一週間、睡眠もまともにとれず、もちろん家に帰ることもできず、司令部に泊まり込んで私も部下も仕事に追われていた。
ようやく今日になって帰宅できることになったのだが、帰宅する直前で運悪く事件が発生。
中尉は「大佐は現場に来ないで下さい」と私を睨んだが、もちろん無視して現場に向かった。
事件は小さなもので、金を持たずに飲食店に入ったチンピラ集団が、会計時に店員に金を出すことを促されると、酔っ払ったこともあり暴れだし、おまけに懐から拳銃まで取り出したのだ。
当然、駆け付けた私たちが大活躍、というか少し動いて暴れる男達を捕らえただけで、事件は終わった。
呆気ない事件だったことと、とっくに深夜になってしまったことに盛大にため息をつきながら司令部に戻った。
そしてすぐにシャワールームに向かった。
外は事件が起こる前から土砂降りで、私も部下も雨に当たってびしょ濡れだったのだ。
「いい匂いだ」
いつもしっかり纏められている髪が今は下ろされており、首筋を隠す繊細な金髪に鼻を寄せた。
「シャワーですけど、いつもよりは長めに浴びて、髪も体もゆっくり洗いましたから」
「いや、いい匂いなのは君の香り」
もう帰宅してもいいのだが、事件で疲れ、そして深夜ということもあり、私と中尉は執務室で寄り添ってぼんやりしていた。
「ここは香りがこもるな」
「机の中ですからね」
「なんだかいけないことをしているみたいで、いいだろう?」
執務室にいると言っても、私たちがいるのは執務机の中で、薄い板に背中を預け、二人きりでひっそりと中に収まって肩を寄せていた。
今、執務室の扉を開けた人間は部屋に誰もいないと勘違いするだろう。
しかし扉にしっかり鍵を掛けたから誰にも邪魔はされない。
「実際、もういけないことをしているか」
中尉の向かいに座って、黒いコートから覗く鎖骨を指でなぞった。
シャワールームに向かう中尉に私が渡したものは、乾いている軍服ではなく、私のロッカーに予備として置いていた黒い軍用のコートだった。
下着も軍服も身につけず、そのコートだけを着てほしいと中尉に頼んだ。
案の定、中尉は軽蔑の眼差しで私を見たが、執務室に入って来た中尉は、私の望み通り黒いコートしか身につけていなかった。
一応、中尉の軍服は机の上にちゃんと準備してある。
ちなみに私はしっかりとシャツもズボンも身につけている。
「誰にも見つからなかった?」
「はい。今は人が少ないですから、シャワールームに誰もいなかったですし、コートのサイズが合わないので廊下を歩く時はさすがに冷や冷やしましたが、廊下でも誰にも会わなかったです。人が大勢いたらこんなことしません」
「にしても、よくこんな願いを聞いてくれたね」
鎖骨まであらわになっているコートに触れ、ひとつひとつボタンを外していく。
豊かな乳房、引き締まった腰、まろやかな太ももがだんだんと姿を現す。
「……まあ、あの…大佐は一週間、仕事を頑張ってくださいましたので」
「一歩間違えたら痴女…いたた!ごめん!」
中尉が無言で私の頬を軽く抓る。
無表情なのが怖い。
「軍用のコート、私いつも着ているじゃないですか。これ、楽しいですか?」
私の頬から手を離した中尉は、コートの裾を指で摘んで不思議そうに首を傾げた。
「こういうことに疎い君には分からないだろうなあ。まず、堅苦しいコートの中に白いしなやかな裸体が隠れているというのがポイントだ。黒と白、柔らかさと無機質さのコントラストが美しい。あと好きな女に自分のコートを着せるのもロマンだ」
「…はあ…」
中尉はまったく興味なさそうに相槌を打った。
「神聖な職場で愛する人が私にだけ肌を見せてくれるのもいいねえ」
コートの隙間に顔を突っ込み、ふっくらとした乳房に顔を埋める。
「天国だ…。あ、寒くない?ちゃんとシャワーで温まったか?」
「はい。大佐こそ、ちゃんと言い付け通り、百を数えるまで熱湯に打たれ続けましたか?」
「言い方はあれだけど…うん、ちゃんと温まったよ」
きめ細やかでしっとりとした肌を指でなぞり、たまに口付けて遊んでいると、急に中尉がシャツを引っ張った。
「中尉?」
「…あの」
「何?」
「この一週間、司令部の女の子に手を出しましたか?」
「君がいるのにそんなことするか。それに突っ込むところがたくさんあって困る」
やや呆れながら答えるが、中尉の顔は真剣だ。
「じゃあ、一週間してないんですね」
「そうだね」
「一週間分、溜まってるんですね」
「そ、そうだね…」
中尉が性的な話をするのは非常に珍しく、驚いてしまう。
「…してあげます」
「うおっ!?」
中尉がいきなり私の股間をズボンの上から指で強く握って、衝撃のあまり変な声が出てしまった。
「ストップ!ストーップ!待ちなさい!あと、もう少し優しく触って!」
「優しく…?」
「というか、しなくていいから」
中尉の手首を掴み、やんわりと退けさせる。
「しなくていいんですか?溜まってるのに?」
リザが急に悲しそうな顔で私を見た。
同時に、リザの唇とコートを白濁とした液で汚す光景が頭に浮かぶ。
頭を激しく横に振り、その危ない光景を打ち消す。
「だって君…セックスは大嫌いだろう」
「執務室でそこまでしません。口でします」
「君の線引きがよく分からないが…中尉は口でするのも嫌だろ?無理しなくていい」
「別に無理してないのに…」
ぼそっと呟いた拗ねたような言葉は聞かなかったことにした。
今まで散々性行為で中尉を泣かせてきた私が言えることではないが、きちんと理性のあるうちは紳士を気取っていたいし、中尉が嫌なことはさせたくない。
「あ、じゃあ、膝枕しますか?」
リザが恥ずかしげもなくコートを広げた。
脚を崩した白い下半身が見事にあらわになる。
「中尉…どうしたの?」
「どうもしてないです」
「優しすぎて怖いぞ。まさか私に優しくて、その隙に怪しい薬を飲ませて私を奴隷に…!?下克上を狙っているのか!?」
「…そんなことしません…」
再び中尉が悲しげに目を伏せた。
頬を膨らませているところを見ると、少し怒っているようだ。
「中尉…確かに私は一週間仕事を頑張ったよ。でも、だからってご褒美だとか、そんなことは無理に考えなくていい。第一、私と君は恋人同士じゃない」
「…分かってます」
「私は君を恋人だと一方的に思っているけどな」
「…私…これはご褒美でもないし、無理もしてませんから」
ふと、自分で悲しい現実を口にしながら、こうして中尉と話すのはずいぶん久しぶりだと気付く。
そして、中尉が考えていることも何となく分かった気がした。
「おしゃべりなんて久しぶりだ」
「…ええ」
「君に触るのも、触られるのも久しぶり」
「…はい」
「…寂しかったの?」
中尉は俯いたままで、何も言わなかった。
しかし中尉の答えは分かった。
イシュヴァールを経験してから「恋をしない」と決心した中尉は、中尉に求愛する私をいつも鬱陶しがっているが、私の気付かぬうちに、私と中尉の距離は縮まっているのかもしれない。
猫より気まぐれな中尉のことだから、明日にはまたつれない態度に戻っているかもしれないが、これは嬉しい。
「君は…『口で』なんて意外に大胆だな。ほかの男には絶対に私にするように優しくしちゃ駄目だぞ」
「口…駄目ですか?」
「…駄目じゃないよ。じゃあ、まず膝枕をお願いしようかな」
狭い机の中で足を組んで仰向けになり、頭を中尉の太ももの上に乗せた。
「相変わらず柔らかいなー。太ももも、ほっぺも」
リザの望み通りになったものの、らしくないことをしたために照れているのか、顔を逸らしたリザの頬を指先で下から突く。
「これからどうする?帰る?」
「もうかなり遅いですし、また司令部に泊まります」
「じゃあ私も泊まろうっと。今日仕事が終わったら、私の家に来なさい」
「…行ってあげてもいいですけど」
「口でしてくれる?」
リザがまた黙ってしまった。
しかし否定する空気は感じられない。
「…大佐、寝てないんですから、寝たらどうです?」
ぎこちない口調でリザが話題を変える。
「そうだな。じゃあここで三十分くらい寝ようかな。時間になったら起こして」
「はい」
「家に帰るのが楽しみだなー」
恥ずかしげに顔を歪めた中尉の顔を目を細めて見ていたはずなのだが、中尉に前髪を優しく撫でられると自然と瞼が落ちてきてしまって、心地好い香りと温かさに身を委ねて眠った。







気怠い雰囲気の中、とりあえず脱ぎ捨てた服をかき集めて、シーツの代わりに固い床に敷いた。
その上に腰を下ろして、後ろの壁に寄り掛かって二人で座り、特に何も話さずにぼんやりとしていた。
事後だから当然、私もリザも裸である。
リザは疲れ果てたのか私の肩に頭を乗せ、寄り掛かったまま目を閉じている。
この状況に怒りを通り越して呆れて、私を咎める気にすらならないのだろうか。
リザが怒ると怖いけれど、しかし相手にされず何もなかったかのように扱われるよりは、罵倒された方がずっといい。
「…ここでしたこと怒ってる?」
「聞かなくても分かってますよね」
すぐに冷たいリザの声が返ってくる。
今、私たちが座っているのは玄関だ。
リザのすぐ隣の床が一段下がった場所には私の愛用の靴達が並べられていて、そして私が座る場所から真っ直ぐに進めばリビングや洗面所に繋がる。
司令部で徹夜続きで仕事をしていたために自分の部屋に帰れるのは今夜が久しぶりで、リザを家に連れ込める状況も久しぶりだった。
私服のリザがそりゃあもう可愛くて、私はワンピースの裾からちらちら見える膝に釘付けで、それからいつもはしっかりと纏められている髪が解かれているため、歩く度に金髪がふわふわと舞うのが堪らなくて、部屋の玄関を開けてやっと二人きりの空間になったと認識した途端、理性が弾けとんだ。
何を、と驚いた様子で声を上げるリザを廊下に押し倒し、獣のように襲い掛かった。
「…背中、痛かったよな」
リザは無言のまま頷く。
怒られるかもしれないがあとでさすってあげよう。
「『玄関だから声を出せばすぐに外に聞こえるぞ』ってニヤニヤしていたのも…」
それ以上話すなと言うようにリザが私の太ももを軽く叩いた。
完全に私が悪いとはいえ、相変わらずリザは口より先に手が出る女だ。
リザは怒るとすぐに私を殴る子だと改めて再確認して、また違和感を覚えた。
玄関で性行為に及んだことは今日が初めてではない。
そして、その代償は大きかった。
三日間口を聞いてくれなかったこともあるし、終わったあとすぐに股間を足で踏み潰されそうになったこともあるし、行為中に拳で殴られたこともある。
しかし今のリザは大人しく私の肩に寄り掛かっている。
辛辣な言葉での激しい罵倒もないし、容赦なくひっぱ叩くこともしない。
むしろ、行為中に意地悪な言葉でリザを責めても、リザは恥ずかしそう頬を染めるだけで、求めるように私の首に白い腕を回してきた。
まさか私を油断させて今までにないような命を掛けた壮大な報復を企んでいるのだろうか。
リザは人形のように可愛らしいのだから、もう少し女の子らしくおしとやかにしていればいいのにと思ったことは何度もあるが、実際に大人しいととんでもなく怖い。
いや、私は大人しくなくて我が儘で私の言うことをまったく聞かないリザを愛していて、じゃじゃ馬娘はむしろ大歓迎なのだが…いやいや、今はそんな話をしている場合じゃない。
私にぴたりと寄り添う可愛いこの娘はとんだ兵器になるかもしれないのだ。
玄関で血生臭事件が起こるかもしれない事態を予感し、背中に冷や汗が伝った時、ぐううという場違いな大きな音が玄関に響いた。
思わず緊張していた体から力が抜ける。
「…リザちゃん」
「何ですか」
「お腹すいてるの?」
「どうしてですか?」
「だってお腹の音…」
「私じゃありません。大佐でしょう」
「いや、私じゃないからな。明らかに君だろう」
「百歩譲って私だとしてもお腹の音じゃありません。胃の音です」
「同じじゃないか!」
腹の虫が盛大に鳴ったことをリザはあくまでも否定するつもりらしい。
仕事で疲れているから、今晩はリザのお気に入りの店で買ってきた惣菜で済ませることになり、早く食べたいと、リザは帰り道で私が手に持つ袋を嬉しそうに眺めながら楽しみにしていたことを思い出す。
ちらりと横目で惣菜の入っている紙袋を見ると、リザを押し倒す前にちゃんと床に置いたらしく、しっかりと袋に入っていた。
もし惣菜がパックから出てしまって袋の中でぐちゃぐちゃになっていたならば、私も惣菜と同じ無残な姿にされていただろう。
「…そろそろ食べる?」
「大佐、ちょっと待ってください」
立ち上がろうとすると、リザがそれを制するようにリザの指が私の手首を掴んだ。
リザは私の腕を掴んで離さないどころか、ぬいぐるみでも抱くように白い両腕を絡め付けた。
「まだ疲れているので、このままで」
「でもお腹すいてるだろ?」
「もうちょっとだけ、こうしていたいんです」
リザは再び私の肩に擦り寄った。
まさか、恥ずかしがりやで意地っ張りのリザの口から、事後にこんなに可愛らしい言葉が聞けるとは思わなかった。
そして一番有り得ないと思っていた予感が的中したようだ。
リザは玄関で致してしまったことを怒っていないらしい。
むしろその逆だ。
リザも私と同じで、長い間お互いの体に触れられなかったことを寂しく思っていたのだろうか。
「…私はまだ全然足りないんだけど、ご飯を食べたらベッドでまたしてくれる?」
「……気が、向いたら」
リザは司令部にいる時のように相変わらずの仏頂面で答えたが、歯切れが悪い。
リザはポーカーフェイスは上手なくせに、たまに嘘をつくのがとても下手くそだ。
顔がひどくにやけるのを抑えられないまま、リザの汗ばんだ体を抱き寄せた。







この屋敷の主人の許可なくこの部屋へと入れぬよう厳重な鍵が施されていたが、国で一二を争う錬金術の腕を持つ私にしてみれば、こんなものはただの子供騙しだ。
人目に触れぬよう大事に守られている部屋の扉の鍵を錬金術を使って軽々と開ける。
部屋に入ると、人が生活するにはあまりに殺風景すぎる景色と、それから、部屋の真ん中で横たわるこの室内には似合わない煌びやかな人形が目に飛び込んできた。
さすが主人が骨の髄まで虜にされただけあって、触れればすぐ壊れてしまいそうなほど儚く、しかし宝石が輝くように甘美で美しい。
人形は人間と同じ大きさで、胸元まである色素の薄い金髪の髪と漆黒のドレスが印象的だ。
もう一度錬金術を使い、今度は逆に部屋の鍵を閉めてしまう。
常人では到底解けない非常に複雑な術を施したために、もうこの部屋には誰も入ることができない。
音を立てぬように静かに歩みを進め、人形に近付く。
部屋の真ん中にある大きな机の上で、両手を口元に置き、そして胎児のように体を丸めて人形が眠っていた。
当然ながら人形は目を閉じている。
瞼の下に隠れた瞳の色が綺麗な琥珀色であることを私は知っている。
この人形は「リザ」と呼ばれ、主人に大変可愛がられている。
しかし、人形に異常なまでの愛情を注いでいるわりにこの部屋は質素で、少女が好みそうなレースのカーテンや天蓋付きのベッドがあるわけではない。
人形が慎ましい性格をしていたために、それに合わせているのかもしれない。
執事としてこの屋敷に入り込んで数週間になるが、人形の行動は主に椅子に座って主人の話に耳を傾けるか、この部屋で眠るかの、どちらかでしかない。
陶磁器のように白い肌に触れると想像していたよりも温かく、肌の下でしっかりと血が巡っていることが手の平に伝わる。
人形は私と同じ人間だ。
今も心臓が鼓動し、呼吸をしていて、私と同じように歩くこともできるし、普通に食事だってする。
彼女が人形になってしまった原因は、彼女の美しい容姿に魅入られたこの屋敷の主人だ。
主人は彼女を誰の目にも触れさせずに独り占めするため、数年余り彼女を決して外の世界に出さずここに監禁し、檻の中に閉じ込められてしまった彼女は、ある日、心が壊れてしまった。
自我を失った今の彼女は人形と同じだ。
笑うことも怒ることも忘れてしまった彼女は、主人のお気に入りの人形として生きている。
主人に促されれば一人で動くことができるが、声を発する姿はまだ見たことがない。
物を口にしたり風呂に入ったりするという生活をするための必要最低限の動作は辛うじてできるが、他人に命じられなければ彼女は動くことをせず、もはや彼女は一人では生きていけない。
彼女はいつも無表情を崩さず、いや、嬉しさや悲しみを感じて表情を変えることを思い出せずにいる。
二つの瞳は常に主人でもなく側にある景色でもなく遠くを見ており、無表情のせいもあって生命の躍動を感じさせない。
手を伸ばして抱き締めればそのまま消えてしまって、今までのことは全部幻だったと思わせるような、そんな浮世離れした不安定さが彼女には漂っている。
しかしその脆さが、また魅力的なのだ。
主人の趣味で彼女はいつも黒のドレスを着せられており、肌が抜けるように白いのも相俟って、外見も本物のビスクドールのようだ。
今日も相変わらず黒のアンティークドレスとストッキングを身に纏い、眠っているというのに黒のセパレートパンプスまで身につけている。
整った顔をしているが表情を変えず、そして瞳に温かみがないために氷のように冷たい印象を受けるが、眠っていると幼くて可愛らしい。
柔らかで繊細な金髪を指に巻き付けながらそっと持ち上げて、豊かな髪で隠れてしまっている耳を晒す。
赤いピアスで飾られている小さな耳に唇を寄せた。
「あなたを攫いに来ました」
この言葉は彼女にとって救いの言葉になるのだろうか。
私は彼女をこの屋敷から連れ去る。
彼女を屋敷に閉じ込めたあの主人から助けるのではなく、自分のものにするために奪うのだ。
もし彼女に意志があるならば、ここに留まるのと、私に盗まれるのと、どちらを選ぶのだろう。
どちらを選んでも、残念ながら彼女の運命は変わらない。
私もこの屋敷の主人と同じで、彼女を過酷なまでに束縛し、そして逃げようものなら手足を鎖で縛ってでも離す気はない。
一目見ただけで心奪われる彼女の存在の儚さと美しさが、人を狂わせる。
甘い香りのする髪へ鼻を埋めると、ようやく人の気配を感じたのか長い睫毛が震え、ゆっくりと琥珀色の瞳が現れた。

「…たい、さ…?」
「おはよう、私の姫」
「はあ…?」
何を馬鹿なことを、と素っ気ない呟きが物語っていた。
もう少し妄想の世界に浸っていたかったのだが、ヒロインのリザが目を覚ましてしまった。
リザは片手で目を擦りながら、緩慢な動きで机から上半身を起こす。
「君、よくこんなところで寝れるな」
拳で軽く執務机を叩く。
机は固くて狭い。
しかし、リザは脚を折り曲げ、机の上で器用に体を丸めて眠っていたのだ。
「『机の上に座って待っていてくれ』と言われたので、最初は座っていたんですけど…うっかり寝てしまいました」
「待ちくたびれたのか。子供みたいだな」
普段はバレッタで纏められている髪が今は解かれており、机の上で横になったせいで乱れた髪に触れて梳かす。
「…不覚です。大佐が入室したのに気付かなかったなんて…」
「気配を消して入ったから。あと君の着替えを誰にも見せないように錬金術で特殊な鍵を掛けるって言っただろう?だから気が抜けていたんじゃないかな」
「私、どのくらい寝てましたか?待たせてしまいましたか?」
「待ってないよ。待たせたのは私だ。うーん、君が寝てたのは二十分くらいかな…。君が着替えるのを外で待っていたら例のうるさい将軍に捕まってね…また文句を言われたよ」
錬金術で鍵を掛けて、執務室の前をうろうろとしながらリザの着替えが終わるのを胸を弾ませて待っていたのだが、運が悪かった。
「それは大変でしたね。……何か失礼なことを言われましたか?」
眉を下げ、私の手にそっと触れて労ってくれていたリザの瞳が、問い掛けている途中で微かに鋭くなる。
「別に。真面目に聞いてなかったから覚えてない」
「…そうですか」
リザは自身がひどく批判されるよりも、私がちょっとした指摘をされるだけでも腹を立て、仕返しまでしようとする主人思いのちょっと腕白すぎる犬だから、こういう話はわざと詳しく話さない。
リザが私のことを大事に思ってくれているのはもちろん嬉しいが、リザが動くと少し厄介だし、それにリザが何かせずともいずれは蹴落とすから良い。
「そんなことより、似合ってるよ。可愛いじゃないか」
リザの肩を掴み、満足げにリザの姿を上から下まで眺める。
リザが着ているのは堅苦しい軍服ではなく、パーティーにでも出掛けるような可愛らしいワンピースだ。
リザが身に纏うワンピースもストッキングも靴も全部黒で、肌の白さが目立つ。
司令部にいるため、妄想のようにアンティークドレスを着せることは叶わなかったが、丸い衿だけが特徴のシンプルなワンピースだけでも充分可愛らしく、古風な姿は本当に人形のようだ。
「中尉は文句を言いつつも私に付き合ってくれるよなあ。惚れた弱み?」
「…違います。仕事のためです。…たったこれだけで仕事がはかどるなら、あまりに安いと思うんですが…」
私が一度もさぼらずに真面目にデスクワークをして部下達を定時で帰すことを一週間続けられたら、執務室でいいことをしてくれるとリザと約束をしたのだ。
そしてもちろん私はその約束を軽々と果たし、今に至る。
「どうしてわざわざ着替えなきゃいけないんですか?」
「今回は愛する女性の純白さを汚すという趣向なのだよ。もちろんいつもの君も潔癖すぎるほど清純だけどね」
にこやかに微笑みながら容赦なくふわりと広がるスカートの中に手を突っ込み、太ももの部分のストッキングを少し裂くと、リザは目を丸くした。
「何をするんですか!もったいない!」
「そっちに突っ込むのか…。今に涙が出るほど恥ずかしくなるよ」
今度は内股の部分の布を破き、小さな穴から覗く柔肌を軽く爪で引っかくとリザの肩が揺れ、息を飲んだ。
何かに縋りたいのか、それともやめさせたいのか分からないが、リザが私の軍服の裾を掴んだ。
またストッキングを遠慮なく引き裂き、隙間に指を差し込んで下着に触れた。
リザは私の手元に視線を落とすと、下唇を噛んで恥ずかしそうに目を潤ませた。
これからもっとストッキングを破き、穴だらけにするというのに、今からこの反応ではプライドが高く恥ずかしがりやのリザは確実に泣くだろう。
「『たったこれだけ』なんて言ったことを後悔することになるぞ、姫」







右手の人差し指で作った銃を愛しの恋人に向け、片目をつぶって狙いを定める。
そして、ばあん、と、少し大袈裟に大きな声を出して銃声の真似をした。
弾丸を放たれた彼女は少しだけ戸惑った表情を見せたあと、左胸を両手で押さえて、よろよろと下手くそな演技で側にあるベッドの上に崩れ落ちた。
白いワンピースに包まれた体がスカートの裾をひらひらと揺らしながらベッドに俯せに沈んで、柔らかな金髪がふわりとシーツの上に広がる。
生真面目で恥ずかしがりやの彼女が、不器用ながらも私の馬鹿げた遊びに付き合ってくれる姿は大変愛おしい。
こんな子供の遊びのようなことをして好きだと伝える方法が私は好きだった。
「私の腕前はどうかね、鷹の眼さん」
彼女は相変わらずベッドに俯せになったまま何も答えない。
「ハートは無事に仕留められたかな?もういちころ?くらくら?」
彼女はまた何も言わない。
まさか本当に首ったけになってしまったのだろうか。
「なあ、中尉。…おーい、リザちゃん…リザちゃんってば」
何度呼び掛けても、彼女から反応がまったくない。
というか、彼女は倒れ込んだままで、シーツに広がる金髪も投げ出された腕もぴくりとも動きもしない。
「…リザ…?」
一瞬にして体が凍りつき、顔が引き攣る。
いやいや、まさか。
だって、今のは指で作った銃だぞ。
有り得ない。
そんなはずはない。
でも、リザは動かない。
まさか急に具合が悪くなったのか?
「おい、リザっ!」
彼女の肩を掴んで大きく揺さ振るが、彼女は俯せになったまま揺さ振られるだけで、まるで人形のようだ。
「リザ!おい、リザ!どうした!?きゅ、救急車を呼ぶか…!?」
彼女の耳元で大声で叫ぶと、急に彼女は弾かれたようにぱっと顔を上げた。
私の銃が悪かったのだと本気で心配している私とは正反対に、私を見る彼女はにこにこと楽しそうに笑っている。
「大成功ですね」
悪戯っぽい笑みを浮かべたあと、彼女は心底嬉しいらしくまた無邪気に微笑んだ。
「嘘ですよ。驚きましたか?」
呆気にとられる私の額を指で突き、彼女はうふふと笑う。
「…君の演技に引っ掛かるなんて…不覚…悔しい」
相手は、軍服を着ると陰から尊敬されるほど有能な軍人だが、男女の関係となると途端に右も左も分からず慌てるお子様な彼女なんだぞ。
そんな彼女の演技に引っ掛かってしまうなんて、どうしたんだ、私は。
「珍しく大佐に勝ちました」
彼女は側にあった枕を胸に抱いて、満足そうに笑みを深める。
子供じみた遊びを遊びで返されるなんて、してやられた。
「とてつもない敗北感に襲われている…」
「大袈裟ですね」
「ハートを撃ち抜くつもりがハートが冷えた…失敗だ…」
「失敗じゃないですよ」
枕に頬を埋めて、いつも素直ではないリザが、さらりとらしくないことを言う。
あまりに自然に大胆なこと言ったため、彼女の発言を理解するまで時間が掛かってしまった。
「……嘘ですよ。驚きましたか?」
驚いて返事もできずにいると、彼女が表情を隠すように枕に顔を押し付け、長い髪が頬に掛かってしまったために完全に顔が隠れた。
先程聞いたばかりの同じ言葉だが、歯切れは悪いし声色は違うし、何より彼女が照れているのが丸分かりだ。
今度は私が笑う番だ。
やられっぱなしの私ではない。
挽回は今からでもできる。
柔らかな金髪を持ち上げて耳の後ろに掛け、少し赤くなっている彼女の頬に息が掛かるくらい顔を近付ける。
「君は面白いね」
「恐れ入ります」
「やはり嘘が下手だ」
「嘘じゃないです」
「それを今から確かめようか」
不満そうに枕から顔を上げた彼女に頬擦りしながら、問答無用で彼女の上に覆いかぶさった。







「人間、酔っ払うと何するか分からないですね」
「うむ。君が綺麗に片付けてくれた寝室はジャングルと化した。とっくに成人した男女が裸で何をしたんだ?」
「気を付けないと…さすがにここまでするのは気を許している大佐だからだと思うんですが」
「ほーう、朝から言うねえ」
「まず、ソファーでお酒を飲んでいたのにどうして寝室の床で寝てるんでしょうね」
「ちゃんとベッドには行ったはずだ。正常位でしてて君が『上になりたい』って騒いだのを覚えてる」
「ああ…そのあと大佐が『犬は犬らしく這いつくばれ』ってベッドから私を蹴り落としたんですよね」
「そのあと君は『そんな汚いものをおったてる人は足の指を舐めてりゃ十分です』って言った」
「あ!言いました言いました!」
「あと立ったままして…うん、ほかにもいろいろ…」
「…う…背中が痛い…」
「腕と膝も痛いだろ?ごめん」
「あの、私もたくさん大佐に暴言をはきましたし…」
「あと、太ももに噛み痕がある」
「え?…あ…」
「気付かなかった?」
「その、酔っていて全然…」
「痛いのも気持ち良かったとか?」
「……そうですね」
「とりあえずシャワーを……何?」
「腕、出してください」
「ん。ちゅー…いっ!?」
「…痛かったですか?」
「…それなりに。歯型がついた」
「太もものお返しです。…本当は昨日、酔っ払って暴走しすぎた大佐のことがちょっと怖かったんです。このまま体が壊されたらどうしようって馬鹿なことを考えたんですけど大佐は喜んでるみたいだからいいかなってごまかして…。朝にいつもの大佐が『おはよう』って笑った時に安心しました」
「……すまない」
「いいえ」
「あー…私は馬鹿だ…君もだよ。君は私に甘い」
「そうですね」
「…もう一回噛んでいいよ」
「大佐の好きな耳たぶを降参するまで優しくねちねちとなじってあげます」
「…だからさあ、それじゃご褒美なんだよ…」








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