お嬢様の憂鬱



旦那様の部屋から出てきたお嬢様は、扉の前で控えていた私の姿を見もせずに、覚束ない足取りで長い廊下を歩き出した。
いつものお嬢様ならば「待っていなくていいのに」と苦笑してから私を労うのに、まるで私の存在が目に入っていないようだ。
見慣れた金髪のショートヘアの後姿をそっと追う。
窓から射し込む夕陽が、距離を開けて歩く二つの影を作った。
お嬢様の顔色が明らかに悪い。
旦那様に何を言われたのだろうか。
しかし、それについて尋ねてもお嬢様は素っ気なく「平気」としか答えない。
お嬢様はお喋りな人間ではないし、むしろ一人で抱え込む性格だから、普通に聞いても簡単には教えてくれないだろう。
お嬢様を部屋まで見送った後、頑固な主から何があったのかどうやって打ち明けさせるか考える。
私とお嬢様との付き合いはそこそこ長いし、この屋敷の中で彼女を一番良く知っているのは私だと思う。
なんといっても私はお嬢様専用の執事だ。
お嬢様がこの屋敷に足を踏み入れた日から、私はずっと近くで彼女の姿を見て来ている。
お嬢様の成長を喜ぶ執事としても、今年で十六になる彼女が少女から大人へ変わりつつある姿に恋い焦がれる男としても。
五つ年下の可愛らしい主は、私にとってかけがえのない存在だ。
お嬢様がこの屋敷を訪れたのは今から三年前のことで、彼女は父親を亡くした直後だった。
幼い頃に母親を亡くし、そして妻を追うように数年後に父親も他界し、天涯孤独の身になり途方に暮れていたお嬢様の前に現れたのが一人の老人だ。
「はじめまして、リザ。私は君のお母さんのお父さん。ややこしいけど、つまり、君からすると私はおじいちゃんで、私からすると君は孫だね」
父親を亡くしたばかりで心細いくせに、警戒して精一杯私を睨んだあの時のリザの姿は忘れないと、旦那様はいつも言う。
良かったら屋敷に来ないかという話をしても、お嬢様は「父と母に知らない人について行ってはいけないと言われています」の一点張りで、口説くのに苦労したと笑う。
名家の生まれである母親が、家を捨てて貧乏な研究者と駆け落ちをして結婚し、そして二人の間に生まれた子供が自分であるという旦那様の話を、最初、お嬢様はまったく信じられなかったという。
お嬢様は、父と母から親戚は一切いないと聞かされていたのだし、幼心に両親の出生には触れてはいけない気がして尋ねることはなかったらしいし、何も知らずに育ったのだから当然だろう。
研究者の父親は生活することよりも研究をすることに金銭を使う人間だったそうで、廃墟寸前の家でその日食べて行くのが精一杯だった貧しい彼女が、所謂お金持ちの屋敷に連れて行かれそうになっているのだから、信じられないのはなおさらだ。
離れて暮らしていても金の援助はするから嫌になったらいつでも生家に帰って良いという条件で、旦那様は「とりあえず落ち着くまで」とお嬢様を言いくるめ、彼女をほぼ無理やりこの屋敷に連れて来たらしい。
影でこっそりと「タヌキのグラマン」と呼ばれているあの旦那様が、屋敷で暮らし始めた当初は警戒心の塊だったお嬢様にどう言い含めたのかは分からないが、お嬢様と旦那様の距離は意外にもすぐに縮まった。
今ではすっかり祖父と孫として微笑ましいほど良好な関係を築いており、お嬢様はこの屋敷から出て行くことなく暮らしている。
裕福とは縁遠い人生を送ってきたお嬢様は、この家で暮らし始めても慎ましい生活を続けている。
屋敷の者は今では皆慣れてしまったが、この家で一番年下のお嬢様が使用人を目上の人間として扱ったり、仕事を手伝おうとしたり、照れながら手作りのお菓子を振舞ったりする姿には最初は誰もが驚いた。
お嬢様の執事になる前に数々の屋敷を転々としていた私は、ありとあらゆる人間を見てきたつもりだったが、これほど手の掛からない主に出会ったのは初めてだ。
朝は自分一人で起きるし、部屋は汚さずに使って掃除までするし、作法の授業を面倒だとさぼることもない。
お嬢様は前の家での生活をこの屋敷に来てからも続け、極力使用人の手を借りずに身の回りのことは自分で済ませる。
当然ながら、着替えや風呂の手伝いを申し出ると怒られる。
自分では何もしようとせず、何人も使用人を侍らせて高慢に命令する主人に仕えていたことがあり、お嬢様にその時の話をすると「その方はどうして自分で髪を乾かせないのかしら」と真剣に悩んでいた。
そういう人間だっているし、むしろこのような世界ではお嬢様の存在の方が異質だ。
お嬢様にだったら理不尽なわがままを言われてもまったく構わないのだが、残念ながら私はただお嬢様の行く先々について回るボディーガードのような役割しかしていない。
その唯一の役割すら、お嬢様に「別に一人で平気なのに」と言われてしまっている。
私が名前ばかりの執事なのはともかくとして、今までずっと平穏に暮らしてきたのに、現在になって何か問題でも起きるのだろうか。

「今夜、おじい様のお手伝いが終わったあとで私の部屋に来てほしいの」
夕食時もお嬢様は元気がなく、彼女は上の空で旦那様の話に相槌を打ち、料理にもあまり手を付けずに席を立ってしまった。
食堂から出たお嬢様を追いかけ、無理強いしてでも様子がおかしい理由を問い詰めようと腕を掴むと、彼女が唐突にそう言ったのだ。
お嬢様が私を部屋に呼ぶことも、頼み事をすることも非常に珍しい。
おそらくお嬢様は夕方に何があったのかを私に話してくれるのだろう。
そして、わざわざ私を部屋に呼ぶということは、それは非常に大事な話に違いない。
今すぐにでもと訴えたが、長くなるから先に用事を済ませてほしいと言われてしまった。
旦那様は、一介の執事に頼むにしては少々重要な屋敷の仕事をいくつか私に任せており、たまに手伝いをしているのだが、今日はお嬢様のあの言葉が頭の中をぐるぐると回るばかりだ。
どうせ集中できずに進まないのだから、明日に回そうと早々と仕事を切り上げて、お嬢様の部屋に駆け足で向かう。
「お嬢様、私です。入ってもよろしいですか?」
ノックした扉の向こうから「うん」と小さな声が聞こえる。
扉を開けると、ちょうどベッドに寝ていたお嬢様が手を伸ばして、側のテーブルにある小さなライトに明かりをつけたところだった。
「来てくれてありがとう。…あまり明るくしたくなくて…これで足元見える?」
「大丈夫ですよ。それより具合は大丈夫なのですか?」
お嬢様の部屋は物が少ないし、床に服やゴミが散らかっているということもないため、明かりがなくてもベッドまで簡単に辿り着ける。
ベッドから三歩ほど離れた位置に立ち、お嬢様の様子を伺おうとすると、彼女も私の顔を見上げていた。
「もうちょっと近くで話したいの。ここに座ってもらってもいい?」
「…はい」
動揺を隠して返事をする。
お嬢様はブランケットに包まったまま少しだけベッドの隅に寄り、シーツの上に空白を作る。
そこに座れということだろう。
必要な時以外は決して私に近付こうとしないお嬢様からこんな要求があるとは本当に珍しい。
「…しかし、私なんかがいいのですか?」
「いいから早く」
年頃の少女が寝ているベッドに腰掛けることに戸惑うが、意外にもお嬢様は気にしないらしい。
ぎこちなくベッドの端に腰をおろす。
お嬢様とこれほど距離を縮めたのは何年ぶりだろうか。
お嬢様が屋敷に来たばかりの頃は、何度か夜中に泣いている彼女を抱き締めて慰めたことがあった。
もちろん、お嬢様が私を呼んだ訳ではなく、適当な理由をつけて夜に彼女の部屋を訪れると、彼女が枕に顔を埋めて泣いていることがしばしばあったのだ。
父親を亡くした寂しさや、この屋敷で「お嬢様」として暮らす不安を、あの頃の彼女は腕の中で涙まじりに打ち明けてくれた。
「お、お嬢様?」
「少しだけじっとしてて」
つい昔を懐かしんでいると、突然腰に白い腕が巻きついて体が硬直する。
背中に何か柔らかいものが当たっている。
甘い香りが鼻をくすぐる。
お嬢様の細い指が何かを探すように彷徨っていたが、膝の上に置いていた私の両手を見つけると、それに絡みついた。
「大きな手…」
私の手を握りながらぽつりとお嬢様が呟いた。
もしかしたらお嬢様は熱があるのではないだろうか。
私の背後にいる少女は、私の知るお嬢様とは思えない行動ばかりしてくる。
「駄目、じっとしていて」
うしろを振り向いて本当にお嬢様本人か確かめようとすると、前を向くように命じられる。
少し冷たさを感じるこの声は間違いなくお嬢様のものだ。
あとで額に手を当てて熱を計ってあげないといけない。
お嬢様が私の背後で微かに動くたびに布擦れの音が聞こえて変な気分になってしまう。
場所が場所だから仕方が無い気もする。
背中にお嬢様の吐息が伝わってくるし、部屋のあちこちから良い匂いがするし、まるで私まで発熱したかのようぼんやりとしてしまう。
お嬢様は私の両腕を掴んで背後に持ってくると、手首に何か細いものをぐるぐると巻きつけた。
「…できた」
「えっ!?」
お嬢様の一言で、邪な考えから一気に現実へ引き戻される。
背後でまとめられた手首が何故か動かない。
お嬢様の命令を無視して後ろを振り向くと、手首に紐が巻かれ、さらにその紐がベッドヘッドに巻きついているという理解し難い光景を目にした。
お嬢様は私に抱きつくふりをして巧妙に手首を縛っていたのか。
見事な色仕掛けだ、なんて感心している場合ではない。
「あの…お嬢様?どういうつもりですか?」
「手、痛かったらごめんなさい。でも暴れなければ平気だと思うから」
お嬢様はベッドの上に起き上がって座ると、ブランケットをベッドの下に邪魔だとばかりに放り投げた。
「何をするつもりです?」
「次は靴を脱いでベッドに両足を乗せてほしいの。私がやった方がいい?それとも自分でやる?」
語気を強めて問い掛けるが、お嬢様はひるむことなく強気な口調で次の動きを命じる。
お嬢様に足にまで何かされるかもしれないという可能性を考え、自分で渋々と靴を脱いでベッドに両足を乗せる。
「ありがとう」
満足げに礼を言うお嬢様は何の躊躇いもなく私の体を跨いで膝の上に座った。
とてつもなく嫌な予感がする。
手首に巻かれた紐を解こうと力任せに腕を動かすが、かなり頑丈に縛っているのかびくともしない。
「何をなさりたいのかそろそろ説明して頂きたいのですが」
「今からあなたを襲うの」
お嬢様の口から放たれた言葉は、宣言するというより、自分に言い聞かせているように感じた。
「…冗談でしょう?」
「残念だけど本気よ」
お嬢様は私の上に跨ったまま、寝間着のワンピースを腹までたくし上げると、するりと脱いでしまった。
白い下着のみを身につけたお嬢様の姿が目に入り、慌てて顔を逸らす。
「悪ふざけもほどほどになさらないと怒りますよ!」
私が声を荒らげるのも気にせず、お嬢様はキャミソールとブラジャーを脱ぎ捨て、床に投げた。
「抵抗しても逃げようとしても無題よ。私、その時は大声で叫ぶから。部屋に鍵がかかっていないのは、あなたが一番良く知っているでしょう?」
お嬢様は下半身を隠す最後の布すらも取り去ってしまった。
お嬢様が脅しではなく本気で言っているのが今までの付き合いから嫌でもよく分かる。
お嬢様が大声を上げればすぐに人が駆け付け、全裸のお嬢様と縛られている私の姿を見ることになり、私が襲われている状況であっても私は屋敷を追い出されるだろう。
「あなたは私の執事で、私はあなたの主人でしょう?立場は私の方が上よね?」
「…ええ」
「私があなたに命令をしても、あなたは文句を言えないわよね?」
「そうなりますね」
「なら、大人しく私に抱かれて」
お嬢様は私に命令らしい命令をしたことがなく、ましてや立場を盾にして無茶を言うだなんてこれが初めてだ。
それに冗談でこんなことをする子ではない。
お嬢様が心中に抱える悩みには大変な事情が絡んでいそうだ。
「…何があったんですか?」
次々とあり得ないことばかり起きるが、まずは深呼吸をして心を落ち着け、原因を突き止めるために努めて冷静に尋ねる。
「私、結婚するみたいなの」
お嬢様はまるで他人の話でもするかのように軽い口調で言った。
「結婚?」
お嬢様の裸を見ないように目を逸らしていたが、思わず彼女の方へ向き直る。
「今日、おじい様に突然話されたの。私の知らないところでどんどん話が進んでいたみたいで…やっぱりあなたも知らなかったのね」
知らなかった。
旦那様は比較的なんでも私に話してくれるのだが、そんな話は一切知らない。
「いつもの冗談ではないのですか?」
側で聞いている方は冷や冷やするのだが、旦那様は気に入った青年を見つけると、すぐさまお嬢様に結婚相手にどうかと冗談で勧め、そして彼女は笑って受け流している。
その冗談から話が進んだことは一度もないし、お嬢様に本格的な縁談の話が舞い込んでも、旦那様は「リザにはまだ早い」とすぐに断ってきたのだ。
「今回は本当なの。来年の夏に式を予定しているって」
「そんな…」
来年の夏だなんて、すぐではないか。
少し前に、旦那様の古い友人が、お嬢様と年の近い孫を連れて屋敷に遊びに来たことがあるが、相手はあの少年か?
あいつはお嬢様に一目惚れをしたらしく、出会ってすぐに自らの趣味や将来の夢などを熱心に彼女に語り、今でもたまに手紙を寄越す邪魔で仕方のない存在だったのだが、あいつなのだろうか。
「すごく驚いて、なんだか今も実感がないんだけど…。今まであまり考えないようにしていたけど、いつか、私は結婚して、あなたも誰かと結婚して…今の生活ってずっと続くわけじゃないのよね」
なぜ私の結婚の話まで出てくるのか疑問だが、お嬢様が結婚してしまうかもしれないという話で頭がいっぱいで、そちらを考える余裕はない。
「お嬢様は…どうなさるおつもりなんですか?」
「どうって?」
「結婚の話をこのまま進めて良いのですか?反対はしなかったのですか?私も僭越ながら旦那様に考え直せないか訴えを…」
「結婚は…驚いたけど嫌じゃないの。突然だったし、おじい様が今まで何も言ってくれなかったことはショックだけど、おじい様のことだから私が幸せになれる話だから進めたんだと思う」
結婚は嫌ではないというお嬢様の言葉に、彼女の悪い癖が出てしまっていると心中で舌打ちする。
「今すぐは無理だけど、きっと相手の方も好きになれると思うし…。私の結婚がお屋敷のためになるなら嬉しいし、私はそれくらいしか役に立てないし…」
この屋敷のためになることがお嬢様の幸せなのだろうか。
お嬢様は腹立たしいほどに自分の意思を殺してしまう人間だ。
屋敷に来たばかりの頃、お嬢様は、今まで貧しい暮らしをしてきた自分が名家の娘に相応しい訳がないと泣きじゃくっていた。
あれから数年、「お嬢様」らしくあるようにと彼女が出した答えが、自我を捨てて屋敷のために有利に動くことなのだろう。
この人形のような主に、自分の気持ちを第一に優先しろとどう説教すれば伝わるのか考えていると、お嬢様の指が私の頬にそっと触れた。
「でも…わがままだって呆れられるかもしれないけれど、初めてはあなたがいい…」
お嬢様の声は震えており、彼女が泣いていることが分かる。
「それから、今夜で自分の気持ちに決着をつけたい。ちゃんとほかの人のことを好きになれるように、未練を残さないようにしたい…。だからお願い、今晩だけ言うことを聞いて…」
頬に両手を添えて私に正面を向かせると、お嬢様は切羽詰まった瞳で痛いほど真っ直ぐに私を見つめる。
お嬢様の涙ながらに懇願に困惑する。
お嬢様の淡い好意には気付いていたが、まさかこれほどに熱を持ったものだとは思わなかった。
「お嬢様…」
お嬢様が瞬きをするたびに頬を伝う涙を拭おうとして、手を縛られていることを思い出す。
雫になった涙が顎から零れ落ちて胸元を濡らしている。
お嬢様が裸だということも思い出して、再び急いで目を逸らした。
襲うだとか、結婚だとか、好きだとか、一度にあまりにいろいろなことがあり過ぎたが、とりあえず冷静になるべきだ。
それにこの体勢が続くようではいろいろ危ない。
「お嬢様、まずは落ち着きましょう。服を着てください。それからこの紐を解いてくれませんか?」
「…嫌」
「結婚の話で混乱してしまっているのですよ。らしくないことはやめましょう」
「だから、嫌」
「こういった形で行為に及んでいいわけがないでしょう。もっと自分を大事にしてください」
「絶対にやめないから。今しかないもの。今あなたに逃げられたら、あなたは二度と私にこういうことをさせないでしょう?」
お嬢様は一度言い出すと絶対にやめようとしない。
頭が痛くなってきた。
私が言い返そうとする前に、お嬢様は強引な行動とは裏腹に恐る恐る私の頬に口付けた。
そこで、ふと初歩的かつ一番重要なことに気が付く。
「お嬢様は…その、方法を知っているのですか?」
「え?知ってるわよ」
当然のように言い切るお嬢様の姿に眉を寄せる。
「キスをしたり手を繋いだりしただけでは子供はできませんよ?」
「それくらい知ってます!何のために服を脱いだと思ってるの!」
馬鹿にされていると思ったのか、お嬢様は顔を真っ赤にして反論する。
お嬢様は性的なことに関しては完全に無知だろうと思っていたため、一応確認をしただけなのだが。
「昔、父の本で読んだことがあるもの。それから、お屋敷でメイドさん達がそういう話をしているのを偶然聞いたことがあるし」
お嬢様は胸を張って言うが、父親の本とは動物の交尾とかそういう実践では何の役にも立たないものではないだろうか。
それから、色事に関する話題を少し小耳に挟んだだけで実行に移せるほどお嬢様は器用ではない。
私の心配をよそに、お嬢様は私の首筋に唇でそっと触れる。
本当に触れているのか疑いたくなるほど遠慮がちな口付けで、愛撫にはほど遠い。
お嬢様の性行為に関する知識は不安だが、ひょっとするとこれが私の逃げ道になるかもしれない。
やり方が分からなくなったお嬢様は私に助けを求めるに違いない。
その時にまた説得をすればいいし、方法を教えなければ先に進めなくなったお嬢様は諦めるほかないだろう。
だからその時まで耐えようと腹に力を入れる。
お嬢様の唇が肌を滑るだけで体が異様に熱くなるから非常にまずい。
耳、頬、首など、服から露出している部分に口付けを終えると、お嬢様は膝から降りて、私の前で四つん這いになる。
何をされるのかと冷や冷やしながら眺めていると、お嬢様がベルトに手を掛けたものだから目を丸くする。
「お嬢様っ!?」
お嬢様がベルトを外そうとあちこちを引っ張り奮闘する度に、誘うように胸や尻が揺れるのは勘弁してほしい。
さらに、見るからになめらかな肌で構成されているこの体が先程まで私の体に触れていたのだとふと気付いてしまって、もう地獄だ。
不慣れな手つきで、ものすごく時間を掛けて、お嬢様はベルトを外してしまった。
そして一度躊躇ったあと、自分を奮い立たせるように深呼吸をし、お嬢様はズボンを掴むと下着ごと勢いよく下に引っ張った。
今までの人生の中で一番最悪な瞬間だと言っても過言ではない。
「うわ…」
「…何故そんな嫌そうな声を出すのですか。傷付きます」
「あ…ごめんなさい…。初めて見るから驚いたの」
私の雄はすっかりと反応してしまっていた。
お嬢様の先ほどの愛撫とも呼べない下手くそな口付けを普通の女性がしたのならば何も感じないだろうに。
直に触れられたわけでもないのに熱くなっている情けない自身が、お嬢様の目の前に隠しようもなく晒されている。
まじまじと見つめるのはやめてくれと絶叫したい。
「や、優しくするから」
それは普通は男が言う台詞だ。
何を言い出すのかと眉をひそめると、お嬢様はおずおずと私のものを掴むと、その上に跨った。
私が気を失って倒れてしまっても、誰も私を責めることはできないだろう。
「…何をなさるおつもりですか…」
「…いれたいの…」
どうやらお嬢様は挿入をしたいらしいが、彼女のしていることは私自身の先端を茂みの奥に悪戯に擦り付けているだけだ。
「お嬢様…こういう行為には順序というものがあるのです」
「え?固くなってるから大丈夫よね?」
真剣な顔で聞き返すお嬢様を、場違いながら心底可愛いと思ってしまう。
「…もしかして、私の裸では興奮しない…?」
何を考えたのかは分からないが、ふとお嬢様が悲しそうに顔を歪める。
「まさか。お嬢様は大変魅力的で目が眩むほど綺麗ですよ。って、そういう問題ではなくてですね…。性行為には女性にも準備がいるのを知っていますか?」
先程から先端はまったく濡れていない部分に触れるが、そこに上手くはいる訳がない。
ましてやお嬢様は処女だ。
「私は大丈夫だから」
「何を根拠に大丈夫だと言っているんですか!それから、お嬢様はそれをどこにいれるのかを知ってるんですか?」
「今、探してるの…」
お嬢様が探し当てるまでに朝が来てしまうだろう。
やめるよう言いたいが、私のものを掴んだまま腰を揺らすお嬢様を下手に刺激して、むきになりやすい彼女がさらに大胆なことを始めたら困る。
お嬢様の手の中にある自身は検討違いな場所を擦るばかりだが、こちらは堪らなく気持ち良い。
意識を逸らそうとしても、お嬢様が体を動かすたびに私の目の前で形の良い乳房が揺れ、つい誘惑に負けて魅入ってしまう。
はあ、と息を吐くお嬢様の頬は赤く、額にはうっすらと汗が浮いている。
あの清楚で真面目なお嬢様が、熱を帯びた雄を掴んで、男を知らない場所に何度も擦り付けているなんて、あまりに淫らで思考が霞む。
ただ擦り付けられているだけではもう物足りない。
自身に絡みつく指の力はもう少し強くても良い。
手首を縛られていなければこの体に触れるこができる。
つい先程まではやめさせる方法を探していたのに、今は快楽を求めようとする考えがじわじわと頭を侵略する。
「…んん…っ」
お嬢様が突然、甘さと驚きの混じった声を上げる。
先端が偶然、彼女の敏感な芽を突ついてしまったらしい。
「…やだ、私、今、変な声出して…。…い、今の何?」
体に走ったであろう未知の感覚に驚いたのか、お嬢様が不安を滲ませた顔で、助けを求めるように私を見つめる。
私を襲おうと艶かしい姿で腰を揺らしているくせに、それに不似合いな幼いことを口にする。
こういう愛くるしい姿をいつか結婚相手にも見せるのだろうかと考えると、嫉妬のあまり気が狂いそうだ。
本当はお嬢様を抱きたいくせに、いつも通りの執事であろうとしている自分が急に馬鹿馬鹿しく思えてくる。
今まで必死に抑え込んでいた感情が溢れ出す。
ああ、もう駄目だ。
ここまで来てしまえばどうせもう後戻りなんてできないのだから、理性を保つ必要などない。
「お嬢様、紐を解いてください」
「や、やだってば」
「抵抗も逃げもしません。なかなか見つからないのでしょう?私がお嬢様の手助けをします」
「え?」
急に態度を変えた私を見て、お嬢様は目を丸くして驚く。
「机の上に鋏があるでしょう。それで紐を切ってください」
「あ…うん」
私の切羽詰まった声を聞いて、お嬢様は慌ててベッドを降りて鋏を取りに行った。
鋏を持ってきたお嬢様は、わずかな明かりの中で私の手首に傷がつかないように丁寧に紐を切ってくれているのだが、焦れったくて早くと言いたくなる。
「切れた。…ごめんなさい。手首、痛くない?」
「大丈夫です。お嬢様、鋏は危ないのでテーブルの上に置いてください」
お嬢様が鋏を置いたのを確認すると、彼女の体を膝の上に抱き上げて腕の中に閉じ込める。
何が起きたのか分からないのかお嬢様は小さな悲鳴を上げて驚く。
「お嬢様…本当にあなたは無理をする」
柔らかい体に痛いほどきつく腕を絡めたあと、まだ涙の跡が残る頬に両手を添え、お嬢様と視線を合わせる。
「お嬢様、ずっとお慕い申しておりました」
「…嘘でも嬉しい。ありがとう」
本気と捉えていないのか、お嬢様は困ったように笑う。
「嘘ではありません。愛しています」
熱っぽく告げるとお嬢様の表情が固まる。
今度こそやっと伝わったのか、お嬢様が涙目になりながら私を見つめ返す。
「鈍感ですね。知らなかったのですか?」
「全然…あなたは私なんか眼中になくて、ほかの人を好きだと思っていたから」
どこから仕入れた情報か気になるが、今はそんなことはどうでもいい。
お嬢様が逃げられないように頬に手を添えたまま軽く口付け、彼女が薄く唇を開いた隙を見計らって、荒々しく舌をねじ込む。
お嬢様の舌の形を丁寧になぞりながら執拗に絡め取ると、彼女は助けを求めるように私の手首を掴んだが、無視をした。
ずっと秘めてきた想いを打ち明けた今、欲望の箍も外れてしまったようだ。
呼吸をする暇をたまに与えて何度も口付けを繰り返し、お嬢様が身を震わせて感じ入る様になった頃に、名残惜しいがようやく解放した。
「どうでした?」
「…さっきみたいに変な感じ…」
お嬢様は私の肩にもたれ掛かると、熱を帯びた吐息と共に答える。
「順序があると言ったでしょう。女性も気持ち良くならないと上手くいかないのですよ」
お嬢様の体をベッドに優しく横たえる。
ジャケットとシャツを脱ぎ捨て、お嬢様の上に荒々しく覆いかぶさる。
「そ、そんなこと本に書いてなかったんだけど」
「常識です」
反論しようとするお嬢様の耳を口に含むと可愛らしい声が上がる。
いつもブラウスやスカートの上からお嬢様の体の線をなぞり、どのような形をしているか思い描いたことがあるが、実物は想像より遥かに綺麗だ。
肩や腕は頼りなさを覚えるほど細いけれど、胸や尻は大人の体になるようしっかりと成長していて、その円やかな線をうっとりと眺める。
触れてみたかった場所に舌で舐めてさらに指を食い込ませて、まるで獣のように貪っていると、お嬢様が私の胸に手を当てた。
お嬢様は私を押しのけようとしているのだと気付き、胸の突起をなじるのをやめて軽く体を浮かせる。
「お嬢様?」
「あ、あの…っ」
お嬢様の表情に明らかに怯えが浮かんでいた。
私を襲おうとしていた最初の威勢の良さはどこにも見当たらない。
「怖くなりましたか?」
「そうじゃないの…ただ、今のあなたは知らない人みたいで…」
お嬢様に付き従ういつもの私ではなく、欲望の赴くままに行動する私を見て怖くなったのだろうか。
「最初に始めたのはお嬢様でしょう?」
今さらやめるつもりはないし、逃がすつもりもない。
胸に当てられた白い指を手に取って指先を軽く噛むと、お嬢様の顔に浮かぶ不安の色が濃くなった。

「…やっぱりこの格好、恥ずかしいんだけど…」
お嬢様は消え入りそうな声でそう言うと、何とか足を閉じようとするが、結果的には私の頭に太ももを押し付けるだけだ。
「これが普通なんですよ」
「…信じられない…っ」
ひっそりと隠れている敏感な芽を指先で撫でると、お嬢様の中に滑り込ませた指がきつく締め付けられるのと同時に潤いが増す。
男を知らなければ自慰もしたことのないお嬢様は、自分の体を抱き締めるように腕を自らの体に回し、初めて味わう快楽に耐えていた。
真っ白な喉を仰け反らせて甘い声で鳴くお嬢様に見惚れる一方で、彼女に対する己の勝手な怒りがふつふつと沸き起こる。
「お嬢様は何故もっと自分の気持ちを優先なさらないのですか」
「え…?」
「私には、お嬢様は自分の幸せのためではなく屋敷の幸せのために結婚をするように聞こえたのですが」
「…そうかもしれない。屋敷のためになれば私は嬉しいもの」
やはりお嬢様は自分の感情を無視してしまっている。
これからは、先程私を襲おうとしたように、もっと自らの意思を主張して行動するように教育しなくてはいけない。
明日の朝一番に、結婚を取りやめるよう旦那様の元に訴えに行くつもりだった。
私はただの執事でしかないが、何故か旦那様に屋敷の仕事まで任されている私の発言に影響力がまったくないわけではない。
それに、お嬢様を本当に可愛がっている旦那様が、彼女が結婚のことで思い悩んでいると知れば考え直してくれるだろう。
今まで旦那様のお気に入りという私の立ち位置を使って何かを行ったことなどなかったが、今回は最大限に利用して何が何でも結婚を白紙にしてみせる。
そしてこれからも、屋敷に有益か否かを考えずに、お嬢様が心から結ばれたいと思う相手が現れるまで、邪魔者を排除していくつもりだ。
お嬢様を愛し、そして彼女の側から離れたくない私が、彼女の幸せを純粋な目で見極められるかどうかは分からないが。
「お嬢様が望まない結婚をさせられるのなら、私がお嬢様を攫って逃げます」
今の立場を有効に利用するつもりだが、いざとなればこの位置を捨てても構わない。
しかし、お嬢様は、何を馬鹿なことを言っているのと喘ぎ混じりに呟く。
冗談だと思われているようだが、私は大真面目で、お嬢様をほかの男の元に送り出すつもりなどない。
私以外の男が、こうしてお嬢様を組み敷いて触れるだなんて、考えるだけで吐き気がする。
「お嬢様は今晩私に抱かれればそれで満足なのですか?」
「…多分…」
歯切れの悪いお嬢様の答えが私を苛立たせる。
私は今晩だけでは満足できるわけがないし、むしろ今夜を境に堰を切って溢れた想いが止まらず、毎日でもお嬢様を求めてしまいそうだ。
想いが一致しない苛立ちに任せて、先程から執拗に愛撫していた突起を少々乱暴に押しつぶすと、お嬢様は悲鳴と共に背を反らして軽く達した。
「…びっくりした…」
お嬢様の乱れた髪を撫でて彼女が落ち着くのを待っていると、お嬢様は縋るように私の首に腕を回した。
突然の絶頂に驚いたお嬢様は顔を強張らせていたが、私がこめかみに口付けると、彼女は安心したように微笑む。
お嬢様は私を信頼し、完全に私に身を委ねてくれているのに、何故優しくできないのかと後悔に襲われる。
「お嬢様…本当に私で良いのですか?」
「何を言っているの?」
お嬢様を優しく扱えるのだろうかと不安を覚えるが、彼女は不思議そうな顔を浮かべる。
「……あなたじゃないとやだ」
お嬢様は私の耳元で小さな声で呟いて、首に回した腕に力を込めて私を抱き寄せる。
お嬢様は私に甘い。
そして、その甘さに付け込む私はずるい男だ。
「では…いいんですね」
お嬢様が探すことのできなかった場所に、先程よりさらに熱を増した雄を押し当てると、彼女の体がわずかに強張る。
「うん…大丈夫」
「痛かったらすぐに言ってください」
「分かった」
お嬢様は私の背中にきつくしがみつき、怖いのを隠すように目を閉じた。
呼吸を忘れてしまうほど慎重に、丁寧にゆっくりとお嬢様の中に入り込む。
途中でお嬢様が辛そうな声を漏らし、無意識のうちに私の背中に爪を立てたために、一度引き抜こうとすると、彼女は「やめないで」と必死に訴えた。
不安を覚えつつも、たっぷりと時間を掛けて全部を埋める間、苦しくて仕方ないだろうに、お嬢様は「痛い」と一言も口にしなかった。
「お嬢様…大丈夫ですか?」
額に冷や汗を浮かべているくせに、お嬢様は力なく頷く。
平気だと振舞っていても、固く閉じた目からはぼろぼろと涙が溢れている。
お嬢様の中は私を拒んで押し出そうとするようにあまりに狭くて、少しでも動いたら壊れてしまいそうだ。
お嬢様の中で動いてしまわないように気遣いながら、そっと腕を下半身に伸ばす。
気休めにすらならないかもしれないが、少しでも痛みを紛らわせたくて、先程散々いじめた茂みの中の粒にもう一度触れる。
しばらくそうしていると、不規則に酸素を貪っていた呼吸が落ち着き、そして私に絡む熱い肉にだんだんと潤いが増してきた。
「…ね、動かないの…?」
お嬢様が久しぶりに発した言葉には、行為特有の甘さは微塵も感じられない。
それなのにお嬢様は、その苦しげな声に似合わないことを問い掛ける。
「動くものなんでしょう?本にそう書いてあったもの」
余計なことを書いたその本が心底憎い。
しかし、火傷しそうなほど熱い肉にきつく包まれたまま動かずじっと耐えているのも、実はそろそろ辛い。
「私は大丈夫だから…」
お嬢様はどうして最低な男に付け込ませる甘さを見せるのだろうか。
平気なわけがないのは一目瞭然だが、お嬢様が決して痛いと言わないのをいいことに、私は腰を突き動かした。
「…あぁー…っ」
お嬢様は歯を食いしばり、私の背中を何度も爪で引っ掻いて痛みに耐えている。
お嬢様が苦痛に喘ぐ声すら背筋をぞくりと震わせるからもう重症だ。
年の割に経験豊富で、がつがつと女性を貪る時期などもう遠に過ぎたと思っていたが、これでは快楽を覚えたての少年のようだ。
低く呻いて、お嬢様の中から自身を取り出し、彼女の腹の上に思いきり欲をぶちまける。
荒い呼吸を繰り返しながら、解放されてもなお痛みに震えるお嬢様を抱き寄せようとした時、はっと我に返る。
「お嬢様…申し訳ありません!」
「え…?」
自らの快楽だけを求めて抱いて、さらに彼女の体に精液を掛けるなんて、執事としても男としても最低だ。
しかし、ずっと一定の距離を保って守ってきた少女を自らの精で汚したことに興奮を覚えたのも事実だ。
「今、タオルと水を…」
「やだ…待って」
慌てて体を拭くものを取りに行こうとすると、私の腕をお嬢様が掴む。
お嬢様は体を起こそうとしたらしいが、下腹部が痛むのか顔を歪め、私は急いで彼女をベッドに寝かせる。
「もう少しでいいから…まだここにいて」
どこにも行かないでと、お嬢様は今にも泣きそうな顔で私を見上げた。
「少しではなく、お嬢様が望む限りずっとここにいますよ」
体を起こすことができないお嬢様に寄り添うようにベッドに横になると、彼女は私の胸に頬を擦り付ける。
「…お嬢様、申し訳ありませんでした」
お嬢様の体を労わることなく、欲望の赴くままに乱暴に抱いてしまったことを謝ると、彼女は首を横に振る。
「謝らないで。謝らないといけないのは私だから。ごめんなさい。…それから、わがままを聞いてくれてありがとう」
健気なお嬢様が愛おしく、性懲りもなく無理をさせた体に触れて抱き寄せると、彼女は嬉しそうに微笑み、しかしそれから彼女は口を閉ざしてしまった。
あと数時間も経てば朝がくる。
あとでお嬢様に避妊薬と鎮痛剤を飲ませて、体を綺麗に拭いて、目が腫れないよう冷やして、
それからシーツを替えないといけない。
そう冷静に考える一方で、お嬢様をほかの男には絶対に渡さないというどす黒い感情が心中で煮えたぎっていた。

お嬢様は体調が優れないという理由で朝食の席には出ず、今も部屋で眠っている。
結婚を取り止めるように旦那様を説得しに部屋に出向くと、「ちょうど良かった」と彼にいつものようにちょっとした仕事を頼まれた。
私が話を切り出そうとするより先に、旦那様が「そういえば」と口を開く。
「昨日、リザに『結婚でもしてみる?』って言ったら、すごく悲しい顔されちゃったよ。冗談だったのになあ。そんなに結婚が嫌なのかなあ」
普通は年頃の女の子って結婚に憧れるよねえと、旦那様は手に顎を乗せて溜息をついた。
「は?え?…冗談?」
まさに今取りやめるよう説得しようとしていた話を先にされ、それからそれを「冗談だった」と聞かされ、思わず間抜けな声を出してしまう。
「あれ?マスタング君、何かリザから聞いたの?もしかして本気にしてた?」
「とてつもなく本気にして悩んでましたよ!」
「冗談だったんだけどなあ…悪いことしちゃったよ」
悪びれることなく笑う旦那様を見て確信する。
嘘だ。
旦那様は冗談ではなく、あの内気なお嬢様を焚き付けるように、さも本当に行うかのように深刻に結婚の話をしたに違いない。
「リザに嫌われちゃいそうだから、しばらく結婚の話はやめておこうかな。…そうそう、マスタング君、結婚と言えばね」
「何でしょうか」
「前にアームストロング君のところのお茶会に、わしとリザと君でお邪魔したでしょ。君、あの時仲良く話していたあの家のメイドと恋仲なんだってねえ。もうプロポーズの言葉も考えて夜な夜な部屋で練習しているって噂になってるよ」
手にしていた資料の束をばさばさと床に落としてしまった。
あまりに驚き過ぎて声も出ない。
「まさか…それ昨日お嬢様に…」
「笑い話になるかと思って話してみたんだけど、すべったよ。マスタング君のせいだからね」
何故私のせいなのか。
無駄にきらびやかなアームストロング家のお茶会にお嬢様の執事として参加して、アームストロング家に代々伝わる様々な芸をうんざりするほど見せられたのは覚えているが、メイドなど知らない。
プロポーズの言葉も部屋での練習も、もちろんまったく身に覚えがない。
しかし、おそらく旦那様は、私がそのメイドとやらにプロポーズするかもしれないというニュアンスでお嬢様に話したのだろう。
だからお嬢様は「あなただっていつか結婚する」などと言い出したのだ。
「わしは耳がいいからねえ。椅子に座っているだけでいろいろと聞こえてくるんだよ」
「…そんな馬鹿げた噂、どこから聞いたのですか」
「どこだったかなあ。耳はいいんだけど、年のせいか最近物忘れがひどいんだよねえ」
愉快そうに笑う旦那様が憎たらしい。
どうせ噂は旦那様の適当な作り話だろう。
何が年寄りだ。
元気が有り余り過ぎていて、こうして若者をからかって遊んでいるではないか。
一度旦那様を怒鳴りつけたい衝動に駆られるのと同時に、この老人は私とお嬢様のことをどこまで把握しているのか考えると怖くなる。
まさか、タヌキと呼ばれる旦那様も、さすがに昨晩のことには気付いていないだろう。
そう願うしかない。
動揺を悟られないように、旦那様に背を向けて床に散らばった資料を拾う。
「リザは否定するってことを知らない子だから、結婚相手を探すのには時間が掛かるだろうね。駆け落ちはもうごめんだけど、そうしてまで一緒にいたい相手と結婚してほしいよ、わしは」
やはり旦那様は、屋敷のためにお嬢様を差し出すわけではなく、純粋にお嬢様の幸せを考えて結婚させるつもりらしい。
そんなことは落ち着いて考えればすぐに分かることなのだが、昨晩は私もお嬢様もそれに気付けないほど焦っていたようだ。
「リザは君を気に入っているみたいだし、わしの仕事を手伝えるし、マスタング君ってちょうどいいんだけどね。勝手に花婿候補に入れようかなあ。でもやっぱりマスタング君に可愛い可愛いリザは勿体無いかなあ」
私を見て楽しそうに笑う旦那様は、どこまで見透かしているのか分からず恐ろしい。
気まぐれで私をからかっているのか、それともただの執事である私にチャンスを与えているのか、さっぱり見えてこない。
しかし、この老人に探りを入れる前にするべきことがある。
「旦那様、急に腹痛が…。少し休ませて頂いても構いませんか?」
明らかに見え透いた嘘だが、旦那様は「はいはい、お大事にね」と言うだけで特に気にした様子はない。
資料を適当にまとめて部屋を飛び出す。
お嬢様に、すべては旦那様の嘘だったのだと早く教えなくては。
「お腹が痛いなら廊下走るのは駄目だよー」という声が扉の向こうから聞こえたが、構うことなくお嬢様の部屋を目指して駆け出した。







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