愚か者の病


特に潔癖性というわけではなく、砂が髪の毛や服の中に紛れようが血が頬に飛び散ろうが平気なのだが、ただひとつだけ苦手なことがあった。
中央司令部から視察に来た将軍と廊下で擦れ違った際に呼び止められ、忙しいのにと内心で舌打ちをしつつ足を止めた。
意味のないおしゃべりに付き合うのは辛うじて耐えることができたけれど、ねっとりとした手つきで腰を撫でられて顔が引き攣る。
この口を縫い付けてやりたいという先程までの威勢の良さが瞬時に消えてなくなる。
冷や汗をかくと同時に体が芯からじわじわと冷たくなっていき、心臓の鼓動する音が主張でもするように大きくてうるさい。
嫌だ、気持ち悪い、怖い。
何もかも投げ出してこの場から走って逃げ出してしまいたくなる。
手の平に爪が食い込むほど強く拳を握って、早く時間が過ぎるのをただただ祈る。
ようやく将軍に解放されてもつれるような足取りで急いで大部屋に戻ると、「顔色が悪い」とハボック少尉が心配そうに私の顔を覗き込んだ。
大丈夫だからと、いつも通りの口調で答えたつもりだけれど、口から出たのは驚くほどぶっきらぼうな返事だった。
早く大部屋の賑やかさに飛び込みたくて足早に帰ってきたけれど、取り乱すあまり心配してくれる同僚に冷たい態度を取ってしまうくらいなら、どこかで落ち着いてから戻ってくれば良かったと後悔する。
優しいハボック少尉は私の素っ気なさを特に気にせず、「熱があるかも」と私の額に大きな手を当てた。
ああ、この人の気遣う手なら大丈夫だ。
冷たくなった体にハボック少尉の体温が染み入るような気分だ。
大部屋に顔を覗かせたマスタング中佐が、熱を計ってくれているハボック少尉と私の姿を見ると、お前らは何をいちゃついているんだと不機嫌そうに私達を睨んだ。
いつものようにマスタング中佐とハボック少尉が言い争う声がひどく心地良い中、自分が情けなくて、そして恥ずかしくて、負の感情ばかりが降り積もって、このまま消えて無くなってしまいたかった。


その日の夜、ベッドに入ったものの、寝返りを打つばかりでなかなか眠りにつけなかった。
性的欲求を満たすために体に触られるという行為、これが私の唯一苦手なこと。
自分の弱さと臆病さが憎くて、そして情けない。
本当ならばセクハラはやめろと睨み付けたいけれど、私はただ黙って吐き気を堪えることしかできない。
小さい頃、町からの買物の帰りに中年の男達に誘拐されそうになったのが原因なのか、それともイシュヴァールで数人の仲間に乱暴されそうになったのがきっかけなのか、何が起因になったかは分からないけれど、舐められるようなあの視線を浴びて体をまさぐられると叫び出したくなる。
どちらの事件も、私を助けてくれたのは偶然にもマスタング中佐だ。
当時、父の弟子だった中佐は、私の帰りがやけに遅いと心配して迎えに来てくれて、幼い子供しか愛せないらしい男共の手から私を救ってくれた。
イシュヴァールでは、中佐は私の姿が見当たらないことを不審に思って探していると、私が数人の仲間に押さえ付けられている現場に出くわし、焔をちらつかせて男達を蹴散らしてくれた。
中佐が二度も私を救ってくれたことは感謝しきれず、きっと一生頭が上がらないだろう。
何度礼を言っても足りないほど有難いと思っているけれど、中佐のことが頭をよぎると胸に重いものがのしかかるような気分になる。
中佐は私の大切な恩人であるけれど、ただ、プライベートの時に中佐のことを思い出すと嫌な出来事しか浮かばずに、胸に苦々しい感情が広がる。
ますます眠れそうになくて溜息をついた。


先程の出来事はもしかしたら夢であったのではないかという気がして、しかし床に打ち付けた肩が痛むと、これは現実だと思い知って胸が苦しくなる。
願望から引き戻され、しかしまた逃避をしてしまうという繰り返しをしながら、夜道を歩く。
自宅のアパートが見えて来た頃、私の部屋に明かりがついていることに気付いて、追い撃ちを掛けられている気分になる。
引き返してどこかへ行こうと一瞬歩みが止まったが、私はあの人のようにこんな夜遅くに気軽に上がり込める家などない。
帰る場所をたくさん持つあの人と違って、私の帰る場所はアパートのあの部屋だけなのだ。
正直気が重いけれど、あの人はいない者として扱えばいい。
物騒なことに玄関の鍵は開いていた。
扉を開けて部屋に入ると、やっと取り繕う必要のない空間に戻れた安堵から急に体から力が抜けて、その場に崩れ落ちた。
膝を抱き寄せてその上に額を乗せると、今まで堪えていた涙が一気に溢れ出す。
「少尉、おかえり。遅かったね。聞いてないかもしれないけど」
我が物顔でソファーで寛ぎ、本を読んでいたマスタング中佐が立ち上がってこちらに来る気配がした。
「今日は同期の奴と二人きりで食事だっけ?何か進展があったかと聞きたいところだったけど、まさか泣くとは…」
中佐は片膝に膝をつくと、体を屈めて私の背中を撫でた。
こうして中佐がわざわざ私と目線を合わせるのは珍しいと、子供のように泣きじゃくって熱くなった頭でぼんやりと思う。
許可を得ずに部屋に上がり込むし、いつも身勝手で一方的で、私の気持ちなど考えもせず行動する中佐にまさか気を遣われるとは思わなかった。
「ここは寒いからこっちにおいで」
まるで幼い子供にでも言い聞かせるように優しい声でそう言って、中佐は私の手を引いてベッドに向かう。
中佐にされるがままベッドに腰掛けると、再び床に片膝をついた中佐が私を見上げた。
膝の上に乗せた私の涙で濡れた手に、中佐はそっと指を絡める。
「何かあったのか?」
無言で首を横に振る。
プライベートで中佐が私に対して真剣な声を出すだなんて、これもまた珍しいことだ。
「何もなかったようにはとても見えないが…。じゃあ、質問を変えよう。変な言い方だけど、君は無事なのか?」
ふと中佐の視線の先を追うと、スカートからはみ出るブラウスの裾や、ボタンがいくつか外れた胸元に気付く。
自分がこのような格好で外を歩いてきたことを今初めて知る。
しゃくり上げながら、首を縦に動かす。
「…そうか。なら、いいんだけどね」
「もっと色々聞きたいけど教えてくれないだろうし」と不満げに呟いた中佐は、私の隣に腰掛けた。
「泣きたいのは君じゃなくて向こうの男の方じゃないのか?」
からかうようにそう言って、首まで伝った涙に触れた中佐は、いつもの調子に戻っていた。
確かに中佐の言う通りだが、悲しいものは悲しい。
酔っ払った同期を彼の部屋まで肩を貸して運んだのだが、彼がふらついた途端にベッドに辿り着く前に転んでしまった。
床に打ち付けた肩が痛いと顔をしかめていると、突然彼に「好きだ」と告げられた。
転んだ際に、彼が私を押し倒す形になっていたことにふと気付く。
彼に酔っていることを指摘したら、酔っているから勇気が出せると返された。
スカートの中に入れていたブラウスが引き抜かれ、裾から彼の手が入ってきた瞬間に頭が真っ白になった。
士官学校からの良い友達であり仲間である彼が私を好いているだなんて知らなかったし、私の名前を呼ぶ熱っぽさに驚いたし、そして何より肌を這う彼の指を怖いと思った。
私がどんな表情で彼を見上げていたかは分からない。
ただ、彼を傷付かせるほど、ひどい顔をしていたのだろう。
彼は「ごめん」と謝って、すぐに私の上から離れた。
その後、彼はだんだんと酔いが醒めてきたのか、何度も謝り、私は「気にしていない」と答えたはずだが、会話の内容はよく覚えていない。
あまりに私の顔色が悪いせいで、「今度は襲わないから送って行くよ」と彼は無理やり笑みを浮かべて申し出てくれたが、それを断って逃げるように部屋を出た。
彼に恋だとか愛だとかという類の感情は抱くことはできないが、友人としてとても大切で、大好きなのだ。
そんな彼にすら例の嫌悪感を覚えたことが悲しくて、最低な自分を軽蔑して、涙が止まらない。
「よく分からんが、また発動したんだろう?」
腫れるぞと、目を擦ろうとした私の手を中佐が掴む。
「君は大変だね」
まるで他人事のように中佐が言う。
いや、中佐から見れば私のことなんて他人事か。
「まるで病気みたい…」
中佐の手の平の中にある自分の手首を見つめながら呟く。
私は唯一中佐に触られることだけは平気なのだ。
こうしてただ手を握られることも、中佐が性的な考えを抱きながら触れることも大丈夫だし、中佐となら性行為までも行える。
「病気というより呪いじゃないか」
能天気に笑う中佐が憎らしい。
中佐にはたくさんの恋人がいる。
昨日も私の知らない女性を抱いて、今日は私の元に来て、そして明日はまた別の女性のところに行くような男の手だけがどうして許せるのだろう。
私だけを求めて触れてきた同期の彼の手の方が純粋だというのにおかしな話だ。
治したい、と、そう独り言を言うと、中佐がにんまりと笑う。
「君が私を嫌いになればいいんじゃないか?」
相変わらず中佐は意地の悪いことを言う。
中佐に触られても平気な理由は、私が中佐を好きだからということ以外に考えられず、中佐はそれを知りながらこうしていつも嫌なことばかり言う。
嫌いになれるものならとっくに嫌いになっている。
ただ、どう努力しても、女性関係にだらしないこの最悪な男を何故か嫌いになれないのだ。
中佐と関係を持ったのはイシュヴァール戦の時で、突然中佐のテントに引きずりこまれ、体を貪られたのが始まりだった。
唐突なことで驚き、そしてなぜ私なのかと困惑したけれど、前線は女性が少ないことをすぐに思い出した。
中佐と同じく人の温もりに飢えていた私は抵抗せずに大人しく体を差し出した。
中佐の気がおかしくなる前に私を壊してくれても構わないとまで思った。
戦場から帰ってきて、前線と違って女性を選ぶ余裕のあるこの環境でも、何故かこうして中佐と私の関係は続いている。
中佐が、都合の良い女という枠の中に私を入れてしまったのは本当に不幸なことだと思う。
夜な夜な違う女性を抱き、思い出したかのようにたまにふらりとやってくる中佐は、別に私だから抱きたいわけではなくて、予定に穴が開いて暇だから私のところに来るのだ。
上官としては尊敬しているけれど、プライベートになると最低な部類に入るこの男をどうして嫌いになれないのか理解に苦しむ。
「今日は帰ってください」
とにかく今は一人になって落ち着きたい。
中佐の手を振りほどいて玄関を指差すと、再びその手首を中佐に強く握られた。
「断る。何時間も帰りを待っていたのに何の収穫もなしに帰るのは嫌だ」
「私は待っていてなんて頼んでいません。お願いだから帰ってください」
「君が酒臭いし煙草臭いし何より男臭くて、私は今とても不快だよ。君を抱けば少しは気が晴れると思う」
不意に中佐に強く背中を押されてベッドに俯せに倒れこむ。
中佐に優しく扱われない女性は私くらいではないだろうか。
ベッドから起き上がろうとすると、いつの間にか両手を後ろ手で縛られていることに気付く。
「え…!?…やだっ、外してください!中佐!」
思い切り首を反らせて後ろを振り向くと、中佐の首元からネクタイが消えていることに気付く。
今夜の私が精神的に参っていることを知っているはずなのに、己の欲を満たしたいという身勝手さに腹が立つ。
それと同時に、私が元気だろうが傷付いていようが中佐には関係なく、中佐にとって私はただ性欲を発散する存在でしかないことを突き付けられ、再び目に涙が浮かぶ。
「さっきみたいに大泣きしても構わないよ。慰めてあげるし、その方が盛り上がるだろう?」
私の抵抗に一切耳を貸さず、中佐はスカートをめくり上げるとストッキングを破いた。


嫌だと叫び続けるのもだんだんと 疲れてきて、途中からは早く終わってしまえばいいと投げやりになった。
中佐が満足してようやく解放されたものの疲れ果ててベッドの上で仰向けになってぼんやりとしていると、ふと中佐の肩にある小さな引っ掻き傷が目に入る。
「ああ、これか」
私が傷を見ていることに気付いたのか、中佐が苦笑する。
「この前つけられたんだよ。君は私を引っ掻かないから助かる。たまにやきもちを妬かれて面倒なことになるからね」
私が傷を見て胸を痛めたのは知っているだろうに、笑い話のように話す中佐の神経がよく理解できない。
私が中佐を引っ掻いたら、それを見た女性は今の私のように傷付くだろうから爪痕なんて残せない。
第一、恋人でもない私が、所有物だと主張するような傷を中佐につけることは許されないだろう。
この傷を残した女性は中佐に優しく抱かれたのだろうか。
中佐は私をおもちゃのように扱うことで楽しんでいるのか、今回は手を縛るネクタイを解いてくれたかと思えば今度は目隠しをされ、毎回このように散々な目にしか遭っていないから、優しく抱かれているのならば羨ましい。
中佐には柄にもないと言われそうだが、好きなひとから優しくされて嬉しくない訳がない。
「君の無償の優しさには感服する」と中佐が前に言っていたけれど、私は無償の優しさなんて大層なものを持っていないし、そもそも優しくなんてない。
浮気を許すことのできる中佐の恋人達のように器の大きな人間ではなくて、私は寛大な彼女達を尊敬してしまう。
私がその場の雰囲気に流されやすいのと、それから中佐を少し甘やかし過ぎてしまうのを、優しいと勘違いしているだけだ。
無償の優しさだなんて笑わせる。
そんなの中佐の都合の良い幻想だ。
私はいつも中佐に求めている。
私が中佐を好きなように中佐も私のことを愛してほしいなんて馬鹿なことは思わないけれど、ほんの少しだけ優しくされたい。
素の中佐を見ることができるのは光栄なことかもしれないけれど、何も取り繕わない中佐の言動は私には少し酷すぎる。
私に傷を見られた中佐に、分かりやすい嘘でもいいから何か否定する言葉を言って欲しかった。
こんなことを考えてしまうならば、傷なんて見つけなければ良かったと後悔する。
「嫉妬した?」
「いいえ」
楽しそうな笑顔を浮かべた問いかけに素っ気なく答える。
嘘ではない。
妬ましいと思う以上に、もう少し大事に扱われたいという願望の方が強い。
「ふうん、そうか」
私の答えはどうやら中佐のお気に召さなかったらしい。
「しかし、リザは可哀想だね。君には私しか触ることができないのに、私が君を愛していないなんて悲劇だ」
代わりに中佐は別の言葉で私を攻撃した。
「そうですね」と適当にあしらおうとしたけれど、言葉にする前に涙が零れた。
今日は泣きすぎて涙腺が緩くなっているようだ。
こうやって中佐は私の好意を弄んで優位に立って、いつもわざと私を傷付ける。
けれど、これは事実なのだ。
私は中佐に愛されていない。
中佐以外の人間に肌を許すことを体が拒絶するほどに私が中佐を好いていたって、中佐にとって私はただの暇つぶしの道具でしかない。
いつも散々言い争いをしても結局私が根気負けして中佐の言うことを聞くことになり、中佐は私のその部分だけが好きなのだろう。
傷を見られて弁解をしないのは、嘘をつくことで相手を傷付けないという私への優しさが中佐の中に存在しないからだ。
そして、欲を満たすだけだから、傷心している私を特に気に留めずに抱く。
私がどんなに中佐に恋い焦がれても、中佐にとっての私の価値なんてそんなもの。
泣きじゃくる私の姿を見てさすがに焦ったのか、中佐が何か声を掛けてくるけれど、その言葉を聞いても頭からすり抜けて行く。
同期とのことがあったせいか、行為後で疲れているせいか、散々傷付けられてもう限界だったのか、中佐の言葉がいつも以上に胸に深く突き刺さった。
泣いているせいで目も顔も体も熱いけれど、体の中心はだんだんと冷えていく。
中佐を嫌いになったわけではないけれど、急に中佐を怖いと感じるようになった。
私を無邪気に傷付ける中佐が怖い。
真人間を構成するために体中に張り巡らされた糸のひとつが、ぷつりと鋏で切られてしまったような気分だ。
私は壊れてしまったのだろうか。
愛されていないという事実をこれ以上突き付けられることに怯えて、耳を塞いで、胎児のように体を丸めて自らを守る。
愛する人に果敢に立ち向かわずに足を竦めて背を向けた私は、結局は弱虫で臆病なのだ。
この先も私は中佐以外の人間を愛することはできないに違いないけれど、奔放な中佐に寄り添うことを諦めた私の例の病は、恋心が原因なのではなくて、この惨めなほどの精神の脆さにあるのかも知れない。




人を訪ねるには少々遅すぎる時間だが、まったく気にせずに少尉のアパートに続く道を歩く。
たった一人の女性を愛するわけではなく、常に周りに数人の恋人達がいて、毎晩違う女性とベッドを共にする私の性癖を責める者が後を絶たないが、別に気にしてはいない。
可愛い女の子と話していると楽しいし、気分転換にちょうどいいし、そしてその場凌ぎではあるけれど、戦時中の出来事や上へ行くために失ったものなどの胸を蝕む苦しさを忘れられる。
傍から見れば私が浮気をしているように見えるだろうけれど、私が遊び歩いているのを知っている上で私に抱かれる女の子達は、可愛いだけではなく寛容だ。
それにただ見境なく女性を口説いているわけではなくて、しっかりと情報収集もしているのだから、非難する者は私を少しは見直してほしい。
今夜はどこに行こうかと頭に浮かべる数々の行き先の中に、リザ・ホークアイ少尉の部屋も含まれている。
一晩会うだけの恋人達とは違って、私と少尉の関係は少々複雑だ。
まず、少尉は私の副官だから昼間に一緒に仕事をしているし、私は幼い頃の彼女を知っているし、彼女の背中の刺青と私の発火布の繋がりは今のところ二人だけの秘密になっている。
少尉のことを初めて抱いたのはイシュヴァールだった。
人のことを言える立場ではなかったが、あの時、強気な表情で砂の大地を歩むものの、ライフルをお守りのようにぎゅっと握る彼女の姿は危なっかしくて、いつも目で追っていた。
戦場で銃を向ける相手は敵だけとは限らない。
あの時、少尉の姿が見当たらずに探している際に、味方の人間に乱暴されそうになっている彼女を寸でのところで助けることができて本当に良かった。
ここでおしまいならば美談として誇れるが、最低なことに、その数日後に私は少尉をテントの中に引きずり込み、気が狂いそうな苦しさを誤魔化したくて彼女を抱いた。
軍人を慰めるために戦場に呼ばれた女性の存在はもちろん知っていたけれど、あの時は少尉だけしか抱かなかったし、不思議なことにほかの女性が目に入らなかった。
戦場から戻ったあと、以前のように女性に不自由しない生活が訪れたのだが、ふと戦時中のことを思い出して苛立ちを誰かにぶつけたい夜に少尉の部屋に押しかけて彼女を抱いて以来、私と彼女の関係は今も続いている。
ほかの女性達と違って間柄が複雑で、そして恋人ではなく部下ではあるが、相違点はその二つのみで、ほかの恋人達と夜を過ごす時のように少尉を抱くのは楽しい。
夜に私が少尉にひどいことをしようが泣かせようが、プライベートと仕事をしっかりと分けている彼女は、昼間は何事もなかったかのように私に接するから有能で助かる。
というわけで、一晩を過ごす相手として恋人達に紛れて少尉がいるのだが、ここ二週間ほど彼女のアパートを候補から外していた。
少尉を最後に抱いた時、少々意地悪をし過ぎたのか彼女を大泣きさせてしまったのだ。
同期を傷付けてしまったと自らを責めて泣いている少尉の手を縛り上げて、さらに目隠しまでして抱いたなんて、我ながらひどい話だと思う。
司令部にいる時は女性らしい甘やかな部分をちっとも感じさせずに無機質に働く彼女を、ただの女にしてしまう過程が楽しくて、彼女を抱く時はいつも少々手荒なことをしてしまう。
おまけに少尉の泣き顔はとてつもなく可愛くて病みつきになるのと同時に、嗜虐心を刺激する。
今回はさすがに反省してしばらく距離を置いていたのだが、そろそろほとぼりが冷めた頃だろうと思って、こうして少尉の部屋までやって来たのだ。
ずっと昔に少尉の同意を得ずに勝手に作った合鍵でドアを開ける。
「こんばんは、少尉。やっぱり寝ていたか」
少尉はすでにベッドに入っており、玄関に立つ私に背を向けるようにして寝ていた。
少尉は首だけを動かして振り向き、非常識な時間に現れた訪問者の顔をちらりと見ただけで、何も言わずに再び枕に横顔を埋めた。
いつもならここで散々文句を言われるはずなんだがと首を捻りながら、電気をつける。
「帰ってください」
部屋が明るくなった途端、妙に冷たい声で少尉が言う。
「どうして?」
「ほかの方のところへ行ってください」
「今夜は君がいいんだよ」
大股でベッドに近付いて、少尉の肩を掴み彼女を振り向かせる。
「帰ってください」
少尉と目が合うときつく睨まれ、先程と同じことを言われる。
少尉はいつも私の身勝手さを許してくれるが、今の彼女の言葉にはその甘さがちっとも感じられず、理由は分からないがひどく焦ってしまう。
靴を脱ぐのも忘れて、ブランケットを剥いで少尉の上に覆いかぶさる。
「嫌ですってば!中佐!」
最初は多少強引でも、押しに弱い少尉はいつものように流されるだろうと思いながら、無理やり彼女に口付けてパジャマのボタンを外す。
「やめてください!やめて…っ!」
乳房を口に含んでも少尉は甘い声を出さず、それどころか、両手で私の肩を引き剥がそうとして、それから足をばたつかせ激しく抵抗するばかりだ。
「やだ…っ」
この前のように縛ってしまおうかと考えていると、聞き覚えのある悲痛な少尉の悲鳴が聞こえて、思わず肌を貪る手が止まる。
恐る恐る少尉の顔を見ると、彼女は目尻に涙を浮かべて怯えたように私を見ており、慌てて彼女から離れた。
あの悲鳴をどこかで聞いたことがある。
認めたくはないけれど、幼い少尉が誘拐されそうになった時、それから戦時中に彼女が乱暴されそうになった時に、私はこの声を聞いたのだ。
過去に少尉に乱暴しようとした奴らと、私は変わらないというのか。
かつて「地獄に落ちればいい」と思いながら容赦なく何度も殴った奴らと、私は同じなのか。
「…これじゃ…まるで強姦しているみたいじゃないか…」
少尉が奴らと私を同じものとして扱っていることを未だ受け入れられないまま、乾いた声で呟く。
「だから嫌だって言ってるじゃないですか…!」
言い返す少尉の声が震えている。
「…すまない…」
まるで身を守るように、ボタンが外れたパジャマを胸の前で掻き合わせている少尉の姿を見ていられなくて、ブランケットを被せて隠してしまう。
この状況で何を言えば正しいのか、何をすれば許されるのか分からなかった。
「…帰ってください…私では相手できません…」
少尉の泣いた顔は好きだが、今の彼女の顔は見る勇気がない。
「…すまん」
何かしなければと焦るが、私がただこの場にいるだけで少尉を泣かせてしまいそうで、情けないが私は最後にもう一度謝ると、飛び出すように部屋を出た。
人間としても、男としても最低だと苛立って頭を掻きむしりながら来た道を戻って行く。
自分を責めるのと同時に、今まで感じたことのない不安と焦りに襲われていた。
少尉が私に抱かれることを嫌悪するだなんて想像もしたことがなかった。
少尉に拒まれたのは初めてだった。
少尉が私を拒むはずなどないと思っていた。
拒絶されるということはこんなに傷付くものなのかと初めてその痛みを知る。
考えてみれば、少尉が私に好意があるのをいいことに、そのことで私はよく彼女に意地悪を言ったが、あの行為は彼女を否定するようなものだ。
今日は立場が逆になっただけ。
戯れの一つとして軽い気持ちで少尉をからかって遊んでいたが、ならば私は何度も彼女を傷付けてきたのだと今更ながらに思い知る。
それに加えて、今回は過去に少尉に乱暴しようとした畜生共と同じことをしてしまった。
私は少尉に嫌われてしまったのだろうか?
まさか、少尉が私を嫌うはずがない。
少尉は私以外の人間に触られるのが嫌なほど私のことが好きで、愛しているじゃないか。
私が何をしたって少尉は許してくれる。
恋人を取っ替え引っ替えして遊ぶ中で、たまに羽を休めたいとばかりにふらりと私が部屋を訪れるのを少尉は呆れながらもずっと待っていてくれるひと――少尉はそんなひとじゃないか。
しかしそれは私の都合の良い解釈に過ぎない。
私が少尉に勝手な幻想を押し付けているという簡単なことに、なぜ今まで気付かなかったのだろう。
そもそも少尉は私のことが好きなのかということまで怪しく思えてきた。
少尉の口から直接愛の言葉を囁かれたことはなく、私を好いているのかという事実の確認を彼女にしたことはない。
少尉に好かれているというのは、ただの私の感覚でしかないのだ。
私が上官であるから渋々と従うだけで、もしかしたら、考えたくもないけれど実はずっと私のことが嫌だったのかもしれない。
そもそも私と少尉の関係の始まりだって、合意を得ずに驚くあまり抵抗もできない彼女を好きに抱いたのだから、私が強姦まがいのことをするのは今日が初めてではない。
少尉に好かれることよりも嫌われることしかしていないのに、どうして今までずっと彼女は私を嫌いにならないという自信を持つことができたのか、自分のことなのに理解に苦しむ。
過去の少尉が私をどう思っていようと、現在の彼女が私を拒んでいるのは変えようのない事実で、彼女はいつから私を嫌っていたのだろうかと遡って考えるのを止めた。
少尉は私のことを嫌っている。
なんてことのない些細な出来事に思えたが、同時に何だか取り返しのつかないことをしてしまったようで、漠然とした喪失感に襲われた。


別に少尉に嫌われても、私を愛してくれる女性はたくさんいるのだ。
少尉の知らないところではあるが、次の日から当てつけのように遊び倒すことを決めた。
しかし、早くも三日目にして、性行為が楽しくないという由々しき事態に陥る。
これは男としても、遊び人のロイ・マスタングとしてもあってはならない大変な事件だ。
もちろん不能になったわけではない。
性欲が解消されてすっきりするものの、食欲を満たすために味のない食べ物を食べているようで、面白味がないのだ。
柔らかい肌に指を食い込ませても、艶かしい声を聞いても、以前のように興奮できず、それから没頭できずにいた。
まさか原因は少尉か?
そんな考えが頭を過るが、少尉との出来事が私の娯楽にまで顔を出し、彼女に足を引っ張られる訳がないとすぐに否定する。
四日目、無意識のうちに組み敷いている女性を「少尉はこんなに大胆ではない」などと、少尉と比較していることに気付き、冷や汗が浮かんだ。
女性に対してなんて失礼なことをしているのだろうか。
そういえばこの四日間、金髪の女性しか抱いていないことにも気付いて頭を抱える。
五日目に抱いた女性は照れて目を逸らす仕草が少尉に似ていて、しかし似ている部分を見つけると本物と違う点がくっきりと浮き彫りになり、差が目立つだけだった。
「少尉ならばここで目を閉じる」だとか「少尉だったらこの部分が弱い」だとか、違う箇所を内心で指摘してしまうばかりで、金髪の女性ではなく私と同じ黒髪の女性にしたのに、また楽しめなかった。
六日目、ついに壊れた。
ほかの女性を抱いているというのに、頭の中では少尉が喘ぐ場面が終始流れ続け、行為にまったく集中できない。
頭の中から少尉を追い払おうとするがなかなか出て行ってくれず、少尉に邪魔をされたまま夜が終わった。
そして七日目、悔しいけれど欲望に素直になることを決め、金髪の女性に「中佐」と呼ばせ、さらに敬語を使わせて抱いた。
しかしやはり少尉と比べてしまい、その度に腕の中にいるのは少尉ではないと気付かされ、満たされるどころか余計に乾くだけだった。
情事中に少尉のことが頭からこびり付いて離れないなんて、まるで病気みたいだ。
来る者拒まず去る者追わずという考えの私は、私の前から去って行く女性をたくさん見てきたはずなのに、たった一人の女性を失っただけでどうしてこんなに落ち着かない気分になるのだろう。
可愛くて真面目で少し怒りっぽくて素直じゃなくてたまに危なっかしくて、それから優しい、そういう女性に、今すぐ会いたい。
私の知る限りではそんな女性は一人しかいない。
私は今、とても少尉が恋しい。




許されるとは思っていないが、今までの数々の間違った行いを少尉に謝らなければいけない。
そして願うなら、少し話もしたい。
非番の日の昼下がり、私は少尉の部屋にこっそりと上がり込んでいた。
当然ながら少尉は勤務中のために家にはいないし、私がこうして忍び込んでいることも知らない。
正攻法で会おうとすれば絶対に断られるだろうから、こうして密かに少尉の帰りを待つという卑怯な手を使うことにした。
たった一週間ほど訪れなかっただけなのに、ぐるりと見渡した少尉の部屋が妙に懐かしく感じる。
少尉に好きな男でも出来たのだろうかと考えた時もあったが、そんな気配は部屋からは感じられなくて安心してしまう。
いつも通りベッドに腰掛けた時に、私を嫌っている女性のベッドに我が物顔で座る自分の非常識さに呆れた。
ほとんど行為をするためだけに少尉の部屋を訪れていたから、テーブルやソファーを無視して足はベッドに向かい、そしてここからほとんど動かなかったから、彼女の部屋での私の居場所はこのベッドだった。
思い出せば思い出すほど自分の最低さに気付いて、神経が図太いさすがの私も落ち込む。
しかも、夜遊びを続けたせいで、いま猛烈に眠くて、持参した本を読むのを放棄して少尉のベッドに沈没してしまった。
シーツや枕から少尉の匂いがすることにひどく落ち着いた。
まるで変態じゃないかと突っ込みながら眠りの世界へ落ちていく。
思い返せば、少尉を腕に抱いて寝る夜は穏やかな眠りにつけた。
イシュヴァールにいた時も、少尉を抱き締めて目を閉じると悪夢を見ずに眠れるから安心した。
私から遠ざかった少尉との思い出を美化しているだけかもしれないが、私の醜い部分すらもすべてを受け入れてくれていた彼女の隣はいつも心安らいだ。


だんだんと近くなる足音で意識が浮上し、そして部屋の扉が開く音で目が覚めた。
いかん、少尉が帰ってくる時間まで眠ってしまったのか。
寝ぼけながら目を開けると真っ暗だった部屋に明かりがつき、眩しさに目を細める。
カーテンを閉めていない窓の外を見ると、当然だがもう夜だった。
「…何をしているんですか」
怒りを通り越して呆れたような少尉の声が、まだ眠い頭に突き刺さる。
「私は五分ほど外に出ます。その間に出て行ってください」
少尉は無表情で私にそう告げるとドアノブに手を掛けた。
「…え?どうして?」
「…あー…。すまん。君が絶対にそう言うと思って、錬金術で扉に細工をした。私が直さないと開かない」
ドアノブが動かずに驚いている少尉の背中に、恐々と声を掛ける。
少尉は深く溜息をつくと、振り返って私を睨んだ。
怒鳴られる覚悟をしていたが、少尉は司令部にいる時と同じで感情を制御している。
怒るべき時は必要以上に私にきつく物を言うような有りのままの少尉の姿を見ることができずに寂しさを覚える。
「君とちゃんと話をしたいんだ。できれば椅子に座って向かい合って話したいところだけど…」
「私はここで聞きます。中佐もベッドから動かないでください」
私に近付きたくないし近付かれたくないらしく、少尉は玄関の扉を背にしたままで、そこから動く気配はない。
「…この前は…いや、この前だけではなくていつも無理やり抱いて、ひどい扱いをしてすまなかった。それから、私の妄想かもしれないし、仮に過去にそうであったとしても今は違うかもしれないが、君が私を好きだということで君をからかって傷付けた。すまない」
伝えようと思っていたことはたくさんあるのに、いざ少尉を前にして言葉にしようとするとうまくまとまらない。
苛立ちから頭を掻きむしる。
「…ようやく気付いたのですね。あれはかなり辛いんですから」
何の感情も感じさせない声で少尉がそう口にする。
「過ちに気付いたのなら、もう二度と繰り返さないでください。そして、この経験をほかの方々との関係に活かしてください。泣く女性がかなり減ると思います」
私と少尉の関係ではなく、私とほかの女性の関係に活かせということは、彼女はもう私と関わるつもりはないのだろうか。
私は真っ新な状態からやり直すことを望んでいたのだが、私が考えていた以上に事態は深刻なようだ。
「…この前、例の同期の男と君が食堂で談笑しているのを見かけたんだが…」
「あの夜、彼は酔っていただけですから。少々ぎくしゃくしましたけど、元の関係に戻りましたよ」
少尉に許されたあの男が心底羨ましい。
あの男には、元の関係に戻ることができるだけの信頼を少尉から得ていたのだ。
それに比べて、私と少尉の間には何も築かれていない。
私が強引に少尉を抱いてきただけで、そこに愛や信頼などが育まれるわけがなく、残ったものは負の感情だけだ。
「では、早く鍵を直して帰ってください。私がソファーに移動するまでベッドから動かないでくださいね」
「待ってくれ、まだ話が…!」
まだ伝えたいことの半分も言えていない。
いま謝らなければ、少尉との関係は二度と修復できない気がして切羽詰まっていた。
私と一定の距離を保ちたくて玄関から部屋の真ん中にあるソファに移動しようとした少尉に、私はベッドを降りて駆け寄る。
「中佐!?動かないでくださいって言ったじゃないですか!」
私が近付いてきたことで混乱したのか、少尉は自らそれ以上行き場のないキッチンの隅に逃げ込んだ。
私がキッチンに足を踏み入れて少尉に近付くと、彼女は完全に逃げ場を失ってしまった。
少尉がぎくしゃくとした動きで後ずさりながら怯えたように私を見上げる。
「私は話がしたいだけで、前みたいに襲ったり嫌がる君を無理やり抱いたりしないから、そんなに怖がらないでくれないか」
「…信用できません」
少尉から信頼されていないのは当たり前だが、いざ言葉して聞くと胸が痛む。
「私はちゃんと君に謝りたくて…さっきは上手く伝えられた気がしない」
「中佐がどう思おうと、過ちを認めたあなたの謝罪を私はきちんと受け止めました」
「なら、どうして君は…」
許してくれないのか。
そう続ける前に言葉を切る。
許してくれなくても構わないと思いながら、本当は少尉に許されたかったのだと思い知る。
本当は、少尉に許されたくて、仕方ないですねと笑う彼女に前の関係に戻るきっかけを与えてほしかったのだ。
どうやら私はとんでもなく卑怯な男らしい。
「ひどいことなんて今までたくさんしてきたのに、どうして今更私に謝るのですか?」
「間違いにようやく気付いたからだ」
「違います。気付いていないようなので教えてあげますよ。あなたは女性に拒まれたことがなくて、ましてや私があなたを拒絶するなんて思っていなかった。初めて拒絶されて、物珍しさから私を気に掛けているのではありませんか?逃げた獲物を気まぐれで追ってみたくなっただけ。違いますか?」
それは違うと否定できるだけの根拠がない。
情事中にすら少尉のことを気にしてしまう理由は、謝りたいわけではなく、本当は彼女の言う通りかもしれない。
しかし、少尉とは比にならないが、過去に傷付けたり泣かせたりした女性に対しては、鬱陶しいと思うだけで、謝るなんて考えに至らずにそのまま関係を絶った。
謝罪をして許してもらうだなんて昔は面倒としか考えていなくて、こうして煩わしいと思わずに新しい関係を請うのは初めてだ。
「私は何をすれば君に償える?」
みっともなく女性に縋り付くことも、初めてだった。
「償う必要などありません。それでも中佐が何かしたいのであれば、もう私に関わらないでください」
「私はそんなに君に嫌われているのか」
何かを償うことで少尉を傷付けた過去を清算したいと考えたが、私はそれすらもできないようだ。
「いいえ」
少尉が苦々しく笑って、首を横に振る。
「私はまだあなたのことが好きです。多分、ですけど。でもそれ以上に私は中佐のことが怖い。もうあなたに振り回されて傷付くのが嫌なんです。…好きなのに、おかしいでしょう?」
無理やり口角を上げてみせる少尉の表情が痛々しい。
「そもそも中佐が私に謝る必要はありません。ただ私が勝手にあなたを好きになって、勝手に傷付いただけなんですから、気に病まないでください。例の病気で分かる通り、私はとても弱くて臆病なんです。だから私はほかの方と違ってあなたに抱かれるのが苦痛になっただけ。それだけです」
明らかに私が悪いのに、どうして少尉は自分を責めるのだろうか。
自分を苦しめる癖のある少尉が不憫で、この悪癖を治してやりたかったことをふと思い出す。
私がいくら謝ろうが許しを乞おうが、自分が悪いという答えを出した少尉の前では意味を持たない。
少尉はこのまま私から離れようとしている。
私との出来事をすでに過去のものとして切り離してしまっている少尉を見下ろしながら、私は未練たらしく彼女を引き止める術を探していた。
私は少尉との関係をここで終わらせたくはない。
少尉にとって謝罪が無意味に聞こえようが私は彼女に償うべきだというのは、一応本音でもあるが建前に近く、彼女が遠ざかって行くのをただ指を咥えて見ていることなどできない。
なぜ一人の女性に対してこれほどまでに必死になっているのか、まるで啓示でも受けたかのように唐突に気付く。
ああ、私は少尉のことが好きなのか。
「…俺は馬鹿だな…」
あまりの間抜けさに眩暈がするようで、手の平で目を覆ってずるずるとキッチンの床に座り込む。
情事中に少尉の姿がちらつくことが病気なのではなく、ここまで彼女を傷付けて壊したあとで真実に気付く己の愚かさこそが病気だ。
「…中佐?具合が悪いんですか?」
あれだけひどい扱いを受けてもなお、少尉は呆れるほどに優しくて、彼女は慌てて私の前にしゃがみ込んだ。
私に近付くのを非常に嫌がっていたくせに、少尉は心配そうに私の顔を覗き込む。
私が好きだと告げれば、少尉は「逃した獲物が珍しくて、気になって、それを好きという感情と錯覚している」と、きっとそう言うだろう。
これも絶対に違うとは言い切れず、実際にただ錯覚をしているだけかもしれないが、目の前の女性を愛おしく思うのもまた事実だ。
情熱的な夜を過ごした恋人達が急に色褪せて見えて、少尉一人が手に入れば、ほかの女性達は必要ないとすら思えた。
「中佐、中佐ってば…大丈夫ですか?」
「君の例の病気は治ったのか?」
呼び掛けに何の反応も示さない私を不安そうに見つめていた少尉に唐突に尋ねると、彼女は一瞬だけきょとんとした。
「…治っていないと思いますけど…」
「手を触ってみても構わないか?」
少尉は少し戸惑ったものの、自分から差し出さないと無理やり触られるとでも考えたのか、渋々と右手を差し出した。
目の前に差し出された少尉の右手をそっと握り締める。
「平気か?」
「…平気です」
「少尉が私のことを嫌いになってもこの病気が治らなければいいと私が願っていたら、君はどう思う?」
「…どういう意味ですか?」
「例え嫌われても、君との繋がりが欲しい」
少尉の手に指を絡め、指先に口付けると手の平がびくりと大きく震える。
「中佐!?」
「このまま終わるのは嫌だ」
指に唇を押し当てながら本音を吐き出す。
少尉のことが好きなのならば、彼女の望み通りこれきりで終わりにして、もう関わらないでおくべきなのだろう。
しかし私は少尉をもう一度手に入れる方法をあれこれと考え、こうして追い詰めるばかりだ。
相手を思いやって距離を置くのではなく、鎖に繋いで側に縛り付けるのが、私がひとを愛する方法なのかもしれない。
「一からやり直すチャンスが欲しい」
「…まさかあなたがそんなことを言うなんて」
「私もこんな醜態を晒すとは思いもしなかった」
「…私はもう懲り懲りです。あなたは、失ったものが急に惜しくなっているだけですよ」
「私が信用されていないのは分かるが、君は否定ばかりするね。確かに君の言う通りかもしれない。しかし、違う可能性だってあるだろう?」
踏みつぶされてもすぐに起き上がるという繰り返しで、私がなかなか引き下がらないせいか、少尉が困ったように眉を寄せた。
「…本当に…困った方ですね…」
呆れ果てたように呟いたその溜息混じりの声に、少しだけ優しさが滲んでいる気がした。
久しぶりに少尉の柔らかな部分に触れられたこと、そして今日初めて彼女が私に気を許してくれた瞬間のように思えて嬉しくなる。
以前までは、こういう展開になればそろそろ少尉が仕方なく折れる頃だが、今回はどういう未来が待っているのだろう。
いつもの優しさが垣間見えたあの声が、この先、私が彼女と新たに関係を築けることに繋がると願うしかない。
愛しているけれど傷付くのを恐れて逃げた女と、傷付けるような愛し方しかできないだろうに離れたくない男。
天がどちらに味方しようとも私はこの手の平の中にある少尉の手を離すつもりがなくて、この執着もまた病かもしれないと苦笑した。






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