ファイナルダーリン



リザ・ホークアイ少尉が行方不明、そして今朝、イーストシティの中心を流れる川から、女性のものと思われる切断された右足が発見されたという報告が、東方司令部に暗い影を落としていた。

大きくて温かな手が私の頭を撫でている。
母を早くに亡くし、そして錬金術に夢中の父は娘の扱いが分からないようで言葉を交わすことも少なく、私は頭を撫でられるという経験が少なかった。
もっと撫でてほしいと言葉にできるほど私は素直ではないし、ねだることができるほど可愛い女でもない。
手が離れていくのを恨めしく見つめる。
ねえ、最近はあまり触ってくれないから寂しいの。
あなたの手は優しくて、逞しくて、それから人を救う指だから、大好きなんです。
「…ロ、イ…?」
「リザ、おはよう」
ゆっくりと瞼を上げると見慣れた黒髪が見えた。
ぼうっとそれを見つめていると意識がだんだんとはっきりとしてきて、鼻と鼻が触れ合いそうな距離でロイが微笑んでいるのを認識した。
ロイの手がリザの短い髪を撫でている。
「…いつもの夢見た…」
大きくあくびをしながら、緩慢な動きでベッドから上半身を起こす。
「おい!リザ!」
リザの体に掛かっていたブランケットがシーツの上に落ちて、ロイが怒鳴りながらリザから目を背ける。
ロイもリザも裸で、服を着ていない。
昨日、ロイとセックスをしたあとにロイが汗だくになったリザのことをお風呂にいれてくれて、でも服を洗面所に用意するのを忘れていて、面倒になって裸で抱き合ったまま寝たのだ。
リザは、裸を見るよりセックスをする方が恥ずかしいと思うんだけど。
「…何の夢を見たんだ」
ロイがリザの肩にブランケットを掛けながら尋ねる。
「んー…」
あれはいつも見る夢だ。
誰かがリザの頭を撫でている不思議な夢。
「ロイがリザの頭を撫でるからあんな夢を見るんだよ」
「だから、どんな夢?」
「別にたいしたことないよ。それより、先に起きているならリザのこと起こしてくれれば良かったのに」
「リザの寝顔が可愛くて時間を忘れて見惚れてしまったんだ」
「ふーん」
ロイが黒い前髪を指でかきあげ、街行く女性が喜びそうな甘い笑顔で言う。
恐らくリザを褒めたのだろうけど、どうでもいい。
それよりリザはお腹がすいた。
「こら、リザ、待ちなさい」
ベッドから飛び降りて寝室を出ようとすると、ロイがリザの腕を慌てて掴んだ。
「なあに?」
「裸のまま朝食を作る気か?」
「あ…服を着るの忘れてた。でもここにはロイとリザしかいないからいいんじゃない?」
「君は…まったく…。記憶と一緒に常識も落としてきたのか?」
「知らない」
ロイが深くため息をつき、タオルを腰に巻くとベッドから抜け出し、クローゼットからリザの下着と服を出した。
ロイはリザをベッドに座らせ、黙々と服を着せる。
今日の服は胸に白いリボンがついた桃色のワンピースだ。
ロイがリザに着せる服は、シンプルで実用的なものではなく、レースやボタンなどの飾りがたくさんついている見た目を重視したものが多い。
そしていつもスカートで、丈が短い。
でもスカートなら走る時に楽かな。
下着は見えちゃうけど。
「…リザらしくない服だな」
ワンピースを着てベッドに座るリザを見て、ロイが顎に手を当ててぼそりと呟く。
「ロイが着せたんだよ。変?」
「変じゃないけど…リザは明るい色はあまり着ないから…。これ、自分で買ったのか?誰かにプレゼントされたんじゃないのか?」
「知らないよー」
ベッドの上に背中からどさりと倒れ込んで、意味もなく天井を見る。
今のリザに過去の出来事を尋ねることも意味がない。
「…リザは何も知らないよ…」
このワンピースはリザらしくない、か。
何がリザらしくて、何がリザらしくないのか、リザには分からない。
だってリザには生まれた時からの記憶がまったくないから。
ある日、目を覚ましたら病院のベッドで寝ていて、そして側には不安そうな表情を浮かべたロイがいた。
起きて最初に目に入ってきたロイに、私は誰かと尋ねると、ロイは驚いたように「君はリザだ」と教えてくれた。
私はリザ。
そして、病院でリザのことを教えてくれて、お世話をしてくれて、退院してからこの家に連れてきてくれたのが、ロイ。
リザは覚えていないけど、リザとロイは昔から仲良しで、恋人同士だったらしい。
両親の顔も、自分が生まれた家も、年齢も、何をしてきたかも、今のリザには分からない。
一気に思い出すとあまりに刺激が強すぎるという理由で、ロイは昔のリザのことをほとんど教えてくれないから、リザは本当に何も分からない。
今は、誰も訪ねてこないこの家で、ロイとリザの二人きりで、毎日静かに暮らしているだけ。
「ほら、お腹すいたんだろう?行こう」
「そうだね」
ロイがリザの手を引っ張ってベッドから起こし、手を繋いだままキッチンへ向かう。
自分の正体が分からない生活なんて奇妙だけれど、恋人のロイがいるからいいのかな。
自分の過去はすべて忘れてしまったけれど、朝食を作る手順はしっかり覚えているから不思議だ。
キッチンに立つと体が勝手に動く。
料理だけではなく洗濯や掃除も同様に体が覚えていて、家事はリザの仕事だ。
フライパンを火で温め、油を注ぎ、そこに溶いた卵を流し込む。
料理がまったくできないロイはトースターでパンを焼く係だ。
「リザの動きには無駄がないな。さすがだ」
何が「さすが」なのか分からないが、出来立てのオムレツとサラダをテーブルに置く。
二人分の食事を置くと隙間がなくなってしまう小さなテーブルで、向かい合って朝食を食べる。
「うん、おいしいよ」
「…リザは別に。リザが作ったものだし…。あ、卵がなくなったよ」
「そうか。じゃあ買いに行かないとな」
「リザも行っていい?」
「駄目だ」
「えー?なんで?」
反対されると最初から分かっていたけれど、唇を尖らせてロイに抗議する。
「外はリザが考えている以上に危険なんだぞ。もし街中で記憶を思い出すきっかけになるものを見て発狂したらどうするんだ」
「…リザの過去って発狂しそうなものなの?」
「そういうわけではないが、外で一気に情報を得るのはよくない。記憶はゆっくり思い出せばいいんだ」
「…外に出てきっかけを見つけるのは大事だと思うけどな…」
聞こえているくせに、ロイはリザの呟きを無視した。
むくれたまま席を立ち、乱暴に食器を洗う。
リザはこの小さな一軒家から出ることは滅多にできない。
外に出れるのは夜に病院に行く時と、人気がなく静まり返った深夜に家の裏にある山を散歩する時だけ。
この家の近くに市場や公園があるらしいから行きたいのだが、ロイは「情報量が多すぎるから」と言って、この家からリザを出そうとしない。
それから、洗濯物は外ではなく家の中の日当たりの良い場所で干させる。
ここまでくると異常だ。
まるでロイはリザを外に出したくないみたい。
ひどいよ、ロイ。
ロイなんて嫌い。
大嫌い。
朝食の片付けを終えるとリビングから駆け出し、寝室のベッドに飛び込んだ。
「ロイの意地悪!」
ロイといつも一緒に寝ているこのベッドが忌ま忌ましい。
仲良く二つ並んでいる枕を拳で強く叩く。
足もばたばたさせてみる。
一通りベッドの上で暴れて、暇だ、と仰向けになる。
この小さな家には、寝室とキッチンとリビングとバスルームと書斎しかない。
ロイは毎日書斎にこもって錬金術の研究をしていていつも楽しそうだけれど、リザは楽しくない。
前から一緒に暮らしていたとロイはリザに言ったけれど、リザはこの家にいて楽しかったのかな?
ベッドから勢いよく起き上がって書斎へ向かう。
「機嫌は直ったかな、お姫様」
「直るわけないよ」
「ごめんごめん」
ロイは机に向かってペンを走らせたまま笑った。
笑い事じゃないよ、ロイ。
書斎は、壁一面に古い書物が詰まった本棚が並んでいて、本棚に収まりきらなかった本は床に置いてある。
リザがこの家に来た時は埃まみれだった床は、リザが毎日しっかりと掃除をしているから綺麗だ。
床に腰を下ろして本棚にもたれ掛かる。
大きさの違う本の背表紙が本棚からでこぼこと出ていて、それが背中に当たるのが居心地悪く、床にあった本を適当に枕にして床に寝てみる。
あ、これでいい。
目を閉じて古い書物の匂いを胸いっぱいに吸い込むと懐かしい気持ちになる。
本棚に並ぶたくさんの本、古い紙の匂い、ペンが走る音、黒髪の青年が机に向かう姿。
これらが懐かしくて何かを思い出しそうになるのだけど、それが絵になる前にすぐにぼやけてしまってもどかしい。
「リザ」
「なに」
「床に寝るな。まったく、女の子が…いや、大人として駄目だ。年相応の行動をしなさい」
「だってリザは何歳か分からないもん」
リザがいつ、どこで生まれたかも、両親のことも、ロイは教えてくれない。
すべてを告げるのはリザの負担になるらしい。
「ねえ、この服がリザらしくないなら、リザらしい色は何?」
「リザは…黒かな。あとはよく白を…。それから…青と…赤…」
「青と赤?」
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
忘れないよ。
青と赤の服なんてクローゼットにあったかな?
ドレスでもない限りリザはそんな色を着ないと思うんだけど。
ロイはリザを外に出さないけれど、どうやらここはイーストシティらしい。
イーストシティではそんな色が流行っているのだろうか。
「リザが記憶喪失になったのは、リザがロイを助けたからなんだよね」
「…ああ。情けない話だが」
「えへへ。嬉しい」
ロイはリザが記憶を失ったきっかけを詳しく話してくれないけれど、リザがロイを助けただなんて嬉しい。
リザはロイのヒーローだ。
リザは頭を打ってたんこぶができたけれど怪我はそれだけで、骨折などはしていない。
あ、あとは右足の膝を怪我したけれど、傷口があまりにひどいから見るなとロイに言われ、いつも包帯で隠れている。
とにかく、ロイに怪我がなくて良かったと思う。
ロイは詳細を話したがらないけれど、これはリザが好きな話だ。
「ロイー、暇だよー。遊んでよー」
新聞は届いているらしいがロイはリザには読ませず、そしてラジオはこの家にない。
リザは外で起きていることを何も知らない。
リザの世界はこの家とロイだけ。
だからロイが研究に夢中だと暇で仕方ない。
ロイはほぼ一日研究をしているから、本当につまらない。
「何をして遊ぶの?」
「走りたい」
「…リザは記憶を失う前はそんな子ではなかったぞ…」
そうなんだ。
でも、今は体を動かさなくちゃいけないと誰かに急かされている気分。
もう何日、太陽の光を浴びていないだろう。
体を思い切り動かしたい。
でも、それは運動が好きという意味ではない気がする。
鍛えて、強くならないと。
強くなって、守らないと。
あれ、守るって、何をだろう。
ロイのことかな?
リザはいつロイと出会って、それから仕事は何をしていたのだろう。
まさか今のように家にずっといたわけではないだろう。
だってリザはじっとしているだけでは駄目で、何かをしないといけないから…。
だからここにいては駄目だと、誰かがリザに囁きかける。
「…ロイ…」
「何?」
「…いいや、何でもない」
どうせロイに聞いたって教えてくれない。
外に出たいな。
それから仕事をしていたのなら復帰したいな。
ずっと家にいるのなんて嫌。
これもロイに言ったって許してくれないに決まっている。
「ロイ」
床から起き上がって、リザはロイの背中に抱き着きながら机を覗き込んだ。
机の上に散らばる紙には相変わらずリザには分からない難解な文字が羅列していた。
「ロイは国家錬金術師なんだよね。偉いの?」
「まあ…偉いのかな。本当は国家錬金術師なんて辞めたいんだ」
「どうして?」
「私にはこれしか生きていく術がないからね。国家錬金術師は金が貰えるから続けているだけだ。そうじゃないと生活できない。…しかし、国家錬金術師は軍の飼い狗だ。軍が国民にどんなにひどいことをしたか…」
ロイは嫌な過去を思い出しているのか机の上で拳を握りしめ、険しい顔をした。
「…軍なんて…」
「…分かった。もう聞かないよ」
ロイは軍が嫌いだ。
前にリザが軍人の話をした時も嫌がっていた。
だからロイは、軍が支配する国からリザのことを遠ざけて、情報を遮断しているのだろうか。

強い風が吹くと砂が服の中に入り込んできて気持ち悪い。
フードを深く被り、息を潜め、スコープ越しに砂の大地を見つめる。
標的を見つけると躊躇わずに引き金を引く。
急所を撃たれた標的は即死し、人形のように力無く倒れた。
ふと、スコープの中に、懐かしいという言葉だけではとても足りない人物が映り、息を飲む。
離れていても、遠い地からでもずっと元気にしているか心配をしていて、狂おしいほど想い続けていた人。
その黒髪の青年は…。
目を覚ました時、息苦しくて、そして全身にびっしょりと汗をかいていた。
ここはリビングのソファーだ。
ロイが買い物から帰ってくるのを待っている間に、うたた寝をしてしまったらしい。
うるさく鳴る心臓の鼓動を聞きながら、恐る恐る夢の内容を思い出していると、ロイが買い物から戻ってきた。
「ただいま、リザ」
リビングの入口に立つロイは窓から差し込む夕日に染まっている。
夢に出てきたのは、ロイ?
「リザ、どうした?」
リザが返事をしないのを不思議に思ったのか、ロイが首を傾げながらソファーへ近付く。
「寝てたのか?なんだが顔色が悪いぞ。…まさか、何か思い出したのか?」
「…夢…見たの…」
か細い声でロイの問い掛けに答える。
「…何を思い出した?」
「ロイ…お水飲みたい…」
「分かった」
ロイが急いで持って来てくれた水を体に流し込んでも、動揺は治まらない。
ロイはソファーに座ると体が冷たくなったリザを温めるよう抱き締め、背中をさすってくれた。
しばらくロイに寄り掛かっていたあと、やっと混乱していた頭が状況を整理し始めた。
「ロイ、あのね…」
額に浮かんだ冷や汗をタオルで拭ってくれているロイに、夢の内容をぽつりぽつりと話す。
「…そうか」
リザの話を聞くロイの表情は、だんだんと暗くなっていく。
「今のはただの夢?本当にあったこと?…リザは…人を撃ったことがあるの…?」
「…ある」
ない、と、いつものよう優しく微笑んで言ってほしかった。
リザの瞳から涙が零れ落ちた。
「でも…正当防衛なんだ。リザが殺さなくては君が殺されていた。リザは悪くない」
「…そんな…リザが誰かを…」
「…今は部分的に思い出して辛いだろうが、リザは悪くないんだ」
震える手で涙が溢れる両目を覆う。
正当防衛とはいえ、リザが誰かを殺してしまっただなんて信じられない。
突然垣間見た過去はあまりにも残酷で、「リザは悪くない」というロイの言葉も救いにはならない。
「本当に、本当にリザは悪くないの…?」
「リザが悪いわけではない。あんなことになったのは運命の悪戯と…あいつのせいだ。私は…リザを救えなかった…」
「あいつ…?」
あいつって誰?
「あ…夢に出てきたのは、ロイなの…?」
「そうだ」
「あそこは砂漠みたいなところだったよ…この国でそんな場所は…」
「リザ」
言葉を続けようとすると、それを遮るようにロイに強く抱き締められた。
「今は…まず落ち着いた方がいい。少し思い出しただけでも辛いだろう?ゆっくりでいいんだ。いつかはすべてを思い出すだろうし…私が全部話す」
いつかって、いつ?
リザは人を殺してしまった過去を曖昧なままにして、今を過ごせというの?
ロイはリザに失った記憶を思い出してほしくないみたい。
過去を忘れて、リザに新しく今を生きてほしいように思える。
そんなずるいこと、よくないよ。
少しだけ思い出した過去も、過去から逃げているような今も苦しくて泣いているリザを、ロイがずっと抱き締めてくれていた。

夕食はあまり食べられなかった。
ロイはリザを気遣ってリザの側から離れようとしなかったけど、リザは一人になりたくて、久しぶりに一人でお風呂に入る。
お湯の中で、右足から取れてしまった包帯がゆらゆら揺れているのをぼんやりと眺めながら、夢の内容を思い出す。
きっとロイは、リザが人を殺してしまった過去を思い出してほしくなかったんだ。
そんな大事なことを隠しているなんてひどいよ。
どんな事情があったとしても人を殺めてしまったのなら、リザは償いたい。
ロイはリザにほかに何を隠しているのだろう。
ロイが、過去を真っさらに消してリザに新しい人生を歩ませたいと思っていても、リザはそんなのは嫌。
のぼせるぞとロイが脱衣所から声を掛け、リザは湯舟から体を出した。
ふと、曇った鏡に映るリザの背中を見て、これもロイが秘密にしていることだとため息をついた。
記憶を失ってから最も驚いたことは、このリザの背中のことだ。
これはリザが気付いたのではなくて、ロイがあらかじめ教えてくれた。
リザの背中には、錬金術に関する文字や記号が刺青となって大きく刻まれている。
そして、まるでそれを解読できなくするかのように陣が焼いて潰されている場所がある。
この背中に刻まれた錬金術の陣は、リザの出生に関係があるものらしい。
禍禍しく思える背中の陣を見て怖いと思ったが、不思議と嫌悪感はわかなかった。
だってこれは人の役に立つものだから。
誰に言われたわけでもないけれど、背中を見た時、頭が自然とそう理解していた。
バスルームから出て適当にタオルで体を拭き、下着を身につけて寝室に行く。
「おい…リザ、パジャマは?」
寝室にはロイがいて、ベッドに座り本を読んでいた。
リザがパジャマを着ていないのを見てロイは顔をしかめる。
「めんどくさい」
「髪も濡れたままだぞ」
「ロイが乾かしてくれるでしょ?」
「私は召使いなのか。まだ夏だからいいけど…風邪ひくぞ」
リザがベッドに飛び込んで俯せになると、ロイは洗面所から持ってきたタオルでリザの頭を拭く。
「…気分は落ち着いたか?」
髪を乾かしてもらうのが心地好くて寝そうになっていると、ロイが静かに尋ねた。
「うん。さっきよりは落ち着いた」
「そうか…良かったよ」
ロイはリザにパジャマを着せてくれるのかと思ったのだけれど、ロイは髪を乾かし終わると、寝ているリザの上にのしかかった。
うなじを軽く噛まれて身をよじっていると、キャミソールを乱暴にたくしあげられた。
ロイの目に映るのは、リザもさっき鏡で見たあの背中の陣。
「…ごめん」
ロイはリザに謝りながら背中に口付けた。
柔らかな舌が背中を這うのがくすぐったくて、リザは両手でシーツをぎゅっと握る。
ロイはセックスの前に、いつもリザの背中にキスをして、それから何故かリザに辛そうに謝る。
「リザ…ごめんな。ごめん…」
謝ることはないんだよ。
「私は…リザを助けることができなかった…」
違うよ、だってこれは人を救うもの。
リザとそう約束してくれたじゃない。
そうだよね?
ロイは何も教えてくれないけど、なんだか分かるの。
はっきり思い出せているわけでもないけれど、ロイがリザに謝る必要はないんだよ。
「ねえ、ロイ…あっ」
謝らなくていいんだよと伝えようとしたのだけれど、ロイの指に胸を掬われ、そして胸の尖りを掴まれて喘ぎ声に代わった。
そのままロイに触られて、ぐちゃぐちゃになって、熱と快楽に溺れて、訳が分からないうちに眠くなってしまった。

パン、パンと嫌な音が絶え間無く辺りに響く。
きっと銃声の音ね。
人の形をした的に銃を向け、急所に鉛玉を撃ち込んでいく。
銃を握る指が痛くなるのにも気付かず、ひたすら的に向かって撃っている。
ああ、また夢か。
リザは今、夢の中にいるんだ。
そしてリザは銃を握っているんだ。
人を撃った時は吐き気がするほど嫌だったのに、的に向かって撃つのは不思議と嫌じゃない。
リザは強くならないといけないから。
守る人がいるから。
誰かが、酷使して赤くなったリザの指を握った。
「君の指は人を殺す指ではなくて、私を守る指だ」
誰かが諭すように言う。
「あなたの指も、人を守り、国を変える指です」
リザも、誰かに誇らしげにそう応じる。
あなたは誰?
ロイなの?
リザの頭を撫でると黒髪の青年はリザに背を向けて歩き出し、消えてしまった。
目を覚ますと泣いていた。
見慣れた天井が涙でぼやける。
指で涙を拭いながら、上半身をそっと起こす。
リザはベッドでお昼寝をしていたんだっけ。
昨日、人を殺めてしまった夢を見てからずっと苦しかったけれど、夢に出てきた誰かの言葉が痛みを和らげてくれた。
リザが人を殺してしまったことには変わりはない。
でもリザは、過ちを悔いながらも今は誰かを守る生き方をしているのだと、パズルのピースがぴたりと枠に収まるように、ごく自然に、ふと思い出した。
涙で濡れた右手をじっくりと見ると、年頃の女性の手とは思えないほど肌が荒れていて、皮膚は固くなり、指にはたこがあった。
このリザのかさついた指は、人を守る指なのだ。
だからこんなところで泣いていないで早くあなたのやるべきことをしなさいと、また誰かがリザに囁く。
悲しくて泣いているわけではない。
今の夢は涙が出るほど優しい時間だった。
急いでロイのところへ向かう。
「リザ!?どうして泣いているんだ!?」
書斎のドアを開け、走って本を読んでいるロイの元に向かい、勢いよくロイに抱き着く。
「また夢を見たのか…?」
「今度は嫌な夢じゃなかったよ」
シャツの袖で涙を拭いてくれるロイに、夢の出来事を話す。
「あれはロイなの?」
「…ああ」
「ロイがそう言ってくれるなら、リザ、何があっても平気だよ。…もう隠し事しないで、全部言って」
「…しかし…」
「夢の中のロイと今のロイは…全然違うよ。リザに秘密がある今のロイは好きじゃない」
ロイを傷付けると分かっていても、はっきりと告げた。
リザを守るために秘密にしてくれているロイの気持ちが分からないわけではないけれど、リザは今まで自分がしてきたことを知らないままは嫌だ。
「…思い出すことが今回のように必ずしも救いようのあることは限らない」
「…ロイ…」
ロイはリザを抱き締めると、そのまま黙ってしまった。
きっと、記憶を取り戻すと今の静かな生活は壊れてしまうのだろう。
ロイは、事件も変化もない、ただ一日が過ぎるのを待つだけの今の生活を守ろうとしている。
それはリザのため?
それともロイのため?

夜になり、リザは車の助手席に座っていた。
運転席に座るロイが車を発車させる。
今日は病院に行く日だ。
今から行く病院は、リザがロイを助けて頭を打った時にロイが駆け込んだところで、お医者さんはロイの昔からのお友達だ。
病院は個人院で小さく、ロイのお友達は医療系の錬金術が得意で国家錬金術師になろうとしたけれど、駄目だったらしい。
ロイの家は大通りからずいぶん離れた場所にあるようだけれど、病院はもっと街から離れている。
「ねえ、ロイ、どうして夜に病院に行くの?」
「あいつはああ見えて結構忙しいんだ。ゆっくり診てもらうなら夜がいい」
失礼だけど、町外れにある小さな病院ならば、昼間も夜と変わらず暇な気がする。
「こそこそしているみたいで変だよー。追われている殺人者の気分だよー」
「…冗談でもそういうことを言うな」
「ごめんなさい」
ロイは頭が固いから冗談が通じない。
窓の外の景色を眺めているうちに病院に着いた。
「やあリザちゃん。もうおねむの時間なんじゃないか?」
「リザは子供じゃないよ」
「ごめんごめん」
ロイとリザが病院に入った途端に、先生はいつもの優しい笑顔でリザをからかった。
「おい、ロイ、昼間に来いよなー。看護師はもう帰ったぞ」
「昼間は忙しいんだ」
「また研究か?自分の都合にリザちゃんを付き合わせるなよ」
あ、やっぱり昼間に来ないのには理由があるんだ。
「リザに変なことするなよ」
「お前じゃないからしないっつーの」
ロイは先生の小言から逃げるように、診察室の奥にある書庫に入って行った。
背中だけは見せないようにして、いつもの健康診断をする。
あとは先生とお話。
「何か思い出した?」
「…えっと…」
先生は好きだけれど、夢の話はなんだか他人には話したくない。
「話したくないならいいよ。ロイには話しているんだろう?必要だったらあいつから聞くから」
「…うん…」
「じゃあ次は足を診るからね」
診察台の上に寝転がり、先生に足を見せる。
「まだひどいかな。痛くないの?」
「かすり傷だよ」
「この傷はリザちゃんが思っているよりひどいよ。リザちゃんは強いな」
膝に新しい包帯を巻いてもらって、ベッドから起き上がる。
ロイは「新しい本を買ったのか」と書庫の中を見るのに夢中になっている。
その隙を見て、先生の白衣を引っ張り、そっと口を開く。
「リザちゃん?」
「先生…」
「ん?」
「先生とロイは昔から仲良しなんだよね」
「そうだよ」
「ロイは…イシュヴァールに行ったことがあるの?」
こっそりと尋ねると、先生の眼鏡の奥の優しい瞳が、一瞬だけわずかに険しくなった。
「…リザちゃん。その話はロイが話さない限り、話さないでやってくれ」
やはりロイはイシュヴァールにいたことがあるのか。
じゃあ、私も?
「それよりリザちゃん、飴だよー」
「わっ」
いつも机の隅には色とりどりの飴が入った瓶が置いてあり、その中から取り出した飴を急に口の中に入れられて驚く。
「りんご味だよ」
「だからリザは子供じゃないよ」
「はいはい、ごめん」
飴を舐めながら先生とさようならをして再び車に乗る。
ロイの家に近付くと、急にロイはリザの肩を掴んだ。
「ロイ?」
「リザ、伏せろ」
「え?」
「静かに。言うことを聞け。少しの間、伏せていろ」
「…分かった…」
切羽詰まったロイの声が怖くて、体を伏せ、椅子の上で隠れるように体を縮こめる。
リザがこうしていると、外からはロイが一人で車に乗っているように見えるだろう。
ロイに「伏せろ」と言われる前、外では人が歩いていた。
ロイの家はほかの家からずいぶんと離れているから、その人が近所の人なのかどうかは分からない。
ロイはリザが車にいることを知られたくないのだろうか。
リザは外に出てはいけないし、病院に行く時はいつも静かにしなさいと言われるし、車に乗る時もロイは周りをとても気にしている。
ロイはリザの存在を隠したいの?
ロイは過去にイシュヴァールにいて、それからロイはリザがここにいることを周りに知られたくない。
この二つは何を意味しているのだろう。

ロイはイシュヴァールにいた。
そしてリザもおそらく一緒にいた。
ロイとリザはイシュヴァールで何をしていたんだろう?
あそこはイシュヴァール人しか住んでない土地のはずだ。
昨日、先生から得た手掛かり以外に、何か過去を思い出せるものはないかと、掃除をする振りをしながら引き出しの中などをこっそり漁ってみる。
でも、記憶に引っ掛かるものは何も出てこない。
「んー…」
「何?」
「何でもない」
午後になっても何も見つからず、いつものように書斎の床に寝そべる。
ロイは相変わらず机に向かって書き物をしている。
ふと人が家に近付いてくる気配がして、耳を澄ませた。
ほどなくして家の扉が叩かれる。
「誰か来たね」
「…ああ」
なんだかわくわくしてしまう。
ロイは友達が少ないようだし、知り合いもあまりいないみたいだから、リザが記憶を失ってからこの家に誰かが来るのは初めてだ。
ロイは研究を邪魔されるのが嫌なのか、顔を引き攣らせながら椅子から立ち上がる。
「リザ、書斎から絶対に出るな。それから静かにしていろ。分かったな」
「はーい。つまんないの」
「すぐに戻るから」
「分かったよ」
ロイはもう一度リザに静かにしていなさいと忠告して、書斎を出て行った。
それを興味なさそうに見送り、ロイが書斎の扉を閉めるのを横目で見て、ロイが玄関を開けた音を確認すると、リザはこっそり起き上がって扉に耳を押し付けた。
ごめんね、ロイ。
ロイと先生以外の誰かに会うこんな貴重な機会は絶対に逃せないよ。
もしロイの知り合いならばリザも知っているかもしれないし、そしたら何かを思い出すかも。
「…ニュースでもうご存知かとは思いますが…」
「遺体はまだ全部見つかっていません」
玄関で立って話をしているらしく、玄関と書斎は近いから、扉の向こうからはなんだか物騒な話が聞こえてくる。
そうなんだ、外ではそんなことが起きているんだ。
ロイを訪ねてきたのは男性二人だ。
音を立てぬように慎重に書斎の扉を開け、廊下に出る。
息をひそめて、抜き足、差し足、忍び足。
この廊下の角を曲がると、ロイと男二人がいる玄関がある。
ロイが扉の方を向いているなら、リザが廊下の角から玄関を覗いても気付かない。
そっと角から顔を出すとロイの背中が見えた。
良かった。
これでばれない。
外には青い服を着た男の人が二人、立っている。
あの青い服は、軍人だ。
ロイの大嫌いな軍人が家を訪ねてきたのかと、思わず息を飲む。
一人は金髪の男の人だ。
かっこいい人だな。
もう一人はロイに隠れて見えないや。
あ、金髪の人が今、リザを見た。
いけない。
足音を立てないようにつま先立ちで、急いで書斎に戻る。
大丈夫だよね。
うん、大丈夫だよ。
ロイとの約束を破り、そして軍人さんと目が合ってしまったことに罪悪感を覚えつつも、ロイと先生以外の人間に会えたことに興奮していた。
リザの世界はこの狭い家とロイだけだから、そこに誰かが入り込んで来るなんて初めて。
軍人さんだから当然リザの知り合いではなかったけれど、外の世界に触れられた新鮮さからか、心臓の鼓動が速くなる。
何かの聞き込みに来たのかな。
もっと覗いていたかったなと唇を尖らせながら、興奮気味に勢いよく本棚に寄り掛かる。
すると急に頭に強い痛みが走り、次にばさばさと厚い本達が足元に落ちた。
「い、痛い…」
頭を押さえ、痛みのあまり涙目で床にうずくまる。
本棚の上に適当に積み重ねてあった本が、リザが本棚に寄り掛かったはずみで落ちてしまったのだ。
ちょっと失礼します、というロイの声が玄関から聞こえた。
そして書斎の扉が勢いよく開かれ、ロイが慌てた様子で部屋に入ってきた。
「リザ、今の音は何だ!?」
ロイは軍人さん達を気にしているのか、声を抑えつつ怒鳴る。
「ご、ごめんなさい、本が落ちてきて…」
「本?大丈夫か?あとで冷やすから…。まったく、静かにしていろと言ったじゃないか」
「ロイがあんなところに本を置くからだよー」
「すまない。…私はまた戻る。いいか、静かにしていろ」
「…うん…」
ロイは怒っているのを隠さずに大きくため息をつくと、また軍人さん達のところへ戻っていった。
ロイを怒らせてしまった。
ロイは軍人さんが嫌いだからただでさえ機嫌が悪くなると思うのに、後が怖い。
それから数分後、玄関は閉められ、そしてロイはひどく疲れた様子で書斎に帰ってきた。
ロイは無言でリザの手を引いてリビングに連れて行くと、いつも食事をする席にリザを座らせた。
「あの…ロイ…ごめんね。リザ、うるさくしちゃった」
「…いや、いい。今度から気をつけてくれ」
「…うん」
ロイは黙ったまま、シンクで氷の大きな塊を砕いて小さくし、ビニール袋に入れている。
ロイはすっかり元気がない。
リザはロイが氷を砕く背中を静かに見守る。
氷が入ったビニール袋をタオルで包むと、ロイがリザに渡してくれた。
「ありがとう、ロイ」
「またたんこぶができたか?」
「できたかな…でも、あんまり痛くないから平気だよ」
「…そうか」
ロイが向かいの席に座るのを眺めながら、本がぶつかった場所を氷で冷やす。
今はあんまり痛くないから冷やさなくても大丈夫だと思うんだけどな。
それよりリザはロイが心配だよ。
「…軍人さんは何をしにきたの?」
好奇心に負けて尋ねたものの、やはり聞かなければ良かったかなと後悔する。
「…殺人事件の…」
ロイはぼそりと呟いた。
「え?」
「殺人事件の聞き込みだ。最近、残虐な事件が起きていて…この近くにある喫茶店に怪しい男が現れたらしい。それで何か知らないかと聞かれた」
「…そっか…」
ロイは俯いていて表情が見えないが、きっと悲しい顔をしているのだろう。
ロイ、ごめんね。
またリビングに沈黙が訪れる。
ふと、ロイが席を立つとリザのところへ来て、座ったままのリザを抱き締めた。
「…ロイ…?」
頭に乗せていた氷をテーブルの上に置いて、ロイの背中に腕を回す。
「…軍人は嫌いだ」
「…うん」
「軍は…意味もない殺戮をして…私たちからたくさんのものを奪った…」
「…そっか…」
「…私は…一度だけ戦場に行ったことがある」
ロイの言葉に目を見開く。
ロイは軍人だったの?
イシュヴァールにいたのはそのため?
でもイシュヴァールで何があったの?
リザはその時、何をしていたの?
「もう少し経ってから言おうと思っていたんだが…引っ越そうと思う」
「え?」
ロイの突拍子もない言葉に、また目を丸くした。
「もっと環境のいい場所に行く。自然があって、物騒な事件が起きなくて…軍人の手が届かないところに行く」
「…リザはそこに行ったら記憶が戻る?」
「分からない。でも、ここにいない方がリザのためだ。それは断言できる」
ロイは、リザの意見は端から聞くつもりはないらしい。
この町で記憶を失ったのならば、この町にいる方が記憶が戻りやすいはずだ。
過去を思い出して傷付くのはリザではなく、きっとロイなのだろう。
頑なにリザの過去を語らないのはリザを守るためではなくて、ロイのため。

夏の夜の涼しい空気が肌に心地好い。
この草の匂い好き。
リザは今、家の裏にある木々が密集している場所にいた。
草むらの上に寝転がり、星空を眺める。
今日は少し曇っているから残念。
夜、近くにある家の明かりが消え、そして道路に誰も出なくなる時間帯が、リザが外に出てもいいとロイに許された時間だ。
家からもロイからも解放された自由なこの時間が最近とても恋しい。
ロイは今も相変わらず机に向かって錬金術の研究をしている。
リザが記憶を取り戻すことはロイにとっては都合が悪いみたい。
だからリザは何も教えてもらえず、外の情報も与えられず、家に閉じ込められている。
過去を思い出さないように行動を制限され、毎日同じことの繰り返しの変化のない日々を強いられている。
つまらないな。
引っ越しをしたら何か変わるのだろうか。
いいや、ロイはこのままリザには何も告げず、記憶をうやむやにするつもりなのだろう。
リザは行きたくない。
この場所で、ちゃんとすべての記憶を取り戻したい。
リザが人を殺してしまった過去を忘れて生きていくなんて、リザは自分が許せない。
リザはちゃんと償いたいよ。
大きくため息をつく。
それと同時に、ふと何かの気配を感じて身を潜めた。
野良猫?
いいや、これは人の気配だ。
リザの方に近付いてくる。
上半身を起こして見を強張らせた。
「こんな時間に山で遊んでいるのか?危ないよ、お嬢さん」
どこかへ隠れようとする前に見つかってしまった。
体つきのいい男性がリザを見下ろしている。
暗くて顔はよく見えないが、この声はどこかで聞いたことがある。
そして男性は見覚えのある服を着ていた。
「あ…昼間の軍人さん?」
「よく覚えているね」
ロイに隠れて見えなかった軍人さんだ。
「どうしてここにいるの?ここは山だよ。どこから来たの?」
「君の秘密基地だったのかな。邪魔して悪かったね」
「リザ、子供じゃないよ」
「君、機械鎧って知っているか?」
「…うん、聞いたことあるけど…ひゃ!」
軍人さんはリザの隣にしゃがみ込むと、急にリザの右足を掴んだ。
「な、何…?」
「この足は本当に君の足か?」
「…や…っ」
「あ、いい声だね」
サンダルを履いている足の甲から、包帯を巻いている膝、そして足の付け根までを大きな手でなぞられて、変な声が出る。
「うん…うん」
「…何してるの…?」
「ふむ。確かに君の体だ」
軍人さんはリザの足を触ったあとも、リザの肩や腕をぺたぺたと触った。
変な人だ。
「…あの、ロイに用?ロイは家だよ」
「ロイ?君はあの腰抜けをそんなふうに呼んでいるのか」
「ロイはロイだよ」
「あいつに用があるわけじゃない。君をスカウトしに来たんだよ、鷹の眼さん」
「鷹の眼…?」
鷹の眼ってリザのこと?
先程から軍人さんの言動の意図が掴めない。
「やっぱり覚えていないのか」
「…なんでそんなことを知ってるの?」
会ったこともないのに軍人さんの手の上で転がらせている嫌な気分。
もしかして、軍人さんはリザのことを知っているの?
「君さ、記憶がないんだろう?自分が軍人だったことも忘れているのか?」
「…軍人…!?リザが軍人!?」
外では静かにしなさいというロイの忠告なんてとうに忘れ、思わず大きな声を出していた。
「やはり教えられていないのか。あいつは本当に卑怯な男だな。君は優秀な軍人だよ。もちろん現役の」
「…リザが…」
まさかリザが、ロイがあんなに嫌う軍人だったなんて信じられない。
しかし、軍人ならば日常的に銃を扱うだろう。
軍人さんの言うことと夢で見たことは筋が通る。
「ロイは!?ロイも軍人だったの!?イシュヴァールで何があったの!?」
「あいつのことはどうでもいい。イシュヴァールか…。そのことはあとで話そう。君はイシュヴァールでずいぶんと功績を上げた。鷹の眼という名もあそこでついた名だ」
やはりリザはイシュヴァールにいたんだ。
またひとつ、欠けていた穴が埋まる。
「イシュヴァールといえば、アメストリス軍も結構打撃を受けた。戦死した者、辞める者、精神を病んだ者…。軍は今、人手不足だ。おい、聞いているか?」
「…うん…」
頷いたものの、リザが軍人であるという事実にまだ驚愕していて、軍人さんの話は頭に入ってこない。
「それでね、優秀な軍人が必要なのだよ、鷹の眼さん」
「…そうなんだ…」
「軍人だったことでそんなに驚くなんて、あいつは君に何も教えてないらしいな。まあ軍を嫌っているようだが…女々しいやつだ。…軍に戻るなら、私がすべてを教えてあげよう」
「え?」
リザは軍人さんを見上げてきょとんとした。
軍人さんは私を見下ろして笑う。
「私だったら何でも教えてあげるよ。知りたいだろう?自分の過去を」
軍人さんの言葉はまるで甘い悪魔の誘惑のようだ。
「…知りたい…」
リザは迷わず答えていた。
ロイが教えてくれない過去を、リザは知りたい。
「ならば、軍へ戻るんだ」
軍人さんはリザに手を差し出した。
そしてリザは何かに惹かれるようにその手を握っていた。
「よっと」
軍人さんはリザの腕を引っ張ると、草むらからリザを立たせた。
「じゃあ今すぐ教えてあげよう。行こう」
「うん」
軍人さんはちょっとだけ強引にリザの手を引いて山を下りる。
リザの前を歩く軍人さんは、軍人だけあってやはり体が逞しい。
あれ、この後ろ姿、どこかで見たことがある気がする。
軍人さんはリザを知っているようだし、リザと軍人さんは親しい仲だったのかな?
「あの…、軍人さん」
「何だ」
「ロイの家、ここだよ」
「それがどうした」
軍人さんはリザの腕を引いて足早に山を下りると、家を通り越して道路に出た。
ちょうど向こうから車が走って来て、車はリザと軍人さんの前で留まった。
「乗って」
「え…?待って。ロイに、行くからって話をしないと…。それにロイも軍人だったんなら、軍人さんの話に同席してもいいでしょ?」
「自分の都合のために君に何も教えなかった臆病なやつのところにもう用はないだろう。君の邪魔になるだけだ」
「そんな…!」
軍人さんは車のドアを開けると、後部席に無理やりリザを押し込んだ。
「出せ」
そしてリザを車に閉じ込めるかのように自分も後部席に乗ると、運転席にいる軍人さんに命令をする。
運転席にいるのは、昼間に見た金髪の軍人さんだ。
呆気にとられている間に車が走り出す。
「やだ!待って!」
「知りたいと言ったのは君だよ」
「その前にロイと話をさせて!」
「あの男のことはもう忘れろ。私たちは君が必要なんだ」
後ろを向くと車のガラス越しに、ロイが車を追って走って来るのが見えた。
リザがなかなか戻らないのと、車の音を聞いて不思議に思って外に出て来たのだろう。
「ロイ!」
ロイもリザの名前を必死に呼んでこちらに走ってくるが、車と人間の足が互角なはずがなく、当然ながらロイの姿はどんどんと小さくなる。
「降ろして!ねえ!…お願いだから…降ろして…っ!」
「…君はあの男を選ぶのか?」
「ロイ…!」
ガラスを両手で叩いて、降ろしてほしいと何度も懇願する。
「止めろ」
ため息をついた軍人さんは運転席に向かって命令をした。
車が止まるとすぐにドアを開けて、無我夢中でロイのところへ走った。
サンダルが片方だけ足から脱げてしまうが構わない。
ロイも息を切らしながらもリザの方へ走ってくる。
「ロイ!」
「リザ!」
息を乱したままお互いの名前を呼び合う。
やっとロイのところまでたどり着くと、ロイがリザを抱き締めた。
「リザ!どうして勝手に…!」
「ごめんなさい…!」
「…足から…血が出てるじゃないか…」
「ロイ、ごめん…ごめんね…」
ロイは走り疲れたのかリザを抱き締めたまま道路に崩れ落ちて、リザも一緒に倒れ込んだ。
聞こえるのはお互いの乱れた呼吸だけで、言葉は交わさずにただ黙ってしっかりと抱き合う。
「悲しいな、君はその男を選ぶのか」
気が付くと、リザを無理やり連れて行こうとした軍人さんがリザ達の後ろに立っていた。
軍人さんが悲しげに顔を伏せると黒い瞳が前髪に覆われて隠れてしまう。
「…どうして…そんな顔をするの…?」
――そんな顔は私がさせないはずじゃない
顔を伏せてしまった軍人さんに惹きつけられるようにその姿を見つめていると、急に視界が眩しくなり、目を細めた。
耳障りな音と共に、先ほどリザ達が乗っていた車が、何故か尋常ではないスピードを出してこちらに向かって走って来ている。
危ない。
声には出さず唇だけを動かした。
ロイは地面に座ったまま、急いでリザを道路の脇へと引っ張った。
しかし、軍人さんは道路の真ん中から一歩も動かない。
車が来ているのに気付いているはずなのに、軍人さんは避けなければ轢かれるというのに、そこから立ったまま動こうとしない。
「…何を…しているの…」
軍人さんはリザの問い掛けに答えるように、今まで伏せていた顔を上げる。
車のライトに照らされて、軍人さんが不敵な笑みでリザのことを見ているのが暗闇に浮かび上がった。
怖いもの知らずの不遜とも言える眼差し、いつも尊大で、余裕で構えて立つこの姿を、リザは知っている。
ああ、この人は。
「――何をしているんですか、マスタング中佐!」
男の腕の中を抜け出して、中佐の元へ走る。
同時にいくつもの場面が頭を過ぎる。
殲滅戦の最前線、イシュヴァールで殺してしまった人達、焼いてもらった背中、中佐を守ると決めた日。
久しぶりに会った友人、深夜の道路、私を呼ぶ声、酒臭い匂い、ざわめく人々。
「…大丈夫か、ホークアイ少尉。君の突撃は闘牛のようだな」
「何を馬鹿なことを言っているんですか!怪我は!?」
耳をつんざくような急ブレーキの音がして、気付けば中佐の腕の中にいた。
中佐を突き飛ばすつもりで駆け出したのだが、彼は走ってきた私を抱き留め、そのまま道路に倒れ込んだらしい。
とにかく車には轢かれなかった。
「よいしょ」
中佐は私を抱き締めたまま道路の上に腰を降ろし、足の間に私を座らせる。
「ちょっと背中を打ったけど平気だ。記憶は失っていない」
「…もう…!」
笑えない冗談を言う中佐の腕や背中を触り、出血や腫れがないかを確認する。
「はあー、危なかったー。中佐だけなら轢いて構わないけど、というか撥ね飛ばしたいけど、ホークアイ少尉がいるからもう冷や冷やっすよ」
誰も轢いていないことに安心した様子で、車の運転席からハボック少尉が降りてくる。
「ハボック少尉!中佐の馬鹿な命令に従わないで!」
「あ、無事に記憶が戻ったんですね。記憶をなくした時のことを再現をすると戻るって本当なんだ」
感心したように頷くハボック少尉をきつく睨む。
「…ハボック少尉、あとで話があるわ」
「うわー、記憶が戻って早々説教かあ」
言葉とは裏腹にハボック少尉は嬉しそうに笑う。
「…戻ったんだな」
ハボック少尉と私のやり取りを黙って聞いていた中佐が、静かに尋ねる。
「…戻りました」
「私は誰だ?」
「あなたはロイ・マスタング中佐。私の上官です」
「君は?」
「私はリザ・ホークアイ。階級は少尉。あなたの副官です。そして、そこに立っているのはジャン・ハボック少尉です。」
「…戻った…」
中佐は大きなため息をつくと、私を強く抱き締め、肩に顔を埋めた。
「…申し訳ありません…」
「…本当だよ。少尉の馬鹿者…」
中佐の拗ねた声が懐かしい。
ようやく記憶を取り戻すことができて、安堵のあまりか、柄にもなく、私がいるべき場所である人のことを抱き締めた。
「ちなみに…そこで唖然としているこの男は誰だ?君とどんな関係なんだ?食事とか行ったの?私の情報だと親しくないはずだけど」
「…何の情報ですか。…えっと…」
私と一週間を過ごした男は、私たちを見つめたまま、信じられないという様子で、呆然と頭を抱えていた。
記憶を失っている間に一緒に過ごした一週間の印象が強すぎて、この男が誰なのかを思い出すのに時間が掛かる。
「…顔見知り、です…。…あ、司令部の廊下で挨拶をされたり、たまに出勤途中に会ったり…」
「顔見知り、か。君にとってはその程度か。私が教えてやろう。こいつは運よく国家錬金術師の資格を取れた男だが、まあ私と比べたら月とスッポンの差だ。で、名前はロイ。苗字は…あー、ハボック、こいつの苗字は?」
「忘れましたねえ」
どうでもよさそうに答えたハボック少尉は、車に寄り掛かりながら呑気に煙草を吸っていた。
「このように、私やハボックにとってもゴミ程度の男だ。しかし君は顔見知りというだけのこの男を、体を張って助けた」
「だって、車が走って来ているのに、酔ったまま『ホークアイ少尉』って駆け寄ってくるから…」
「助けなければ良かったんだよ、こんな奴。君は一週間前、友人と遅くまで会っていたな?」
「はい。覚えています」
「深夜、君は帰宅途中、大通りから離れた通りで、偶然、こいつに会った。こいつはひどく酔っていて、普段ならば声を掛けられない高嶺の花である君に近付いた。馬鹿なことに、車が走ってきているのにも気付かずにな。そして君はこいつをかばった」
「…この人を突き飛ばしたあとのことはまったく覚えていないです」
「車は君を撥ねなかったが、しかし君は運悪く頭を打った。目撃情報によると、君にぶつかったと勘違いした車はすぐ逃走し、助けられた男は近くの公衆電話に駆け寄った。恐らく友人の医者を呼んだのだろう」
「深夜だし、目撃者が少なくて、聞き込みは大変だったんですよー」
白い煙りを口から吐き出したハボック少尉が話に割り込む。
「ここからは推測だ。友人を呼んだのは信頼できる医者だし、何よりすぐに診てもらえるからだ。大きな病院へ連れて行っていたら患者の身元はすぐに分かるし、勝手に連れ出すことはできないし、すぐに君を見つけられたんだろうけどな…。咄嗟の判断がこいつにとって好都合となる。目を覚ました君は記憶がない。こいつは友人に『リザは恋人だ』とか適当に嘘をついて君を家に連れて帰った。そして、こいつの夢のような生活が始まったわけだ。東方司令部は大騒ぎだがな。朝、君は出勤してこないし、家からは生活用品と一緒に君が消えているし。生活用品は深夜のうちにこいつが持ち去ったんだろう」
「…はあ」
私が意識を失っている間にそんなことが起こっていたのか。
勝手な男だ。
「『はあ』じゃない。馬鹿だ。本当に馬鹿だ。君は、黒髪で国家錬金術師で名前がロイという男なら、誰でも信じるのか?あとでいじめてやる」
「いじめないでください…。それから中佐だと思って一緒に暮らしていたわけではありません。この人と中佐はどこも似ていないでしょう」
この男と中佐はまったく違う。
中佐のような人間は世界に一人しかいないとも言う。
「刷り込みのようなものです。恋人だというので、つい甘えてしまいました」
「『ロイ』なんて呼んでいたもんな。ああ、とんだ馬鹿だ。ばーか。…別に羨ましくはないぞ!」
「…でも、なんでそんなことを?」
「え?」
「は?」
私が首を傾げると、目の前にいる中佐がきょとんとし、悠々と煙草を吸っていたハボック少尉までが驚いたように私を見た。
「記憶喪失の人間の世話をするなんて大変でしょう。早く司令部に連絡して放っておけばいいものを、わざわざ私を連れ去り、世間から隠れて生活していた理由が、分からないです」
唖然と口を開いていた中佐の唇が、にいっと意地悪そうに弧を描いた。
そして笑い始めた。
あ、この笑い方は人を馬鹿にする時のものだわ。
「傑作だな。少尉はやってくれる。君は一週間、こいつと過ごしたんだろう?その時の記憶もちゃんとあるんだろう?」
「はい」
「なのに分からない。残念だなあ、ロイくん」
中佐に皮肉っぽくロイと呼ばれた男は、泣きそうな顔で私を見ていた。
「最初に『私は君の恋人だ』とか言われたんじゃないか?こいつは少尉が好きなんだよ」
「…そう…なんですか。でも私は、この人とは廊下や道ですれ違うくらいの間柄です」
「君は一目見れば心を奪われるほど充分に美しいよ、リザ・ホークアイ少尉。時に男を正道から外させるほど魅力的だ」
「いつもそんなことを女性に言っているんですね」
ふと湧き出た疑問を口にしてじっと中佐の目を見ると、彼は慌てて目を逸らした。
「それに君は一度、こいつの命を助けている」
「え?」
「イシュヴァール殲滅戦の最後、最前線には出せないが、一応戦闘能力を持つ国家錬金術師達が連れて来られたことがあっただろう?有事の時に戦うことができるように、まずは戦場を見せておくためだ」
「…そんなこともありましたね」
「そこにこいつがいた。もちろんその国家錬金術師達は最前線に出さず、アメストリス軍のテントに待機させているだけだったが…。こいつの友人で、こいつと一緒にイシュヴァールにいた男に話を聞いたんだが、テントに潜り込んだイシュヴァール人に殺されそうになったところを君が助けたらしい」
「…覚えてません」
私はこの男だけを救ったわけではなく、多くのアメストリス兵を助けるために引き金を引いた。
「乾いた戦場で見つけた唯一の花だったんだよ。命を救ってくれた女神だ。それから友人によると、こいつはイシュヴァール殲滅戦にひどく反対していたようだ。なのに、惚れた女がイシュヴァールの英雄の副官となれば…まあ、さらいたくなるんじゃないか?ちょうど嫌な記憶も捏造できるし」
「理由は分かりました。でもあまりに勝手すぎます」
好きだからという理由で私を連れ去り、家の中に縛り、それから自分にとって都合のいい女にしようだなんて最低だ。
「…そんな…馬鹿な…有り得ない…!」
地面に崩れ落ちたように座り込み、頭を抱えてうちしひがれていた男が、勢いよく立ち上がった。
かっと目を見開いて、道路に座る中佐と私を見下ろす。
「私は…リザのことがずっと好きで…!それから私は知っているんだ!調べたんだ!リザの父親は、あのホークアイ氏だろう!?」
「…それが、何か?」
この男に軽々しく「リザ」と呼ばれるのは嫌だ。
そして、父は結構有名な錬金術師だったのだと場違いながら感心する。
「リザはおそらくホークアイ氏に背中に陣を刻まれた。そしてリザの背中にある陣と、ロイ・マスタングの発火布に書かれている陣は同じだ!しかしホークアイ氏がこんな奴に研究を教えるわけがない!無理やりこいつに見られたんじゃないのか!?そして用済みとばかりに背中を焼かれた!」
「…違います」
「じゃあ、ほかに…!ほかに何か弱みを握られているんじゃないのか!?君みたいな人が人殺しに従っているだんておかしい!…なあ、リザ、私なら君を助けられる。過去は捨てて、私と…」
「あなたは、何を勝手なことを言っているんですか?」
男の言葉を、自分でも驚くほど冷たい声が遮る。
男を睨みつけると、男は怯えたように息を飲んだ。
「私も人殺しです。それは中佐ではなく、私が選んだ道です」
中佐の腕を抜け出して立ち上がる。
そして右手を大きく振りかざした。
「あなたが、中佐と私の何を知っているの?」
確かに中佐も私も人殺しだ。
しかし、中佐は、人を殺めると同時に自分の心を殺していって、どんどんと弱っていった。
男はそれを知らない。
私に泣きながら過ちを悔いて背中を焼き、イシュヴァールでの罪をとても償えないと分かっていても国を変えようともがいている中佐の苦しみを、男は何も分かっていない。
「…いいよ、少尉」
振り下ろそうとした右手を、立ち上がった中佐にうしろから掴まれた。
「でも…!」
「君が戻ってきたなら、もういい」
そう言って中佐はまた私を抱き締めた。
回された腕が体を軋ませるほどその力は強い。
「あの…中佐…?」
「あー…、ホークアイ少尉、ちょっと聞いてください」
ハボック少尉はぽりぽりと人差し指で頬をかいて、私たちに背を向けた。
「中佐はこの一週間、毎日、午前中ですべての仕事を終わらせて、午後は深夜まで聞き込みをしていたんですよ。それも寝食はまともにせずに。俺はホークアイ少尉を見つける前に中佐が倒れると思ってましたね。…まあ、そういうことだから、少しくらいいいでしょ」
「…そうなの…」
そう言われると中佐は少し痩せた気がする。
「なんてことだ…リザ…。い、今なら引き返せる…私のところへ、もう一度…」
「罪を忘れて生きるなんて、私にはできないわ。これが私の決めた生き方だから、もう関わらないで」
「…私の…リザが…」
男はそう呟くと再び地面に崩れ落ちた。
私の記憶が戻ったことを歎いている男と、記憶が戻って安心している上官と、その上官に遠慮をして見て見ぬ振りをする部下。
幸い見物人は誰もおらず、ここに住宅が密集していなくて良かったと思う。
なんとも変な構図だと思いつつも、ひとまずは久しぶりの再会を喜ぼうと決めて、中佐の背中に腕を回した。

「…帰ってきた…」
リビングの椅子に座ってため息をつく。
一週間ぶりに帰ってきた我が家は少し埃っぽい。
あの男が生活用品を取るために家を漁ったのは気持ち悪いが、やはり自分の部屋は落ち着く。
いや、呑気に落ち着いていられるのは向かいに中佐がいるからだろうか。
中佐は「また記憶喪失になったら困る」と、私のことを家まで送ってくれて、今はテーブルを挟んで向かいの席に座っている。
「あ…お茶飲みますか?」
家に帰ってくるとどっと疲れてしまって、ついお茶を出すのを忘れていた。
「いや、いい。…厄介な男に好かれたな。あいつの計画だと自分に惚れさせて、どこか遠くへ連れ去るつもりだったんじゃないか?」
「…さあ、どうでしょうね」
「でも君はなかなか惚れてくれないし、記憶は戻るし…笑えるな。はは」
「…あんな人、好きになりません」
そういえばあの男に引っ越そうと言われたけれど、真相は中佐が言った通りなのだろうか。
「しかし君は真面目だな。早く家に帰って休めばいいのに、記憶が戻るなり司令部に行くなんて」
「仕事のことが気になって…。中佐は一度もさぼらずに働いて、私の分の仕事は皆で分担していてくれたんですね…。一週間、皆に迷惑を掛けて、中佐のことも守れなくて…最低です…」
「皆は負担だと思ってないよ。ずっと君のことを心配していた。今頃連絡がいって喜んでいるだろうな」
だから気にすることはないと中佐は笑う。
「ただ…君がいないと寂しい。美しい女性が側にいないと仕事をする気が出ないし、有能な護衛がいなくなると困るし。…もう絶対にいなくなるな」
「申し訳ありません…」
あまりにふがいなくて目を伏せる。
本音を言えば泣いてしまいそうなほど悔しい。
中佐に謝ることはたくさんあるのだ。
「あそこまでしていただかないと記憶が戻らなかったのも…恥ずかしい話です…」
「そういえば、君がいなくなったことと、遺体がばらされて見つかる殺人事件がもしかしたら関連しているのかと思って偶然あの家に行ったんだよ。その時に初めて君を発見できたんだが、君は何も思い出さなかったのか?君はこっちを見ていただろう」
「…情けないですが何も思い出せませんでした…。中佐は私に気付いていたんですか?」
「当たり前だ。あれで隠れていたつもりなのか?目撃者から頭を打ったと聞いていたし、君は元気そうだがやけに子供っぽいから、あの時、記憶喪失だと確信した」
「中佐はあの人に隠れて見えなかったんです。ハボック少尉を見ても何も思い出せなくて…。ハボック少尉を『かっこいい人だな』とは思ったんですが」
「…あいつ…燃やす…」
「…やめてください。それより、先ほど訪ねてきた時はどうしてすぐに全部を話してくれなかったんですか」
「いつ気付くのかなと思って、ちょっと遊んでみたんだ。記憶をなくした君は妙に可愛かったし。…なのにさっぱり思い出せずに『降ろしてー、ロイー』だもんな。君にとって私はそんな程度なのか」
中佐はにこやかに微笑んでいるが、目は笑っていない。
「暗くて顔がよく見えなかったんです!それに中佐は『鷹の眼』なんて言うし…明るい場所であなたと会って真相を聞いたら、すぐに思い出してました!」
「分かったよ。…それで…」
中佐はテーブルの上に肘を乗せて手を組み、じっと私を見た。
「ロイ君とリザの生活はどうだったんだ?」
「どうって…」
「軍人ではない生活は、銃を握らない毎日は、幸せだったか?」
「…中佐…」
中佐の眼差しはいつの間にか真剣なものに変わっている。
「…いいえ。ただ家にいるだけの生活はとてもつまらなかったです。いつも何かしたいと思っていましたし…人を撃ったことを思い出した時は償うと決めました」
「…そうか」
「私はこういう生き方しかできないんです。家で大人しくはしていられない。『もしも』や『例えば』なんて変なことは考えないでください。どんな生活をしてみても、最後に戻ってくるのはあなたの側です」
「…うん。変なことを聞いた。忘れてくれ」
「中佐」
テーブルの上で組んでいる中佐の両手を握ると、彼は驚いたように目を丸くした。
「あなたの夢を何度か見ました。中佐は私に、人を守る指だと教えてくれました。中佐の指も人を守る指です。私はそんなあなたについて行くだけです」
「…そうだな」
「ええ」
険しい表情を浮かべていた中佐が納得したように頷いて、穏やかに笑う。
「うん、安心した。…ところで、少尉、ちょっとこっちに来てくれ」
「どうしたんですか?」
中佐が私の手を掴んで離さないため、彼の手を握ったまま、椅子から立ち上がる。
「きゃっ」
椅子に座る中佐の前に立つと、急に繋いだ手を強く引っ張られ、体が彼の方へ勢いよく倒れ込む。
中佐の胸に片手をつき、怪我をしていない左足の膝を彼の足の間に咄嗟について体を支えた。
「急に何するんですか!」
「大きな声を出さないの、深夜だぞ。いいから、マスタングさんのお膝の上に大人しく座りなさい」
「…どうしても?」
「どうしても」
中佐は人のいい笑顔を浮かべているが強引に私の手と腰を掴んでいる。
私が嫌だと逃げても無理やり座らせられるのだろう。
渋々と中佐の膝の上に座る。
恋人同士でもないのに、どうしてこんなに密着した体勢をしないといけないのだろうか。
「この黒いワンピース、似合っているじゃないか」
中佐は私が着ているワンピースの襟を軽く引っ張りながら満足げに言う。
「これは私がプレゼントをした服だよな。自分から着たの?あいつが着せたの?」
「…あの人が…」
中佐は「昔は母親のおさがりを着ていて服が体に合っていなかったから、今は目一杯おしゃれを楽しみなさい」と、事あるごとに私に服をプレゼントしてくれる。
皮肉なことにあの男が私に着せた服は、中佐が贈ってくれた服ばかりだ。
「私がプレゼントした服を少尉が着ているところを初めて見た」
「中佐が選ぶ服は胸元が大きく開いていたり、変なところで生地が薄くなっていたりして実用的ではないんです」
ちなみにこのワンピースは丈が短い。
中佐の膝の上に座ると太ももが半分以上露出する。
そして中佐は、何故かワンピースからはみ出た太ももを撫でている。
「…あの…」
「怪我をしたのは頭と右足だけか?」
「はい…頭のたんこぶはもう大丈夫です」
「包帯がずいぶんしっかり巻いてあるけど、足の怪我はひどいのか?」
右足の膝を中佐が労るように撫でる。
「ただのかすり傷だと思いますが…」
「これからは私が手当てをしてあげよう」
「ひ、一人でできます…っ」
膝に触れていた指が再び太ももを撫で、そして急にワンピースの中へ入ってきて内股をくすぐった。
草むらの上で中佐に触られた時とは違って、官能を呼び起こす指の動きに思わず息を飲む。
「ほかに怪我をしているところは?」
「ないです…」
「本当かな。服を剥いで確かめていい?」
「だ、駄目です…」
遠慮なく内股を触られ続け、声を殺しながら中佐の軍服の上着を思わず強く掴んでいた。
「なあ少尉」
中佐の唇が耳に触れそうなほど近い。
「どうしてあいつは君の背中のことを知っているんだ?ハボックは聞いていない振りをしてくれたが」
「…それ、は…」
絶対に聞かれると思っていた。
そして謝らなければいけないと思っていたことだ。
ちゃんと中佐の目を見て謝ろうと思って顔を上げると、彼はちっとも笑っておらず、完全に怒っていた。
「ごめんなさい…背中、見られてしまいました。父と中佐以外には決して見せないと決めていたのに…」
「どういう経緯で見られたんだ」
「…一緒にお風呂に入った時とか…」
「一緒にお風呂!?」
「…はい…」
中佐は内股を撫でていた手を止めた。
代わりに私の肩を掴んで前後に揺さぶる。
「…ご、ごめんなさい…」
「背中の陣を見られたことはどうでもいい!あいつには解読できないし何より読めない!それより、なんで一緒に風呂に入るんだっ!」
「それは…一緒に入ろうって言われたので…」
「じゃあ…やったのか…!?」
「…え?あ…。…は、はい…」
「あいつと、毎晩、ねちねちと、やったのか!?」
「…はい…」
中佐の凄まじい剣幕に負けて思わず顔を伏せる。
「…まさかとは思ったが…」
中佐も私に一通り聞くと、がくりとうなだれた。
「…幼少の頃から面倒を見てきた可愛い君が、あんな男に…」
「恋人同士だから当たり前なのかなって思って…流されるままに…」
背中を見られたことより、あの男と性行為をしたことに中佐が食いつく理由がよく分からない。
とにかく中佐はひどく落ち込んでしまって、私は慌てて慰めるようなことを口にした。
「私たちが一生懸命君を探している間に、君たちはやりまくり…いいことしてたんだな…」
「や、やりまくってません!自分から申し出たこともないです!」
「明日、肉体が完全に焼けて、全身の骨もバラバラに打ち砕かれた死体が出ても私を疑うなよ」
「そんなことしないでください!…は、初めてじゃないからいいんじゃないですか?」
私と中佐は過去に一度だけ、背中の秘伝を明かした時に関係を持っている。
「君は処女じゃなかったら誰とでも寝るのか!?」
「ち、違います!そんなわけじゃないです!」
中佐は最初はひどく落ち込んでいたが、今は頭から焔を出せそうなほど激怒していて、憎しみのこもった目で睨まれると怖い。
「あー…、もう最悪。最低」
中佐は椅子から立ち上がると、強引に私の手を引いてベッドに仰向けに寝転んだ。
中佐に腕を引っ張られて、私もベッドに、というより彼の上に倒れ込む。
「もうやだ。寝る」
中佐はそう言うと、壁に手を伸ばして部屋の電気を消して、私を胸に抱いたままブランケットをかぶってしまった。
まるで拗ねた子供だ。
「…ここ、私の部屋ですよ?」
「知っている」
「この一週間、ろくに寝なかったんでしょう?自宅で眠った方がいいです。私、送りますから」
「で、また君が記憶喪失になったりしてな」
「…なりません…」
「危なっかしいからしばらく私が見張る」
機嫌が悪い中佐はしかめっつらのまま私を腕に抱いて、黙ってしまった。
私はまるで抱き枕のようだ。
軍服の生地は固くて、その上にいるのは少し居心地が悪い。
どこが一番寝やすい場所を見つけるためにもぞもぞと中佐の上で体を動かしている時、ふと、彼は睡眠だけではなく食事もまともにしていなかったことを思い出す。
「…おい、胸を押し付けるな。犯すぞ」
「違います。やっぱり痩せましたか…?」
両腕を中佐のお腹に回そうとしたのだが、彼は私の肩を掴んで私を引きはがそうとするから、触ることができない。
しかしさっき中佐と向かい合っていた時、彼は目の下の隈がひどかったし、頬も少しだけこけたように見えた。
「あの…私、今から何か作ります。一週間も留守にしていたので食材が怪しいですが…」
中佐の腕の中からするりと抜け出して、ベッドに座る。
「いや、いい」
「絶対に何か食べた方がいいです。いや、食べてください」
ベッドから立ち上がり、冷蔵庫に何があるかを思い浮かべる。
「おい、少尉」
「スープくらいなら作れるはずです」
「いいから戻れ」
「嫌です」
私の腕を掴もうとする中佐の手を軽くはたいて振り払う。
「だからいいって言っているだろう!」
とりあえず電気をつけようと壁に手を伸ばそうとすると、急に彼に怒鳴られて、驚いて肩を揺らした。
中佐が私に対して怒鳴ることなど滅多にない。
「…中佐…?」
「もう…勝手にいなくなるな…。料理なんていつでも作れるだろう…そんなものはいつでもいい」
「でも…」
「頼むから今はここにいてくれ…」
中佐はベッド無言でから起き上がると、私の肩を掴んで強くベッドへと押し倒した。
そして唖然とする私の上に中佐が覆いかぶさる。
まるで私をどこにも行かせないように、逃がさないように。
「ある日、突然、君はいなくなった。朝、いつもの時間になっても君は来ない。心配になって家に行くと、生活用品と一緒に君は消えていた」
中佐が遠慮なくのしかかってきて、そして体を締め付けるように回された腕が痛い。
「君がいなくなったと同時に、街のあちこちで、女性の体の一部が見つかる事件が起きた。身元も犯人も分からず、そして体は全部見つかっていないが、恐らくもう生きてはいない。君と同じくらいの年の女性だ」
「…そうですか」
その殺人事件の話は司令部に行った時に聞いている。
「切断された体を見ても君のものではないとすぐに分かった。でも怖かった。今度は君のものが見つかるかもしれないと怖かった。君は決して弱い女性ではないが、他人にばかり気を遣って自分のことはないがしろにするから、怖かった」
「…ごめんなさい…」
中佐の声は心なしか震えているように聞こえた。
「君がいなくなってから何も食べられなくなった。腹がすかないんだ。おまけに眠くもならない」
「…マスタングさん…ごめんなさい…」
私が行方不明で生死すら分からない状態にあり、その不安のために、食事ができずに睡眠もとれなかったという意味だけではないのだろう。
ただ、単純に、私がいなければ、この人は物を口にするという簡単なことすらできなくなってしまう。
私はこの人がいないと何か欠けている焦燥感に捕われ、この人は私がいなくては生きていくために必要なことをこなせない。
私と中佐は恋人同士ではないけれど、しかしただの上官と副官ではない。
お互いがいないと生きていけないことだけははっきりとしている。
「私の背中を守ると言ったじゃないか…どうして勝手にいなくなるんだ…」
「…もう絶対に…あなたの側を離れません」
やっと元の生活に戻れた安堵や、皆に迷惑を掛けたこと、そして何よりこの人を深く傷付けてしまったことなど、いろんなものが込み上げて、瞬きをすると涙が溢れた。
耳の方へ流れた涙を中佐が舌で掬う。
「…先に言っておく。優しくはできない」
中佐はワンピースの襟を掴むと左右に強く引っ張り、すぐにボタンが弾けて飛んだ。
ボタンが引きちぎられ、服の前が開けると、あらわになった肌に中佐が噛み付いた。
私の声や形や体温、そして私が中佐の側で生きる存在だということを確認するように、彼は私を抱いた。

東方司令部に出勤するのも、中佐の背中を見て廊下を歩くのも久しぶりだ。
中佐は相変わらず女性士官にのみ爽やかな笑顔で挨拶をし、私は皆に会釈をしつつ、黙ってその様子を眺める。
「本当に少尉は真面目だなー。今日は休んで、朝一で病院に連れて行こうとしたのに…仕事を選ぶのか」
前を歩く中佐が呆れたように言う。
「病院に行かなくても平気ですから」
「いーや、駄目だ。帰りに連れて行く。そのあとは私のためにたくさんおいしいものを作る。これが君の予定。拒否権はない」
「ずいぶん体を動かしていないので訓練をしたいのですが…」
「だーめ」
確かに中佐には食事の量をいつもより多めにしてもらうつもりで、その食事は、事の原因である私が責任を持つつもりだったけれど、訓練ができないのは困る。
ふと、中佐の背中を見ていて、昨日できなかったことを思い出した。
「中佐、ちょっといいですか」
「なんだ」
歩くのを止めた中佐の背中に近付いて、お腹に腕を回す。
「ちょっ、ちょっと!おい!しょーい!」
「やはり痩せましたね…」
「だから胸を押し付けるな!本当に犯すぞ!というか廊下で抱き着くな!一週間も会えずにやっぱり寂しかったのか!?でもスキャンダルだ!」
「騒がないでください。それから抱き着いていません。ただウエストのサイズを測っただけです」
「あ…そう…。うん、実に君らしいね…。少し残念なくらい君らしい…」
確かに他人から見れば、私が中佐に抱き着いたように見えるだろうか。
廊下に誰もいなくて良かった。
やはり中佐は痩せていて、朝食はとりあえず家にあるものを口に詰め込ませたが、昼食からどんな栄養のあるものを食べさせようか思考を巡らせる。
また廊下を歩き出した中佐は、照れているのか顔が赤い。
昨日の夜、ベッドの上で、私が涙ながらに「もうやめてください」とお願いしても、ばたつく両方の足首を固定してあられもない姿にし、愛撫するのを決して止めなかった男が、何を恥ずかしがっているのだろう。
私が執務室の扉を開けると中佐が中に入り、私もそれに続く。
「というか、君は腕で測っただけで分かるの?」
「ええ。中佐だって軍服の上からでも私のスリーサイズが分かるんでしょう?それと同じです」
「同じなのかな…。まあいい。今日からまたよろしくね、リザ・ホークアイ少尉」
中佐は私の頭をぽんぽんと撫でた。
そういえば私は中佐に頭を撫でられるのが好きで、記憶を失っている間にも夢に出てきた。
「はい、本日からまた中佐を全力で支え、あなたの盾となり守ります」
不意打ちに頭を撫でられて嬉しいのを顔には出さず、軍人の表情を作って敬礼をする。
中佐はいつまで経っても私の頭を撫でるのを止めない。
「あの…私、もう子供じゃないので…」
「でも君は頭を撫でられるの好きだろう?」
「…え?」
知っていたんですか。
思わず目を丸くしてしまった。
そして心の中の呟きは中佐にばれてしまったらしく、彼はにやりと意地悪な笑みを浮かべる。
「ほう、可愛いじゃないか」
今度は私が頬を真っ赤にする。
そんなつもりはないのだが、私はこの人を無意識のうちに振り回してしまうようで彼はいつも困っているが、しかし結局私は彼には勝てない。
それが私とこの人の関係。
ああ、私、戻ってきたのね。
「今日は大サービスだよ」と笑いながら私の頭をぐしゃぐしゃに乱して撫でる中佐を見て、私もつい口元を緩めた。








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