大佐が父の元で錬金術を学んでいた頃から、物を使い終わったらそれを元の場所に戻すようにうるさく言い続けてきたけれど、出したら出しっ放しにする悪い癖は一向に直らない。 彼の部屋をしばらく放置してみると、本や服やゴミなどで溢れかえって、足の踏み場もなくなるほどひどい有様になってしまう。 大佐自らが片付けをするのを待とうと思うのだが、いつもその前に汚い部屋を見るのに耐え切れなくなってしまって、掃除をしてもいいかと申し出てしまう。 せっかくの非番だというのに大佐の許可を得て彼の小さな研究室にこもり片付けに精を出している自分を客観視して、休みなのに何をやっているんだろうと思うが、だんだんと綺麗になっていく部屋を見ると楽しいのは事実だ。 開いたまま床に置いてあった本を閉じて本棚に戻そうとした時、まるで惹きつけられるように本の内容の一部に目に入り、そして違和感を覚えた。 本に載っている図とその説明文に見覚えがあったのだ。 しかし、もう一度本を凝視すると、ただ禍々しくしか見えない絵と訳の分からない記号が並んでいるばかりで、見覚えのある箇所がどこも見つからない。 ただの気のせいだったようだ。 私は父から錬金術の教えを受けたことはないし、大佐が錬金術の論文を熱心に読んでいるのを後ろから眺めても、紙に異国の言葉が綴られているようにしか思えないし、見覚えがあるわけがない。 小さな部屋にこもり、休憩を挟まずにずっと腰を屈めて掃除に励んでいたため、疲れてしまったのだろうか。 外の空気を吸おうと開け放たれた窓に近付こうとした時、急に頭がずきりと痛んで眉をしかめた。 数日前の掃除の時に感じたあの頭痛がまだ続いていた。 たまに軽くこめかみが痛む程度で仕事に支障はない。 ただ、以前もこのような頭痛に悩まされたことがあった気がして、それがいつのことなのか思い出そうとすると、いつも記憶が霧で包まれたように視界の悪い場所にいきついてしまって苛立つ。 「中尉、大丈夫か?」 「…少し頭が痛くて」 夕食後、ソファーにもたれ掛かって必死に記憶を遡っていると、大佐が心配そうに私の顔を覗き込む。 「なら横になった方がいい。ほら、おいで」 「すごく痛むわけじゃないので平気です。…大佐、聞いてますか?」 大佐は私を抱え上げると寝室に向かって歩き出し、わざわざ私をベッドの上に横たえてくれた。 別に大した頭痛ではないのに、まるで大佐が壊れ物でも扱うようにやけに丁寧に接するから気恥ずかしい。 「…ありがとうございます」 「どういたしまして。そろそろ時期がくる頃だと思っていたんだ。少し待っていてくれ」 「時期?」 大佐が何を言っているのか分からず首を傾げる。 大佐は一度寝室を出ると書斎に向かい、そして手に紙やペンなどを持って戻って来た。 「何をするんですか?」 「そんなに不安そうな顔をしなくても大丈夫だ。君はただ横になっていればいいんだよ」 大佐はベッドに腰掛けると、膝の上に紙を置いてペンを走らせた。 「これは錬金術の基礎的な陣なんだが、君は見たことがあるんじゃないかな」 大佐が陣の書いた紙を横になっている私に見せた。 それを見て目を丸くする。 見たことがある。 理解はできないけれど、円と線が交わりあっているこの図を私は知っている。 「次はこれ」 大佐がまた何かを紙に書いて見せる。 その陣も見たことがあった。 なぜ? 私は錬金術のことなんて何も知らないはずだ。 知らないはずなのに、なぜか知っている。 恐怖を覚えた時、ふと頭に様々な文字や数字や記号が浮かんで、気付けば私はそれらを口にしていた。 「しばらくの間、君の頭に錬金術の基礎的な知識が浮かぶ。それを口にしないといけないのは辛いだろうけど、君は今まですべてやり遂げることができたから今回も大丈夫だ」 自分が口に出したことなのに、何を言っているか分からない。 錬金術の基礎的な知識? 私は何も知らない。 私は父から何も教わっていない。 だって、父は私に錬金術の才能がないと知って落胆して、それ以来、私の背中に刺青を刻む時以外は、父と私の間に錬金術に関する話は一切していない。 父の期待に応えられなかった私は、嫌なことを思い出させる錬金術と必要以上に距離を置いて、関わらないようにしてきた。 数字や記号が消えて浮かぶ合間に、父が幼い私に本を読み聞かせる場面が見えたけれど、あんなことは一度たりともなかった。 嫌だ。 ありもしない光景を、私の願望だったものを、まるで幼少の暖かな思い出のように見せられて、ひどく気分が悪い。 「これは師匠から君への贈り物なんだ。君は覚えていないけど、私は何回もこの場に立ち会っている」 他人の記憶の中に迷い込み、出口を見つけられずにいる感覚に陥っていた。 知らないことをすらすらと話している自分が怖い。 そして、何かに取り憑かれたように話し続ける私の様子はおかしいのに、落ち着いて冷静に私を見ている大佐はもっと怖い。 「私は師匠に教わった通りに動くだけで特に何もしていないんだけどね。…ああ、それから、別に師匠は君にがっかりなんてしていないよ。こんなからくりを作るなんて、君は師匠に愛されていたとつくづく実感するよ」 絶え間なく羅列する文字や数字がようやく消えたかと思えば、今度は簡単な文章が浮かんで、それをかすれた声で口にする。 「ああ、もちろんだ」 大佐が笑って頷いた。 今度こそ頭に何も浮かばなくなったと安堵した時、急に目の前が暗くなる。 大佐が手の平で私の目を覆っているらしい。 「君は錬金術を学んだことがある?」 「…ない…」 「錬金術について何か知っていることは?」 「…あんなの知らない…」 「ああ、そうだ、君は何も知らない」 そうだろう?と宥めるように大佐が何度も言う。 ふと甘い香りが漂ってきて、その匂いに包まれると、だんだんと不快感が薄れていく。 「少し眠った方がいい。おやすみ、リザ」 水を飲みたいし、大佐に問い詰めたいことが山ほどあったのに急にどうでもよくなってしまって、彼がそう告げると、暗い眠りの世界へと落ちていった。 シーツの上に広がる柔らかい金髪に指を絡め、穏やかな寝息をたてて眠る中尉を見下ろす。 中尉が目覚めた時、彼女は先程の出来事はすべて忘れている。 リザの記憶の奥底には膨大な錬金術の知識が眠っている。 外部に漏れても困るような情報ではなく、錬金術を習得するにあたっての基礎知識を、師匠は幼いリザに植え付けた。 リザの意識がはっきりとしない状態のまま師匠は錬金術の知識を彼女の頭に吹き込み、そして当然ながら彼女は師匠から知識を分け与えられたことを一切覚えていない。 溢れんばかりの知識のかたまりを、師匠はわざわざリザの記憶の奥底へ沈み込ませた。 何かがきっかけで頭の深い場所に潜んでいるその記憶が揺らぐとリザは軽い頭痛を覚えるから、その時は記憶に蓋をして鍵をかけ、再び忘れさせてやってほしいと、師匠は亡くなる数ヶ月前に私に頼んだ。 最初はお前に頼むが、適任の人間が現れたらすぐにそれに託せ、と師匠は付け加えた。 あの子を一人にしてしまうのは辛いと寂しげに呟いた師匠の姿は未だに忘れることができない。 常にリザを見守る人間を側に置いておきたくて、師匠は彼女に魔法を掛けたのだ。 師匠の約束通りに、リザが記憶の扉を開けそうになった時、私は何度も鍵を掛けて封じ込めてきた。 適任の人間はなかなか現れず、リザの記憶の鍵は未だに私が所有している。 師匠は「簡単だから誰にでもできることだ」と言っていたが、錬金術師である師匠が生み出した仕掛けのため、錬金術師ではない素人が扱うのは難しいように思う。 記憶を封じ込める時に、師匠が考案した甘い香りの蝋燭が必要だが、あれを作る際にも錬金術に通じている者でないと材料集めすら困難だろう。 私のように優秀な錬金術師以外には危険だと勝手に判断し、そして今や私のみが知っているリザの記憶の秘密は、彼女を私の元に縛り付ける道具になるため、私が誰にも鍵を託さない可能性を師匠は考えていたのだろうか。 一応、鍵を渡しても構わないと思える人間を探す一方で、私はリザを他人に任せる気などさらさらない。 師匠はリザに相応しい人間が側にいるのか確かめるため、彼女が頭に羅列する文字を吐き出したあと、必ずある言葉を述べるように細工をしている。 「あなたは本当に私を幸せにできますか?」と、リザは疲れの滲んだ声で淡々と口にする。 いつも躊躇いなく頷くが、草葉の陰から見守る師匠は納得していないかもしれない。 幸せの定義は様々だが、父が考える娘の幸せはやはり結婚だろうか。 手の中で弄んでいた陣の書かれた紙を細長く折りたたみ、中尉の左手の薬指に巻き付ける。 そりゃあ私だって早くリザにプロポーズをしたい。 しかし、中尉に結婚を仄めかしても「今はそんなことをしている場合ではない」と言われるし、ただ一緒にいられればそれで幸せだと彼女は満足そうに微笑む。 私と共に生きることを中尉が拒んだ時、または私ではなく他の男の側にいることが彼女の幸せになった時、私は記憶の鍵を他人に託し、彼女を呪縛から解放しようと思う。 しかし、そのようなことが起きる気配はなく、まだしばらくは鍵は私の手の平の中だ。 リザを一人にしないための魔法ではなく、私が彼女を繋ぎ止めておく呪いになってしまっており、師匠には大変申し訳ないが選ぶ人間を間違えた己を恨んでほしい。 |