昨日見た光景を頭から消し去りたくて、無心になりただひたすらにペンを動かす。 同僚や部下からも書類を無理やり奪い、机の上を紙の山だらけにし、文字を目で追ってペンを走らせる。 「ハボック少尉…大丈夫でしょうか…」 「事情が事情ですからな」 「今回はなあ…さすがに同情するよ」 俺が機械のように働く様子を、椅子を寄せ合って親友と部下の三人がひそひそと話している。 「何の話をしているの?」 控え目なノックの音のあとに作業部屋の扉が開き、男しかいない空間に華やかな存在が入ってきた。 「あ、ホークアイ中尉、お疲れ様です」 「あなたたちもお疲れ様。今日はどたばたしているから朝の挨拶以来ね」 「大佐も今日は珍しく真面目に仕事をしているようですね」 「大佐『も』?」 「大佐」という言葉に思わず反応してしまうが、何も聞かなかったことにして作業を続ける。 「中尉は大佐が仕事をしていても、していなくても大変ですねえー」 「大佐のほかに誰が真面目なの?」 ブレダ達の輪に入ったホークアイ中尉が首を傾げた。 「ハボがねえ、朝からずーっとあんな調子なんですよ」 「え?朝から?」 「またフラれちゃったみたいですよー」 「それは朝に聞いたわ」 「ああ、ホークアイ中尉は朝から大佐に付き切りで詳しい話は知らないんですな」 「恋人にフラれた以外にまだ何かあるの?」 「それがですな、大佐が…」 「大佐がなあ…」 「大佐、ひどいです…」 「大佐?大佐が何かしたの?」 「……大佐、大佐って、うるせーんだよおっ!!」 今一番聞きたくない名前を何度も耳にして、怒りのあまり手に力が入り、書類にペンの先が刺さって穴が空いた。 「あ、ついにキレた」 ブレダはその様子を見て、どうでもよさそうにコーヒーをすすった。 「お前らっ!ひそひそ話するならもっと小さい声でしろっ!丸聞こえだっ!」 机に両手をついて勢いよく立ち上がり、輪を作っている男三人に向かって人差し指を向ける。 「ハボック少尉、あまり大きな声を出すと執務室に聞こえてしまうわ。今日はデートの予定があるみたいで、大佐が珍しくデスクワークをこなしてくれているから、静かに」 中尉は唇の前に人差し指を立てた。 いつもなら俺は中尉の言うことを聞く忠犬だけれど、今日ばかりは我慢できない。 「デート…!?てゆーか中尉まであの悪魔を庇うんですかっ!?ひどいですよ!」 「悪魔?」 「あー、今回はただ失恋しただけじゃなく、ちょっと深い事情があるんですよ」 ブレダが二個目のホットドックを食べながら、状況を飲み込めていない中尉に説明をする。 「そうなの…。とりあえず、落ち着いて。はい」 中尉は自分の席に向かうと、机の引き出しから可愛い銀紙で包装されたチョコレートを俺に差し出した。 「中尉…アンタって人は…」 「あとでココアもいれてあげる」 優しく中尉が微笑んで、俺の手の平の上にチョコレートを置く。 「……このチョコレートの賞味期限はいつですか?」 「知らない。受付の女の子に一年前くらいにもらったの。でもまだ大丈夫よ、多分。ハボック少尉は体が丈夫だから、多分」 「多分ってアンタ!包装紙がちょっと汚れてますよ!しかも失恋したての人間にハートの形のチョコレートを渡しますか!?」 「まあ待て、中尉に八つ当たりをするな。何か食いたいならこれをやるよ」 「誰が男の食いかけなんかもらうか!」 チョコレートを中尉に押し返していると、ブレダが食べかけのホットドックを差し出してきて、冗談じゃないとブレダの頭を叩いた。 「暴力は駄目ですよー。あ、ネジあげますよ!」 「ふむ、では私からも先日古本屋で見つけた希少価値の高い辞書を…」 「いらねーよ!てゆーかお前らのは食べ物ですらねーよ!なんだよ、もうー!俺を慰めてくれるまともな人はいないのかよー!?」 泣きそうになりながら机に突っ伏すと、ブレダがぽんと俺の肩を叩いた。 「仕方ないな…今度は真面目に話を聞いてやるよ。中尉、休憩がてらに、いいですよね?」 「もちろん。あ、執務室には聞こえないようになるべく静かにね」 ブレダが椅子ごと俺を引っ張り、作業部屋の隅に連れて行く。 五人が椅子を寄せ合って輪を作り、休憩がてらにあの憎い大佐に気を遣いながらの慰安会が始まった。 「……つまり、大佐がハボック少尉の恋人を奪った…。そういうことなのね?」 朝から大佐に付き切りだったため、詳しい事情を知らなかった中尉にブレダが俺の悲恋の物語を説明すると、中尉は眉を寄せた。 「それ、本当なの?」 「本当ですよ!何度も言いますけど、俺のエレンが大佐に取られたんです!エレンが三日前に『別れるから』って一方的に電話で言ってきて、そして昨日、俺は大佐とエレンが街で仲良さそうに歩いているのを見たんですよっ!」 「うーん…」 「疑ってるんですか!?」 「そうじゃないわよ。ただ、大佐らしくないと思って」 中尉は人差し指を顎に当てて思案顔になった。 「充分大佐らしいですよ!女大好きな大佐がエレンに目を付けない訳がないんだ…俺のエレンが可愛いから嫉妬して、あの嘘吐きの舌で上手く言いくるめてエレンを自分のものにしたに決まってます!あの悪魔大佐はそうやって人の幸せを奪っていくんですよ!なあ、お前ら!」 うんうんと、男三人は頷いた。 「大佐は、ハボック少尉に恋人ができるとよく『奪ってやろうか』とか『私の方がいい男なのに』って、からかうけど…実際に奪ったのは初めてよね。何だか信じられないわ」 「何で頑なに否定するんですか!からかうだけじゃ飽きたらず、外道大佐は本当に部下から恋人を奪ったんですよ!」 「人のものを奪うなんて大佐らしくないと思うの。…地位や名声なら別だけどね」 「ええ…ちょっとは俺の味方してくださいよ〜…」 「もちろん私はハボック少尉の味方だし、少尉の言っていることが嘘だとも思ってないわよ。…ハボック少尉はエレンさんといて幸せだった?」 「もちろん!エレンは可愛いし、優しいし、胸はでかいしふにふにだし…まだ関係はもってなかったですけど…」 「幸せだったのね。大佐はひとの幸せを奪うようなひとじゃないわ。そう思わない?」 そうですねえ、と男共三人がまた頷いた。 「お前ら!どっちの味方なんだよ!適当に頷くなよ!」 「落ち着けって」 椅子から立ち上がって怒鳴ると、ブレダが軽く俺の脛を蹴った。 「大佐に彼女を取られるのは確かに悔しいけどよ…どうしてそこまで怒る?他に何かあんのか?」 「よく気付いたな、ブレダ。さすが親友だ」 椅子に座り直すと、四人がまだ何かあるのかと顔を近付けた。 「大佐には今、ものすごーくお気に入りの女がいるんだ。多分あれが本命だな。この前デレデレしただらしない顔で電話をしてるところを見た。あの甘い声色と下手に出る態度から見て、大佐にしては珍しくかなり入れ込んでる。あれは本気だ。つまり、エレンは本命じゃなく、気まぐれでたぶらかした数いる恋人の中の一人なんだよ!許せないだろ!?」 「わあ〜…それは辛いですね…」 「大佐の女遊びは病気だな」 「大佐に復讐する女性達が司令部に押しかけて来ないのが不思議なくらいですな。…話は変わりますが、中尉、耳に入れておきたい情報が」 「なあに?」 「朝から大佐の話は厳禁、それから中尉が席を外していたので話すのが遅くなりましたが…」 「おい、そこの二人。今は俺を慰める会だろ?なあ、無視か?」 ファルマンは胸元のポケットから何故か地図を取り出すと、それを輪の中で広げた。 「昨夜遅く、ここに大佐が女性を連れて入っていく様子を見た者がおりまして」 ファルマンが指で示した場所は大通りから外れたところにある歓楽街の一角だった。 「この『ローズ』というバーです」 「女性を連れて…!?エレンか!?」 「一緒にいた女性に関する情報は残念ながらないですが…ハボック少尉が昨晩大佐とエレンさんが一緒にいる様子を見たのならば、エレンさんの可能性が高いかと…」 「絶対にエレンと一緒だ…!」 俺がふつふつと大佐への怒りを燃やしていると、中尉はファルマンが指差す場所を見て目を見開いた。 「待って。ローズって…」 「ええ。あのいわくつきの店です」 「本当か…さすが大佐だな…」 「あ?ローズって!?あのローズ!?」 「え?何のお店なんですか?」 一人だけ何も知らないフュリーがきょろきょろと他の四人を見る。 「お前にはちょっと刺激的すぎるぞ…」 「表向きは普通のバーなんだけど、隠された地下があるんだ。地下へ行けるのは店に選ばれた客だけ。そこに行くと裸のねーちゃんが接客してくれて…隠さずに言うと乱交パーティーをしてるんだとか」 「ららっ、ら…っ!?」 ブレダがバーの正体を告げると、案の定フュリーは真っ赤にして固まった。 怪しい噂もあれば、男性ばかりの軍だからか地下に行ける客を羨ましがる者もいて、軍ではこのバーは密かに有名だった。 「そこに大佐が行ったのね?」 「はい」 「つーか、大佐の目撃情報ってこうやって中尉に逐一報告されてるんすか…ちょっと大佐に同情…」 「どうして同情するのよ」 中尉がチョコレートを口にほうり込みながら軽く俺を睨む。 「あっ、いやっ、その、有事の時に遊び人がどこにいるのか把握してないといけないのは大変ですよねっ!…というか中尉、チョコレートを食べて大丈夫なんですか?」 「意外といける。食べる?星の形もあるわよ」 「遠慮しときます…。話を戻して…大佐の野郎、いかがわしい店にエレンを連れて行くなんて…!」 拳を握り、再び椅子から立ち上がる。 「謀反だ!今こそあの極悪人を制裁するんだ!」 「だーかーらー、落ち着け」 ブレダに再び脛を蹴られる前にひょいと足を避けた。 「落ち着いていられるか!俺は決めた!大佐をつける!ほかの女といるところを写真に撮って本命にばらす!」 「あのう…それは大佐にとって痛手になるんでしょうか?」 「そもそも、本命の方とどうやってお会いするんです?」 「うるさい!やるったらやるぞ!」 フュリーとファルマンの質問を無視し、さっそく準備に取り掛かるために輪から抜ける。 「ハボック少尉、待って」 ドアノブに手を掛けると中尉に呼び止められた。 「なんすか!?俺は黒焦げになってでもやり遂げますよ!」 「違うの。大佐を尾行するなら、私も連れて行ってくれない?」 「本当ですか!?中尉、ようやく俺の味方に…!」 茨の道に一筋の光が射す。 「まあ、ちょっと気になることがあって…」 「尾行の準備は俺の方でしますから!中尉がいれば百人力ですよ!今日、奴は絶対に定時で仕事を終わらせるでしょうから、その後にここで落ち合いましょう!」 「え?今日!?」 「じゃあ俺は準備してきまーす」 「ちょっと、少尉…」 中尉の驚きの声を遮断するように作業部屋の扉を閉めた。 「少尉、もう終わったわよ」 勝手に借りた応接間の扉に寄り掛かり、中尉の準備が終わるのを煙草を吹かして待っていると、中から入室の許可が出た。 「入りますよー」 携帯の灰皿に吸い殻を入れながら扉を開けると、部屋の中には少し髪の長い金髪の少年、いや、男物のスーツを身に纏った上官がいた。 「うわあ…美少年ですね…」 感嘆の声を上げながら扉を閉める。 そういえば、中尉は大佐の副官になったばかりの頃、短く切り揃えた髪と、軍人らしい隙のない立ち振る舞いのせいで、男だと勘違いされることがしばしばあったらしい。 たいていの人は、顔の次に豊満な胸を見て中尉が女性だと気付いたらしいが、これは中尉には絶対に言えない。 「俺の弟達もいずれこうなるのかなあ…」 「ちょっと、少年ってどうゆうことよ」 「だって中尉って童顔じゃないですか。あ、靴のサイズは大丈夫ですか?」 「大丈夫だけど…何よ少年って…」 『少年』と言われたことが気に食わないらしく、中尉は唇を尖らせた。 俺と中尉が初めて出会った頃に比べると、俺と中尉はずいぶん親しくなったし、他人からは氷の心臓と評される中尉も雰囲気が柔らかくなった気がして、こうした子供っぽい表情を見せてくれる。 「そういえばネクタイが結べないのよ。大佐のは結べるんだけど、自分のだと難しくて…お願いしていい?」 「今の俺に大佐の話をしないでくださいよ…。俺は自分のはできますけど、人のは無理ですね…。…あ、こうすればいいのか」 中尉の背後に立ってネクタイを手にする。 この方法が一番いいと思って躊躇いなく中尉を背中から抱き締めるような形をとったが、今になってこの状況はやばいんじゃないかとか、大佐が見たら確実に燃やされるだとか焦るが、中尉は平気そうにしている。 「胸にサラシを巻いてみたんだけど、変じゃない?」 「だ、大丈夫ですよ…」 おまけに中尉はこんな話までしてくる。 そそくさとネクタイを結んでしまって、素早く中尉から離れた。 「ありがとう、少尉」 「いいえ。しかし…男にしてはずいぶん可愛らしいですけど…顔が整ってると女でも男でもいけるんですねえ」 変装をした上官の姿を上から下まで遠慮なく眺める。 チャコールグレーの三つ揃いのスーツと黒のコートは男物だが、少年用のものを用意したため、軍の中では小柄な中尉の体にもぴったりと合っている。 ベストやズボンにやや余裕があり、男性にしては華奢すぎる体の線が浮き出ているが、コートを着るから大丈夫だろう。 上等なスーツを着こなす中尉は、端正な顔立ちと相俟ってどこかのお坊ちゃまみたいだ。 「なんか俺と並ぶと、お付きの人と坊ちゃんみたいですね」 「こんなにいいスーツ、借りたわけじゃなくて貰ったのよね?すごいわね」 「士官学校からの知り合いに金持ちがいるんですよ。金持ちを鼻に掛けるいけすかない野郎であまり付き合いはないんですけど…昼間にブレダと一緒に胡麻擂りに行ったら、案の定機嫌を良くして、夕方には使用人に持って来させてくれて」 家柄や育ちの良さを褒めて自尊心をくすぐったところで「結婚式に出る弟のためにいいスーツを貸して欲しい」と呟くと、すぐに用意してくれたのだ。 「しかもそれ、パーティー用に作ったらしいんですけど気に入らないから一度も着てないそうですよ。昔のだから、もういらないって」 「そんな人もいるのね」 「ねー」 「…それで、ハボック少尉は変装しないの?」 何故か中尉が期待の眼差しで俺を見た。 「これが俺にできる最大限の俺の変装ですよ…あと眼鏡を掛けて、黒髪のかつらと帽子を被るだけです」 俺も中尉と同じく黒の三つ揃いのスーツを着ていた。 自分のクローゼットの中にあったものだから中尉が着ているスーツとはとても比べものにはならないが、これでも一張羅なのだ。 「女装すればいいのに…」 中尉がぼそりと呟く。 「はい?俺が女装?」 「だってスーツ姿の男二人が一緒にいるなんて変よ」 「でも男じゃないとバーの地下に入れませんよ?」 「せっかく化粧品を借りてきたのに…スカートをはくハボック少尉を見たかったわ」 「って、ただ俺に女装させたいだけじゃないですか!すね毛ボーボーの男がスカートをはくなんて誰が得するんです!?」 「ちょっと興味あったのに…まあいいわ。でもせめて眉だけでも黒く描かせて」 「いたた!痛い!」 背伸びをした中尉が小さなブラシを俺の眉にぐりぐりと押し当てた。 「何ですかこれ…マスカラ?」 「似たようなものよ」 「かつらで眉毛が隠れるから黒く塗らなくてもいい気が…というかこれって水で落ちますか?」 「さあ」 「うわー、すんげー困るんですけど…」 黒髪のかつらをかぶっている間はいいが、地毛の金髪に戻った時に眉毛が黒いのは困る。 しかし中尉は俺の眉毛を描いて満足したらしく、再び変装の準備を進めた。 中尉は鏡と真剣に向き合いながら髪を調えると、黒髪のかつらをかぶった。 「私のかつらも少尉のかつらも、大佐の髪型にそっくりね」 「あの憎い坊ちゃまヘアーのかつらしかなかったんですよ…」 大佐と同じ髪型にするのは抵抗があるが、大佐が浮気をしている証拠を掴むためだ。 かつらを身につけ、それから眼鏡を掛けて帽子を被ると、完全に大佐の知る俺からは掛け離れた別人になり、これで心置きなく尾行ができる。 「どう?変じゃない?」 「おー、可愛いですね」 かつらを被った中尉は、大佐と似た髪型をしているのに、儚げな美少年に変身してしまった。 美少年が好きないろんな部類にうけそうである。 「かっこいいって言って欲しかったのに…」 「さあ、準備できたし行きましょうー!」 コートを着て帽子を被ると、中尉の腕を引っ張ってすぐさま部屋を出る。 「あ、コードネームを考えたんだけどね」 「嫌な予感がしますね!俺がジャックで、中尉がマイクにしましょう!」 「ちょっと、私の案は聞かないの?」 中尉が不満そうに呟いた。 |