※学園パラレルです 「先生!」 玄関の扉を開けると、外の寒さから頬を赤く染めた少女が、彼女にしては珍しく大きな声を出した。 近隣の住人に聞こえなかったかと少し冷や冷やする。 約束していた時間よりもずいぶんと早く部屋へ訪れた少女の腕を掴んで玄関へ入れ、急いでドアを閉める。 私に引っ張られるがまま家に入れられ、そして何故か私のことをじっと見ている美少女の名前は、リザ・ホークアイ。 私が担当するクラスの生徒の一人で、そして大切な年下の恋人だ。 「リザ、あけましておめでとう。今年もよろしくね」 「…はい…」 年末は私の仕事が忙しくてなかなかリザに会えず、そして新年を迎えてからは私もリザも親族に会うなどして恋人同士の時間を作れなかった。 年が明けてから彼女に会うのは今日が初めてだ。 「リザ?」 「…先生…」 新年の挨拶をしてもリザはどこか上の空で、私に腕を捕まれたまま、彼女はただじっと大きな紅茶色の瞳で私を見ている。 挨拶をしっかりするリザらしくないし、何より恥ずかしがりやの彼女にしては大胆な行動だ。 「リザ、どうした?とりあえず靴を脱ぎなさい。玄関は寒いだろう?」 「…はい…」 いつもと様子が違うリザの様子に首を傾げながら、緩慢な動きで靴を脱いでスリッパを履いた彼女の手を引いてリビングへ連れて行く。 「外は寒かっただろう?もっと暖房を…」 廊下とリビングを仕切る扉を閉めると、体がふわりと柔らかいものに包まれた。 視線を下に向けると腰に巻き付く茶色いダッフルコートの袖、体にしがみつくように拳を作った赤い手袋が見える。 そして背中には小さな温もり。 リザがうしろから私に抱き着いているのだ。 「…リザ、新年早々やってくれるな」 リザの意外な行動に目を丸くするほど驚くが、声には出さない。 「…先生…」 「何?さっきからどうした?」 「先生と会うの、久しぶりだから…」 私のセーターに顔を埋めるリザの声はくぐもっている。 「そうだな。ずいぶん会っていない気がするな」 「いつもは学校で会えるのに…こんなに会っていないのは夏休み以来です…。…だから…」 「寂しかった?」 「…先生は寂しくなかったんですか?」 「もちろんすごく寂しかったよ」 リザの赤い手袋を指から抜き取り、近くにあったテーブルに置く。 小さい手に指を絡めると、その手は少し冷たい。 「近くまで車で迎えに行こうと思ってたのにずいぶん早く来たな」 「そわそわして、家を早く出ちゃって…。それから、わざわざ車を出すことないです。歩いて来れます」 「毎回女の子に歩いて来てもらうのってなあ…。君は可愛いしぼうっとしてるからすぐ誘拐されそうで心配だ。何より女の子を一人で歩かせるなんて紳士のすることじゃない」 「先生は紳士なんですか?」 「うーん、どうかな。確かめてみる?まずはこっちを向いて」 「…嫌です…」 リザは自分から抱き着いてきたくせに顔を見られるのが恥ずかしいらしく、私がうしろを振り向いてもなかなか私の顔を見ようとしない。 「リザ」 リザがいくら私から逃げようとしても、力のない少女の体くらいいくらでも好きにできる。 私の背中に張り付くリザを引きはがして、正面から彼女をコートごと抱き締める。 「耳が冷たくなってる」 「先生、くすぐったいです…」 金のショートヘアから覗く耳に指先で触れるとリザが驚いたように肩をすくめた。 リザの耳がとても敏感なことは私がよく知っている。 「今年初めてのスキンシップがまさかリザからとはなあ」 小さな耳をくすぐり続けながら、先ほどのことを思い出して顔をにやけさせる。 「だ、だって…会うの久しぶりだから…」 「もしかして、玄関で勢い余って私に抱き着こうとした?」 未だに顔を伏せているリザが黙ってしまった。 リザが私の顔を見た時から挙動不審だった理由がやっと分かった。 リザは久しぶりに会えた私に抱き着きたかったのか。 まるで数十年ぶりの感動の再会だ。 しかし恋人同士ならば数日会わないだけでもひどく長い時間に感じるものだ。 いつも素っ気ない態度を取るリザがそう思っていたことがとても嬉しい。 「…新年早々…本当に…恐ろしい子だ…」 ぶつぶつと呟きながら、今の自分の顔はひどくにやけているんだろうなと思う。 「リザ、顔を上げて」 「…嫌です…」 「リザちゃーん、可愛い顔を見せて」 「やだ…」 「そういえば電話は何回かしたな」 「…そうですね…」 年末には深夜に、元旦には早朝にリザと電話で少しだけ話をした。 リザの父親が寝ている時間に電話をしたのだが、父親にばれないか内心焦りつつ彼女と話をした。 私と同じ焔を扱う錬金術師で、あの見るからに怖いリザの父親に、娘が先生である私と付き合っていることが知られたら、弁解の余地もなく燃やされそうだ。 「リザ…電話はリビングにあるんだよな?お父様にばれてないよな?」 「リビングと父の部屋は離れてますし、まさか私があの時間に電話しているなんて考えもしていないですよ」 「というか寒くないの?」 「毛布に包まってますから大丈夫です」 電話の向こうで可愛い恋人が毛布に包まって受話器を握る図は大変愛らしい。 しかし風邪を引かないのかと不安になる。 「お願いだから携帯電話を持ってくれよ…君は本当に今時の女子高生か?携帯電話があればメールもできるのに」 「必要ないです。直接伝えればいいじゃないですか。でも…こっそり電話をしたい時は欲しいなって思いました」 「先生がいつか無理やりにでも買ってあげるよ…」 「…電話といえば…元旦から先生の声が聞けて嬉しかったです」 「リザちゃん」 「はい」 「そろそろ顔を上げて」 「…いや…」 次々と嬉しいことを言ってくれるくせに、どうしても顔を見せるのは恥ずかしいらしく、セーターに顔を埋めている。 「顔を上げるまで耳たぶをぷにぷにするぞ」 「…そ、それは駄目ですっ!」 「ほーら、ほーら、どうだー」 耳たぶを指で挟んでくすぐると、リザは少女らしくないなまめかしい吐息を唇からもらした。 「……もう!先生の意地悪っ!」 ずっと耳をくすぐる攻撃が続くのは堪らないと折れたのか、頬を膨らませたリザがやっと顔を上げてくれた。 逃がさないように丸くなった頬をすかさず包み込む。 「意地悪な先生は嫌いです!」 眉をつり上げるリザはかなり怒っているらしいが、私には可愛いとしか思えない。 「意地悪な先生に会った途端に飛び付こうとしていたのは誰だ?」 「…そ、れは…」 リザが慌てて私から目を逸らして何もない壁の方を見た。 駄目だ。 リザの言動がいちいち愛らしい。 「リザ…先生はもう限界だよ」 「あ…ちょっと待ってください」 リザの頬を両手で包み込んだまま腰を屈め、口付けようとすると、リザが私を遮るように慌てて手を私の唇に当てた。 「何?おあずけプレイ?」 「ち、違います!…あの…あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」 「それはさっき言ったよ」 「私はちゃんと言えなかったので」 「ああ、私に抱き着きたくて堪らなかったからな」 「な…!」 リザが頬を赤くして抗議する前に唇をふさいでしまう。 舌を差し出すように促すとリザの指は私のセーターをぎゅっと握った。 「ま…まだ、言いたいことあったのに…」 口付けのあと、唇を唾液で濡らしたリザがぽつりと呟いた。 「何?」 「今年は去年よりもっと先生と仲良くしたいですって、言おうとしたんです…」 「それならもう一回しよう」 「そういう意味じゃないです!」 「じゃあどういう意味?」 リザの答えは聞かずにまた口付ける。 恥ずかしがりやの恋人に年明けからこんなに驚かされるなんて、今年は想像できないほど素晴らしい年になりそうだ。 ※学者パラレルです 私が生まれて育った屋敷の中だというのに、足を踏み入れるのに戸惑う部屋が二つある。 まず一つは、先月不治の病で亡くなった父の部屋だ。 私が小さい頃から机に向かって錬金術の研究ばかりをしていた父の姿は、頬はこけているのに目はぎょろりと大きく文字を追い掛け、何かにとりつかれているようで怖かった。 幼い頃、読物に夢中になっている父に夕飯だと伝えても聞いてくれず、服の袖を掴んで無理にリビングに来るように言った時、「うるさい」と父に怒鳴られたことがある。 あの時から父の研究の邪魔をするのが怖くて、父の部屋には極力近寄らなかったし、部屋の中で物音を立てるなんてもっての外だ。 父はもういなくなってしまったが、部屋にも研究にも私が足を踏み入れてはいけない領域だと小さな頃から分かっていたから、未だに遺品は整理できないでいる。 もう一つ、入るのに躊躇する部屋がある。 父のたった一人のお弟子さんの部屋だ。 私の家は嵐がくれば簡単に吹き飛んでしまいそうなほど荒廃した屋敷だけれど、中は広く、部屋はたくさんある。 私の隣の部屋は私が生まれた時から空いており、そこを綺麗に掃除し、数年前に父に弟子入りを志願したマスタングさんが使っている。 住み込みで父から錬金術の教えを受けていたマスタングさんは、屋敷の門を叩いてから故郷に帰ることは少なく、ずっと一緒に暮らしており、私にとって家族のような存在だ。 幼い頃に母が他界し、そして父が亡くなかった今、天涯孤独となった私が一人きりでは不安だろうとマスタングさんは側にいてくれている。 今はマスタングさんと二人きりで屋敷に住んでいるのだ。 古びた扉の前に立ち、ノックするために上げた手を下ろして、やはり上げて、でも止めて、先ほどからその繰り返しだ。 扉の向こうからはペンが紙の上を走る音がする。 ここはマスタングさんの部屋だ。 父が私の背中に刻んだ錬金術の式を解読したマスタングさんは、その式を昇華させて国家錬金術師になろうと、今は毎日研究に明け暮れている。 今のマスタングさんを見ていると、錬金術にとりつかれた父を思い出す。 父は寝食も忘れてひたすら机に向かって研究に打ち込んでいたが、マスタングさんも父と同じく研究のこととなると周りが見えなくなる錬金術師で、ここ三日ほど部屋に閉じこもっている。 深夜にこっそりと廊下に出た時、マスタングさんの部屋の扉の隙間から明かりがもれていた日々が続いていたから、まともに寝ていないはずだ。 食事はいつも私がマスタングさんの部屋にトレイに乗せて持って行き、そして少し時間がたつと部屋の前に空になった皿が置いてあるから、食事をしていないわけではないけれど、部屋にこもりきりなんて体に悪い。 父は母を亡くしてから病気を患ったが、母を亡くした悲しみを忘れるように研究に没頭し、まるで錬金術に生気を奪われているようだった。 マスタングさんは病気ではないし、最愛の人を亡くしてもいないけれど、父のようになってしまったらどうしようと不安になる。 マスタングさんまでいなくなってしまうなんて嫌だ。 深呼吸をし、勇気を出して部屋の扉を叩いた。 「あの…マスタングさん?マスタングさん!?」 何度か扉を叩いてもマスタングさんから返事がない。 まさか私が迷っている間に倒れてしまったのではないかと焦って、勝手に部屋の扉を開ける。 「マスタングさん!」 勢いよく扉を開けると、その風力で床に散らばっていたたくさんの紙が舞った。 ひらひらと宙を舞う紙には数式のような難解な文字が書かれてある。 そして散らばる紙の向こうにある机にマスタングさんは座っていた。 背中を丸め、腕を動かし、カリカリとペンが走る音をさせていつものように紙に何かを書いている。 机が窓を向いているために扉に立つ私からはマスタングさんの背中しか見えないが、倒れてはおらず、しっかりと椅子に座っている。 「…良かった…マスタングさん…」 ほっと胸を撫で下ろすと、書き物をするマスタングさんの手がぴたりと止まった。 「リザ」 「…は、はい!」 急にマスタングさんに名前を呼ばれて驚く。 マスタングさんは書き物に夢中で、私が部屋に入って来たことにさっぱり気付いていないと思っていた。 「一度名前を呼べば分かる。何度も言わなくていい」 「…ごめんなさい…」 私の存在に気付いているのなら、呼ばれていると知っているのならすぐに返事をしてほしかった。 どうせ文句を言っても煩わしいだけだろうと、その言葉をぐっと飲み込んでマスタングさんに近づく。 「…あっ…」 床を覆い尽くす大量の紙をなるべく踏まないように床の茶色い部分を見つけて歩いていたのだが、ついよろけて、走り書きされた紙を踏み付けてしまった。 「リザ、そこら辺は気を付けてくれ。あまりずらすな。君にはごみに見えるかもしれないが、大事な式の一部だ」 「…ごみだなんて思っていません。…分かりました。ごめんなさい…」 私が紙に躓いて転ぶことより、私が紙が踏み付けられて文字が読めなくなることや式の順番が乱れることの方を気にしていると思うと、胸にじわりと悲しみが広がる。 研究者とは他人を気遣わない研究第一な人間だと、父を見て育ってきたから分かっているけれど、私のことも少しは視界に入れてほしい。 なるべく紙を踏まずにつま先で歩き、時間を掛けてようやくマスタングさんの側にたどり着いた。 「何か用か?」 「あ…えっと…」 マスタングさんは私と話している暇があるのならば研究に時間を割きたいのだろう。 マスタングさんは机から顔を上げて私の顔をじっと見るが、無言で急かされているような気分になり、急いで用件を言わなくてはと思うが、言葉に詰まる。 そんなマスタングさんに、研究を休んでほしいと上手く伝えられるだろうか。 「ごはん…ちゃんと食べていますか?」 「ああ。いつも空の皿を置いているだろう?」 「そう、ですよね…。それなら安心です」 「リザの料理はいつもおいしいよ。ありがとう」 「…いいえ…」 本当ならば、出来立ての温かな食事を一緒のテーブルで食べたいのだけれど、それは私の我が儘になってしまうだろうか。 そんなことを考えるより、今は休憩をさせることが一番だ。 「あの…」 「何だ」 「お、お風呂…入ってますか?」 「風呂か…。ここ三日は入ってないかな」 やはりそうかとため息をつく。 マスタングさんのセーターもシャツも、ここ三日ずっと同じものだ。 「冬なのに駄目ですよ。体を温めないと…それにお風呂に入ると頭がすっきりしますよ」 「……臭うか?」 「え?」 「私は臭いかと聞いているんだ」 「いえ…臭くはないですけど…」 「そうか。ならいい」 マスタングさんは身の回り、例えば服にまったく興味がなくセーターなどはいつも地味なのに、変なところを気にするものだなと首を傾げる。 「臭くはないですけどお風呂に入って温まった方がいいです。それからちゃんと寝てますか?」 「寝ないと頭は働かないだろう。ちゃんと机で仮眠を取っている」 「それは寝ているっていいません!ちゃんとベッドで寝てください!あとたまには外にも出た方がいいです!外の新鮮な空気を…」 「外は雪だぞ」 「…あ…」 先ほどまで晴れていたのに、いつの間にか空は灰色に染まり、雪がちらついている。 「外で頭を冷やせということか?私は何か間違ったことをしているのか?」 「…そういうわけではなくて…」 「なら研究を続ける」 「でも部屋にこもりきりは体に悪いです」 「外に出る時間が惜しい」 「父みたいなことを言って…」 「私は元気だよ」 「そんなことばかりをしていたらいつか倒れます!」 思わず拳を作り叫んでいた。 何が彼らをそんなに夢中にさせるのだろう。 文字と数字と記号の羅列したものの何がいい? 父は生涯を懸けて編み出した錬金術を弟子に托し、その弟子は托された錬金術を実用的なものにしようと日々試行錯誤している。 父は私の背中に秘伝を刻み、そしてマスタングさんはその式を読み取った。 父とマスタングさんは私を介してやっと錬金術を受け継ぐことができたのに、肝心の私は何も関われていない。 彼らの間に入れない悔しさ、そして兄のように思っているマスタングさんを心配しているのにまったく取り合ってもらえない悲しさが襲う。 「研究が…そんなに大事ですか…?」 「もちろん大事だよ」 「…そうですか…」 「……私は…何か君を悲しませることを言ったか?どうしてそんな顔を…」 「…もういいです…」 私がこれほどまでに休憩を促してもマスタングさんは聞き入れてくれない。 私の言葉は錬金術のようにマスタングさんの心を揺さぶらない。 私の母は父に休憩するように言えば、父は渋々ながらも本を読むのを中断していたが、私はマスタングさんにとってそんな存在になれないのだろう。 私はマスタングさんを家族のように思っているけれど、それは私の一方的な考えで、彼にとって私は師匠の娘で、ただのうるさい女の子でしかないのだ。 「師匠が生涯を懸けて研究し生み出した錬金術を托されたんだ。絶対に国家資格を取る」 マスタングさんが目を輝かせて夢を語るが、私は国家資格よりも体を大事にしてほしい。 「国家錬金術師になれば研究費用として国から金が支給される。もちろん研究に使うが…二人で暮らす分にも困らないだろう」 マスタングさんに何を言っても無駄なのだと思わず泣きそうになる私に、彼の言葉は届かない。 「そういえば、リザ、コートを着ているが出掛けるのか?」 「…はい…買い出しに街まで行きます」 今のマスタングさんと話していても惨めな気持ちになるだけだ。 早くここから立ち去りたくて、早口で素っ気なく答える。 「リザ、寒いからこれを巻いて行きなさい」 マスタングさんは机の上に雪崩を起こしそうなほど適当に積み重ねられた本の上に手を伸ばすと、マフラーを掴んで、俯く私の首に巻いた。 悲しんでいるのも忘れて、どうしてあんな場所にマフラーがあるのかと呆れる。 そして、毛玉がたくさんついた深緑のマフラーは年頃の女の子が身につけるものではないが、マスタングさんの気遣いが嬉しくて、単純だがささくれていた心が少し明るくなる。 「街まで買い出しか…いつもの店か?」 「はい」 「雑貨屋にいる茶髪の男に気を付けろ」 「え?…きゃっ」 急に左腕を強く引っ張られ、マスタングさんの方へ倒れ込んでしまう。 マスタングさんの胸に両手を当てて慌てて体を支えた。 「あいつは君に気がある。ろくでもない男に好かれたな。話し掛けられても絶対に無視しろ」 「…そ…そうなんですか…?」 耳元で囁くように話し掛けられ、内容を理解するよりも、くすぐったくて思わず肩を竦めた。 マスタングさんの声はこんなに低かったかと心臓の鼓動が速くなる。 「じゃあ…あの、行ってきますっ」 耳にマスタングさんの吐息が当たると頬が焔がついたかのように熱くなり、急いで彼から離れた。 するとマスタングさんが椅子から立ち上がる。 「いや、私も行く」 「え?研究は…」 「君一人で行かせると危険だ。あいつに何をされるか分からない。君はぼうっとしているから余計に危ない」 「あの人が私に気があると決まったわけではないです…。それにろくに寝ていないのに街に買い出しに行くなんて…買い物ではなく寝ていてください」 「外に出ろと言ったのは君だ」 「それは休んでからです!大体、お風呂に入ってないのに…」 「臭くなければいい。それに君に雪の中たくさんの荷物を持たせるのも嫌だ」 マスタングさんもコートを羽織ると強引に私の手を引いて外へ出た。 「わっ」 「おっと」 私に構わず早足で歩くマスタングさんに引っ張られて歩いているため、少しだけ積もった雪に滑ってしまい、思わず隣にいたマスタングさんの腕にしがみついてしまう。 マスタングさんも私も足を止めてその場に立ち止まる。 「ご、ごめんなさい…」 「いや、いい。大丈夫か?」 「…大丈夫です…」 「私が一番近くにいたとはいえ君が私を頼るなんて珍しい。偶然だが私が君を助けたのか。少しは男らしいことをしてやれたかな」 「は、はあ…」 マスタングさんが何を言っているかよく分からない。 それよりも、恋人同士が腕を組むような形になってしまって、マスタングさんはこういうのを好まないだろうと慌てて離れようとするが、ふと彼の顔を見上げると、彼はなんとなく機嫌がよく見えた。 難解な式が解けたわけでも貴重な書物が手に入ったわけでもないのに、マスタングさんは何故か笑っている。 「マスタングさん?」 「危ないから私に掴まっていなさい」 「…は、はい…」 マスタングさんは私の手を取り、なんと私の手を繋いで再び歩き始めたから驚いた。 私は目を丸くするが、やはりマスタングさんは楽しそうで、滑って転びそうになった私がおかしかったのだろうかと眉をひそめる。 研究一筋のマスタングさんは、今の私たちが他人から見れば恋人同士に見えるなど考えにも及ばないようだ。 マスタングさんは昔から不思議な人だけれど、今日も相変わらず、急に買い出しについて来たり手を繋いだりとおかしな人だ。 その変な気まぐれで私のお願いも少しは聞いてほしいと願いながら街へと向かった。 彼女は右手で銃を作り、腕を伸ばして真っ直ぐと人差し指の拳銃を私に向けた。 ばん、と、彼女は声には出さず唇だけを動かして銃声の真似をする。 でも効果は抜群だ。 だって愛らしいウインク付きで、彼女は私に愛と悪戯心でいっぱいの鉛を放った。 避ける余裕もなく、見事にハートを撃ち抜かれた私は、左胸を両手で押さえて、すぐにうしろにあるベッドに勢いよく倒れ込む。 胸に撃ち込まれた鉛には、愛と悪戯心だけではなく、きっと毒が塗ってある。 もう彼女しか愛せないという呪いの毒。 ハートを撃たれた私は彼女に囚われてしまった。 真面目で恥ずかしがりやなくせに、たまにこうして子供じみた遊びを仕掛けてくる可愛い恋人に私はもう首ったけ。 胸を手で押さえ、痛いと呻きながら彼女をちらりと見ると、彼女は勝ち誇った表情で右手の銃口に息を吹き掛けていた。 いちころでしょ? 妖艶に微笑むスナイパーが誇らしげにそう訴えてくる。 うん、もう、完敗だ。 すっかり君に心を奪われてしまって、もう煮るなり焼くなり好きに料理してくれ。 「うふふ」 彼女が右手を丸めると銃は消え、彼女はその手を口元に持っていて、にこりと笑った。 自分から始めたくせに、照れたようにはにかむだなんて可愛い。 私の反応に満足したのか、少し得意げなのも、ああ、可愛くて堪らない。 にこにこと照れたように笑う彼女の顔からは、ハートを撃ち抜いて遊ぶ艶めかしい悪女の表情が消え、いつものベビーフェイスな恋人に戻っている。 遊びは終わったのに、思わずまた胸を押さえそうになる。 彼女と一緒にいると心臓がいくつあっても、とても足りない。 不器用なくせに表情をくるくると変えるなんてずるいぞ。 心臓が馬鹿みたいに鳴っている。 こんな遊びをしなくても、彼女の言動はいつも私のハートに命中、完膚なきまでにに撃ち抜き、見事にいつも君の虜です。 「お風呂気持ち良かったなあ、中尉」 「大佐の言動すべてが気持ち悪かったです。背中がぞわぞわしました。あと自分で体を拭けますから。触らないでください」 「不機嫌だな。今日は口に出さなかったじゃないか」 「…あの時、噛み付けば良かった…」 「あ、そうだ。パジャマが一個しかないんだ。ほかのパジャマは洗濯機の中」 「洗濯機の中に突っ込めば勝手に私が洗濯すると思ってるんですね。それ、大間違いです」 「仲良く分けよう」 「…大佐のパジャマを着るのも嫌だけど、自分の下着とパジャマをこの家に置くのも嫌…」 「…中尉。なあ、ちょっと」 「なんですか」 「…えーと、寒くないのか」 「平気です」 「大事なところが隠れてないぞ。剥き出しだぞ」 「隠れてますよ。でもゆるいです。ぶかぶかです」 「普通、女性はパジャマの上を選ぶと思うんだが」 「大佐が上半身を冷やして風邪を引いたら、それなりに悲しいです」 「私は中尉が風邪を引いたら困るけど便乗して汗をかく気持ちいいことをするぞ。ところで私が露出狂みたいなんだが」 「そうですね。では、風呂上がりの一杯を頂いてきます」 「胸を揺らしながら歩くな!男前だな…。…セックスが嫌いなのになんで恥ずかしくないんだ…」 * * * 「…撃つのか、私を」 「道を踏み外した時は撃て、と…あなたはそうおっしゃいました。それに従うまでです」 「…そう、か…うん。そんな時が、来たか…」 「できればあなたをお守りしながら、あなたが描く美しい未来を見たかったです」 「君に裁かれて死ぬなら悔いはないよ」 「……では、また」 「…ぐっ」 「そう時間は掛からず、地獄で会えるでしょう」 「後悔が…ないのは…やはり、嘘だ。君を、愛していると…もっと早くに…言いたかった……リザ……」 「…お戯れを」 「…あのう…、何してんですか…」 「ちっ、邪魔するなハボック。いい雰囲気だったのに。まあ、いい。…いやなあ、中尉が水鉄砲で撃つから軍服が濡れた。ほら」 「中尉…?何してんですか…?」 「だって!大佐が仕事しないんですもの!びゅーっと撃ちたくもなるでしょ!」 「はあ…。大佐、中尉が大佐のくだらない遊びに付き合うくらい怒りに我を忘れてます。疲れてます。仕事をしてください。」 「うむ。そうだな。そろそろ始めるか。今夜はジュディとデートだからな。私に掛かれば三時間…いや、二時間で終わる!絶対に定時で帰るからな!そんなわけで愛しているぞ中尉」 「…馬鹿ですか」 「うおっ!冷たい!美男子の顔にーっ!」 「ハボック少尉、大佐がサボらないか見ていてちょうだい。二時間後に来ます。では」 「……大佐ぁ。ちゃんと言ってあげないと駄目ですよー」 「分かってる。しかし難しい。あとお前むかつく」 「前髪あつーーーっ!!」 * * * 「君がこの黒のニーハイソックスを身に纏ってくれたら三倍速で仕事する」 「…そんな簡単なことで仕事を…!?」 「えっ、はいてくれるの?」 「気は進まないですが、仕事のためなら」 「君こそそんな簡単に承諾していいのか…。まあ、気が変わらないうちに約束しよう。三倍ではなく五倍速で仕事をする!」 「はかせていただきます」 「中尉ー、まだかー?」 「もう少しです」 「けっこう時間が掛かるな。恥じらう君は素敵だな。扉越しに待つのもまた一興だ」 「あの…大佐…」 「ん?」 「やはり、あの、恥ずかしいので…申し訳ないですが机の影に隠れて…いいですか…?」 「…いい。むしろそっちの方がいい…!」 「では…どうぞ…」 「うむ!ご対面!意外と照れ屋なマイスウィートハニー!」 「マイスウィートハニーじゃないです」 「…あ…」 「あ?」 「あああ…!?」 「大佐?」 「なんで…なんで!どうしてニーハイソックスだけをはくんだーっ!」 「大佐っ、どこに行くんですかっ!」 「ミニスカを机の上に置いただろーっ!」 「叫びながら廊下を走ったら不審者扱いですよ…」 「まだ中尉と恋人同士じゃないのに、ちらっと裸を見ちゃったーっ!」 「だってニーハイソックスを身に纏ってって、言ったから…」 幼くて無知だった頃の私の夢は、可愛いお嫁さんになることだった。 父のお弟子さんのお嫁さんになれたらいいのに、と、毎晩ベッドに入っては結婚生活を想像しては勝手に頬を染めていた。 彼は軍人さんになるみたい。 小さな家でもいいから、二階建てで、庭のある一軒家がいい。 庭に花をたくさん植えて、野菜も育てたい。 今着ている服は母のお下がりだけれど、自分で稼ぐようになったら、可愛い服を着て、仕事から帰ってきた彼と一緒においしい夕食を食べよう。 休みの日は手を繋いで遠くへ出掛けたい。 でも休みとなれば彼は本ばかり読むかしら。 本よりも魅力的な女性になれるかな? 掃除も料理も裁縫も、それからおしゃべりももっと上手になれたらいいんだけど。 一喜一憂しながら、そんなことをあれこれ考えては胸をときめかせていた。 彼が語った夢に憧れ、私も人の役に立ちたくて士官学校に入り、イシュヴァールに送られた時、その夢はガラスが割れたように粉々に砕けた。 人殺しの道具となった焔の呪文が描かれた背中から解放されたくて、彼に背中を焼いてもらうのと共に、女であることをやめようと決めた。 軍人にとって女という性はあらゆる面で不利だとイシュヴァールで嫌というほど分かった。 彼と一緒に高みを目指すためには邪魔なものは今のうちに潰しておきたい。 もう彼を特別に愛おしむこともしなければ、結婚もしないし、子供も産まない。 女の自分が女らしい幸せを得るのではなく、軍人になり、彼に一生仕え、彼と彼の夢を守ろうと決めた。 彼のお嫁さんにはなれないけれど、女を捨てて軍人になるのと引き換えに、彼の側にずっといることができる。 けれど、女の自分と別れる前、欲張りな私は、彼にひとつ我が儘を言った。 焼かれた背中の痛みをこらえながら、抱いてくださいと、彼のシャツの裾を片手で掴んでお願いした。 それは、まだ無垢だった頃の少女の私の望み、人殺しではない一人の女の最後の願い。 背中の傷は完全に治っていないし、処女だったし、もう最悪で、顔は冷や汗と涙まみれ。 とても痛くて何度か意識が途切れそうになったけれど歯を食いしばって記憶に焼き付けた。 さようなら、幼い私。 「幸せな時間でした」と彼に何度もお礼を言う私は、満たされていたのにも関わらず、未練たらしく泣いていた。 「なあ少尉、今日もまたあの色気のないスポーツブラなのかな?」 執務室で中佐と私の二人きりになると、彼はいつもくだらない話を始めるからうんざりしている。 書類に目を落としたまま、小さくため息をついた。 「どうして中佐が私の下着をご存知なのでしょうか」 「ハイネックの上から見れば分かる!ちなみにスリーサイズも分かるぞ。最近バストが変動した」 「口を動かすばかりで手が動いていませんね。実は、マダムに、中佐が幼い頃に周りのお姉様方に遊ばれて女装をした写真をいただきました。バニーガール姿、とても似合ってましたよ。中佐が仕事をしないのならば私は暇なので、大通りにばらまいてきます」 「ま、待てっ!」 彼に背を向けて部屋を出ようとすると、彼は慌てて机から立ち上がり、私に向けて手を伸ばした。 「待ちなさいっ!セクハラ発言は減らす!あと仕事もするから!写真返して!」 「…減らすだけですか。今日は定時で帰してくださいね」 「うむ、そうする!」 先程まで呑気に万年筆をくるくる回して遊んでいたのが嘘のように、次々と山ずみの書類を減らして仕事をする彼を見つめながら、少し昔のことを思い出す。 あの後、私は彼の副官兼護衛官になり、それから彼が道を踏み外した時に裁く人間となった。 こうして馬鹿らしい会話もするけれど、彼は美しい未来を生み出すために着々と前に進み、私はその手助けをしている。 「あ、少尉、今度食事に行かないか。いい店を見つけたんだ。きっと君も気に入る」 真面目に仕事を始めた彼は、ふと手を止めて、机の側で書類を見直している私に声を掛けた。 「中佐のおごりならば」 「もちろんだ。それから、写真、返してね」 彼が私を見る目は優しい。 彼にとって私は部下であり、そして女性なのだと思う。 現場に行きテロリストと対峙する時も、怪我をした時も、薄着をする時も、彼はいつも私を部下ではなく女性扱いする。 困らないと言えば嘘になるけれど、私はあまり気にしないようにしている。 男女の差を感じて悔しくなる時、例えば体力や腕力の違いを見せ付けられるともどかしいけれど、それ以外は自分でも驚くほど性を意識していないし、別に、どうでもいい。 「…飲み過ぎた…」 「何度も止めたでしょう」 「女性に送ってもらうなんて不覚…」 「中佐が酔っていなくても家まで送ってました」 家に着いた途端に気が抜けたのか、玄関に横になろうとする彼の体を引きずって寝室へ運ぶ。 肩に彼の太い腕を回して体を寄り掛からせて、なんとか寝室にたどり着き、スーツに包まれた彼の体をベッドに放り投げた。 「ひどい…投げられた…」 「すみません、もう限界で。お水、持ってきますね」 「うん…ありがとう…」 枕を抱いてうとうととしていた彼の肩を軽く揺すり、冷たい水が入ったグラスを渡す。 彼は緩慢な動きでベッドから起き上がって水を飲み干すと、近くにあるテーブルにグラスを置いた。 「な、少尉、ここに座って」 「はい」 彼はベッドの真ん中をぽんぽんと手の平で叩いた。 「膝枕して」 「…もう寝ているじゃないですか」 足を崩してベッドに座った私の膝に、彼は遠慮なく頭を乗せ、再び彼はベッドに寝そべった。 「…冷たい…」 彼は無骨な指でスカートをめくると、水を飲んだばかりの唇で太ももに口付ける。 「なあ、嫌じゃないの?」 「くすぐったいです」 「くすぐったい、ねえ…。それだけか…。…最近、セックスの度に君のことを思い出す」 「…そうですか」 「うん」 彼は目を閉じたまま話し出す。 彼は私の前であまり恋人の話をしないから、少しだけ驚いた。 「君としたらもっと気持ちいいんだろうなとか、君を前にしたら獣みたいに貪るんだろうなとか…。相手の女性に失礼だよな」 「…そうですね。刺されますよ」 「…このまま…酔いに任せて、君を押し倒したい」 彼は私の腰に両腕を回すと、腹に黒髪の頭を押し当て、強く抱き着いてきた。 彼が私に優しいのは彼がフェミニストだからだと思っていたけれど、それはどうやら違うようだ。 恋をしていた昔の私を思い出し、少し胸が痛くなる。 少女の頃の私なら涙を流して喜んだだろうけれど、今の私は彼の想いに応えられず、悲しくなるだけだ。 「…構いませんよ」 「えっ?」 彼は勢いよく、ぱっと顔を上げてまじまじと私を見上げた。 驚いているのか目を見開いている。 「押し倒されても、構いません」 「酔いが、醒めた…。…それはどういう意味だ?」 「そのままの意味です」 「私は…。…待て、その、喜んでいいのか?君は恋愛に疎そうだから…」 「あなたの望むことはできるだけ叶えたいと思っています。私でよければ性欲処理に使っても問題ありません」 言葉を選んで話そうとしていた彼を遮り、彼に告げる。 「…性欲、処理…」 彼は唖然とした表情で私を見た後、急に険しい顔つきになった。 「性欲処理?私が君をそんなことのために抱くと思うのか?」 強い力で肩を掴まれ、骨が軋むようだ。 彼が手を振り上げた時、もしかしたら殴られるのではないかと思ったほど、寝室の空気は怒気に満ちている。 彼の声は静かだが、怒りに震えていた。 「いいえ。そんな方ではないと知っています」 彼がそんな人間でないことは、私が誰よりもよく分かっている。 ただ副官として抱かれても構わないけれど、女としての体は差し出せないと言いたかったのだ。 抱かれても構わない意味の伝え方、関係性をはっきりさせる方法を、間違えたかもしれない。 決して、彼を怒らせたいわけでも、悲しませたいわけでもない。 むしろその逆だ。 彼の告白を聞いて少し動揺しているのかもしれない。 自分の不器用さをただただ呪う。 「…一瞬でも浮かれた私が馬鹿だった」 彼はひどく怒っていて、戦場に立っている時のように冷酷な瞳で私を見た。 「私に対する君の態度が変わった気がするのは、君が軍人になったからという理由だけではなさそうだな」 相変わらず鋭い人だ、と、どう解決すべきか考えながら思った。 白状するしかない。 「私は軍人になった時、女であることをやめました」 彼は憎しみさえも感じる刺すような視線でしばらく私を見ていたが、ため息をついたあとに、俯いた。 「…そんなことを…。…だから上官に抱かれても、痛くも痒くもないのか」 「はい」 彼はシーツを見つめたまま、長いため息をついた。 「私も君のように決心をした」 視線を下へ落としたまま彼が独り言でも呟くように話す。 「君の背中を焼いて潰した時だ。人を傷付けるために焔を使うのはこれで最後だと、誓った」 「はい」 彼は私の背中を焼いた時、泣きながら何度も私に謝り、間違いはこれで最後だと約束してくれた。 「それから一度は見失いかけた青臭い夢を実現させようと、また性懲りもなくはい上がった。夢を馬鹿にしないで聞いてくれた子に美しい未来を見せるんだと、思い直した」 「…はい」 「私が今も望むのは国民の幸せと、君の幸せだ。…君を幸せにしたい。人殺しの私が言えることではないが、君にだけはありふれた生活の温かみを知ってほしい。そして、できれば私が教えたい」 「…あの頃の私が聞いたら、喜びます」 「じゃあ今は…重荷なのか?迷惑なのか?」 「そんなことはありません。何とも思いませんから」 「何とも思わない…か。鬱陶しく思われすらしないのか」 俯いたままの彼がどんな表情をしているのか、私には分からない。 知らない方がいい。 しばらくしてようやく顔を上げた彼は、怒ってはいなかったが、挑戦的な顔をしていた。 「じゃあ…私が本当に君を抱いても、何とも思わないんだな」 「はい」 眉をしかめた彼は、すぐにブラウスに手を伸ばし、少々乱暴に胸元のリボンを解いた。 彼の指はボタンをひとつひとつ外していき、ブラウスを肩から脱がせる。 私はただそれを他人事のように傍観していた。 寝室に響く音は私と彼の息遣いだけ。 彼の手の動きは至って普通なのに、映像のスローモーションの中にいるように、時間が経つのが遅い。 くしゃくしゃに丸まったキャミソールがベッドの上に置かれ、ふと肌寒さを感じた。 彼がブラジャーのホックを外し、そのまま腕から抜き取ると、彼の前に胸が晒された。 彼は身を屈めると胸元に顔を近付け、乳房の丸みを確かめるように指でなぞり、そして胸を強く吸い上げた。 「…あ…っ」 胸を中心をぬめった舌で突かれ、拳を握り締めて抑えようとしたが、我慢できずに声がもれた。 「…どうして…」 まだ行為が続くのかと思って体を強張らせていたけれど、彼は私の肩を強い力で掴むと、叩きつけるように乱暴にベッドに押し倒した。 「…表情ひとつ変えないんだな…」 荒々しい扱いとは別人のように彼の声はか細く、やるせない。 ふと目の前が暗くなり、頭からシーツをかぶせられたのだと気付く。 「…中佐?」 「服を着ろ。送って行く」 「…一人で帰れます」 「駄目だ。君は、女性だから」 「でも…」 「それから、ほかの男には絶対に軽々と抱かれるな。肌も見せるな。これは命令だ」 「…了解しました」 寝室の扉が大きな音を立てて閉じる。 私は体から力を抜いてベッドに体重を預け、目を閉じ、シーツの中でため息をついた。 そのため息が妙に女らしくて、顔をしかめた。 たった少しの愛撫だったけれど体に刻み込まれてしまって、あの時抱かれた時のように子宮がじくじくと疼き、どうしようもない。 「君がそれほどの決意をしたってことが、分かった」 あの夜から、数日間まともに会話をしていなかったけれど、二人の執務室で働いている時、彼が私に話し掛けた。 彼の怒りはやっと鎮まったらしい。 「でも私は君をしつこく追い掛ける…と、思う。私が自分の欲を満たすことで君が苦しいならやめるけど、君はそれすら意識していないようだし…。私は諦めが悪い。私が君を幸せにしてみせるよ」 「じゃあ私は逃げないと行けませんね」 書類に間違いがないか確かめ続けながら答えると、彼が急にふっと口元を緩めた。 「ふうん。逃げるのか。そこまでは意識されているんだな。君は私なんか相手にせず、逃げることすらしないと思っていたけど」 「…あなたは私の初恋の方ですから、一応」 何気なく答えた言葉を指摘され、顔には出さないものの焦る。 「ふむ、そうかそうか」 嬉しそうに笑う彼はサインを終えた書類を差し出す時、故意に私の手の甲に触れた。 それをやんわりと振り払って、退室のお辞儀をする。 「提出してきます」 「ああ」 執務室の扉を閉めて廊下を歩く。 彼が指に少し触れただけなのに、体の芯から熱を帯びる。 「逃げる」と言ってしまったのは、私の心の綻びの表れだ。 「……逃げきれるかしら」 まるで熱でも出たように頬が熱くて、心臓がうるさく鼓動する音を聞きながら、他人事のように呟いた。 |