「…煙草の匂いがします」 「何か手伝おうか?」と腕まくりをしてキッチンに入ると、目だけを動かして私を見上げた少女は顔をしかめて、返事ではなく文句を口にした。 「…におう?」 「くさいです」 腕の細い少女が扱うには少々大きい鍋を洗いながら、リザはさらりと傷付くことを言う。 腕を持ち上げてシャツの匂いを嗅いでみる。 確かに言われてみれば臭うかもしれない。 数年前、義母に引き取られた時に少々荒れていた私が覚えたのは女性の柔らかさと酒と煙草の味だった。 錬金術を学び、そして軍人になって人々を守りたいという夢ができた今は、それらからはすっかり距離を置いていた。 今日はたまたまズボンのポケットに入っていたずいぶん前の煙草をふと見つけて、ほんの気まぐれで吸ってしまったのが、まさかリザが気付くとは思いもしなかった。 「…健康に悪いですし、マスタングさんの年齢で煙草は少し早い気がします」 「心配してくれてるの?」 「違います。父に知られたら大変という意味です」 「…師匠のところに行く前にシャツだけでも着替えようかな…」 相変わらず取っ付きにくい子だと苦笑する。 可愛げというものがまるでない。 いつも無表情で必要以上のことは口にしないし、落ち着きすぎていて子供らしさを感じさせないリザは、さすがあの師匠の娘といったところか。 リザは私に恋愛感情を抱いているように思うのだけれど、私に言い寄ってくる女性達と違って彼女は好意を決して表に出そうとはしない。 「…確かに煙草は駄目だな。嫌われるんだ」 ふと、リザをからかう方法を思い付いて、私の存在など気にせず鍋を洗い続ける彼女のすぐうしろに立つ。 「煙草の味のキスは苦いらしくて、いつも怒られる」 「…そうですか」 リザの表情がわずかに強張る。 嫉妬したのかどうか分からないが、リザが何かを思ったのは確かだ。 「どれくらい苦いか試してみる?」 「え…っ」 リザの手からスポンジが落ちた。 珍しく動揺したリザの顔を見ようと腰を屈めて覗き込むと、彼女の顔が真っ赤に染まっていた。 滅多にお目にかかれない年相応のリザの表情を見ることができた嬉しさと、いたずらが成功した楽しさから思わず吹き出すと、彼女は顔を赤くしたまま振り返って私を睨む。 「ごめん、冗談だよ」 リザはまだ子供だけれど、顔の整った綺麗な女の子に好意を寄せられるのは悪い気分ではない。 「リザにはまだ刺激が強過ぎたかなあ」 そう、私はリザの気持ちに応えられないくせに、若さ故の傲慢さと残酷さで彼女をよくからかった。 今になって思えば、馬鹿だったと反省するばかりだ。 好かれているという優越感を満たしたかった幼い私は、リザの気持ちを考えもしなかった。 あれからずいぶんと時間が流れて、私とリザは師匠の弟子と娘という関係ではなく、上官と部下という関係になっていた。 女性を見ると口説かずにはいられない私の性格を知っている者は、「マスタング中佐はホークアイ少尉に手を出した」なんて噂をしているようだが、それはまったくの嘘で、私と少尉の関係は清いままだ。 隣に座る部下が何を話しているのかたまに聞こえなくなるほどの喧騒の中で、テーブルの向かいに座るホークアイ少尉が何を話しているのかさりげなく耳を澄ませて聞く。 「中佐のおごりで飲みに行こう」と最初に言い出した馬鹿は確かハボックだ。 もちろん施しをしてやるつもりは一切なく、部下が一丸となってしつこく私にねだっても「うるさい」と無視していたが、少尉が「皆でお酒を飲んだら楽しそうですね」とぽつりと呟いたのを聞いて、心が揺らいだ。 そして今に至る。 私の部下の中で数少ない女性である少尉の元に、潤いを求めて男どもがわんさかと集まっている。 彼らに下心がなく、いかつい男とより可愛らしい女性と酒を飲んだ方が何倍も楽しいことは十分に分かっているが、それでも少尉の周りを監視してしまう。 私が彼女に対して抱く感情は、幼かったあの時とはずいぶん変わった。 唯一の肉親である父親を亡くし、泣きじゃくるリザに対して「私を兄だと思って頼ってほしい」と言って慰め、今でもプライベートでは家族のような位置で彼女を見守っているが、私は今のまま健全なおままごとを続けるつもりはない。 少尉を取り囲む奴らを見て、私が醜い感情を燻らせているだなんて、彼女は知らないだろう。 私はこうして酒を呷りながら昔のことを思い出しているが、少尉はあの時のことを「幼少期に上官と接点があった」くらいにしか思っていないだろうと考えると寂しい。 そもそも、あの時の彼女が私に対して抱いていた感情が純粋な愛や恋と呼べるものなのかも怪しい。 閉鎖的なあの屋敷で師匠の看病をする少女の目に、外の世界からやってきた私がただ眩しく見えただけで、それを恋と錯覚したのかも知れないと今は思う。 「ね〜、ホークアイ少尉〜、どうして俺ってすぐフラれるのかな〜」 酔っ払ったハボックが少尉に絡み、彼女は慰めながらよしよしとヤツの頭を撫でる。 そういう女々しい性格がいけないんだ、馬鹿。 「気になる子いるんだよな〜。あんな可愛いし、すでに恋人がいるってオチなのかな〜。告白しないで綺麗な思い出のままでいいかなって思ったりして…」 「あ、ハボック少尉」 煙草に火をつけようとしたハボックの手を掴んだ少尉の姿を見て、思わず椅子を倒して立ち上がりそうになる。 「煙草は駄目よ。健康に良くない」 「…はい…」 「あとね、煙草の味のキスってすごく苦いらしくて、もしかしたらそれもうまくいかない原因のひとつかもしれないわ」 少尉の発言がハボックだけではなく周りにも聞こえたらしく、皆がいっせいに彼女のことを見る。 「それってホークアイ少尉の体験談ですか!?」 「詳しく教えてください!」 好奇心を丸出しにした男どもが、わっと少尉の周りに群がる。 昔の内気なリザならば私に助けを求めただろうが、今の彼女は私の視線に気付きもせずに「人から聞いた話よ」と冷静に言い返している。 「…私はそろそろ帰る。明日も仕事なんだから、お前らもほどほどにな」 「えーっ、中佐帰るんですか?」 私が椅子から立ち上がると、ハボックが残念そうな声を上げる。 「なんだ、私のいない飲み会はそんなにつまらないか」 「いーや、全然違いますって。だって中佐が帰ると…」 「それでは私もお先に失礼します。飲みすぎちゃ駄目よ」 すでに身支度を整えて私の側に控えた少尉を見て、部下達は一斉にため息をつく。 「なんで中佐が帰ると少尉も帰るんですかー」 「護衛だから当たり前でしょう」 「そういえば少尉って明日は非番じゃないですか。そんなの放っておいて朝まで飲みましょうよー」 「支払いは済ませておく。足りなかったらお前らで払え。…それから、明日覚えておけよ。特にハボック」 赤らんでいた顔を一瞬で青くした部下達を尻目に、「もうこんな奴ら相手にするな」と少尉の腕を強引に引っ張って支払いへ向かう。 「まだ残っていたかったか?」 「いいえ。十分に楽しめました」 「ならいいんだが」 「…中佐、もしかして酔ってますか?」 「どうして?」 「どうしてって…変ですよ」 店から出たあと、たわいもない話をしながら夜道を歩いていたのだが、少尉が困ったように視線を下げた。 私が少尉の手を握っていることに彼女は困惑しているらしい。 「…そうだな、酔っているかもな」 店で部下達に少尉を取られてしまって彼女とまったく話せず、その分を補うつもりで手を繋いでみたのだが、彼女は私が酔っていると判断したらしい。 「…アパートの前ではなくて、部屋まで送りますね」 私が適当に返事をすると、少尉は呆れたようにため息をついた。 煙草の話をした時に思い浮かべたのは私なのか、それとも私の知らない誰かなのか気になって、どう尋ねるべきかずっと考えていたのだが、ふと良い方法を思い付いた。 「中佐、着きましたよ」 「うん」 「…大丈夫ですか?ベッドまで運びますか?」 部屋に着いたというのに玄関に立ち尽くしたまま動かず、そして少尉の手を放そうとしない私の顔を、彼女は心配そうに見上げる。 「…少尉、実は」 「なんですか?」 「酔ってない」 少尉の方へ一歩ずつ近付くと、それと同時に彼女は怪訝そうな顔で逃げるように後ずさり、とうとう彼女は背後にある玄関の扉にぶつかった。 「…確かにあの量で酔うなんて変だと思いました」 「へえ、意外と君は私のことを見ていたんだな」 「…目に入っただけです」 「リザ」 久しぶりに少尉の名前を口にすると、ばつが悪そうに視線をそらしていた彼女が、弾かれたように顔を上げて私を見る。 「今日、ハボックから取り上げた煙草で久しぶりに休憩中に一服したんだ」 「…健康に悪いですよ…」 私が名前を口にしたことによほど驚いたのか、少尉は困惑気味に、ハボックに言ったことと同じことを口にする。 「…今度こそ本当に、煙草の味のキスがどれくらい苦いか試してみる?」 「…え?」 「次は実体験として話せるぞ」 話しながら思わず吹き出してしまう。 少尉が、あの時の彼女を見ているのかと錯覚してしまいそうなほど、まったく同じように顔を真っ赤に染まっている。 「また…またそうやってからかって…!」 顔を逸らそうとする少尉の両頬を手の平でやや強く挟み、無理やり正面を向かせる。 「中佐っ、離してください!悪趣味ですよ!あと痛いです!」 「君は本当に可愛いな」 「あなたは本当に最低な人ですね!」 「それで、試してみる?どうする?私は是非試してほしいんだが」 私の肩を遠慮なく拳で叩きながら必死で押し退けようとする少尉を物ともせず、ぐいと顔を近付けると、彼女の体に緊張が走るのが分かった。 「…に、苦いのは、嫌です…」 こういう時こそ無愛想な言葉を投げつければいいものの、消え入りそうな声で遠回しに拒否する少尉が実に愛らしい。 「実はまだ嘘をついてる」 「え?」 「本当は煙草を吸っていない。…苦くないから、いい?」 少尉が何かを口にする前に額と額を合わせると、彼女は咄嗟にぎゅっと目を閉じた。 別に取って食う訳でもないのに少尉は怯えすぎだと思う。 私の吐息が少尉の頬を撫でる度にびくりと肩を揺らして、目を閉じて固く唇を引き結んでいる姿は可哀想にすら見えてくる。 しばらくした後、私が遠ざかった気配を感じたのか、少尉は恐る恐る目を開けた。 そして少尉は手の平で鼻を押さえる。 「鼻…?」 「…悪魔に差し出された生贄みたいで哀れだったから鼻にした」 少尉はひどく安堵したのか、両手で胸を押さえて深く息をはく。 「…そこまで安心されると傷付くなあ」 「…だっていろいろありすぎて…頭の中を整理したい…」 「ああ、そういえばまだ好きって言ってなかった」 「…どうせ、嘘…」 「これは嘘じゃなくて本当。好きだよ、リザ」 大きく目を見開いて私の告白を聞いていたリザが、ふと俯いた。 つい先ほどまで私を遠ざけようと踏ん張っていた少尉が、ふらりと私の肩に寄りかかる。 「どうしてこのタイミングで…つくづく呆れます。…馬鹿、中佐の馬鹿」 「馬鹿ですまないね」 「……知っていると思いますが、私は中佐と違ってずっと前から…からかわれていたあの時から、ずっと好きです」 「えっ?そうなの?」 少尉から寄り掛かってきてくれて喜んでいたのだが、その嬉しさに浸かるのも束の間、彼女の体を引き剥がして、肩を強く掴み問い質すように見下ろす。 少尉から思い掛けず告白をされ、嬉しさより驚きが先に駆け抜ける。 「…え?知らなかったんですか?」 「知っていたわけないじゃないか」 「知らないであんなことしたんですか!?」 「うん」 「信じられない…!」 「いやあ、とりあえずキスしたいし触りたかったし…とにかく私のものにしたいという欲が抑えられなくて、好きになってもらうのは後からでもいいかなって思ってさっきはああいう展開になりました」 「『なりました』じゃないですよ!…もし私が中佐のこと好きじゃなかったら…中佐って怖い…。…ああもう、早く家に帰りたい…!」 好きなものを手に入れる時は倫理観など気にしない私のやり方は、考えていることを口に出してしまうほど少尉を驚かせたようだ。 背中に扉が当たっているからもう後ろには下がれないのに、少尉はそれでも私から離れようと再びもがく。 「帰したくない」 「嫌ですよ。帰らせてもらいます。一人になって頭を冷やしたいです」 「じゃあ私が君の家に一緒に行く」 「私の話を聞いてましたか?」 「せっかくいい雰囲気なのに君という人は…」 「いい雰囲気?私は今あなたを前にして少し恐怖心を抱いているんですけど」 「帰らないでおくれよ、少尉」 少尉の肩に頭を乗せ、甘えるようにそのまま彼女の肩に寄り掛かって「帰らないで」と何度もねだる。 「何もしないから」 「…何もしないのに私が中佐の家にいる意味ってあるんですか?」 「一緒にいたい」 普段ならば私が女性に言われることを、今は私が口にして少尉を引き留めている。 「本当に何もしないから帰らないでくれ。お願いだよリザちゃん」 「そんなこと言われても…」 わざと寂しげな声を出すと、少尉は困ったように眉を寄せる。 少尉は押しに弱いからそろそろ折れるかもしれない。 「君と一晩過ごせたら明日はバリバリ仕事できるぞ私は」 「…じゃあ…本当に何もしないなら…」 帰るなとしつこく連呼していると、渋々と少尉が頷いてくれた。 やはり押しに弱いと心の中でガッツポーズを決めつつ、それは表に出さずに「ずいぶん玄関に長居してしまったな」と爽やかに笑いながら少尉をリビングへと導く。 「何もしない」の定義を決めていないため、私が何をしたら約束を破ることになるのか非常に曖昧で、そして仮に理性がぐらついても少尉は非番だから平気だと勝手に考えていることを、彼女は一切知らない。 珍しく目覚ましが鳴る前に目が覚めた。 首だけ動かして横を向くと、私に背を向けて眠る少尉が目に入る。 少尉がすぐ隣にいると思うとなかなか寝付けなかったのだが、彼女は昨晩あまりに疲れたのかぐっすりと眠っている。 後ろ姿しか見えないけれど、私の白いパジャマを着て眠る少尉の姿を見て、ついにやけてしまう。 風呂から上がった少尉に、「君の体に合うのはこれしかない」と言ってわざと胸元が大きく開いたパジャマを渡したのだが、眼福だった。 非常に名残惜しいけれど、出勤の時間が迫っているため、少尉を起こさないようにしてそっとベッドから抜け出した。 適当にパンを頬張って朝食を済ませて、鏡の前で身支度を整えて家を出る準備を終えたあと、まだ眠っているリザの元へ向かう。 「少尉ー、寝顔の可愛い少尉ー」 「…何ですか…?」 少尉の肩を軽く揺さぶると、彼女が億劫そうに瞼を上げる。 「起こしてすまないね。行く前に声を掛けた方がいいと思って」 「…なんで中佐が…ここどこですか…?」 「ここは私の家」 「…中佐の家?…あ、そうだ…昨日…」 緩慢な動きで上半身を起こすと、少尉はブランケットごと膝を抱き寄せてその上に顔を埋めた。 「思い出した?」 「思い出しました…。私だけ呑気に寝てしまってすみません…」 「どうして謝るんだ。君は非番じゃないか」 「…中佐を起こして朝ごはん作ろうと思っていたんですけど…台なし…」 「それは次の機会に頼むよ」 「…そういえば、本当に何もなかったですね」 膝から顔を上げた少尉が、ふと思い出したようにそう言って私を見上げる。 「何もなくて残念だった?」 「いいえ。私は中佐を少し疑っていたので申し訳ない気持ちになって」 にこやかに笑いながらベッドに座る少尉を見下ろしていたのだが、私が笑みを深めると彼女は何かを察したのか表情を固くした。 「少尉は、本当に私が君に何もしなかったと思っているのか?」 「…何を言っているんですか?」 「君が知らないだけかもしれないじゃないか」 少尉は私がじっと見つめる視線の先に気付いたのか、顔を下へ向けた。 寝る前は全部しっかりと留めたパジャマのボタンが、今は上から三つ目までが外れていることにようやく気付いたらしい。 目を丸くした少尉は、今度ははだけた部分から覗く胸元にいくつか赤い痕が散っているのを見つけ、顔を青くした。 「え…っ!?中佐!?どういうことですか!?」 「眠っている女性に対しても、男の欲を満たすあんなことやそんなことはできるよ。君は柔らかかったなあ…。ああ、もうこんな時間か。遅刻しそうだからもう行かないといけないな」 「ちょっと待ってください!あんなことやそんなことって何ですか!?中佐ってば!」 少尉が問い詰めるのを無視し、猛スピードで家の中を駆け抜け、玄関の扉を閉める。 扉を閉める間際、私を追いかけようとベッドから飛び降りた少尉の姿が見えたが、パジャマのまま外に出ることはできないだろう。 アパートの階段を軽やかに降りながら、右の手の平を開いたり閉じたりして、だらしなくにやつく。 私は少尉が心配するようなことは何もしていない。 ただ、抱き締めた時に胸があまりにも柔らかかったから、少尉が寝ている間にこっそりと手の平でその柔らかさを実感して、ついでに尻と太ももにも触ってみただけだ。 胸元に吸い付いたのはただのいたずらで、そのせいで少尉が今日一日赤くなったり青くなったりすると思うと愉快だ。 少尉が可愛らしいとついついからかいたくなってしまうけれど、彼女で遊ぶのは一旦やめようと思う。 仕事を終えたらすぐに少尉の元に駆け付け、今日こそ苦くないキスを試して、どのようなものか感想を聞くつもりだ。 |