大佐の部屋を訪れる度に、私は少々罪悪感を覚える。
詮索されたくないからという理由で、彼は数多くいる恋人達を今まで一度も部屋に上げたことがなく、そしてこれからも招くことはないらしい。
私は幼い頃から大佐を知っており、錬金術師が自分の空間に入り込まれるのを嫌だということも熟知している。
つまり「腐れ縁」だから、大佐の部屋に足を踏み入れることができるのだ。
大佐の恋人達がこの事実を知ったら、私は明日から顔を隠して街を歩かねばいけないかも知れないが、別にこれは「特権」だとか、彼女達が考える特別で甘い意味などではない。
大佐が私を部屋に招く理由は、部屋の掃除をして欲しい、料理を作って欲しいなど、私に雑用を押し付けたい時だからだ。
爪が汚れることを気にして何もできないお嬢様方より、私が適任なのだろうと、毎回大佐の健康のために仕方がなくその役を引き受ける。
しかしたまに、たいした用もないのに家へ呼ばれることがある。
私がすることはいつもの重労働ではなく、お茶をいれることだけで、そして後は二人でたわいもない会話をするだけだ。
ヒューズ中佐はセントラルにいるため滅多にこちらへ来ることができず、あまり大きな声では言えないが友達の少ない大佐は警戒する必要のない人物とのんびり過ごすことがあまりできない。
そこで、また私が選ばれたのだろう。
大佐は意外と寂しがり屋なのだと可愛らしく思いつつ、彼と穏やかに過ごす時間が好きだった。
ここまでは、大佐の恋人達が私を恨まないぎりぎりの許容範囲だと思う。
しかし、大佐が何の躊躇いもなく「今日は泊まっていきなさい」と言うのは、完全にお嬢様方から呪いをかけられそうな段階だろう。
部屋に上がるだけでも後ろめたい気分を味わうのに、これには相当な罪悪感を覚える。
私が大佐の部屋に泊まる必要も意味もまったくないのに、大佐は私を引き留めてずるずるとベッドへ引きずり込み、彼は私を抱き枕代わりにして眠るのだ。
デートを断られただとか人肌恋しいだとかそういう軽い理由で、またまた私が抜擢されたというわけだ。
今日もまた、大佐は「雨がひどいから泊まっていきなさい」と、ごく自然に告げた。
大佐を自宅まで護衛した際、せっかくだから上がって行きなさいと彼に腕を引かれ部屋に上がり、長居しているうちに雨が降ってきたのだ。
雨の日に夜遊びをしないよう見張れるからいいか、と気を取り直し、私は大佐が待つ寝室へと向かった。
大佐のぶかぶかのパジャマを着た私を、彼が「可愛い」とからかって大笑いするのはいつものことだ。
未だ笑い続けている大佐を無視して、ベッドへもぐり込む。
湯冷めをしないようと私の腰や足に絡んでくる大佐の体は温かくて心地良い。
冷え性の私を気遣ってなのか、それともただの抱き枕代わりなのか、やけに密着してくる大佐に私も寄り添う。
髪や頬に大佐が気紛れに触ってくるのはくすぐったいが、同時に人肌の優しさに安心する。
大佐の胸にぴたりと胸を当て、彼の心音を子守唄代わりに眠るのが好きなのは秘密だ。
大佐が恋人達に与えるべき温もりをお門違いにも私が独り占めしてしまうため、彼から抱きしめられる権利を持つ女性達を裏切っているような苦い思いをする。
まるで愛人をしているような気分だ。
しかし私達はただ抱き合って眠るだけで、何もない。
「…何だか今日は浮かない顔をしているね」
以前、大佐と私のやり取りを見ていたヒューズ中佐が「まるで兄妹のようだな」と言っていた。
その言葉は私達の関係を的確に現していると思う。
「何か嫌なことでもあったのか?」
両親を早くに亡くした大佐が父の元に弟子入りした時から、彼はまるで妹のように私を可愛がってくれて、面倒を見てくれている。
そして当時、同じく私も「頼れるお兄ちゃん」ができたと喜び、今も兄のように大佐を慕っているのだ。
「…いいえ」
私は大佐に嘘をつくことが出来ず、そして彼は私の嘘を見抜くことが得意だ。
こういうところがまさに兄妹のようだと思う。
大佐は嘘をついた私の頬を不満げに摘んで、そして赤くなったそこに音を立てて口付けた。
……私達は少々スキンシップが過剰だが、本当に兄妹のような関係で、その域を出ない。
「ふーん、この私に嘘をつくとはな」
「…何ですか」
「本当のことを言うまでこうしてやる」
「え…っ、やだ、大佐…!」
急にパジャマ越しに脇腹をくすぐられ、窓を叩く雨に負けないほどの声で笑ってしまう。
本当のこと――
妹にかこつけて大佐と一緒にいれるのが実はとても嬉しいと告げたら、彼はどんな顔をするのだろう。







リザ・ホークアイの興味をひくことは最も難しい、と、最近私は頭を悩ませている。
ベッドに横たわり、しかめ面で天井を凝視しながら、寝る間も惜しんで悩んでいる。
私の副官である「リザ・ホークアイ」とは阿吽の呼吸であり、目を合わせただけで意思の疎通ができるほど優秀な主従関係だと、我ながら惚れ惚れとしている。
しかし、リザが軍服を脱いで一人の女性である「リザ・ホークアイ」になった時、私は彼女が何を考えているのかまったく読めなくなる。
「ロイ・マスタングの副官」であるリザは母親のように口うるさく世話を焼くのに、「ロイ・マスタングの副官」でないリザは途端に私から興味を失うように思うのだ。
思えば、リザは出会った頃から掴み所がなく、他人にも、そして自分にすら執着しない実にあっさりとした少女だった。
リザの心を揺さ振るものは何なのだろうか。
私とたくさんの時間を過ごしておきならが、未だに私に夢中にならない女性はリザ・ホークアイ一人のみだ。
別に私ばかりがリザを気にしているのにあっちは私に見向きもしないことが悔しいだとか、周りからは恋人同士なのかと噂されているのに実はまったく違うことにがっかりしているだとか――
そういうことではないのだ。
上官として、部下のプライベートまで把握するは義務であり、絆を深めるために必要だと、私はこうして思い悩んでいるのだ。
口説いてみればリザの興味をひくことができるかもしれないと、何度か試したことがある。
仕事帰りにリザを食事に誘い、彼女以外の女性ならばすぐに私の虜になるような話を繰り広げてみたが、彼女は「ふうん」と言うようにそれを流した。
いや、リザは口説いているこちらが恥ずかしくなるほど熱心に話を聞き、何度も相槌を打ってくれたのだが、恋愛に鈍感な彼女は恐らく意味をまったく理解していないのだろう。
私の甘い口説き文句より、リザはテーブルに並べられた料理に目を輝かせており、私は軽い屈辱感を味わうこととなった。
口説くなんてことをしても、リザの興味は私に向かないことに少々傷付いたので、人生の汚点でもあるこの作戦はもう封印だ。
よそ見ばかりするリザの視線を私に向けようとすると、このようにいつも空回りで終わる。
二人きり、しかもプライベートなのだから仕事の話は避けたいのに、リザが好む話といえば銃のことや軍事に関わることだ。
それから私服で歩いているというのに、リザは癖なのか私の後ろを歩き護衛をしようとするし、隣に並ばせると「何だか変です」と不満を漏らす。
やっと違和感なくリザが隣を歩いてくれ、しかも星空が綺麗な夜、どうやっていい雰囲気に持っていこうかと私が必死に考えている間、リザはのんきに私のタイの結び目が変だと考えていることもあった。
思考が泡のようでふわふわしている捕らえようのないリザを、一体どうやったら振り向かせれば良いのだろう。
別にリザを私に惚れさせたいわけではない。
しかし、普通の女性ならば私があそこまですれば絶対に骨抜きになるはずなに、けろりとしているリザには少し腹が立つ。
――お前さん、それってまるで初恋みたいじゃないか。
ふと、先日のヒューズの言葉が頭を過ぎった。
先日、酔っ払って自宅に帰ると、例の如く家族自慢ばかりする迷惑な親友から電話が掛かってきたのだ。
その時、酒の勢いでか、ぽろりと「リザがなついてくれない。興味を持ってくれない」と、ついもらしてしまったのだ。
そしてヒューズが「お前さん、それってまるで初恋みたいじゃないか」と大笑いしがらそう言ったのだ。
私以外の変なものばかりに目を向けて、思考が厄介で、人の苦労に気付かない失礼なあのふわふわ娘に初恋なんて、だってリザはただの部下だし、興味を引きたいのは上官だからであって――
こう言い訳している時点で親友の言葉が図星のような気がし、突然沸き起こる青臭い気持ちを追い出しながら、ブランケットを乱暴に被り眠りについた。







風の強い寒い夜であった。
カーテンと開けると、窓越しに外の冷たい空気がひんやりと伝わってきているのが分かる。
枯れ葉が舞い落ちる音や、大地を駆け抜けるように風が吹き渡り轟くのが、窓の外から絶え間無く聞こえる。
風が外で暴れている音を耳にするだけでも、寒がりなリザは身をすくめた。
「寒いですね」
「ああ」
隣に寝ていたリザが、まるで人形でも扱うかのように私の腰に腕をまわして抱き着いてきた。
リザの脚が私のそれに隙間なく絡む。
何枚ものブランケットにくるまっても、冷え症のリザの脚はひんやりと冷たい。
まるで密着した冷たいリザの体に体温を奪われているようだが、可愛い女の子に抱き着かれて悪い気はしない。
むしろ、冷たいがどこもかしこもふにゃりと柔らかいリザが寄り添ってくるなんて大歓迎だ。
シャツの隙間からぴたりと抱き着いてきたリザの吐息が入り込み、胸元をくすぐる。
そのお返しに、リザの体にそろりと腕を伸ばして思いきり脇腹をくすぐると、「ひゃあ」と驚きを含んだ笑い声が寝室に響いた。
同じブランケットを分け合って一緒にくるまり、ベッドの上で寝そべってリザとくだらないことで笑い合う。
自分が幸せだと思うのはこうした何気ない瞬間だ。
若さ故の遊びを含み、数々の女性と夜を共に過ごしてきたけれど、こうして何もせずにリザと一緒に寝転んでいるのが一番落ち着く。
リザの自宅に無理やり押しかけて、強引に彼女の手料理をごちそうになり、我が儘にも風呂まで借りる。
そしてリザと同じ小さなベッドで眠る。
色鮮やかな皿が並ぶレストランのテーブル、どの家具も一流品のホテル――それも良いけれど、質素でこじんまりとしたリザのひとつひとつが何故か何よりも愛おしい。
いつか、リザに私のような男が現れるのだろうか。
リザが何の躊躇いもなく部屋に上げ、一緒に食卓を囲み、こうして抱き合って寛ぐ。
そんな男性がいつかリザの目の前に現れたら、私は邪魔者になってしまうじゃないか。
まだ見たことも会ったこともないその男性の存在に胸がざわつく。
そして苛立った。
腹が立ったまま、何となくリザの白い頬を摘んで軽く引っ張って見る。
リザは痛いですと眉をしかめて抗議した。
これは子供じみた八つ当たりだ。
私以外に親しい異性が、リザの前に現れることを想像しただけで苛立った。
――だって、リザは私のものじゃないか。
無意識のうちにリザに対する身勝手な独占欲を持っていた自分に驚く。
そして、リザを誰にも渡さずずっと私の隣に置いておきたいという悩みを打ち消す、実に簡単な方法を思い付いた。
「なあ、少尉」
「なんですか?」
「私の恋人にならないか?」
今の私達の関係に名前を付けるとしたら、「恋人同士」というものが一番しっくりとくるではないか。
どうして今まで気付かなかったのだろう。
リザを私の恋人にしてしまえば、彼女を誰かに取られる心配をすることもなく、自宅に上がるのにいちいち理由だっていらないのだ。
遠慮なく独占欲を持てるし、リザに好きなだけ触れるし、素晴らしいことだらけじゃないか。
「え?」
だが、リザは同意するどころか不思議そうな表情を浮かべて私を見ていた。
「何を言うかと思えば…冗談はやめてください。おやすみなさい」
リザは私の告白をあっさりと簡単に断り、悩むこともなく眠りを優先させてしまった。
私を閉ざすように目を閉じ眠ったリザを見て、胸がちくりと痛むような感覚を覚える。
そして、思い通りにいかない初めての女性、リザ・ホークアイにフラれて初めて分かったことがあった。
ようやく気が付いたのだが、私はずっとリザに恋をしていたらしい。







とてつもなく腹が立っていた。
原因はもちろん馬鹿大佐である。
認めたくないというか、考えたくもないことだが、大佐はキスが上手な人…だと思う。
私は男性経験が皆無なために上手いだとか下手だとかなんてよく分からないけれど、大佐は不意打ちのキスが上手な人なのだ。
大佐が夢中になって本を読んでいるのかと思えば気が付けば彼のにやついた顔ですぐそこにあったり、「髪に何かがついているから取ってあげよう」と嘘をついて口付けられたり、私の隙を狙うその方法は様々だ。
出掛ける間際に名前を呼ばれて振り向いたら急に、真剣に討論しているのに大佐も真剣な顔で唐突に、外でマフラーを直してもらっている時もいきなり…。
思い出したらますます苛立ってきた。
不意打ちも大嫌いだけれど、大佐は場所を弁えないから嫌だ。
大佐が「したい」と思ったら、外だろうが司令部だろうが関係なく口付けてくる。
今日も、執務室で大佐が手を滑らせて机から落とした大量の書類を二人で拾っている時に、「横顔が可愛い」からと突然口付けられた。
ぎゃあと私が驚いて叫んだ声を聞いて、何がおかしいのか大佐は私より大きな声で腹を抱えながら笑った。
「もっと可愛く悲鳴をあげなさい」と涙を拭いながら大佐が言った一言で、勘忍袋の緒が切れた。
大佐は私のプライドをどれだけ傷付けたか分かっていない。
それにやられっぱなしは性に合わない。
ここは大佐に一発お見舞いするべきだと、私は彼を部屋に上げた時から殺気を纏いながら意気込んでいたのだ。
今は二人でソファーに仲良く並んで座り、大佐は新聞を、私は本を読んでいる。
他人から見れば微笑ましい穏やかな光景だろう。
しかし私は、端から大佐と仲良くするつもりも穏やかな雰囲気を共有するつもりもない。
大佐に仕返しをしてやる機会を、獲物を待つ肉食動物のようにずっと狙っていたのだ。
今だ、今しかない。
とても和やかな空気、そう見せ掛けておいて私から口付けを仕掛ければ、少しは大佐も私の気持ちを理解するだろう。
「た、大佐」
思いがけず大佐を呼ぶ声が上擦った。
最悪なことに、いま初めて自分がかなり緊張していることに気が付いた。
「ん?」
大佐が新聞から顔をずらして私を見る。
そういえば不意打ちを仕掛けたいのに、相手を呼んでしまってはもう失敗なのではないだろうか。
というか、いま大佐が私の方を向いた時が、隙をつく絶好の機会だったような気がする。
ああもう、大佐はいつもどうやって私に口付けていたんだっけ?
首を傾げて必死に思い出してみる。
そもそも、私から大佐に口付けという奇襲をかけることに意味があるのかすら疑問に思えてきた。
もっと他の方法で大佐にぎゃふんと言わせれば……。
「…中尉、どうした?」
大佐が新聞を畳んで机に置きながら、呼び掛けておきながら何も口にしない私を不審そうに見る。
たった今、とても重要なことを思い出した。
私から大佐にキスするなんて、恥ずかしくてそんなことできるわけないじゃない!
そう心の中で叫ぶだけで、頬や耳まで熱くなる。
でもここまできたら引き下がれないし、諦めたら負けたような気がして嫌だ。
しかし恥ずかしくて何だか泣きそうになってきているのも事実だ。
スカートの上できつく拳を握る。
「……おい、ちゅう――」
緊張して強張る体を何とかぎこちなくも動かして、私の顔を覗き込んできた大佐の頬を両手で挟んだ。
あとはもう勢いだ。
勢いが良すぎて唇越しに歯と歯がぶつかってしまって痛い思いをしたが、初心者なのだから仕方がない。
あとは、いつも大佐が好き勝手にしてくることを思い出して、唇同士をゆっくりと合わせてみた。
深呼吸しながら唇を開いて、怖ず怖ずと大佐の唇の輪郭を舌で舐めてみる。
大佐の下唇を食べる軽く噛みながら、あと何をすれば良いんだろうと混乱して爆発しそうな頭で考え焦っていると、大佐に肩を掴まれた。
そして勢いよく胸から引きはがされる。
急に目の前から温もりが消えたことに驚き、唖然として大佐を見た。
「…いきなり何をするんだ、君は」
「……キ、キスしたんですよ!悪いですか!?」
唇を手で押さえながら、大佐が眉をしかめて私を見る。
しかしそれに怯まず叫んだ。
平然とかっこよく言ってやりたかったが、まるで子供が拗ねたような物言いになってしまった。
キスという単語を口にすることすら恥ずかしくてまた頬が赤く染まる。
「……ふん、下手くそめ」
「今に上手くなります!」
大佐に挑発され、思ってもいないことを口走ってしまう。
「それはそれは。あー、楽しみだなあ」
大佐は何事もなかったかのように再び新聞を開き、記事を読み出した。
しかし、大佐が新聞紙を逆さにして読んでいることと、何より彼自身を見て私は目を丸くする。
「…大佐」
「何だ」
「顔、赤いですよ」
「君だって赤いじゃないか」
大佐の顔が赤く染まっていることを指摘すると、彼は新聞紙で顔をすっかりと隠してしまった。
「……君からキスされるとは思わなかったんだ」
新聞紙ごしにもごもごと言い訳が聞こえる。
こうしていつも不意打ちを仕掛けられる私の気持ちを大佐も理解したのでめでたしめでたし――と言いたいが、私まですっかり照れているので作戦失敗のような気がする。
二人で頬を染めている妙な重い空気に耐えられず、新聞紙で顔を隠している大佐に背を向けた。
すると、ばさりと新聞紙が床に落ち、同時に背後から大佐の腕に強く抱きすくめられた。
「…どうせ、いつもの仕返しでもしたかったんだろ?残念ながら失敗だな」
大佐がうなじを覆う髪を乱暴に掻き分け、私が濡らした唇を首に押し当てた。
本当の不意打ちとはこういうものなのかと、いらない知識がひとつ増えた。
「…て、照れている人に言われたくないです」
「その言葉、そのまま返そう」
ソファーに俯せに押し倒され、小さく悲鳴を上げた。
背中に大佐の熱や存在を押し付けられながら、ブラウスのボタンが外される。
なかなか熱の下がらないお互いの頬を擦り合わせ、そのまままた私は大佐の「不意打ち」に嵌められることとなった。







とてもお気に入りの喫茶店があるんです。
そんな話を、犬は事あるごとに何度も笑みを浮かべながらしていた。
犬が金の尻尾を振って、茶色い目を輝かせて、楽しそうに語るくらい良い喫茶店なら是非一度行ってみたい。
というわけで、私は非番、犬は遅番の日に、その犬のお気に入りの喫茶店に出掛けることになった。
「こっちです!」
小花柄のスカートをふわりと揺らし、犬が早く早くと私の手を引いて歩く。
まるで親を急かす子供のよう。
路地に並ぶ街頭や木々や店のガラスが、太陽に照らされて、光を浴びる犬の金の毛並みも眩しい。
犬が私より前を歩くなんて、とても珍しいことだ。
普段、私が犬に隣を歩くことを促しても、犬は上官と副官という関係を気にして、なかなか隣を歩こうとしないのに。
ご主人様に自分のお気に入りの場所を紹介するということで、犬はかなり張り切っているようだ。
可愛いなあ。
これが、遥か東方の国のお伽噺の「ここ掘れわんわん」ってやつか?違うか?
笑顔の犬に大人しく手を引かれたまま、大通りから外れ、角を曲がる。
こちらの方面にはあまり来たことがない。
人通りが少なく車が通れない細い道をどんどんと進み、若者や人気商品で華やぐ店達からずいぶん離れた場所まで来たところで、犬は立ち止まった。
「ここです」
犬の前にある建物をじっくりと見る。
曇った窓ガラスまでが深い緑の蔦に覆われた煉瓦で作られた古びた小さな家。
喫茶店だと教えられなければ、壁だと思って気にせず、そのまま通り過ぎてしまいそうだ。
よくよく見ると木でできた小さな看板に店の名前が書いてあり、蔦に隠れるようにして深緑色のドアがある。
犬は私の手を繋いだままドアを開けた。
「あ、やあリザちゃん。いらっしゃい」
「こんにちは」
小さなカウンターの向こうでカップを拭いていたこの店のマスターらしき老人が、店に入ってきた犬の姿を見て、優しい笑みを湛えて挨拶をする。
犬もきりっと姿勢を正して、口ひげを蓄えた老人に礼儀良く挨拶。
「リザちゃん」と呼ばれるほど、犬はこの喫茶店の常連なのかと少し驚く。
物腰の柔らかそうな老人は目元に皺を作って温かくにこりと笑い、私にも小さく会釈をした。
「あそこにいつも座るんです」
老人に会釈を返していると、犬がまた私の手を引いて、犬のアパートの部屋ほどの大きさしかないような狭い店の奥まで歩いて行った。
犬はカウンター席ではなく、テーブルの近くに立つ柱でちょうど他の客の視線が遮られるこの一番奥の席に座るらしい。
犬は壁側に、私は柱側に座る。
二人用の席だが、テーブルは一人分の夕食を並べればすぐに埋まってしまいそうなほど小さい。
向かい合って座る犬の顔も近い。
愛をひっそり囁き合うのにちょうどいい距離。
うん、確かにいい席だ。
「カプチーノとチーズケーキがとっても美味しいんです」
メニューを見ていた私に、犬がこっそり秘密でも教えるように楽しげに教えてくれる。
よし、じゃあ私もそれにしよう。
先ほどの老人が注文を聞きに来て、犬と私は同じものを頼んだ。
「ここは夜遅くまでやっていて、ごはんを作るのが面倒な時はここで食べるんです。お持ち帰りもできるんですよ」
へえ、初耳だ。
店内の明かりは少し暗く、静かにレコードが流れていた。
マスターの老人と、その妻らしき女性しか従業員はいない。
客は私達以外に二人。
客は特に私達に注意を向けるわけでもなく、コーヒーを味わいながら、それぞれ自分だけの世界に浸っていた。
犬がどうしてここがお気に入りなのか、店をぐるりと見渡して分かった気がする。
テーブル、椅子、絨毯、壁に飾られた絵、時計、カウンターの向こうにある棚に並ぶ置物。
どれも皆古びていて、傷があって、犬が育ったあの屋敷にあった家具達にそっくりなのだ。
それから、老人は古本を集めるのが趣味なのか、壁を背に置かれた本棚には、外装の破れた本がたくさん並んでおり、師匠の書斎を思い出させる。
犬は私のアパートにある本が床にまで積んである書斎も大好きだ。
それから、ファザコンで、年上に可愛がられやすい犬は、きっと老人達に娘のように扱われており、二人に会いに来るのもこの店に足を運ぶ目的なのだろう。
「ここで本を読むのが好きなんです。…あ、この本は友人から借りて…」
犬はハンドバッグから小さな本を取り出した。
おいおい、ご主人様とデート中なのに本を読むのか?
むっと眉を顰める私。
そこまで「いつも通り」を再現しなくてもいいんだよ。
不機嫌になりかけたところで、老人によりカプチーノとケーキが二つずつ運ばれてきた。
犬は皿を置くスペースを作るために、膝の上に本を置く。
なんだ、本をハンドバッグの中に閉まらないのか。
「とっても美味しいんですよ」
些細な変化にすら敏感な犬にしては珍しく、ご主人様の異変に気付かずに、カプチーノのカップを大切そうに手に取る。
久しぶりに大好きな喫茶店に来て浮かれているのか。
金の耳がぴんと立ち、尻尾は満足そうにゆらゆら揺れている。
カプチーノの匂いをくんくんと鼻を鳴らして味わったあと、熱さに気を付けながら、犬が口をつけた。
「大佐もぜひ」
花の模様が描かれたカップを皿に戻した犬が、私にもカプチーノをすすめる。
その犬の顔を見て、私は犬がご主人様のことを忘れて一人で喫茶店を満喫しているという不満が吹き飛んだ。
思わずくすくすと笑ってしまう。
犬は不思議そうに首を傾げた。
君に髭なんてあったかな、中尉。
すぐそばにある犬の顔を片手で少し強引に引き寄せ、鼻の下にある白い泡を舌でぺろりと舐めた。
「…た、大佐…っ!」
周りの客を気にして声を抑え気味にして、犬が声を出して驚く。
突然鼻の下を舐められ、犬の目は真ん丸だ。
そして頬は赤い。
髭を作ったことより、急に大好きなご主人様に舐められたせいかな。
先ほどまでご機嫌だった耳と尻尾が、今は恥ずかしそうに垂れている。
金の耳と尻尾すら真っ赤に見えるぞ。
私は犬の膝から本を取り上げた。
本は没収だよ、中尉。
本なんていらない。
せっかくだから二人だけで内緒の空間を楽しもうじゃないか。
なあ、犬はいつも気付かずに髭を作っているのかな?
では誰か注意してくれる人が必要だね。
犬がここを紹介してくれたから、残念ながらここは犬だけの秘密の場所じゃなく、私と犬の隠れ家になってしまったよ。
改めて聞くけど、ここを犬のお気に入りの場所じゃなく、私と犬の二人だけの秘密基地にすることを許してくれるかな?







「マスタングさんっ!雪です、雪っ!」
リザは歩く足を止めると、昔の呼び名で私を呼び、前を歩く私に、こっちこっちと手招きをする。
リザは私と二人きりになると「中佐」という階級ではなく、昔のように「マスタングさん」と呼ぶのだ。
それを微笑ましく思いつつ、ひっそりと苦笑する。
ああ、案の定嫌な予感が当たってしまった。
今日も遅い時間に仕事が片付いた。
別に私が無能なわけじゃなく、上層部が嫌がらせのように下でも処理できるような小さな仕事までどんどんこの私に押し付けてくるだけだ。
その証拠に、残業続きで大変でしょうとリザが心配そうな表情で労ってくれる。
しかも今日は、「遅い時間ですが、簡単なもので良ければ何か作りますから、うちにいらしてください」と誘ってくれたんだ。
私に野菜をたっぷり食べさせてくれるらしい。
兄思いの妹を持って、お兄ちゃんは嬉しいよ。
男を家に呼ぶことに少しは危機感を覚えてほしいが、私が発火布をちらつかせる限り、リザが誰か特定の男と親しくなることはない。
というか、まずは私を「兄」ではなく「男」と認識してほしいものだ。
司令部での仕事や私の補佐に関しては有能なのに、プライベートに戻ると急に少女のように幼くなる君には、まだ無理かな。
深夜、司令部からリザの家へ向かう途中、彼女の目に映ったのは誰もいない真っ白に染まった公園。
リザが路地に降り積もった雪をさくさくと靴で踏む感触をこっそりと楽しんでいる時から、嫌な考えは浮かんでいた。
「マスタングさん、こっちです!」
「リザ、待て!」
帰り道にあった小さな公園に、リザが私をおいてきぼりにして一目散に走って行く。
私も慌ててうしろを追う。
お転婆な妹を持つとお兄ちゃんは大変だ。
「誰の足跡もないですよ!」
雪を服のように被る遊具やベンチ、そして誰にも足を踏み入れられていない綺麗に平たくなった雪の野原に、リザは目を輝かせた。
つり目気味の瞳がうっとりと下がっているぞ。
雪は朝からちらちらと降り始め、つい先ほどぴたりと止んだのだ。
ここの小さな雪原は、夜の間に誰にも邪魔されることなく作られたのだ。
夜に公園で遊ぶ子供などいない。
こんな凍えるように寒い深夜に、わざわざ公園に出掛ける大人も滅多にいないだろう。
誰の足跡もなくて当然だ。
「…きれい…」
一枚の真っ白な紙のような大地に、リザはそっと足を乗せた。
雪の上に自分だけの足跡しかないことにご満悦の様子で、リザは街灯の近くに立つ私に笑顔を向けた。
「マスタングさんも足跡を残しましょうよ」
「私は君ほど子供じゃないんだよ。…ああ、お腹がすいたな」
「雪合戦でもしますか?」
「……風邪ひくぞー」
リザは私の言葉を完全に聞いていない。
これは長くなりそうだ。
雪の上に腰を下ろし、どっかりと胡座をかいてリザが飽きるのを待つことにする。
コートは着ているものの、マフラーも手袋も、耳当てもないのに、風邪を引いたらどうするんだ。
リザの家に着いたら、食事より先にすぐにストーブをつけ、彼女にお茶を飲ませ、それから風呂に入れ、温めてやらないと。
そんなことを考えていると、急にひゅっと雪玉が飛んできた。
黒いコートに見事に当たり、その場所が模様のように白くなる。
「…何をするんだ」
「だから、雪合戦です」
またリザが雪玉を私の方に投げる。
今度は上手く避けた。
リザは素手で雪を丸く固めているが、冷たく感じているように見えない。
「…君は本当に子供だなあ…」
「楽しいからいいじゃないですか」
司令部でリザのことを「クールビューティー」だとか「笑わない氷の美女」だとか呼んで彼女を崇めている奴らが、今の彼女の無邪気な姿を見たら驚くだろう。
司令部では、リザはいつも冷静で真面目で、表情を変えることが少ない。
たまに冗談を言ったり、笑ったりするけれど、これほどまで童心に返ることは絶対にない。
軍服を脱いだプライベートのリザは、日々の小さな出来事や季節の変化を愛おしみ、目一杯楽しみ、こんな子供のような面がある。
私しかこのようなリザを知らないと思うと光栄だけれど、お兄ちゃんはもうお腹がぺこぺこだよ。
「色気がないなあ」
「色気って必要ですか?」
リザが鷹の目に相応しくコントロールを狂わせることなく速く雪を投げてきて、私は慌てて体を横に動かして避ける。
再び雪を丸めてにこりと笑みを浮かべるリザに色気なんてちっともないが、代わりにとてつもなく可愛い。
雪だけでこんなにはしゃぐ幼子のような純真なリザを、思わず雪のクッションに押し倒してしまいたいほど愛くるしい。
リザは軍服をきっちり着こなす姿から分かるようにまったく隙がなく、ストイックなのだが、それでも内に秘めた色気を隠し切れずに困っている。
他人にも自分にも厳しい性格が逆に艶っぽさを出しているのだと騒ぐ者もいる。
そんな奴らに今のリザの姿を見せれば…今度は「可愛い」と言ってますますたかるだけか。
「色気ないことをして遊んでばかりだと、男ができないぞ」
「構いませんよ」
まあ妹に男なんて作らせないけどね。
私はホークアイ師匠にリザを頼まれているし、彼女に惹かれる男をちょっと燃やしてでも悪い虫を寄せ付けないのは当然のことだ。
私以外の男と一緒に過ごすだなんて想像しただけでも腹立たしい。
「恋人もできないし、結婚もできないんだぞー」
それは、特に何も考えずに、言葉のあやで発したものだった。
「恋人や結婚に興味はないです」
「……へえ」
「それに、マスタングさんとこうして遊んでいれば楽しいから、別にいいです」
え?何?
雪がこちらへ向かって飛んでくる。
私はその雪玉を避けることを忘れていて、雪は顔面に直撃してしまった。
「ちょ…マスタングさん!大丈夫ですか!?」
リザは目を丸くして、慌てて私の方へ走って来る。
「痛くないですか!?…もう、どうして避けないんですか!」
ぼうっとリザを見つめて座る私の前に彼女は屈み込み、顔の雪を急いで取り払う。
「…リザ…さっき、何て…?」
「え?なんで避けないんですかって…」
「違う!その前の…私といれば楽しいとかなんとか…!」
リザは私の顔から雪を全部払い、労わるように頬を撫でながら首を傾げた。
「それが何か?」
「…何かって…どういうことだ!?」
「どういうことって…。私はマスタングさんのことをずっと守るので、結婚をするつもりがないんです。というか元から結婚に興味はないですし…なので恋人も作りません」
「…で、私といると…その、楽しいの?」
「はい。マスタングさんといると楽しいですよ。私は女性の幸せとやらに執着がないってよく言われますが…こうして楽しいからいいんです」
「…あ…そう…」
雪をぶつけられた頬が冷えるどころか、一気に熱を持つ。
暗くて赤い顔がリザに見えないのが幸いだ。
――私にはマスタングさんさえいればいいって、そう聞こえてしまうじゃないか
「マスタングさんは結婚に興味あるんですか?」
「…まあね」
いつか野望を達成したら、君とするつもりだよ。
今はもちろんリザに内緒で、ちなみに私が勝手に決めたことだけど。
リザはやはり恋人とか結婚とかに興味はないのかと、また新たな悩みができた。
しかし、私といれば楽しいからそれでいいって、それはどういうことだ。
男は私だけでいいとか、私しか目に入らないとか、何か裏に隠された意味がないのか考えてしまう。
リザは異性に関心がないから下心なしに純粋に楽しいと笑っているが、あれは、普通は告白だと解釈してしまうぞ。
相変わらず、妹はお兄ちゃんを振り回すのが上手だ。
恋人や結婚には興味はないが、私といると楽しいらしいから、今までリザにとっての男は私だけでいい。
くそ、恋だとか愛だとかが含まれていない言葉なのに嬉しすぎるじゃないか。
こうして遊んでいるうちに、少しずつリザに男の私を見せて、異性を意識させていけばいいのか?
何度も言うが、リザは私といればそれで満足らしいから、自然に教えられるだろう。
「マスタングさんの手、あったかい…」
顔に触れていたリザの手が、いつの間にか胡座をかく足に乗せていた私の手に触れる。
「手袋もせずに雪に触っていたからだぞ。まったく、風邪を引いたらどうするんだ」
いつも通り、何とか兄ぶって、思考回路がぐちゃぐちゃに乱れているのを隠して、冷静を装ってリザを叱る。
ごめんなさいと愛らしく笑うリザ。
指を絡ませる仕草はただ温かさを求めるもので、男女の触れ合いではないのが、あんな意味深な発言のあとでは私にはなかなか信じられない。
本当に、もう本っ当に、この子はお兄ちゃんを無意識のうちに翻弄するのが得意で、困った妹だ。








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