泊まった時のがあるな。パジャマは貸すから」
「…はい」
同じような手を使って、私の身に迫る危険のことで頭がいっぱいになっているリザを巧みに誘い、何度も彼女を私の家に泊まらせたことがある。
リザは恋人ではなく、好きだということすら伝えていないけれど、大好きだからなるべく側に置いておきたいのだ。
食事を終え、二人でキッチンに並んで後片付けをして、ゆっくりとリザがいれてくれた紅茶を味わう。
リザにその気がないのは百も承知だが、まるで彼女と結婚をしているみたいだと嬉しくなってしまう。
「お風呂、ありがとうございました」
短い髪をタオルで乾かしながら、バスルームからリザが出て来た。
「乾かしてあげるからおいで」
リザが「上官より先にお風呂に入るなんて絶対に駄目です」と言って聞かないために先に風呂に入ることになった私は、すでにパジャマに着替え、ソファーに座ってリザを待っていた。
手招きをするとリザは何の戸惑いもなく私の隣に座る。
私のパジャマを着ているために大きく開いている胸元から何気なく目を逸らしながら、リザからタオルを受け取って彼女の髪を乾かす。
私がリザの髪を乾かすのは、彼女が私の家に泊まる時の決まりとなっている。
「なんだか」
「ん?」
「結婚しているみたいですね」
リザが無邪気に笑いながら、さらりととんでもないことを言う。
こんな遅い時間に司令部ではなく私の家にいて、軍服ではなくパジャマを着ているからリザはそう思っただけで、特に深い意味はないのだろうが、一瞬だけ髪を乾かす手が止まる。
「…私もさっきそう思ったよ」
「偶然ですね」
感じたことは一緒だけれど、その意味は悲しいほどまったく違う。
リザが恥じらいながら呟いてくれたらどんなに嬉しいだろうかと深いため息。
「…やっぱり私はソファーで寝ます」
「部下をソファーで寝かせるなんてできないな」
「上官と一緒に眠るだなんてもっとできません!」
「君がベッドで寝ないならば私はソファーで寝る」
「…う…」
リザが悔しそうに言葉を詰まらせる。
ベッドで一緒に寝るか寝ないかの議論も、リザが私の家に泊まる時の恒例行事だ。
「…上官と一緒のベッドで寝るなんて…」
私と二人でベッドに並んで寝ながら、リザが不満げにぶつぶつと呟く。
普通は、夜中に男と女が同じベッドで眠ることを気にするべきではないだろうか。
リザは軍人として真面目だけれど、男社会の軍部に身を置いているせいか、同年代の女性と比べると異性に関する感覚が少し変だ。
いや、リザが変なのは昔からか?
私が「何もしないから一緒に寝よう」と言えば、「『何も』って何ですか?」とリザは首を傾げるに違いない。
「…いい匂い…」
同じシャンプーと石鹸を使ったはずなのに、リザからはとてつもなく甘い香りがする。
後悔すると分かっていても、すぐ隣にいるリザがいるものだから、つい抱き締めてしまう。
「…最高の抱き枕だ」
「私は枕じゃないですよ」
リザはいつものことだからか、嫌なそぶりは見せずにされるがまま私の胸に抱き寄せられている。
鍛え上げられた体は引き締まっているのに、女性らしいしなやかさも残していて、逞しさと柔らかさが共存している。
しなやかな体を思い切り抱き締めて幸せを感じていると、ふと違和感を感じた。
「…大きくなってる?」
「え?」
違和感の正体を知りたくて、思わずふくよかな胸の上に遠慮なく手を乗せてしまう。
胸を異性に触られているというのに、リザは叫び声も上げず平然としていた。
「やっぱり大きくなった…」
パジャマとキャミソールしか身につけられていない胸を何度か軽く揉んで、その柔らかさを増した質感を指で捉え確信をする。
「胸筋がですか?」
「…うん、まあ…」
「最近鍛えましたから」
リザが誇らしげに言うのを聞いて「君は馬鹿か」と言いたくなる。
胸を触る私も私だが、異性に胸を鷲掴みにされても顔色ひとつ変えないリザもリザだ。
どうしてリザはこんなにも鈍いのだろう。
どうして私の溢れんばかりの恋心や下心に気付かないのだろう。
リザは異性というものをまったく意識せず生きてきた。
リザに異性を意識させたいのならば、今すぐにでも押し倒して服を剥いで交わって、力付くで分からせることができる。
しかしリザを傷付けるようなことはもちろんしたくない。
リザが泣くようなことは絶対にしたくないが、無防備すぎる彼女が目の前にいることに限界がきている。
「…少尉は…二十歳まであとどれくらいだ?」
「えーと…半年です」
リザが二十歳になるまで彼女に手を出さず見守り、できれば、その間に異性というものを知ってくれるよう祈っている。
とりあえず、彼女が少女の域にいる十代の間は何もしないと決めているのだ。
「美味しいお酒を教えてくださいね」
「…ああ」
私の下心など知らずに、にこりと無邪気に笑うリザに何て可愛いんだと口付けたくなるが、何もしないと決めたんだとお経のように繰り返す。
リザがいくら愛おしくても指をくわえて眺めるだけだなんて、これは何の修行なのだろう。
リザを抱き寄せたことを早速後悔してしまった。







※最終回後の話です


1.
病室の番号を聞き、傷付いた大勢の人達が廊下を歩く合間をぬって、急いで目的の番号の部屋へと向かう。
「中尉!遅くなってすまない!」
「…大佐っ!?」
病室に入ると、病院着を着た中尉がベッドで寝ていた。
大部屋にはいくつもベッドが並んでいるが、今は中尉一人しかいない。
一番最初に目に入ってきたのは、細い腕に点滴の針が刺してある光景だった。
「中尉…こんなに怪我がひどい中、私を支えてくれたのか…」
白い首には痛々しく何重にも包帯が巻かれてあり、その下の怪我はひどく深いのだろう。
ベッド同士を区切るカーテンを手早く閉めて、ベッドのすぐ隣へ向かう。
血にまみれた満身創痍の体で私をしっかりと支え、そして諦めることなく励ましてくれた中尉のことを思うと、胸が痛くなった。
実は中尉だってこんなに傷付いていたのに、私は何も見えなかった。
「中尉、傷は大丈夫なのか?痛まないのか?」
「…大佐…どうして…」
心なしか中尉の声が震えている気がした。
中尉は目を丸くして私のこと見つめている。
「…なんで…!?」
中尉はブランケットを剥いでベッドから勢いよく上半身を起こすと、私のコートの裾を両手で強く掴んだ。
「こら!何をしているんだ、中尉。寝ていなさい」
「…目…見えるんですか…?」
「え?」
「目が見えるんですか!?」
今まで静かに声を発していた中尉が急に大声を出す。
ちょっと前まで視力を奪われていたのだが、それが治ると普段通り目が見えることが当たり前になっており、すっかり大切な説明を忘れていた。
自分の視力のことよりも、中尉の怪我の方が気掛かりだったのだ。
「…ああ、そのことか。実はね…」
「目、見えるんですね!?」
「……見えるよ」
マルコー先生とのやりとりを話そうとしたのだが、その前に、目に涙を浮かべて私を見上げる中尉の両頬に手を添えた。
「…ちゃんと見える。ここまで来る間の景色も、病室も、君の顔も、全部見える」
中尉の潤んだ茶色い目を真っ直ぐに見つめながら伝える。
「…大佐…!」
私の手の平の中で中尉が顔を歪めると、細めた目から堰を切ったよう涙がぼろぼろと溢れ出し頬を伝った。
「…君の素直な涙がまた見れた」
頬に手を添えたまま、笑いながら中尉の涙を親指で拭う。
久しぶりに気丈な中尉が泣くところを見た。
金の髪、ふっくらと丸い頬、大きな瞳、白い肌。
久しぶりにリザ・ホークアイの姿を見て、視力が戻ったのだと再び嬉しさが蘇る。
「大佐…ごめんなさい…っ!」
「おっと!」
ベッドから落ちそうなのも構わず、私の首に思い切り抱き着いてきた中尉の体を慌てて支え、抱き締める。
点滴が抜けないかと冷や冷やしてしまった。
「…申し訳ありませんでした…!」
「君のせいじゃないよ」
「…だって…!私…守れなかった…!」
「君は私を正しい道へ導いてくれた人だ」
泣きじゃくる中尉の背中に腕を回し、傷に気を付けながらそっと彼女の体を胸へ抱き寄せる。
「…中尉…あんまり泣くと傷に障るぞ」
中尉の瞳から溢れ出す涙が首筋を濡らす。
肩を震わせて泣く中尉の背中を宥めるように撫でるが、彼女は泣き止む気配がない。
「…せっかくだから笑った顔が見たい」
「…目…良かった…!」
「中尉、聞いてるか?」
「…私のせいで…何も見えないままなんて…怖くて…」
「だから、君も、誰も悪くないよ。あれは誰にも止められなかった」
私の話をまったく聞かずに幼子のようにとめどなく涙を流す中尉の耳元に唇を寄せ、苦笑しながらため息をつく。
「中尉」
中尉を抱き締めたまま額と額を合わせると、金と黒の前髪が混じり合う。
目が見えない間、心強いことにずっと私の側にあり、暗闇から私を救ってくれた温もりを再び感じて、愛おしくなる。
唇同士が今にも触れそうな距離でゆっくりと口を開いた。
「……また忙しくなる。ついて来るか?」
「…何を今更…」
頬を涙で濡らし、しゃくり上げながらも、中尉は毅然と言葉を紡いで返事をする。
やっと私の話を聞いてくれた中尉の百人力の答えに満足しながら、もう我慢できず噛み付くように唇に口付けた。


2.
「…中尉、傷に障るから、とにかく寝なさい。ね?」
「…はい」
私にしがみつくようにして抱き着いていた中尉の腕をやんわりと解いて、彼女をベッドへ寝かせる。
中尉は飛び付くようにして私に抱き着いてきたせいか、布と布と胸の前で交差させて着る仕組みになっている病院着が、すっかりはだけていた。
「…中尉…君、すごく色っぽいことになってるぞ」
「え?」
涙を指で拭いながら、ベッドから私を見上げる中尉は服が乱れていることに気付いていないらしい。
「病院着の下はすぐ下着か…」
「…あ…」
胸を隠す黒い下着にそっと触れると、ようやく中尉が私の言葉の意味を理解したらしい。
黒い下着に白い素肌は栄え、雪のように透明で眩しい。
恥ずかしそうな表情を浮かべて病院着を直そうとする中尉の手を掴む。
「…大佐?」
「……久しぶりに君の肌を見た」
「それは…そうだと思いますけど…」
うっとりと首筋を指でなぞりながら囁くと、中尉は不思議そうな表情を浮かべた。
「この下着か…禁欲的で、すごくそそられる」
「はい!?」
病院着を直すどころか布を引っ張って広げて、肩まで露出させると中尉が目を見開いた。
「たっ、大佐!?」
「触りたい」
丸い肩を撫でながら、中尉の胸に鼻を埋めると、彼女は慌てて私の額に手を押し当てて引きはがそうとする。
「駄目です!」
「あんまり大きな声を出すと人が来るぞ」
大きな声を出していた中尉が、うっと口をつぐんだ。
「…だから…人が来るから駄目なんです…っ」
「人が来るまで」
「突然来たらどうするんですか…!」
「大丈夫」
「大丈夫って…」
胸元に唇を寄せると中尉がくすぐったさそうに体を震わせた。
「駄目です…ここじゃ…」
「ここ以外ならいいの?」
「そういう意味じゃありません…汚いからやめてください…」
「汚くない」
「もう…大佐ってば…!」
「うん?」
中尉の忠告も聞かず、私は剥き出しの白い肩に舌を這わせ、赤い痕を残した。


3.
「久しぶりの我が家だ…」
「私も大佐の家にお邪魔するのは久しぶりです」
「なあ、中尉」
「はい」
「…なんで家でも手を繋いでいるの?嬉しいけど」
いつもなら、家についたら冷たいと感じるほどあっさりと中尉の方から手を離すのに、今は彼女がしっかりと私の手を握っている。
「…だって…今は夜ですよ?」
「夜だね」
「大佐、怖いでしょう?」
「え?」
「一時的とはいえ目が見えなかったんですから…暗いのは怖いでしょう?」
「いいや、怖くないけど…もう治ったし」
「強がらなくていいんです」
「…リザちゃん…怖くないんだけどな…」
中尉の勝手な勘違いにより、夕食を作る間も、食事を楽しむ時も、「怖くなったらすぐに言ってください」と、何かと彼女は私のことを気に留めていた。
「大佐、一緒にお風呂に入りましょう」
「うん……えっ!?」
食後に紅茶を飲んでいると、中尉がとんでもないことを言い出したために、紅茶を吹き出しそうになった。
「私が髪と体を洗ってさしあげます」
「…い、いや…大丈夫だから…」
「駄目です。大佐は手を怪我しているんですから」
「君だって首を怪我しているだろう」
「首の怪我はお風呂に入るのに支障はありません。さあ、行きましょう」
一度言い出したら聞かない中尉にぐいぐいと腕を引っ張られ、服を脱げと言われ、バスルームに押し込まれた。
「…拷問だ…」
「え?」
バスタオルを体に巻いた中尉が、私の泡にまみれた体をシャワーで洗い流してくれている。
中尉は恥ずかしげもなく、そして性的なことなど一切感じさせずに、髪も体もきれいに洗ってくれた。
濡れたバスタオルが肉付きの良い体の線を描くように張り付いていたり、胸がほとんど露出していたりする中尉に下心なんてないのだ。
私が「手を出してはならないのだ」とお経を唱えるようにして理性を保つのにどれほど苦労したのか、中尉は知るはずもない。
「…私は君の怪我が治るまで、何もできないんだぞ…」
「何を言っているんですか?あ、大佐は湯舟で温まったらもうお風呂からあがって大丈夫です。私はこのままお風呂をお借りしますね」
「…君はお母さんか」
お風呂から上がったあとは、中尉が私の手の包帯を取り替え、私は「自分でやります」と言って聞かない中尉の首の包帯を替えた。
そして寝る時間になると、いつもは一緒に寝るのを躊躇うくせに、今日は戸惑いもなくベッドに入ってきた。
私の胸に体をぴたりと隙間なく寄せると、また中尉は手を繋いでくる。
「私がいるから安心してくださいね」
「…だからね、もう目は見えるし、怖くないから…あまり心配しなくていいよ」
「ですから気を遣わないでください」
やや呆れ気味に言ったのだが、中尉にはまったく伝わっていないらしい。
中尉のお節介はいつも嬉しいけれど、今回ばかりは精神的にも肉体的にも辛いものがある。
「ちゃんと手も繋いでますし」
「…うん」
私の胸に安心したように顔を埋め、怪我した手に負担をかけぬようにやんわりと手を繋ぐ中尉が可愛い。
風呂上がりのシャンプーの匂いに混じって中尉の甘い香りが鼻を掠める。
そして何より、パジャマ越しに嫌というほど中尉の体の柔らかさが伝わる。
上等な綿でも詰めたようなふんわりとした弾力のある体を押し付けられては我慢の限界だと思うけれど、中尉の首に巻かれた包帯を見て、気を持ち直す。
「…心配してくれるのは嬉しいけど、君は怪我が治るまで激しい運動はできないんだから、ほどほどに頼む…」
「はい?」
今すぐパジャマを剥ぎ取って、中尉の柔らかな体を触って、舐めて、噛み付きたい。
中尉を涙混じりの声に聞き惚れながら、雄に侵入をされて彼女が快楽に溺れた姿を見たい――けれど、我慢だ。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
可愛く動く桃色の唇に口付けるぐらいならいいかもしれないと思ったけれど、止まらなくなりそうなのでやめておいた。


4.
「……威厳のない顔」
ソファーに座り、ずっと鏡を見続けていたリザがぼそりとそう呟いた。
「若くていいじゃないか」
「困ります。いつも年下に見られて…指導する時や階級を見られた時に驚かれるんです」
確かにリザは「マスタングの副官は不老不死だ」と噂されるほど歳をとっても若いままで、短い髪はまるで少女の頃を思い出すほどだ。
未だに新人や年下に間違われることが多いらしい。
ふと、あることを思い付いた。
「そんな君にいいことをしてあげよう」
「…何ですか?」
「ま、目をつぶって」
「はい」
従順に目をつぶったリザの前に立ち、にんまりと笑う。
「…何だかくすぐったいのですか」
「目を開けて鏡を見てごらん」
言われた通りに目を開けて鏡を見たリザが目を見開く。
「…あっ!ちょっと…何てことをするんですか!」
「猫ひげだよ。いつぞやのお返しだ」
リザの両頬に黒いインクのマジックで三本の黒い線を書いたのだ。
猫ひげを書かれている顔で怒っていても怖くなく、むしろ可愛らしい。
「油性じゃなくて水性だからすぐ消えるよ」
「…私はあなたと違って化粧をしているんです!」
「それから、はい、これ」
「…何ですかこれは」
私を睨むリザの頭に、今度は黒い猫耳のカチューシャを付ける。
いつかリザにつけてみたくて、期待に胸を膨らませながら机の中に閉まっていたものだ。
「うん、威厳あるぞ」
笑いを堪えながら言う。
猫ひげに猫耳。
ショートヘアに少女のような顔立ちをしたリザにそれらはよく似合い、おまけにつり目だから本当に猫のようだ。
可愛らしくて仕方ない。
「…本当に威厳ありますか?」
「あるある。さあ、じゃあ猫プレイを…」
「あなたがそこまで言うなら信じます…。私、部隊の訓練があるので行ってきます!今日こそは威厳のあるリザ・ホークアイです!」
リザは勢いよくソファーから立ち上がると、猫ひげと猫耳をつけたまま扉へ向かった。
「ありがとうございました!」
「えっ、そのまま行くのはまずいって!待て!リザ!リザちゃーーーん!」







ベッドの上に寝転がったままサイドテーブルに手を伸ばし、明日も雨、という天気予報を最後まで聞かずにラジオを切った。
朝から夜になった今までずっと、雨粒が窓ガラスを容赦なく叩いている。
この調子ではラジオを聞かなくても明日の天気は大体予想がつく。
木も草も建物も冷たく激しい雨に打たれ、今、用事もないのに外に出掛けようとする馬鹿な人間はいないだろう。
はあ、と、ため息をひとつ。
今日も雨、明日も雨。
どんよりとした空の下、雨の音のする部屋に閉じこもって湿気で歪んだ書類と向き合うだなんて、今から気が滅入る。
ただでさえ、雨の日は「無能」だとか「濡れたらしけたマッチ」だとか言われて大嫌いなのだ。
「中佐」
キッチンの片付けをしていた犬が、私のため息を聞くなりこちらに来て、犬らしい軽やかな動きでベッドにぴょんと乗り上がった。
何?
犬に尋ねてみたけれど、犬は答えない。
寝そべる私のところへ四つん這いのままじりじりと近付いてきたかと思えば、犬はよいしょと、私の上に跨がって座った。
脇腹を肉付きのよい太ももで挟まれ、腹には犬の柔らかい尻の魅力的な感触。
私から犬に対して過剰なスキンシップをとることはよくあるけれど、犬から私にこんなにも近付くことは珍しい。
犬はとても恥ずかしがりやだし、何より犬はどんなに私に触りたくても主人の許可を得るまでは、じっと大人しくしている。
触りたいという熱い視線をこちらへ向けて、無意識のうちに尻尾を忙しくぱたぱたさせている犬を、可愛いなあと笑顔で抱き寄せるのが普通だ。
どうしたの?
そう聞こうとする前に、犬は私の頬を両手で挟んだ。
犬がゆっくりと体を前に倒す。
鍛えているために逞しく引き締まった、けれど中身に綿が入っているのかと疑いたくなるほど柔らかい犬の体が、胸にぎゅっと押し当てられる。
ぺろり。
急に、唇に冷たい感触。
犬の唇からは可愛らしい桃色の舌がちらりと覗いている。
犬は、あの桃色の舌で私の唇を舐めたのだ。
「……元気の出るおまじないです」
しばしの沈黙のあと、犬が照れの混じった小さな声で言った。
おまじないって?
どうして?
「…だって、さっき…中佐、ため息をついていたでしょう?」
犬は今度はぺろりと鼻の先を舐めた。
確かに雨が憂鬱でため息をついていたけれど、それと顔を舐める行為が上手く繋がらない。
犬が主人の顔をぺろぺろするのはおまじないなのか?
「…あの…いつも、顔を舐めると、中佐が『ありがとう』って…」
黙ったまま思考を巡らせ、眉を寄せて犬の顔を見つめると、犬が恥ずかしそうにぶつぶつと説明をした。
よく見ると、犬の頬は熱でも出したかのように真っ赤だ。
確かに、口付けをする時、いつも犬は私の顔を舐める。
口付けに慣れていない犬は、舌と舌を絡めるキスがまだ上手ではないから、その代わりに私の唇や耳を犬らしくぺろりと舐めるのだ。
拙い舌の動きがくすぐったくて笑うと、主人が喜んでいると思うのか、犬は恥ずかしいくせにもっと頑張って舌を動かす。
そんな犬がとてつもなく愛おしくて、いつも「ありがとう」と言うのだ。
ああ、そういうことか。
犬は、その私の「ありがとう」を「嬉しい」という意味だと思っていたのか。
犬はため息をついた私を励まそうとしてくれたようだ。
くすくすと笑いが勝手にこぼれる。
雨を厭わしく思っていた暗い心に、犬の毛並みのような金の光がこぼれる。
ありがとう。
元気が出たよ。
素敵なおまじないだ。
そう言って、恥ずかしさから俯いていた犬の頭を引き寄せて、唇に口付ける。
軽いキスをしただけなのに、犬は目を丸くして驚いて、犬の耳も尻尾もピンと真っすぐになった。
けれど、すぐに、耳はいつも私に甘える時のように垂れて、尻尾はぱたぱたと左右に嬉しそうに動いている。
「それなら、良かったです」
犬がほっとため息をつく。
心底安心したような犬が、頬をぺろりと舐めた。
私が犬の美しい金の毛並みを撫でている間も、犬は額に顎に耳に首に、どんどんと舌で触れていく。
ご主人様を心情を案じて、主人の言った言葉を思い出して素直に行動する犬は、大変可愛らしい。
犬の体を抱き寄せて指が沈み込む柔らかさを味わいながら、彫刻のように美しい顔立ちをした犬の顔と目を合わせる。
ぱちぱちと不思議そうにと瞬きをする、そんな犬の何気ない仕草が愛おしい。
抱き潰してしまいそうなほど強い力で腕の中に犬を閉じ込めて、犬の愛くるしさと、犬のふわふわな毛並みが今ここにある幸せを噛み締める。
私のことが大好きな犬を私もとても愛していて、犬が何もせずただ私の側にいるだけで嬉しいから、「元気の出るおまじない」は犬自身なんだよ、リザ。








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