マーケットに入ると当然のようにリザがカートを持って歩き出そうとして、むっとしながら「私が持つから」と無理やり奪うと、リザもムキになってカートから手を離さず、二人でカートの奪い合いをしていた時の出来事だった。 馬鹿力でカートを持つリザの手からふと力が抜け、ついに諦めたのかと思うと、そうではなく、リザの意識はカートではなく少し先で話をしている親子に向けられていた。 小さな男の子が母親にお菓子を買って欲しいと泣きながら駄々をこね、根気負けした母親が渋々とお菓子をレジに持っていく場面を、リザは身じろぎひとつせずじっと眺めていた。 私が話し掛けても耳に届かないらしく、呼び掛けてもリザはまったく反応しない。 男の子はすっかり泣き止んでにこにこと笑ながら胸に買ってもらったお菓子を抱え、リザはそんな親子の姿が遠ざかって小さくなるまで、その光景をずっと眺めていた。 「リザ…おい、リザ」 「え…っ。…あっ、急に何ですか」 「君こそどうしたんだ。突っ立っていたら他のお客さんの迷惑になるだろう」 「あ…そうですね」 幸い混んではいないものの、もし一人きりならば不審に思われそうなほどずっと同じ場所に立っていたことにようやく気付いたのか、リザはカートのことなどすっかり忘れて慌てて歩き出した。 焦って早く前を歩こうとするリザの腕をやんわりと掴んで手を繋ぎ、ゆっくりと歩くように促す。 「君もあのお菓子が欲しいのか?おじさんがダンボールいっぱい買ってあげるぞ!」 「違います!」 顔をしかめて思いきり否定したあと、リザは居心地悪そうに指でマフラーのふさをいじった。 手袋で包まれた指には夫婦の証である指輪がはめられている。 「その…母親は大変でしょうけど…可愛いなと思ったんです」 「うん」 「…馬鹿にしたようににやけるのやめてくれませんか」 「馬鹿になんてしてないさ」 リザが現役の軍人だった頃は、私の背中を守るという任が重荷だったのか、いつも隙のない殺気立った表情をしていたけれど、退役した今は穏やかな顔つきになることが以前より増え、特に子供を見る時のリザは無意識だろうが口元に笑みが浮かんでいる。 退役してから、よくリザは小さな子供の姿を目で追うようになった。 リザがどこにでもいる普通の女性のように安らいだ気持ちで、過去に囚われず素直に子供を愛でる様子を見て、私もまた幸せを感じている。 これからは屈託なく笑って生きてくれとリザに望み、またその手助けは私がするとリザに約束したが、リザよりも私の方が笑みが増えた気がする。 「…私もあんな風になるんでしょうか」 「なるんじゃないかなあ」 「家族で買い物って憧れます。きっと楽しいですね…すごく」 「そうだなあ」 「…もう!その顔やめてください!普通のことを言ってるのにどうして馬鹿にするんですか!?」 リザは恥ずかしいのか頬を赤くしてマフラーに顔を埋めてしまった。 子供を見る度に柔らかな表情になるリザを見ると、リザが愛おしくてつい私も顔が緩み、だらしなくへらへらと笑ってしまうのだが、それがリザの目には馬鹿にしているように映るらしい。 「馬鹿にしてないってば。可愛くて可愛くて仕方ないんだよ」 「…どうせ…どうせ、らしくないって思ってるんでしょ」 リザは不機嫌そうに私の手を振りほどくと、私にくるりと背を向けて歩き出した。 男勝りだった昔に比べてリザがずいぶんと女性らしい発言をするようになったことを私は喜んでいるのだが、リザ自身が自分で言っておきながらかなり恥ずかしいらしい。 リザ自らが恥ずかしい発言をし、そして私がそれを聞いて可愛らしいとにやけるため、羞恥心でいっぱいのリザが馬鹿にされていると感じるのは、不器用なリザのことと思えば、釈然としないが、まあ理解できる。 私が被害者になるほど恥ずかしがりやで、妙に照れる点は昔からまったく変わらない。 「…しかしな、リザちゃん。おい、無視するな。おーい、マスタングさんの家の可愛い奥さん」 「なんですかっ」 「ちょっと入れすぎじゃないかな」 恥ずかしさを紛らわすためか、リザはカートの中にチョコレートやクッキーなどのお菓子を片っ端からどんどんと入れていく。 「私が食べるんじゃなくて、この子が食べるんですから、いいんです」 しかめっつらから一転、リザはにこりと楽しそうに笑い、大事そうにコートに包まれたお腹を手の平で撫でた。 分厚く着込んだコートの下の、リザのお腹の中には新しい命が宿っている。 「うむ。そういうことなら倍にして買おう!」 「…そんなにはいらないもんねー。お父さんは本当に分からず屋だよねー」 先程のことをまだ根に持っているのか、リザがお腹を撫でながら我が子に話し掛ける。 「というかね…そう、君は身重なんだから、カートを持つなんて危ないことをしちゃいけません!お腹に私達の子供がいるんだからな!分かってるのか?あと歩く時は私と手を繋いでゆっくり、欲しいものは私がカートに入れるから。本当は買い物だって私一人で行くはずだったのに…」 「まだお腹が出てきているわけじゃないですし、今は普通に生活できるんですから、そんなに世話焼かなくていいですよ…あまりに親身だとかえって迷惑なんですけど…」 「まったく…リザは本当に恥ずかしがりやさんだなー。さすがに照れ隠しにはもう慣れたぞ」 「べたべたしてくるし…トイレまでついて来られて本当に困ります…」 それぞれ噛み合わない話をしながら、結局私がゆっくりとカートを押し、リザがその隣をお腹をいたわりながらついて来る。 毎回こんなやり取りをするために、マーケットでは店の主におしどり夫婦と呼ばれるほど有名になってしまったのだが、リザには内緒にしていた方が良さそうだ。 「嫌っ!絶対に嫌ーっ!」 上司に敬語を使うことなどすっかり忘れ、おまけに私の髪の毛を引っ張りながらリザは本気で抵抗していた。 リザの指に何本か私の髪の毛が絡まり、おまけにヒールの高いブーツで脛に容赦なく蹴りまでいれる。 あまりに暴れるものだから、リザを床に寝かせるのは諦めて壁に押し付けることにした。 ちなみにここは私の家の玄関である。 「やめて!ちょ…っ、助けてー!変態に犯されるー!」 「こんな夜中じゃ誰も助けに来ないし、仮に誰かが助けに来てもこの状況を見られたら君が困るだろう」 「言わずにはいられないんです!あなたには常識というものがないんですか!?」 私の胸に両手を当て、リザが顔を真っ赤にするほど力を込めて私を押しのけようとする間に、私は軽々とリザのマフラーやコートを脱がしていく。 「せめてベッドでしてください!その前に夕食とお風呂も!」 「嫌だね。待てない。仕事のせいで一週間もお預けだぞ。帰り道に路地裏に引っ張り込んで襲わなかったことに感謝してほしいくらいだ」 「私だって嫌です!電気ついてるし、お腹もすいたし…あとお風呂入らないと恥ずかしいし、明るい場所は絶対に嫌…!」 リザは焦るあまり同じことを二度言った。 リザは不満を吐き出し、私の肩にパンチをお見舞いしたあと、羞恥のあまり瞳を潤ませた。 司令部では絶対に見せない顔だ。 リザの髪から香る甘い匂いだとか、はだけた服から覗く透き通るほど白い肌だとか、それだけで体温が上昇するのに、そんな可愛い顔をされたらたまったものではない。 「分かった。君は立っているだけでいい」 「え?…ええ?」 リザの体をくるりと回し、背中からリザを抱き締める。 「君は何もしなくていいから。ただ立っているだけ。というかもう我慢できないからちょっと情けないけど私から先に失礼する。足をしっかり閉じてて」 スカートをめくり上げながら、そして太ももをきつく閉じるように促す。 私がズボンから雄を取り出した時、ようやく何をされるか気付いたリザは、絹を裂くような悲鳴を上げた。 「はあ…一週間ぶりの我が家だ…」 「そうですね」 やっと帰って来られた安心感から玄関にどさりと座り込み、靴を放り投げる。 「そういえば、この間も一週間くらい家に帰れなかったんだよなあ。最近は忙しくて困るよ、まったく」 「ええ」 「帰り道、寒かっただろう?久しぶりに君のおいしい紅茶が飲みたいな。司令部のまずいやつじゃなくて、私のお気に入りのブランドの。いや、司令部のまずいやつも君が入れると美味しいんだけどね。そうそう、今日は少尉の作ったシチューが食べたいなあ」 「……ちょっと失礼します」 「ん?」 玄関に突っ立ったままで、何故か靴を脱ごうとしなかったリザが、いきなり私の肩を勢いよく突き飛ばした。 慌てて両肘をついたものの、当然私は後ろに倒れ込む。 「えっ?少尉?」 「紅茶?シチュー?お気に入りのブランド?はあ?何を言っているんですか、あなたは」 リザは無表情のまま自らのマフラーを解き、そしてコートのボタンを外し始めた。 リザの無表情に込められた感情はいろいろあり、私が仕事をサボって万年筆でダーツをしていた時なんかは呆れて無表情になっていたが、今は確実に怒っている。 「えーと…少尉…怒ってるんだよな?」 「怒ってますよ。何を呑気なことを抜かしてるんですか。帰り道で『星が綺麗だからゆっくり歩こうか』ってへらへら笑っているあなたを見て殴りたくなりました」 「…何か怒らせるようなことしたっけ…」 「一週間ぶりですよ、一週間。まず最初にすることがあるでしょう」 コートをばさりと勢いよく脱いだリザが私の腹の上を跨いで座る。 「一週間、ハグもキスもセックスもなかったんですよ?分かってます?」 リザの口から放たれているとは思えない言葉を聞いて、私は目を見開いた。 あれ? これって、立場は逆だが、この間も似たような展開にならなかったか? ふと、私を責め立てるリザの頬が赤くなっているような気がして触れると、やはり熱を持っていた。 「…まさかとは思うが…発情してるの?」 「したいな、とは思います。欲求不満です」 リザは淡々と話ながら私のズボンのベルトに手を掛けた。 「ちょっ、ちょっと!?おい、リザ!」 「ですが中佐にはその気がないようですね。でも付き合ってもらいますから。まずはその気にさせます」 「…その気がないわけじゃないんだが…」 この前のようにいきなりすると今度こそ嫌われると思ったんだ、という私の弁解にリザは一切耳を貸さない。 リザは不器用な手つきでズボンと下着を脱がせて、いつもなら見ることも嫌がる雄に躊躇なく触れた。 「…中佐は、これが、だーい好きなんですよね?」 私を挑発するようなリザの声は、少し息が上がっているように聞こえた。 リザはプリーツのロングスカートを唇で噛んでめくりあげ、黒いタイツを膝まで下げると、下着に包まれた女の部分と白い太ももを晒した。 リザは膝で立つと、指で柔らかく掴んだ雄を、私が世界一だと褒める弾力のあるきめ細やかな太ももに擦りつけ始めた。 リザは愛撫されていないはずなのに、スカートを噛んでいる唇からたまに艶めかしい声が漏れる。 あの生真面目で潔癖なリザが、ブラウスにロングスカートという清楚な服装を乱し、この前は散々嫌がった玄関で、自分から誘うなんて。 まだ幼さの残る顔を欲求不満で赤く染め、私をその気にさせようと下手くそな手つきで、健気に太ももに擦りつけてきて―― 「…待てっ、リザ…!」 「なんだかいつもより早くないですか?溜まってたんですか?」 唇からスカートを離す代わりにスカートを左手で持ち替えながら、リザが不思議そうに首を傾げた。 悪意はまったくなく、子供のように無邪気な瞳をしている。 「…言わないでくれ…不能になるぞ…」 男のプライドに関わる問題に踏み入れられ、声が小さくなる。 穴があったら入りたい。 「別に私は早くて遅くてもどっちでもいいんですけど。…それで、その気になりました?」 太ももに飛び散った精液を指で掬い上げ、リザが戸惑いもなくぺろりと舐める。 「……美味しくない」 「こらっ!出しなさい!ペってしなさい!」 赤い舌の先が白い液体を舐める様子にわずかに興奮しつつも、いつもらしくないリザの行動を叱る。 「おいしくないですけど…でも悪い気はしないです」 「何なんだもう…君らしくないぞ…本当にあのリザ・ホークアイか?」 「中佐こそいつもと違って弱気ですね」 「…あーあ…調子が狂う…」 「あら、乙女ですね」 部下であり年下の恋人、そして普段はこちらが困るほど消極的なリザに襲われたことを始めから思い返しながら、足を縮こめて両手で顔を覆う。 やられっぱしの私をリザに見られたくない。 やり返してやろうと不敵に笑うことも、滅多にない体験をしたと喜ぶこともできず、ただただ消えてしまいたいほど恥ずかしかった。 攻められるとはこんな気持ちなのか。 「中佐にとってはこんなの序の口じゃないんですか?いつもはもっと恥ずかしいことを散々させるくせに…。…さては…」 リザは何かに気付いたように呟いた。 「押しに弱いんですね?」 「……そうかもしれない」 私のネクタイを外しながら、確信を得たようにリザがにやりと笑った。 確かに、リザにペースを狂わされ、主導権まで握られると何故か強気に出られない。 いつもの恥ずかしがりやなリザが懐かしい。 いつもは、もう少し性行為に慣れてくれてもいいのではと思うのだが、実際にリザが積極的になると、私はどう反応すれば良いのか分からない。 立場をいつも通りに戻すにはどうすればいいのだろう。 とりあえず、まな板の上の鯉のような状態は顔から火が出そうなほど恥ずかしいので、どうにか押されっぱなしの雰囲気を変えたい。 「なら、押して押して押しまくりますよ」 「…なあ、とりあえずベッドに行かないか?」 「嫌です」 「こんなに明るい場所じゃ嫌だぞ私は!」 「大人しく食べられてください。ね?」 いつの間にかネクタイで両手を縛られていた。 上唇を舌でぺろりと舐めながら楽しそうに微笑むリザは肉食動物のようで、好き勝手にされることを確信し、いつぞやのリザのように悲鳴を上げた。 何かとんでもない失敗をしてしまったらしい。 高級ホテルのスイートルームのソファーに座り、体を縮こめて、自分がどんな失態を犯してしまったのか必死に考える。 中佐はベッドに腰掛けて不機嫌そうに足を組んだまま、何も言葉を発しない。 沈黙がとても重い。 今夜は中佐がとある企業のパーティーに招待され、私は護衛として中佐について来たのだ。 衣装は軍服で行くつもりだったのだが、それでは周りが興ざめすると中佐に言われて、中佐が用意したドレスを着て、それから中佐もめかし込んでパーティーへ出掛けた。 中佐はこのパーティーをとても楽しみにしていたようで、会場であるホテルへ行く車の中ではすこぶる機嫌が良かった。 しかし、いざ会場に来ると、中佐は要人への挨拶をさっとと済ませると、女性に声を掛けることもダンスもすることなく、少々乱暴な手つきで私を連れてパーティー会場を出てしまった。 そして連れて来られた場所がこの部屋である。 もしかして、私にドレスがとんでもなく似合っていなくて、みっともなかったのだろうか。 中佐はパーティー会場から出る際、何故かスーツの上着を脱いで、私に羽織らせた。 会場には、私が着飾っていることが場違いに感じるほど、私とは違って華奢でお人形さんのように可愛らしい女性がたくさんいた。 普段は男同様に扱われ、硝煙の匂いを身に纏い、現場では汗や泥まみれになって働く軍人の私が、急に女らしい格好をしたって変に決まっている。 中佐は、私を連れて歩くのが恥ずかしかったのだろうか。 常に無表情で怖いと周りから言われるから、今日は頑張って笑顔を作ってみたのだけど、それも失敗だったのかもしれない。 それとも、中佐に勧められたとはいえ、はしたなくたくさんお酒を飲みすぎた? 中佐の護衛を務めるのだと意気込むあまり、でしゃばった真似をした? そもそも、護衛自体がさっぱりできてなかった? もしかしたら、このパーティーは中佐にとって出世に繋がるとても大事なものだったかもしれないのに。 姿勢を正していたつもりがいつの間にか俯いてしまっていて、慌てて正面を見る。 すると、まだ機嫌が悪そうに顔をしかめる中佐が視界に入り、任務中だというのに瞬きをすると泣きそうになってしまって、きつく唇を噛んだ。 きっと、この豪華な部屋は、中佐がパーティーでお気に入りの女性を見つけて、あとで楽しむために取っておいた部屋だろうに、私は何をやっているのだろう。 「……少尉」 「はいっ!」 中佐に呼ばれ、弾かれたように背筋をぴんと伸ばして返事をする。 その様子を見て、中佐は苦笑いをした。 「あー…、そう固くならなくていい」 「申し訳ありません!」 「謝らなくてもいいから」 叱られる覚悟をして身を固くしていると、中佐はベッドから腰を上げ、「いい?」と尋ねながら私の隣に座った。 ぎしりとソファーが軋む。 「そのドレス、とても似合っていて私は鼻が高かったよ。案の定、会場でも注目の的だったな」 「えっ?」 てっきりお説教が始まると思っていた私は、思いがけない言葉を聞いて目を丸くした。 そういえばすっかり忘れていたが、会場に着く前は、中佐はこのドレスを着た私を見て、恥ずかしくなるほどべた褒めしてきたのだった。 「でも失敗だった」 「…やっぱり…そうですよね…」 「ああ、胸が開きすぎている。見えすぎだ」 「はい…?」 再び予期せぬ言葉を聞いて眉を寄せた。 閉じられた上着の前を少し開いて視線を落とすと、確かに、V字に開いた胸元は開きすぎているかもしれない。 背中の陣を見せぬようストールを羽織っていたために肌の露出は気にならなかったが、改めて考えてみると、こんなに胸元が開いている服を着るのは初めてだ。 「店で見た時は、この黒のドレスは色白の君に似合うだろうし、パニエが入っていてふんわりしていて可愛いし、膝丈だから遠慮なく脚も見られるし、すぐに気に入ったんだ。君にぴったりだと思った。しかし胸はとんだ誤算だった」 「はあ…」 「どいつもこいつも、みーんな君の可愛い顔を見たすぐあとに胸を見てにやけていた。けしからん。まったく腹立たしいね。だから会場を出た」 「はあ……えっ?そんな理由で!?」 「そんな理由とはなんだ。一大事だぞ」 真面目な顔をして、「むやみに見せるんじゃない」と言いながら胸が見えないように上着の前を再び閉じる中佐を見て、なんと返せば良いのか分からず無言になる。 「君は勘違いしているみたいだが、別にこれは重大なパーティーじゃないよ。欠席しても良かったんだ。でも私はきっかけが欲しかったから出ることにした」 「きっかけ?」 「そう。私と君の距離を縮めるためのきっかけ。あわよくば、いいことができるかもしれないきっかけ。…ちょっとこっちに来て」 私が返事をする暇もなく、中佐は私の手を取ると、窓際まで連れて来る。 部屋に入った時は自分が失態を犯したことばかりを考えていて気付かなかったが、改めて窓から外を眺めると、ホテルの最上階のこの部屋からは東方の夜景が一望できる。 「綺麗だろう?」 「…はい、綺麗です…ねっ!?」 素直に感想を述べている途中に、私の後ろに立った中佐が腰に手を回してきて、変な声が出てしまう。 上着を肩に掛けられた時に香った香水の匂いが濃くなってきて、というか直に香ってきて、何故か心臓の鼓動が早くなる。 さらに、中佐の体温が背中からじわじわと伝わってきて、顔から火が出そうになる。 司令部で中佐に指で頬を突かれたり、頭を撫でられたり、スキンシップはそれなりにあったものの、中佐とこんなに密着するのは初めてだ。 「この部屋、高かったんだ」 「…そ、そうでしょうね…」 「君と過ごすために取った」 驚きの連続でついに声も出なくなる。 「お洒落して、君が私に見惚れて、さらにお酒を飲んでいい気分になった君を口説いて、そこに皆が憧れるスイートルームと夜景を見せたら、いくらお堅い君でも少しだけぐらつくんじゃないかな、という作戦だったんだ」 すでに私はぐらついている。 気持ちではなくて、体が。 中佐が支えてくれていなければ立っていられないかもしれない。 何故か恥ずかしくてたまらなくて、その場に座り込んでしまいたい。 「でもいいスーツを着ても君の反応はいつも通りだし、お酒を飲んでも変わらないし、会場では胸を見せ付けるだけで終わったし…作戦失敗だ。いや、失敗した方が良かったと気付いたけど」 反応はいつも通りじゃない。 前髪を撫で付けた今日の中佐はなんだか威厳があってかっこいいな、と、会場で何度も思った。 そんな人が、耳元で低い声で囁いてくるわ、男性らしい恰幅のいい体で抱き締めてくるわ、おまけに香水なのか本来の匂いなのか甘い香りをぷんぷんさせるわで、困ってしまう。 顔と体の熱が窓ガラスを曇らせたらどうしよう。 こんな人に迫られたら、すぐに警戒心を解いてしまうわけだわ、と、中佐がプレイボーイの名を馳せていることに今さら納得した。 「ここまでお膳立てしないと君を口説けないなんて、情けない上に何より卑怯だ。部屋の値段や景色で君を釣るなんて、私らしくない。これでは駄目だと君を部屋に連れ込んでようやく気付いて、反省していたんだ。時間を取らせて悪かったね」 「…いいえ…」 プライベートの中佐をよく知っているわけではないから、何が中佐らしいのかはよく分からない。 中佐に触れられて息の仕方を忘れるほど動揺するだなんて、遠い昔、もう忘れたはずだったあの甘酸っぱい感情が蘇ってきて、ただただこの状況が信じられなかった。 ふと視線を感じて、ちらりと瞳だけを動かして窓を見ると、窓ガラスに映った中佐と目が合った。 目を細めて私を見る中佐は何を思っているのだろう。 というか、今の中佐はとても色っぽい。 今の中佐は、上官でもなく昔から私を知る知人でもなく、ロイ・マスタングという男で異性なのだと、今さら気付いた。 中佐は男で、私は女だ。 消えてしまいたいほど恥ずかしいのは、中佐が、私が女なのだということを遠慮なく教えてくるから。 「……というのは冗談。びっくりした?」 急に中佐が明るい声を出して、ぱっと私から手を離した。 窓ガラスに映る中佐の表情が、いつも司令部で冗談を言う悪戯っ子のようなものに戻っている。 そして中佐は今にもその場に崩れ落ちてしまいそうな私をドアまでずるずると引きずって、私の手にお金を持たせた。 「一度、いつも無表情で仕事以外のことは何を考えているんだかよく分からない君を驚かせてみたかったんだ。失敗したみたいだけどね。私は今から早急にパーティー会場に戻る。まだ声は掛けていないんだが碧眼の美しい女性が気になってね。今から口説きに行くよ。護衛はもういらない。君はタクシーで帰りなさい。ホテルの前にたくさんとまっているだろう」 中佐はドアを開けると私を部屋から出し、ひらひらと手を振った。 「気をつけて帰るんだぞ。あ、上着は着て帰っていいから。くれぐれも胸は見せないように。じゃあな」 そう言い終えると、中佐は笑顔でばたんとドアを閉めた。 ふらふらと覚束ない足取りで廊下を歩く。 私の側を通り掛かったボーイが心配そうに私を見た。 歩いて帰れるだとか、タクシー代がもったいないだとか、家に帰るまで護衛するだとか、言いたいことはたくさんあるけれど、今は余裕がない。 幸か不幸か、私はいつだって中佐の嘘をすぐに見破ることができる。 今夜は早く帰って寝てしまおうと思いながら、羽織った上着をぎゅっと握り締めた時、中佐が私の胸について語っていたことを思い出して、もう恥ずかしさに耐え切れずに大声で叫びたくなった。 そうか、私は……。 「おはよう」 「おはようございます」 昨日は知恵熱でも出るかと思うほど、恥ずかしさの嵐で顔も体も熱かったが、一晩寝てようやく冷静さを取り戻した。 今だっていつも通りに、執務室で中佐に朝の挨拶をしている。 「碧眼の女の子がいるなんてね、嘘だよ」 知っています。 私が今日までに仕上げてほしい書類を渡していると、中佐はくるくると指で万年筆を回し始めた。 「どうにかして部屋から君を出さないと、勢いで君を後ろのベッドに押し倒しそうになったから、悪いと思いつつ追い出した。ごめんね。よく考えたら私が出ていけば良かったな」 「いいえ」 「くだらない茶番に付き合わせるなと殴りもしないし、いきなり変なことを言い出す上司だと軽蔑の眼差しも向けてこないし、妙に大人しくて、しかも可愛い顔をしているから、もしかしたら流れでいけるかも…なんて、懲りずにまた卑怯なことを考えてしまったんだよ。君はただ酔っていただけみたいだけど」 中佐は自他共に認めるプレイボーイだけれど、私の頬が赤くなっていたのが酒のせいだと思うなんて、本当に女性経験が豊富なのか疑わしくなってくる。 「しかし…相変わらず無表情だけど、昨日も今も困っているように見えるな。私には嬉しい意味で。昨日の作戦は途中までだが遂行して正解だったみたいだね」 でも、嫌なところで勘が鋭い。 妙な雰囲気になる前に早く逃げるに限る。 「では、私はハボック少尉に用事がありますので、失礼します」 また心臓の鼓動が早くなっているが、それを隠して余裕ぶって軽く笑みを作る。 しかし胸に抱えている書類がぐしゃりと潰れそうだ。 「今度はあの部屋でいいことができるのかなー」 「…仕事に集中してくださいね」 中佐に背を向け、すたすたと足早に歩いて急いでドアに向かう。 中佐を撥ね付ける言葉がいつもより歯切れが悪い。 やはり女性の機微に敏感らしい中佐は、今の私の言動を見て私の気持ちをどこまで知ってしまったのか、楽しそうに声に出して笑った。 「今日、君の家に行っていい?スーツを返してもらわないと」 「今度、クリーニングに出したあとに司令部に持ってきます」 「すぐに返してほしいんだ」 今日、家に押しかけられたら、中佐に何をされるか分からないし、私も何かしてしまうかもしれない。 返事をせずに執務室から出ようとすると、大きな手が伸びてきて急にドアノブを押さえ、驚いてびくりと肩を揺らした。 中佐が後ろから私を追い掛けてきたのだ。 「いいよね?」 吐息が掛かるほどの距離で中佐に上から覗き込まれ、昨日のように体から力が抜けた。 手の中から書類がばさばさと床に落ちる。 顔を真っ赤にして後ずさろうとする私の手首を捕らえて強引に私を胸に抱え込んだ中佐は、ついに私に「ロイ・マスタングが好き」と認めさせた。 深夜、誰もいない大部屋の隅っこで膝を抱えて丸くなっていると、音程の外れた下手くそな鼻唄と共にホークアイ中尉が部屋に入ってきた。 「あら、ハボック少尉。かくれんぼでもしてるの?」 「中尉…そんなわけないでしょ…」 どんよりと暗い声で話す俺に対し、中尉は今にもスキップでもしそうなほど機嫌が良い。 何かを大事そうに胸に抱えながら部屋の隅まで歩いてくると、中尉は正座を崩して俺の隣に座った。 「これね、事務の女の子がくれたの。『深夜もお仕事がんばってください』って」 じゃーんと、中尉は嬉しそうに膝の上でハンカチを広げて、手作りだろうに売り物のように綺麗に作られたサンドウィッチを見せた。 「……椅子に座らなくていいんですか」 「うん」 散々迷った挙げ句、卵がたっぷりと入ったサンドウィッチを選ぶと、いただきますと言ったあとに中尉がパンを頬張る。 「ほれて、はにがはったの?」 顔を嬉しそうに綻ばせてサンドウィッチをもぐもぐと食べながら、「それで、何があったの?」と中尉が尋ねてきた。 「……やっぱり何かあったの分かりますか?」 「分かるわよ。また女の子にフラれたの?」 「『また』って何ですか!いま好きな子いないですから!」 「ごめんなさい。ハボック少尉がフラれるのは秋の風物詩って大佐が言っていたものだから」 「大佐の言うことをすぐに真に受ける…。てゆーか秋の風物詩じゃないですし…年中フラれてますし…。自分で言うの悲しいですけど」 「じゃあどうしたの?」 「その逆なんですよ…」 「逆?」 二個目のサンドウィッチに手をつけた中尉が首を傾げた。 「告白されたんですよ」 「あら、良かったじゃない」 「…それが全然良くないっていうか…こんなこと初めてでどうしていいか分からないっていうか…」 「え?」 「…お、男に告白されたんですよ……」 「へえ」 ここ数時間ほど頭を抱えて悩んでいたことを打ち明けるが、中尉の反応は驚くほど薄い。 「えっ?中尉、ちゃんと聞いてました?サンドウィッチに夢中で聞き逃しましたか?返事が軽くないですか!?」 「男性が同じ男性を愛してしまうのは、別に驚くことじゃないもの。いろんな愛の形があるでしょう。特にここは男性社会の軍なわけだし…そういうこともあるでしょう」 「…なんだか、そういうことを中尉の口から聞くなんて意外です…」 「なんでよ」 中尉はちょっとだけ不機嫌そうに俺を見た。 「だって中尉って恋愛に全然興味なさそうだし、告白されてもすぐ『ごめんなさい』で斬るし。部隊の中で誰が中尉を落とせるか躍起になってますよ。…あ、ちなみに今、恋してます?」 「してない。…なんで思春期の女の子みたいな会話になってるのよ」 「あー…そうだった…。…俺、どうしよう…」 お堅い中尉から意外な言葉を聞いて、年頃の娘のように盛り上がってしまったが、悩み事を思い出して、両手を顔に押し付けて唸る。 「気持ちに応えられないなら断るしかないでしょう。でも傷付けちゃ駄目よ。はい、あーん」 「…あーん…。そうは言っても…」 中尉が俺の口に中にサンドウィッチを突っ込む。 中尉自らがサンドウィッチを食べさせてくれるなんて、中尉を猫可愛がりしている大佐が見たら燃やされてしまいそうだ。 「というか、なんで綺麗な女じゃなく田舎臭い俺なんだろ…」 中尉にもらったハムサンドを食べながら、首を捻って改めて考えてみる。 「外見に惹かれたのなら、金髪碧眼、優しい顔立ち、逞しい体、高い身長…じゃない?」 「…中尉…俺のことをそんな風に思っていたなんて…。なんか照れますねえ」 頭をわしわしと掻きながら、思わずにやけた。 大佐がここにいたら俺は確実に燃やされる。 「それに加えて、性格は優しくて、よく気がついてフォローしてくれて、マメで、甘え上手」 「…うわ…超いい男じゃないですか…。なんで俺もてねーんだろう…」 「あとは、やっぱり筋肉ね」 「やっぱりこの鍛え上げられた体に中尉もグッときちゃいますかー」 普段は心情をまったく口にしない中尉に褒められ、頬の筋肉は緩みっぱなしだ。 「そう、体よ。私よりずっと体格のいい体。どこまでも速く走る足、大佐三人くらいは軽々と持てる腕、タフな体力、石をも砕く拳、割れたお腹…筋肉美…」 最初は淡々と語っていた中尉の表情は何故かいつの間にか恍惚としており、俺の体をうっとりと見ている。 「少尉が着替えている場面に何度か出くわしたけど…いい体だわ」 中尉は、親指をぐっと立てた手を俺に突き出した。 「ちょっと!結局、中尉って俺の体しか褒めてない気がするんですけど!?あと俺、大佐三人も石も無理ですから!」 「とにかくその体はとっても魅力的だから、惚れられても無理ないわ」 「体目当てかー…」 中尉に褒められ照れていたのに、ただ単に男の体を羨ましがられただけだと気付き、再びめそめそとしていると、またサンドウィッチを口に放り込まれた。 「男に告白されるなんて考えたこともなかったなあ…。士官学校の時は、女みたいな顔した同級生がいつも貞操の危機を心配してんのを笑ってたのに…あん時が懐かしい…」 「……ねえ、男の人って」 中尉がくいくいと俺の軍服の袖を引っ張ってきて、頭の中が嫌な予感でいっぱいになる。 「…やっぱり聞かれると思った。『男同士でどうやって交尾するの?』って聞きたいんでしょ」 「一字一句間違ってないわ。教えて」 もう嫌だこの人。 しかし、興味津々で尋ねてくる中尉から逃れられた例はない。 「せめて、もっと色っぽく、恥じらいながら聞いてくださいよ。…あのですねえ…」 中尉の耳に手を当て、内緒話をするように、男性同士の性行為について手短に説明する。 「…へえ…。そうなの…」 頭の中で、俺が教えた図を描いているのかどうかは知らないが、中尉は相変わらずサンドウィッチを食べながら、真顔で呟いた。 「あっ!『今日ひとつ賢くなったんですよ』なんて言って、大佐にこのこと言わないでくださいよ!中尉に妙なことを吹き込んだって半殺しにされちゃいますから!中尉の無邪気さはたまに兵器になりますからね!」 「…大佐…」 「あれ、そういえば大佐って、もう帰ったんですか?…って、んなわけないですよね。仕事が立て込んでるし…また脱走ですか?」 「大変よ少尉っ!大佐が!豚と!二人きりで!」 中尉の手からぽろりと食べかけのサンドウィッチが落ちるが見事にランチボックスの中に着陸した。 中尉は俺の両肩を掴むと、かっと目を見開いた怖い形相で、謎の単語を発した。 「翻訳すると…大佐は、大佐が豚少将と呼んでいるあの少将のところに行っているんですね?で、今は二人きりだと」 「そうなの!私もついて行くって言ったんだけど、大佐が『いつもの不満の垂れ流しだからいいよ』って!それって人払いじゃ…権力にものを言わせて大佐を…!?」 「なんつーものを想像させるんですか…。それより中尉、パンの屑がついてますよ」 とりあえず中尉に落ち着けと言いたい。 口の端についたパンの屑を取ってやりながら、大佐に関する中尉の行き過ぎた想像力はもはや尊敬に値すると思った。 どうして俺の話と大佐の現状が繋がるのだろうか。 「相変わらず中尉の思考はぶっ飛んでますね…。豚と大佐がー?両方とも女好きの病気じゃないですか。そうじゃなくても、ない。ないない、有り得ないですよ」 手を振って否定するが、中尉は必死だ。 「だって、大佐だって、軍の中では小柄だけど戦闘力は高いし、体だって太い首や厚い胸が魅力的で、柔らかい物越しと爽やかな笑顔に女性達は骨抜きじゃない!それにたまにドジなのが可愛いし、おまけにいい香りだってするのよ!」 「…今のってただの中尉の大佐に対する告白じゃ…いや、惚気…?」 「違う!大佐にも好かれる理由がたくさんあるってこと!ちょっと私、少将のところに行ってくるわ!」 俺にサンドウィッチを托し中尉が立ち上がったのと同時に、大部屋の扉が開いた。 部屋に入って来たのは、偶然にも今中尉が助けに行こうとしていた大佐だ。 「た、大佐!?」 中尉が驚いた様子で大佐に駆け寄った。 「やあ中尉、ただいま。ハボック、三秒以内に中尉から百メートルの距離を置かないと燃やす」 「うぎゃっ!」 にこやかに笑った大佐が指を鳴らすと、サンドウィッチと一緒に入っていたナプキンが燃え、驚いて後ずさると、間抜けなことに背後にあった机に頭をぶつけた。 「大佐!?何をしているんですか!少尉、大丈夫?」 「大丈夫ですから俺と百メートル離れましょう中尉!」 中尉がこちらに駆け寄ろうとするのを見て、俺は両手を中尉を押し退けるように差し出して、来ないで下さいとアピールをした。 「中尉、そんな奴のことは気にするな」 大佐は強引に中尉の腕を掴んで、中尉を自分の方へ引き寄せた。 「それより中尉、またあの豚が…」 「な、何かされたんですかっ!?」 大佐が話を切り出すと、中尉が大佐を押し倒しそうな勢いでぐっと近付いて問い詰める。 「…え…ああ、また愚痴をな…」 大佐は、いつものように話を誇大して中尉に慰めてもらう作戦だっただろうに、中尉の迫力に驚いたのか、気後れしたように話す。 「痛いところは!?大事な部分は大丈夫ですか!?気分が悪いとか、不快なところとか…かゆいところは!?」 言葉が思い付かなかったのか、最後の方は美容師のようなことを言っている。 「…いや、別にどこも異常はないぞ…」 「ご無事でしたか…!」 大佐は不思議そうに眉をひそめたが、中尉は大佐の言葉にほっと胸を撫で下ろした。 「中尉…己の無能さから生まれた厄介事を私のせいにして豚から不満を聞かされる私を、君はそんなにも心配してくれていたのか…?」 「…私…これからも大佐のことをお守りしますから…!」 「中尉…!」 正しくは「大佐の貞操を」ね。 話がまったく噛み合っていないはずなのに、大佐と中尉は手を取り合って熱く見つめ合い、互いに絆を深めている様子だった。 「…中尉…私は…」 「大佐、私、これからちょっと聞き込みに行ってまいります!」 大佐が何かを言おうとしていたが、中尉はそれを聞かずに大佐の手を離し、風のように大部屋から去って行ってしまった。 聞き込みって、あれかな。 大佐より階級の高い誰かが大佐を狙っていないかどうかを聞きに行くのか。 「…中尉のエネルギーって、すげえ…」 「あー…ハボック…。お前、いたんだったな。忘れていたよ」 大佐は何故か頬を明らめながら、口に丸めた手を当ててゴホンと咳ばらいをした。 「今のが、私と中尉の誰も入り込めやしない仲なのだよ。突然で驚かせてしまったかな?」 「あ、今の出来事はすぐに忘れるので燃やすのは勘弁してください」 「時にハボック…中尉はずいぶんと照れ屋だと思わないか?」 厄介なことになる前にそそくさと逃げようとする俺を大佐が呼び止める。 「え?」 「今だって、聞き込みだなんて突拍子もない嘘をついて逃げ出して…。熱い視線で見つめてきたのは中尉の方だというのに」 「はあ」 「中尉はあのように心配性なんだ。彼女が私を思う気持ちは、もはや主従関係に収まらず、私個人を…と、思わないかね?」 「ほう」 「こ、これは恋と呼べるもの…いや、それは行き過ぎか…?」 「へえー、はいはい」 灰になってしまったナプキンを片付けながら、適当に返事を返す。 ゴホンゴホンと咳ばらいを繰り返しながら、この人は何を言っているんだか。 妙なところで聡い俺は、厄介なことに気付いてしまった。 前から薄々気付いてはいたが、やはり中尉は大佐を慕っていて、大佐も中尉に恋い焦がれているようだ。 しかし、恋愛のことなら東方一の大佐は中尉が意中の人だと気付いていないようだし、一方、中尉も無自覚らしい。 すれ違いが多発する不器用な、こんな恋が存在するのかと顎に手を当てた時、俺はすっかり当初の悩みを忘れていた。 ※吸血鬼リザと軍人マスタングのパラレルです まばゆい月光を背景に、金髪のショートヘアを揺らし、黒いワンピースを靡かせて走る彼女は、まるで空を優雅に飛んでいるかのように見えた。 人間ではなく吸血鬼らしい彼女は、確かに人間技ではない身体能力と俊敏さで、裸足で民家の屋根から屋根へと飛び回っていた。 化け物に対する恐ろしさを感じるより、畏敬の念を覚え、美しいものを見て心を奪われているような気すらしていた。 「見惚れる」とは、きっとこういうことだ。 「軍人さん、いたいけな少女を追いかけ回すのはやめて欲しいです」 彼女は屋根から屋根へと移ると、一瞬だけ鬱陶しそうに私を見下ろした。 「いたいけな少女がこんな夜中に、道で男性を襲おうとするかな」 ぴょんぴょんと兎のように跳ねる彼女を、私は路上を走ってひたすら追い掛ける。 「違います。彼がハンカチを落としたので、親切に拾って届けてあげただけです」 「嘘をつけ。私は後ろから一部始終見ていたんだよ。間違いなく君は男性の首に噛み付こうとしていた」 「もう老眼鏡が必要なようですね、軍人さん。私を追い掛けるより眼科に行くことをおすすめします」 相変わらず涼しい顔で憎たらしいことを言う。 彼女とこうして話すのは三度目だ。 すでに二回も逃していることになるのだが、今日はどうなるか分からない。 私が彼女を追い掛ける理由は実に簡単で、「朝目覚めたら何故か道端に倒れており、首筋に謎の歯型が残っている」という、いま東方を騒がせている謎の連続事件の犯人が彼女だからだ。 被害者は皆「化け物に襲われた」と青白い顔で話し、東方では「吸血鬼事件」と名がついている。 「ニンニクや十字架は効かないのかな」 「残念ですね、全く効きません。お返しします」 「痛いっ!」 彼女に向かってニンニクを投げると彼女は器用にそれを掴み取り、逆に私の額に思いきり投げ付けてきた。 「君って本当に吸血鬼なのか?」 「さあ、自分でもよく分かりません。遠い東の国に存在するニンジャってやつかも知れません。どちらにしろ怪しくはないのでもう私のことは忘れて家に帰ってください」 「ニンジャならニンジャでまた興味があるな」 「軍人さんはもうすぐ三十路でしたよね。老眼鏡は必要なようですが、喋りながら走るだなんてやはり体力があるんですね」 「いや、結構きつい。もう駄目かもしれん。君は?」 「私はまだピチピチの十五歳なので平気です」 まだまだ余裕だと彼女は言うが、私には少しだけ彼女の足元がふらついているように見えた。 今日の彼女はいつもより俊敏さに欠け、そして焦っているように感じる。 この私を悩ますほどに、いつも形跡を残さず慎重に犯行を犯す彼女が、今晩は私が彼女を尾行していたことにすらまったく気付かないだなんておかしい。 そして彼女の行き先にも違和感を覚えていた。 罠に嵌められているのかと思ったが、長年培われた勘が「今日こそは捕まえられる」と言っている。 「いつもながら、ぼろきれをワンピースにするとは随分と前衛的な服を着ているね。吸血鬼の間で流行っているのか?」 「私の一張羅に失礼なことを……」 突然彼女はぴたりと足を止め、困惑した表情を浮かべた。 「…ここ、行き止まりじゃないですか!」 「私に向かって怒ってもねえ…」 彼女は動揺のあまり私に向かって怒鳴った。 何か意図があって廃墟ばかりが並ぶ路上へと来たのかと思ったが、ただ私から逃げる為にやみくもに走ってきただけらしい。 彼女が前に進もうとすれば流れの早い川に落ち、後戻りをすれば私が待ち構えている。 先程の民家と違い、誰もいない廃墟となれば錬金術だって拳銃だって、何だって使い放題である。 「そこはかなり足場が悪いと思うぞ」 「うるさいですね。分かってま……」 彼女の姿が屋根から急に消え、地面には瓦礫と黒い塊が大きな音を立てて落ちた。 「忠告するのが少し遅かったかな」 「…そうですね…」 「どこか痛めなかったか?」 「…平気です…ご丁寧にどうもありがとうございます…」 瓦礫と一緒に地面に落ちてきた彼女の肩をやや乱暴に掴み上げ、首を掴んで壁に押し付ける。 彼女は少し苦しそうに顔をしかめた。 「やっと捕まえた。軍人になってからこんなに私の手を煩わせたのは君くらいだ」 いつも可愛くない言葉を捨て台詞にして闇夜に消えてしまう彼女を、やっと捕まえられた。 発火布を嵌めた右手を鳴らして焔を点し、明かり代わりにして彼女の顔に近付ける。 「ほう。遠目から見ても美少女だと思っていたが案の定可愛いじゃないか」 「誰にでもそう言っているのでしょう。軍人さんの女性に関する噂はよく聞きます」 黒く薄汚れているものの、釣り目気味の大きな瞳が特徴の端正な顔が焔に照らされ、将来は間違いなく私好みの美人になると確信した。 もちろん今の彼女も十分に美しい。 形勢が不利だというのに、弱気になるどころか挑発的な眼差しが素晴らしい。 それに、このロイ・マスタングに焔を向けられれば大抵のものは怯えてすくんでしまうが、表情ひとつ変えずにいる度胸も気に入った。 「前回の犯行は三週間前だな。それ以来まったく血を飲んでいないのか?」 「はい。誰かさんが巡回や捜査に力を入れるのでまったく食事ができませんでした」 「その誰かさんはきっと頭脳明晰で性格も良くかっこよくてモテモテなんだろうなあ。…血を飲んでないせいで行動や思考が鈍ったのかな」 「…恐らく」 「今さらだが、改めて確認しよう。君は『吸血鬼事件』の犯人だな?」 「…はい」 「本当に身体能力の高さは吸血鬼だからなのか?」 「それは…小さい頃から父に体を鍛えられました。それから山奥で木の実ひとつを晩御飯にするような、あなたには想像もつかないような過酷な生活をしていたせいかもしれません。…実は私は自分が何者なのかよく分かりません。母と父はもう亡くなりましたが、二人とも自分のことを吸血鬼だと言っていました。母はまともでしたが父はかなりの変人だったので妄言とも考えられます。血を飲むのはただの性癖、実は吸血鬼ではなく先程言ったニンジャかもしれません」 「ふうん…なるほど」 「なので見逃してください。か弱いニンジャからのお願いです」 「嫌だね。上がうるさいんだ。『早く吸血鬼を捕まえろ』って」 「それは困りましたね。では今晩のうちに別の遠い街へ移ります」 「その前に私が捕まえるけどね」 「捕まるなんて御免です。知っていますよ、軍の地下に怪しい研究所があることくらい。私はそこへ行くんでしょう?」 「ご明答。こんな美人を檻の中に閉じ込めてしまうのは勿体ないがね」 「…本当に困ります…」 彼女は素人とは思えない速さでワンピースをめくり上げるとガンベルトから拳銃を取り出し、私に向けて構えた。 焔に照らされた体は年の割に痩せこけていると感じたが、太ももはなかなか魅力的な肉付きをしていると場違いなことを考えた。 「いっちょ前に武器を持っているんだな。どうやって手に入れた?」 「それは言えません」 「銃の腕前は?」 「上手ではないですが下手でもないです。銃弾をちょろまかしてはこれで身を守ってきましたから。ちなみに、致命傷を負わせずかすり傷で済ませるのが私の決まり事です。…でも、軍人さんが私を逃がしてくれないのなら、撃ちます」 そう言うと彼女は私の腹に銃口を押し当てた。 「腹を撃ってもすぐには死なないよ。もちろん撃たせる前に燃やすけれどね」 「やってみないと分かりません。撃った隙に逃げます。…それから、私のせいで人が傷つくのも、亡くなるのも嫌なんです」 「今まで人を襲ってきた吸血鬼が何を言うんだ?」 「殴ってちょっと気絶してもらっている間に血を少し頂くのと、銃で人間を傷付けるのは全然違います」 「違いがよく分からないが…。しかし甘いな。例え君が私を撃てたとしても、逃げる君を丸焦げにしてしまうなんて私には簡単だよ」 「ですから、やってみなければ分かりません。でも、軍人さんに焼かれるのもいいかもしれません。吸血鬼が不老不死かどうか分かりますから」 「痛い思いをして研究所に行くか、このまま大人しく降伏して研究所へ行くか、どちらを選ぶ?」 「私は逃げきれないと分かっていてもあなたを撃ちますよ。今すぐにでも」 「君の性格ならそうだろうね」 「…本当に、誰かに怪我をさせるのは嫌なんです…」 彼女は目を閉じて、震える吐息をもらした。 私からすればこのままさっさと撃ってしまえばいいと思うのだが、彼女は自分の流儀に反することにかなり葛藤しているらしい。 「ならば大人しく捕まればいい」 「…分かりました。今日で足を洗います。今までの償いとして、大人しく降伏して、研究所の狭い檻の中で好奇の目に晒され、変な実験をされながら化け物として一生暮らします。どうぞ、煮るなり焼くなり好きにしてください」 「その割には撃つ気満々だな」 ごめんなさいと謝り、彼女は急にしおらしくなったが、銃口は相変わらず私の腹に当てられている。 「だって…捕まるのは嫌ですが人間を傷付けるのも嫌なんです!」 彼女が先程言った言葉は半分は嘘で半分は本当らしい。 いつもポーカーフェイスで適当なことばかりを言う彼女が今回ばかりは切迫した表情で訴えてくる。 気まぐれに指を鳴らして彼女のワンピースの裾の一部を燃やしてみても、彼女は竦むことなく、未だに迷いながらも、私をいつ撃つか見計らっていた。 「焔が怖くないのか?」 「はい。第一、今はそんな状況ではありません」 「度胸と身体能力の高さは前々から目をつけていたが…人を傷付けたくない吸血鬼か…。うーん、ますます気に入ったな」 今まで首を押さえて彼女を拘束していた手を外すと、彼女は不審そうに顔をしかめた。 実は、私は彼女を研究所なんていうとんでもないことろに送るつもりはさらさらなかった。 ただ彼女がどんな人物なのか知りたくて、会って少し話をしてみたいという理由だけで彼女を追い掛けてきた。 そして、思った以上に骨のある彼女の態度を見て、ふと素晴らしい考えを閃く。 「決めた。君は私の家に来なさい。今日から私の奴隷…じゃなくて、私のメイドとして働くんだ。本当は護衛を頼みたかったんだが人を傷つけるのが嫌ならやめておこう」 「は…?」 「君を養ってあげる代わりに、君は私の家政婦さんをやってくれ。そういうことだ」 彼女は私の唐突な提案が理解できなかったらしく、まだ銃を構えつつ、きょとんと目を丸くした。 「煮るなり焼くなり好きにしろと言ったのは君だ」 「それは…言いましたけど…」 不思議そうに私を見る彼女の腕を掴み立ち上がらせ、手首を引っ張って歩き出す。 しかし彼女がまだ状況が飲み込めていないのか直立不動のまま動かないため、仕方がなく肩に担ぎ上げる。 「ちょっと!?軍人さん!?」 「罠ではないよ。これから向かうのは本当に私の家だ。これから一緒に暮らすんだ」 「なるほど…。って…え!?はあっ!?」 いつも冷静な彼女の素っ頓狂な声を初めて聞いて思わず笑った。 こうして私は美少女を巧みに誘拐、ではなくて、今日から可愛い吸血鬼と一緒に暮らすことになったのだ。 |