「アベックのペアルックが憎い…」
仕事を終えて力尽きた大佐が、机に突っ伏しながらぼそりと呟いた。
「そういえば、ペアルックが最近流行っていますね」
「そうなんだよ。腹立たしいことに」
「あら、仲良さそうで微笑ましいじゃないですか」
「そう、ペアルックは仲良しの度合いだ…だからこそ嫌だ」
近頃、東方の若い恋人達の間では、お揃いの服を着て、周囲に見せ付けるように仲睦まじく街を歩くのが流行らしい。
一歩街に入れば、同じ柄のセーターなど、お揃いの服を着た若い恋人同士を必ず見るほどだ。
「中尉はペアルックをどう思う?」
机から顔を上げた大佐が、机の上に肘を置いて両手を組み、何やら真剣な面持ちで私に問い掛ける。
「ペアルックですか…。さりげなくお揃いにしている恋人同士がいておしゃれだと思います。ネクタイとスカートの柄が同じだったり、ネクタイピンとネックレスが同じモチーフだったり」
「羨ましいと思う?」
「いえ、ちっとも」
「『ちっとも』!?…そうか、君は謙虚だからなー。恥ずかしがりやさんだからなー。恥じらう乙女に大好きな恋人と同じ服を着て歩くのを強要するのは酷かな。うん、そう思うのも無理はない」
「ペアルックを羨ましく思ったことは一度たりともありません」
ペアルックに興味など微塵もない。
なぜこの人は、無理やりにでも自分に都合の良い方に解釈するのだろうか。
「とにかく…私達を差し置いて、あいつらはずるい!」
大佐は急に勢いよく椅子から立ち上がると、顔を険しくして怒鳴った。
「私達のような、阿吽の呼吸で敵を倒し、さらに永遠の愛を誓い、さらにさらに誰もが羨む輝かしい美男美女の恋人同士にこそペアルックは似合うのだよ!ペアルックは私達のために存在すると言っても過言ではないっ!私達がペアルックを着ないで誰が着る!?」
どこからどう聞いても過言だ。
机を拳で強く叩いて、大佐は勘違いも甚だしい高慢な主張を繰り広げる。
数々の間違いを糾すのは面倒なので、さりげなく話題を変えることに決めた。
「…大佐、よく落ち着いて深呼吸をして、それから今の私達の格好を、よーく見てください」
私は自分の胸元を指差し、そして興奮しながらも深呼吸を繰り返す大佐の胸元にも目をやり、互いの胸元を交互に見る。
「なんだ?あ、サイズが大きくなったのか?いや、しかし、私の今朝のチェックではバストサイズに異変はなかったはずだぞ」
「違います。というか何の話をしているんですか」
「じゃあ何?」
「大佐が所望するペアルックです」
軍服のジャケットの裾を引っ張って大佐に見せる。
「軍服はペアルックじゃないっ!」
大佐はもう一度激しく机を叩いた。

「な、私達もペアルックをしよう!」
冬の冷たい風に当たりながら家に帰る間も、大佐はペアルックの話を引っ切りなしにしている。
ちなみに今晩はペアルックについて真面目に話し合うために、私は大佐の家に泊まらなければならない。
「大佐は本当に流行が好きですね」
「君は興味ないのか」
「全く興味ないです」
「私とお揃いのものを身につけるが嫌なのか」
「大佐が見境なくうるさく喚くなら、渋々お揃いのものを着てもいいですよ」
私の答えを聞くと、大佐は驚愕したようにあんぐりと口を開けた。
「…ペアルックは仲良しの象徴なんだぞ…。渋々って…渋々ってどういうことだ…」
大佐が言うには私の言動は「少し冷たい」らしい。
私自身も、必要以上に突っぱねたり、可愛いげのない発言をしたりしている自覚がある。
そんな私に比べて、大佐の言動は非常に素直で、内面の喜怒哀楽がそのまま表に出てくることが多い。
ペアルックについて拳を握って熱く語っていた大佐は叱られた子供のように表情が暗くなり、明らかに傷付いていて、その様子は罪悪感を覚えるほどだ。
「あの…大佐、私は…」
左手に身につけたサイズの合わない黒い手袋をちらりと見ながら、自分の気持ちを意地を張らずに包み隠さずに伝えるにはどうしたら良いのか分からず、言葉を探す。
この左手の手袋は司令部を出る時に大佐に貸してもらったもので、片割れは大佐の右手にはめてある。
手袋を忘れた私に、大佐は手袋を両手とも貸すと言い出したが、上官の手を冷やすわけにはいけないので当然ながら私は断り、しかし大佐は無理やり押し付け、一悶着あった後、結局は二人で一つの手袋を分け、手袋を身につけていない方は手を繋ぐという形で落ち着いた。
「こういう方が好きです」
「どういう方?」
言い方がすごく悪かったのは認めるが、いつでも流行を追い掛ける若い感性を持ち、今も昔と変わらず女性を口説くことが得意で、何より気まぐれな女性の心変わりに敏感な大佐が、なぜ私の女心には気付かないのだろうと不思議に思う。
決して大佐が鈍いのではなく、やはり私の口数の少ない伝え方が最悪なのだろうと一人で分析する。
「こういうって?何が好きなの?」
「これ以上言うのは性に合わないのでやめておきます」
大佐に対して「愛している」と口に出して伝えたことは無いに等しく、それを匂わせる言葉を告げたことですら少なくて、よほどの出来事がないと「好き」だなんて口にできない。
恋人同士だというのに恋人らしい言動をすることが照れ臭く、私は大佐の言うように恥ずかしがりやな性格なのだと思う。
だから、いつも素直になれるのは一度きりだ。
「えっ?何?大事な話なのか?もう一度最初から言ってくれ。お願い!」
もちろん、どんなに懇願されても最初から説明するつもりはなく、適当に話を逸らしている間に家についた。

「中尉!ついに私はペアルックを見つけたぞ!」
大佐は風呂場でも一人でペアルック談義をしており、そろそろ鬱陶しくて無視してやろうかと思っていた頃、大佐が嬉しそうに叫んだ。
お風呂から上がってすぐに濡れたままで、しかも全裸でクローゼットへ駆けて行き、また慌ただしく洗面所に戻ってきたかと思えば、大佐は二枚の白いワイシャツを手にしていた。
「生地が気に入ったから同じものを二枚買ったんだ。もちろんサイズも色も同じだ!」
「…お金持ち…」
大佐が差し出したワイシャツのタグを見ると、高級ブランドの名前が刺繍されてあった。
「というわけで、今日はこれを着なさい」
大佐の家に泊まる機会が多いため、私の生活用品が大佐の家にたくさん置いてあり、そのひとつであるパジャマに袖を通していると、大佐にシャツを強引に押し付けられた。
「これで私達もお揃いだぞ!」
早々と体を拭くと大佐は颯爽とシャツを身につけ、自慢げに仁王立ちし、誇らしげに笑った。
高笑いをする大佐から私はすぐに視線を逸らす。
「あの…ズボンをはいてくれませんか…」
大佐は上半身にシャツを、下半身には下着しか着ていないために、シャツの裾からは何も身に纏っていない筋肉質な足が剥き出しになっている。
「あとでな。君も今はズボンをはいちゃ駄目だぞ」
「セクハラですよ。どうして三十路近い上官の生足を見ないといけないんですか」
「中尉はよく私のシャツを着るが、同じシャツを着るのはまた別格だな!君にはサイズが大きすぎて、ぶかぶかで可愛い!」
念願のペアルックを体験している大佐に私の嘆きは届かない。
「ただの白いシャツを着ているだけなのに艶めかしいぞ、中尉…。舐め回したい太ももだ。そして私はかっこいい!この優雅な着こなしっぷりは自分が怖いくらいだ…」
「パンツ丸出しで何を言っているんですか?ズボンをはいてください。それに、私もズボンをはきたいんですけど」
「まだ駄目」
ソファーに並んで座り、私が大佐の髪を拭いてあげている間も大佐はご機嫌だ。
いつも以上に饒舌で、そして酒に酔った時のように気分が良さそうに鼻唄を歌っている。
「ふふ…アバンチュールな大人のペアルックだな!」
「なんだか当初の希望からはずいぶんとペアルックの基準が下がったような気がします」
「どうして?」
「尻の青い若者に一泡吹かせてやるって意気込んでいたじゃないですか。オーダーメードでスーツとワンピースを作るとか、新しい模様をデザインするとか、少し勉強して錬金術でアクセサリーを作るとか、最初の提案は規模が大きかったのに、最後は希望に比べると地味なものに落ち着きましたね。軍服とあまり変わらない気がするんですけど」
「だってなあ…君が全然乗り気じゃないし、これ以上喋ると無視されそうだし。とりあえず、今日はこれで我慢する」
「『今日は』、ですか…」
「私は諦めないぞ。ペアルックは仲良しの証だからな!私と君が着ないでどうする!渋々は嫌だから、まずは君をその気にさせないとな…。やっぱりペアルックは嫌なの?」
「嫌というか、全然心が動かないです」
「その話はひとまず置いておいて…。なあ、このシャツ、着心地がいいだろう?」
顔が緩みっぱなしの大佐は歯を見せて笑いながら私のシャツの裾を引っ張った。
「そうですね。肌触りが良くて、高い服を着ているって感じです」
「ペアルックっていいだろう?」
「シャツが上等なだけです」
「はあ…勧誘失敗か…」
口では悔しそうに言うものの、シャツを揃えたのがよほど嬉しいのか顔が綻んでいる。
私自身も、大佐の目尻の小さな皺を、微笑ましい気持ちで眺めていることにふと気が付く。
独占欲だとか庇護欲だとかが沸き上がり、おまけに母性本能をくすぐられ、いつの間にか胸の内がごちゃごちゃになっている。
司令部の廊下を歩く大佐は尊大なほど堂々としており、上部の人間より威厳があって、あの建物の中では今のように無邪気に笑うことはない。
いつも人を見下したような不遜な態度を取る大佐が、ずっと目尻を下げているだなんて、実は貴重な現場に遭遇しているのかもしれない。
ただ同じシャツを着ているだけなのに、どうしてこの人はここまで盛り上がれるのだろう。
大佐にとって「お揃い」は大事なようだが、その「お揃い」の相手はなんと私である。
このように屈託なく笑い、大佐が「次は何を着ようか」と明るい声で相談をする人間は、世界のどこを探しても私一人しかいないと少し自惚れてしまっているが、これは全部大佐が悪い。
「大佐、髪を拭き終わりました」
「ああ、ありがとう」
「大佐」
「ん?」
「今の大佐、とっても可愛いと思います」
「……え?」
前後の会話にまったく脈絡がなかったことと、愛想のない私の口から思いがけない言葉が出たことの両方に大佐は驚いたらしい。
私はタオルを床に落とすと、大佐の膝に手を置き、大佐の方へ体を傾ける。
言葉も出せないほど驚いている大佐が固まったまま動かずに、隙だらけだったため、口付けるのはとても簡単だった。
しかし、舌を突っ込んだ時には、我に返った大佐に肩を痛いほど掴まれて押し返されてしまった。
二人用の小さなソファーの端の限界まで後ずさり、大佐はなるべく私から距離を置こうとする。
「てっ、天変地異か!?」
「マスタング大佐とあろう方が…顔が真っ赤ですよ」
「何が起きたんだ!?」
頬が染まっている大佐はまだ状況が理解できていないらしく、焦るあまり目が泳いでいる。
「ただのシャツを揃えただけであんなにはしゃぐ大佐が可愛らしくて、つい。大佐だって私によくこういうことをするでしょう?変ですか?」
「きっ、き、君らしくないぞ…。明日は槍が降るな…」
よほど動揺しているのか声がどもっている。
「確かに私らしくないですね。そのくらい愛らしかったということです。最後に、私らしくないことをもうひとつだけ」
大佐に近付き、私から逃げようとする大佐のシャツの衿を無理やり引っ張って引き寄せ、首筋に唇を押し当てた。
少し経ってから唇を離すと、少々手荒かったが大佐の首にしっかりキスマークがついている。
「ペアルックとは違いますけど、お揃いです」
顔だけではなく耳まで赤くし、手の平でキスマークを押さえるというずいぶん女々しい大佐に、私の首のとある一点を指差して見せる。
そこには大佐がこの前の晩に私に残したキスマークがあり、私は同じ場所に同じことをしたのだ。
「大佐は『ペアルックは仲良しの証』って言いましたけど、今さら周りに見せる必要がありますか?目に見えるペアルックで示さなくても、私達はもう充分、とっても仲良しだと思います。現に私は大佐が可愛くて仕方ないですし…大佐はどうですか?」
「…なんだか…ペアルックなんてどうでもよくなった…」
大佐は脱力してソファーに寄り掛かっている。
ペアルックに全く興味がなかったが、同じ服を着るだけで大佐がこんなに可愛い姿を見せてくれるのならば、別にお揃いのものを着ても構わないと思うようになったことは、言わない方が良いだろうか。
「私は恋人を罵倒する君ですら女神に見えるから…たまにこういうことをされるとなあ…。…沸騰して…蒸発しそうだ」
大佐は参ったと言わんばかりに手の平で目元を覆う。
「蒸発しちゃ駄目ですよ」
大佐の鼻の先を指で突き、さらにウインクをして、わざと、いつもなら絶対にしない「自分のできる限りの女性らしい仕草」をしてみる。
大佐の反応は見ていて飽きず、大佐を困惑させることがだんだん楽しくなってきた。
「君の顔が真っ赤になるのが普通なのに…なんだか悔しいな…。それにキスは下手くそだし、首は痛いし…」
「じゃあ、教えてくださいます?」
人差し指を顎に当て、首を小さく傾け、再びわざと「おそらく男性が好きであろう仕草」をする。
まだ少し照れている大佐は「仕方ないな」などとぶつぶつと文句を言いながら、あんなにペアルックだと喜んで騒いでいた私のシャツをあっという間に脱がせてしまった。







疲労困憊したせいか、腕に抱いているものが寝返りを打つまで、一度も目を覚ますことなく深い眠りの中に落ちていた。
つい先ほど寝たような気がしてならず、カーテンの向こうから朝日が漏れている光景に目を疑う。
昨夜は肉体的に疲れたというわけではなく、緊張と気遣いの連続で頭皮が危うくなるのではないかと心配になるほど、精神を消耗した。
しかし彼女のために毛根が犠牲になるなら本望だし、疲れを上回るほど幸せだった。
気を張り詰め、私よりよっぽど疲れ果てたであろうリザ・ホークアイの丸い頬を指で軽く突く。
昨晩は所謂「初めての夜」というやつで、不安のあまりリザが縋るように私の背中に抱き着いてきた腕の感触や、体験したことのない感覚に戸惑う表情を思い出して、盛大ににやける。
リザは私の胸に寄り掛かるようにして熟睡しており、私が耳を引っ掻いたり、鼻の頭に口付けをしてもちっとも目を覚ます気配がなく、ぐっすり眠っている。
化粧をせず、それから厳しく顔を引き締めてないリザの寝顔は妙に子供っぽい。
親の胸で眠る幼子のように安心しきって眠っているように見えるのは、ただの私の願望だろうか。
だらしなく顔の筋肉を緩めたまま、ふとテーブルの上ある時計を見て、思わず声を上げそうになったが、手の平で口を塞ぐことで防ぐ。
声を出せば、音に敏感なリザは間違いなく飛び起きてしまう。
昨日はずいぶん無理をさせてしまったから、まだ眠らせてあげていたい。
それはさておき、仕事の存在がすっかり頭から抜けていた。
今日はリザは非番だが、私はいつも通り出勤日で、そして家を出る時間が刻々と迫っていた。
とりあえずシャワーを浴びよう。
要は時間通りに司令部に着けばいいのだ。
朝食は司令部で食べればいい。
急いで、かつ静かにバスルームまで向かおうとしたのだが、内心はかなり焦っていたのか、乱れたシーツが足に絡まっているのにも気付かずにベッドから降りてしまい、危うく転びそうになった。
体は前に進もうとするのだが足に絡んだシーツがそれを邪魔し、転びそうになる寸でのところで踏ん張ったものの、ドンと床を足で踏み付ける大きな音を立ててしまった。
「…中佐…?」
案の定、背中越しにか細い声が届く。
起こすまいと気を遣ったはずが、この失態でリザが目を覚ましてしまった。
ベッドの方へ振り向くと、リザはシーツに寝そべったまま、眠そうに目を擦りつつこちらを見ている。
「…少尉…お、おはよう…」
「…おはようございます…」
寝起きだからか、リザの声から無機質な冷たさが消えており、頼りなさげなずいぶんと可愛い声で話す。
「その…、あー、気分はどうかな」
「気分…?」
突然、初めて結ばれた翌日にどのような表情で恋人に声を掛ければ適切なのか疑問が湧き、少しの混乱と、それから何故かこそばゆい気分になりながら指先で頬をかく。
「ここ…どこですか…?」
「えっ?」
起きたばかりで思考が鈍くなっているらしく、しばらく気分について思いを巡らせていたリザの、思いもよらぬ質問に目を丸くする。
「司令部…?」
「司令部にこんなに快適で大きなベッドがあるわけないだろう。それに司令部で私が全裸で仁王立ちをすると思うか?」
昨日のことをまだ思い出していないらしいリザは、不思議そうに寝室の壁を眺めている。
「とりあえず私は一刻も早くシャワーを浴びなくてはならないのだよ。君はまだ寝ていなさい」
「でももう朝ですよ」
「君は非番だ」
「…そうでしたっけ…?」
「バスルームに行く前に聞くけど、水は?ほしいものは?寒くない?痛みは?」
「…ない…」
リザはもぐるようにしてブランケットを頭まで引きずりあげて、電池が切れてしまったように、再びすやすやと眠り出した。

リザが目を覚ました時、もっとかっこよく気の利いた言葉を言いたかったものだと後悔の真っ只中だ。
しかしいいこともあった。
リザはいつも寝起きの時は寝ぼけているのだろうか。
シャワーを浴び、着替えもきちんと済ませ、家を出ようと玄関に向かいながら、少々きつい性格の尖った部分がなくなった貴重なリザの姿が見れたことに喜びを隠せず、また笑ってしまう。
「…中佐…」
ちょうどドアノブに手を掛けた時、後ろから突然名前を呼ばれて、びくりと肩が跳ねる。
「ゆ、幽霊か君は!驚かせるな!気配を消すな!」
左胸に手を当てながら慌てて後ろを振り向くと、ブランケットを頭から被り、体どころか口元まで布で隠しているリザが立っていた。
本の挿絵によく描かれている魔術師のようなこの姿は突然現れると結構怖い。
「あの…その…」
「ん?」
上官に平気で言葉の暴力を振るうリザが、今はもじもじとしており、何やらしおらしい態度で頬を赤く染めている。
「思い出したんです…ここ、中佐の部屋ですよね…さっきは寝ぼけていて…。あ、えっと、それが言いたいんじゃなくて…」
「そうか。思い出したか。体は平気か?」
リザが何度も必死に頷く。
「部屋は好きに使っていいから。司令部についたらすぐに電話する。じゃあ行ってくるから」
「引き留めてごめんなさい…。…言いたいことがあったんですけど、何て言えばいいのか分からなくて…。その、気を付けて行ってきてください」
何と言えば正解なのかリザもよく分からないらしく、二人揃って初々しいこの状況が愛おしい。
「私も今の状況をどう言えばしっくりくるか分からないから困るよ。…とんでもなく可愛かったし、叶うなら今すぐ抱きたい」
顔を近付けて口付けをしようとすると、それを察したリザは慌てて後ろに下がって逃げた。
「行ってきますのキスくらい、いいじゃないか。昨日はもっとすごいことをしたんだぞ」
そろそろ時間もないことだし、代わりにブランケット越しに頭に口付けて家を出る。
発熱を心配してしまうほど林檎のように頬を真っ赤に染めて玄関に突っ立ったまま私を見送ったリザが、電話越しではどんな貴重な姿を見せてくれるか楽しみだ。







「そうだ。この前買い物をした時にレジの横にあったから、つい買ってしまったんだよ」
そう言って彼が私の手のひらに乗せたのは、ゴムで作られたアヒルの人形だった。
子供がよく湯船に浮かべているこの人形は、オレンジ色のくちばしと、まん丸の瞳が愛らしい。
黄色い体を指でへこませると、アヒルの人形が鳴いた。
「こういうの好きだろう?」
「…はい。ありがとうございます」
見た目に反して、そしてこの年になっても私が可愛いものを好きなことを彼は知っていて、嬉しいと同時に気恥ずかしい。
「これと一緒に風呂に入るといい。その間に私は少し本を読むから」
え、と思わず言いそうになった。
書斎に向かう彼の背中を唖然と見つめる。
私はてっきり、一緒にお風呂に入ろうと誘われると思っていたのだ。
最近仕事に追われ、二人で夜ご飯を食べるのも、のんびりと寛ぐ時間を持てるのも、彼の部屋に来ることすら随分と久しぶりだった。
だからてっきり、彼は私に思い切り甘えてくるに違いないと思っていたのに、彼が恋しがっているのはどうやら錬金術らしい。
なんて見当違いな予想をしてしまったのだろうか。
見捨てられたような心地になりながら、彼を追って書斎に入る。
彼はすでに窓際の机に向かっていた。
「…あなたの言う『少し』って、ちっとも少しじゃないの、知ってますか?半日とか数日になるじゃないですか」
彼が座る椅子の背もたれと彼の背中に、まるで背中合わせをするように遠慮なく寄り掛かる。
心はすでに本の世界へと旅立っている彼は、私がもたれ掛かることも話すことも気に留めない。
気がおかしくなりそうなほどめちゃくちゃに抱かれたいだなんて、そんなことを考えていたのは私だけだったのかと思うと悔しい。
「聞いてますか?…中佐ってば。マスタング中佐ー、マスタングさーん、ロイ・マスタングさーん」
意識がこちらに向かないことは嫌というくらい分かっている。
それでも半ばやけになりながら彼の名前を呼んだ。
「…もう、ロイ君の意地悪。ね、そう思うでしょ?」
返事をしてくれるわけでもない手のひらの中のあひるに話しかける。
その時、急に背後から音がしたのと同時に体がふらついた。
突然彼が椅子から立ち上がったために支えを失くしてしまったのだと、こちらを振り向いた彼に肩と腰を掴まれてから気付いた。
「驚いたじゃないか」
「驚いたのはこちらです。どうしたんですか?」
「まったく、何なんだ、君は。ロイ君の意地悪って…可愛すぎるじゃないか。驚いた。」
「聞いてたんですか!?」
「ん?この距離だから当然聞こえだろう」
私の恨み言なんか聞こえていないと思って、わざと普段は呼ばないような言い方をしたのに。
それを聞かれていたのだと知ると、恥ずかしくて首まで赤く染まる。
「たまにはゆっくり一人で風呂に入りたいかと思って遠慮したけど、やはり一緒に入ろう。あひるを浮かべて遊ぼうじゃないか」
「え?あの…」
「また『ロイ君』って呼んでくれ」
本はどうするんですかという私の問いかけに答えず、彼はぐいぐいと私の腕を引っ張りバスルームへ向かった。
あひるを浮かべて楽しんだのは最初の数分のみで、彼はあひるより私を鳴かせようとして遊び始めた。
その後、何度も湯船が大きく波打ったせいで、あひるは浴室のタイルの上に転がってしまったのだけれど、彼も私も気づかなかった。





















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